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03東京都立大学 古代文明・黄河文明

2009年10月19日 | 復習用入試問題
次の文章を読んで,以下の問い(1~4)に答えよ。

 人熱の起源は約400万年前のアフリカに出現した(a)である。人類を他の動物から区別する最大の特徴は,(b)し、両手を使って道具を作り出した点にある。その後,約70万~50万年前には(c)が登場し,約20万年前の(d)を経て,およそ4万年~1万年前に新人(現生人類)が現れた。人類が作り出した道具は石を割っただけの簡単な(e)から始まり,次第に形の整ったものへと進化した。この時代を旧石器時代と呼ぶが,その後期には槍・鈍・釣り針などの(f)もさかんに使われた。
 約1万年前に(g)が始まった。氷河期が終わって地球の気供が温暖化し,人類の生活もそれに対応して変化したのである。この時代を特徴づけるのは,(h)の使用,(i)による食料生産の開始,そして貯蔵・調理のための(j)の製作である。
食料土産の開始は人々の生活を安定させ,文化の発展をもたらした。はじめは自然の恵みを利用するだけの不安定なものであったが,やがて治水・灌概技術の確立とともに,(1)ティグリス・ユーフラテス川、(2)ナイル川,インダス川,(3)黄河中・下流域に世界の四大文明と呼ばれる発達した文化が成立した。

問1.空欄a~jに,適切な、語句を入れよ。

問2.下線部(1)に関して,次の問いに答えよ。
①メソポタミアで,紀元前18世紀頃に政治的統一を実現した王は誰か,その名を記せ。
②また,その王は諸民族支配のために神の代理として法典を制定したが,その刑法の原則はどのようなものであったか,簡単に記せ。

問3.下線部(2)に関して,次の問いに答えよ。
ギリシャの歴史家ヘロドトスは,エジプト文明を評して「エジフトはナイルのたまもの」といったが,その,意味を50)字以内で説明せよ。

問4,下線部(3)に関して,次の問いに答えよ。
①黄河流域では,紀元前5000年~3000年頃に仰音召文化か成立し,その後,竜山文化が発展した。この1つの文化の特徴をそれぞれ50字以内で説明せよ。
②黄河流域では,仰紹・竜山両文化の発展を基礎にして,紀元前17世紀頃に殷王朝が成立した。殷嘘からは甲骨文字が記された亀甲・獣骨が発見されているが,そこから知られる殷王朝の政治の特徴を50字以内で説明せよ。

正解
問1.a,猿人〔アウストラロヒ丁クスb.ピ泣:足歩行c.原人d.1H人u.打製行器f.'骨角器g.完新世h.磨製石器i.農耕・牧畜j..土器
間2.1ハンムラビ王 2身分に応じた同害復讐を原則とした
問3.ナイル川の定期的な氾濫によって上流から肥沃な土と水が運ばれ.エジプト文明を生み出したというもの。
問4.1仰紹文化・・黄河中流域においてアワやキビを栽培して犬・豚・鶏を飼い、磨製石斧や彩陶を用いた中国最古の農耕文明。
竜山文化・・・黄河下流域を中心に牛・馬の飼育が始まり、三足土器を特徴とする薄手の黒陶が使用された。
2農業や軍軍事のどの重要な国事について.王が占いによって神.意を問い,万事を決定する神権政治をおこなった。

