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元の滅亡

2014年11月22日 | 高2用 授業内容をもう一度

 元朝のモンゴル支配者はラマ教に狂信し、財政難から交鈔を乱発してしまい、結局農民反乱のなかで敗れていきました。しかし、ここで重要な点は、モンゴル民族はこの紅巾の乱に敗れたものの、滅亡したわけではなく、中国の地を捨ててモンゴル高原に撤収したのだ、という点です。
 すなわち、1351年に韓山童・韓林児の父子が指導した紅巾の乱が発生しました。反乱の拠点になったのは江南地方です。そのうちこの親子は殺されましたが、反乱軍の中から頭角を現した朱元璋が、1368年に元を滅ぼして、を建国しました。都は江南の都市南京に置きました。
 中国を追われたものの軍事力はある程度維持していたモンゴル民族は、モンゴル高原に北元を再建しました。この北元などのモンゴル民族の軍事力になやまされた明が、まもなく万里の長城を建設することになります。

 


モンゴル帝国と元

2014年11月22日 | 年代暗記法
(1)1206年 チンギス=ハン即位・・・大きく群(06)れなすチンギス=ハン。
(2)1234年 金滅亡・・・いちにのさんし(1234)で、金滅亡。
(3)1241年 リーグニッツの戦い・・・バトゥが西い(241)く、リーグニッツ。
(4)1258年 バグダッド攻略・・・ふら(フラグ)っと都合は(258)いかが?バグダッド攻略。
(5)1271年 元建国・・・人にない(1271)力を使って元建国。
(6)1279年 南宋滅亡・・・日に日になく(1279)なる南宋。
(7)1368年 明建国・・・勇むや(1368)明の朱元璋。

元の統治

2014年11月22日 | 高3用 授業内容をもう一度