03年 桃山学院大学 魏晋南北朝時代

2009年10月19日 | 復習用入試問題
03年 桃山学院大学

 次の文章を読んで,後の設問に答えなさい。
 前後400年間に及ぶ漢の支配は,後2世紀後半期には外戚や宦官の勢力が大きくなり,その双方が抗争して皇帝権は衰えた。各地では,184年〔 A 〕がひきいた黄巾の乱に代表される農民反乱がおこり,群雄が並び立つ様相となった。華北では後漢の皇帝を迎えて黄河一帯に勢力を及ぼした曹操・曹丕の魏が,長江の下流域には〔 B 〕の呉が,四川では劉備の蜀がそれぞれ立っていわゆる三国鼎立の形勢となった。①秦漢時代を通じて中国に大きな脅威となっていた騎馬民族匈奴は,前漢の〔 C 〕代に本格的な遠征を受けたことなどにより弱体化していたが,後漢代には分裂し,〔 D 〕は後漢に服属した。後漢では投降した南匈奴を中国北辺に定住させたが,これは漢民族の世界に北方の騎馬遊牧民が本格的にはいりこむ始まりとなった。魏・呉・蜀三国の均衡はやがて破れる。魏は蜀を滅ぼしたが,その魏も将軍の〔 E 〕に国を奪われ,265年,晋(西晋)が現れることとなった。晋は強い権力を維持する方策として,一族を王として各地に封じて帝室の守りを固めようとした。しかしそれは裏目に出て,諸王は皇帝の位をめぐって相争う結果となった。これは八王の乱として知られるが,この内乱に乗じて中国内部に定住していた匈奴が決起し,②首都洛陽,続いて長安を攻めたので,ついに晋は滅亡した。
 このあと華北では,匈奴や中国周辺から侵入した異民族も加わってつぎつぎに国を建て,めまぐるしい興亡がくり返される。この4~5世紀にかけての約130年間を③五胡十六国時代と呼ぶが,5世紀前半には鮮卑の〔 F 〕氏が建てた北魏が華北を統一した。北魏では,山西一帯にいた漢民族のなかから多くの官僚を登用して,中国風の統治に移行していく。特に孝文帝は,〔 G 〕から洛陽に遷都し,鮮卑の旧慣のいくつかを禁止し,言語も中国語を採用した。こうした漢化政策とともに,自作農の育成を企図した均田制や,郷村を組織化する〔 H 〕も実施されたが,やがて内部分裂をきたし,ついには東西に分裂した。東魏は北斉に,西魏は北周に,いずれも禅譲という形式でとってかわられた。この時代に行われた④九品官人法は,新しい官吏登用制度だったが,それはやがて門閥貴族が形成されることにつながっていった。
 南方の状況はどうだったか。晋の王族の一人が,江南の地で北方の戦乱を避けて移住していた豪族や在地の豪族たちに推されて晋室を復興した。これを東晋といい,それ以前を西晋として区別する。こうした経緯で,東晋内部では豪族たちが大きな勢力を占め,何代にもわたって国の高位高官を独占し,やがては貴族としてその地位を確かなものとしていった。この東晋でも末期には政治的混乱から内乱が起こり,将軍出身の劉裕が禅譲の名のもとに政権を奪い取って,〔 I 〕年宋を建国した。そののち,宋をうけて斉・梁・陳の4王朝が次々に興廃したが,それらを南朝といい,北魏をふくむ華北の5王朝を北朝と呼ぶのとあわせて南北朝と総称される。また,三国時代の呉から数えて,⑤建康(建業)を首都とした王朝を六朝とよぶ。
 江南を中心とする地域は,自然条件に恵まれ生産性が高かったことから,のちに六朝文化と呼ばれる独特の文化が発達した。貴族のサロンを中心に,書・画・詩などに優れた芸術家が輩出した。俗塵を離れ,清談を交わす竹林の七賢に見られる老荘思想的な文化が現れたりした。そうした社会的背景もあって,〔 J 〕が道教教団を成立させた。後漢代に伝来した⑥仏教は南北朝双方で盛んに信仰され,北朝では有名な敦煌・雲崗・竜門の石窟寺院の造営が始まった。
問1 文中の空欄〔 A 〕~〔 J 〕に当てはまる最も適切な語句を,次のうちから一つずつ選びなさい。
〔A〕 ア 張角 イ 陳勝 ウ 張飛 エ 史思明 オ 朱全忠
〔B〕 ア 楊炎 イ 蘇秦 ウ 趙匡胤 エ 楊堅 オ 孫権
〔C〕 ア 高祖 イ 文帝 ウ 武帝 エ 景帝 オ 光武帝
〔D〕 ア 東匈奴 イ 北匈奴 ウ 中匈奴 エ 南匈奴 オ 西匈奴
〔E〕 ア 李成桂 イ 司馬睿 ウ 李淵 エ 司馬光 オ 司馬炎
〔F〕 ア 拓跋 イ 完顔 ウ 耶律 エ 靺鞨 オ 瓦刺
〔G〕 ア 遼東 イ 咸陽 ウ 長安 エ 平城 オ 燕雲
〔H〕 ア 屯田制 イ 郡国制 ウ 三長制 エ 里甲制 オ 郡県制
〔I〕 ア 414 イ 416 ウ 418 エ 420 オ 422
〔J〕 ア 宋応星 イ 寇謙之 ウ 酈道元 エ 謝霊運 オ 王重陽
問2 文中の下線部の①~⑥について,以下の問に答えなさい。
① 秦に関する以下の記述のうち,正しいものを一つ選びなさい。
ア 秦は,戦国の七雄のうち,趙・燕・斉と国境を接し,勢力争いが絶えなかった。
イ 秦は,法家の思想を採用して国力を充実させ,ついに始皇帝のときに中国を統一した。
ウ 秦の郡県制は,全国を36郡(のちに48郡)にわかち,諸侯を封じて統治させるものであった。
エ 秦の始皇帝は,みずから軍をひきいて匈奴討伐を行い大勝利をおさめたので,かれの勢威はおおいに高まった。
オ 秦は,始皇帝のとき,商鞅を登用して焚書・坑儒などをおこない,言論・思想の統一を進めた。
② 洛陽・長安に関する以下の記述のうち,正しいものを一つ選びなさい。
ア 長安・洛陽は,前漢・後漢の首都だったので,前漢を東漢,後漢を西漢と称することもある。
イ 長安は,のちの隋や唐,さらには元の首都としてもよく知られている。
ウ 長安は,現在の四川省成都付近に相当する。
エ 長安は,准河の南岸の盆地に位置していた。
オ 長安の全盛は,唐の玄宗時代で,人口は100万を数える国際都市としてにぎわった。
③ 五胡とは,具体的にはなにを指すのか,以下のうちから正しいものを選びなさい。
ア 匈奴・鮮卑・月氏・羌・大宛
イ 鮮卑・羌・吐谷渾・氐・烏桓
ウ 匈奴・鮮卑・羌・羯・氐
エ 匈奴・烏孫・吐蕃・羯・吐谷渾
オ 犬戎・鮮卑・渤海・契丹・羌
④ 九品官人法に関する以下の記述のうち,正しいものを一つ選びなさい。
ア 九品官人法は,三国時代の魏に始まり,晋,南北朝でも行われた。
イ 九品官人法は,各地にいる九品官が世論をもとに人材を評定し,中央政府がそれに応じて官位を与えるものであった。
ウ 九品官人法では,郷試,殿試というようなプロセスを経て,候補者をしぼりこんだ。
エ 九品官人法は,内閣大学士を実施責任者として行われた。
オ 九品官人法は,施行するにつれてさまざまの矛盾が出てきたので,やがてこれに代わって郷挙里選が行われるようになった。
⑤ 建康(建業)に関する以下の記述のうち,正しいものを一つ選びなさい。
ア ここは,南朝の諸王朝が首都としたほか,くだって南宋,明の首都ともなった。
イ 辛亥革命によって清朝を倒して成立した中華人民共和国は,ここを首都とした。
ウ ここは,長江に臨み,現在の中華人民共和国江蘇省の省都である南京市に相当する。
エ 古く春秋戦国時代には,南方の大国楚がここを都として大いに勢力を振るった。
オ 1839年欽差大臣としてここに着任した林則徐は,アヘンの没収・廃棄などを強行し,アヘン戦争が始まった。
⑥ この時期を中心とする仏教に関する以下の記述のうち,正しいものを一つ選びなさい。
ア 東晋の僧法顕は,陸路インドに赴き,仏教の研究を行い,仏典を得て海路帰国した。
イ 敦煌の仏教寺院は,魏晋南北朝時代を過ぎると,中国勢力の後退とともに,顧みられなくなり,廃墟と化した。
ウ 中国に仏教が最初に伝来されたのは,海路東南アジアを経てであった。
エ 北魏の太武帝は,仏寺を多数建立するなど,とくに熱心に仏教を保護したことで知られる。
オ 六朝時代には,仏図澄や鳩摩羅什がともにインドから来て,中国に仏教をひろめることに貢献した。

正解
問1 A ア B オ C ウ D ア E オ
F ア G エ H ウ I エ J イ
問2 ① イ ② オ ③ ウ ④ ア
⑤ ウ ⑥ ア

インドの仏教の盛衰

2009年10月19日 | 高2用 授業内容をもう一度
 ブッダの時代は王侯と商人がバラモン 的身分制度にとらわれずに活躍した時代であった。このような時代の変化に思想界も順応し、中国でいう諸子百家と同様、「62見」という様々な思想家が出現した。ブッダは(ガウタマ・シッダールタ )はヒマラヤ山麓のシャカ 族の小国の王子に生まれ、29歳で出家、35歳の時ブダガヤの菩提樹の下で悟りを開き、80歳で死去(涅槃)した。
 彼の教説は一切のものは滅びる(諸行無常)という無常観にたって、生きることそのものを苦とし、その苦から逃れる道をもとめる。それは正しい生き方を中道と称して八正道の実践に努め、自我の欲望(煩悩)を捨てることにあり、これにより宗教的自由すなわち解脱の境地に達するとした。彼はこれを4つの真理(四諦)という形で論理化した。
 ブッダの教えに共鳴した人々は出家修行者の生活共同体(サンガ)を組織し、ブッダの死後にラージャグリハ (王舎城)にて仏教教団の生活規範(律蔵)にあたる第1回仏典結集を行った。仏滅100 年頃から部派が誕生しはじめ、北方の仏教徒はサンスクリット 語で教説を説き、南方の仏教徒はパーリ 語をもちいた。仏教修行者(比丘)は寄進や托鉢で生活し、寄進によって建てられた僧院で生活した。
 仏教はマウリヤ朝アショーカ 王の時代に大発展した。この時セイロン島に仏教を伝え今日に至っている。この王朝滅亡後に西北インド に侵入したギリシア人やクシャーナ 族を教化し、クシャーナ 朝カニシカ王の時首都プルシャプラに大塔が建立されている。
 伝統的な仏教徒は出家し、個人の救済を目的としたが、前2~前1C頃になると在家信者達の中から出家信者中心の仏教に反対する動きが出てきた。彼らはブッダ の遺骨を納めたストゥーパ (仏塔)を中心に集まったとされ、この仏塔崇拝者はブッダ を超人・神格化し、やがて利他行を実践する菩薩(ポーディサットヴァ )を拝することで衆人が僧俗の区別なく平等に救済されると考えた。これが大乗仏教である。これは西北インド で成立したが、諸民族・諸文化の融合の地であったためであろう。大乗仏教の教理は南インド 出身のナーガルジュナにより体系化された。
 グプタ朝時代になるとインド 古典文化は最盛期に達する。仏教も5C初にグプタ 王の援助でナーランダ学院が建設され、学問研究が進んだ。しかし、仏教が哲学化する一方で民衆との乖離が起こり、グプタ 朝下の7~8 C以後はヒンドゥー 教が拡大していった。仏教もそのようなヒンドゥ教拡大の影響を受け呪術的儀礼を用いる密教が東北インド (ベンガル)を中心に成立した。密教を中心に仏教はこの地に起こったパーラ朝(750~1000) の保護下で最後の繁栄を享受した。さらに10世紀になるとイスラム教が侵入。12世紀には北インド全域を支配した。1203年にインド 仏教最後の拠点であったヴィクラマシラー寺院が破壊され、仏僧侶はチベットやネパールに逃げてインド の仏教は壊滅した。インド 仏教消滅の最大の理由は、大乗・小乗ともに仏教教団が民衆から離れた宗教生活を送ったことにある。仏教には在家信者の組織はほとんどない。そのためインド の民衆の生活に必要な宗教儀礼は、ヒンドゥー 教の司祭者バラモンによってなされていた。バラモンの司祭職は世襲化し、代々その地域に根づいて地域社会との関係を保っていた。このような関係は仏教には希薄であったといえる。また、教団財源を王侯や商人にたよったため、グプタ 朝以降になって王侯の保護を失い、インド 経済そのものも低下したため財源基盤も失われ、仏教僧侶は僧院を捨てて他の保護者をもとめざるをえなくなったのである。また、密教もヒンドゥー 教との差別化に失敗し、インド社会から仏教は完全に消滅していったのである。

古代中国史(2)春秋戦国時代 関西大学

2009年10月19日 | 復習用入試問題
次の文の(1)~(10)に入れるのに最も適切な語句を下記の語群から選び,その記号を答えなさい。関西大

 現在の中国陝西省の(1)流域におこった周は.殷を滅ぼし,(2)を都として華北を支配した。周王が直接支配する地域は王畿と呼ばれる地域は,この都と,東方進出の拠点として築かれた(3)とを中心とする地域に限定され、それ以外の地には諸侯が封建された。諸侯は周王に付して貢納や軍事の義務を負い,とくに周王と血統を同じくする、諸侯は,王室をまもる垣根のような役割を期待された。紀元前7世紀に春秋の覇者(4)を生んだ晋もそうした諸侯国であった。当時,長江中流にあった(5)華北進出をはかっており,周王にかわって晋が諸侯同盟の中心となった。しかし、この秩序はまもなく崩れ、紀元前5世紀に晋は卿として晋の国政を指導してきた(6)・(7)・(8)の3家に分割された。(6)は山西省南部から河南省中部を支配し,法家思想の大成者として知られる韓非は,この国の王室出身である。(7)は山西省南部から河南省北部を支配し,(8)は河北省南部から山西省北部を支配した。3国のうちもっとも北に位置した(8)は,北方遊牧民の騎馬戦術をいち早く採り入れたと言われ,紀元前3世紀前半には強盛を誇ったが,(9)との決戦である長平の戦いで大敗を喫して衰え,(9)に滅ぼされた。紀元前221年に始皇帝が中国を統一すると,臣下の中には封建制をとることを進言するものもあったが,丞相として始皇帝と二世皇帝につかえた(10)がこれに反対し,全国に郡県制が施行されることとなった。

〔語群〕
(ア)桓公 (イ)夫差 (ウ)文公 (エ)孝公 (オ)商革央 (カ)李斯 (キ)滑水 (ク)淮水 (ケ)洛水 (コ)邯鄲 (サ)洛邑 (シ)鎬京 (ス)楚 (セ)呉 (ソ)越 (タ)韓 (チ)衛 (ツ)趙 (テ)斉 (ト)燕 (ナ)魏 (ニ)秦

正解

秦漢  2008年早稲田大学 教育

2009年10月19日 | 復習用入試問題
 次の文章1・2を読み,以下の設問A,B,Cに答えなさい。

 前漢の高祖は,秦の急激な統一政策による混乱をくり返さぬよう( 1 )を採用して漢王朝の基礎を固めた。しかし自ら遠征した匈奴との戦いには大敗し,これ以後,朝廷は匈奴に対して和親策を用いることとなった。この政策を転換し,積極的な外征をはじめたのは武帝である。武帝は,政治の基本理念として儒家の思想(1)を重んじたが,それは後漢に継承され,さらに進展した。また後漢の西域経営は前漢に劣らぬほど盛んで,西域都護(2)の班超は後漢王朝の威勢を遠くカスピ海以東の西域諸国にまでおよぼした。しかし1世紀末ごろから中央の政治が乱れ,それが地方に波及すると,王朝の権威は急速に衰えて,太平道の張角を指導者とする イ が起こるにおよび,それは動かし難いものとなった。この反乱ののち有力豪族が割拠し,互いに攻伐する混乱のなかで曹丕が禅譲によって帝位につき,三国時代(3)がはじまるのである。

設問A 空欄( 1 )に入れるのに最も適切な語をa~eのなかから一つ選び,その符号を所定欄にマークしなさい。

( 1 ) 
a 郡国制 b 均田制 c 封建制 d 郡県制
e 三長制

設問B 下線部(1)~(6)に関する設問について,最も適切な解答をア~オのなかから一つ選び,その符号を所定欄にマークしなさい。

(1) 次の文章のなかで儒家の思想家について述べたものはどれか。
ア 性悪説を唱えて君主の専制支配を擁護し,また門人の韓非や李斯を育成した。
イ 呉の闔閭に仕えた武将で,兵法や戦略のみならず国政や人事にも言及した。
ウ 秦の宰相となって六国の対秦同盟である合縦策に対抗する連衡策を唱えた。
エ 血縁をこえた無差別の愛(兼愛)や平和論(非攻),尚賢などを論じた。
オ 秦に仕えて土地制度や税制,軍制などの改革を推進し,富国強兵をめざした。

(2) 後漢時代の西域都護府が置かれた都市はどこか。
ア 大宛 イ 条支 ウ 安南 エ 単于
オ 亀茲

(3) この時代の説明として誤りを含むものはどれか。
ア 司馬炎が禅譲によって晋を建国した。
イ 卑弥呼に親魏倭王の称号が授与された。
ウ 郷挙里選にかわり九品中正が創始された。
エ 孫権が呉を建国し,都を建康に置いた。
オ 劉備が蜀を建国し,都を成都に置いた。

設問C 空欄の イ に入る語を所定欄に記入しなさい。


【解答3】 
設問A 1 a
設問B (1) ア (2) オ (3) エ
設問C イ 黄巾の乱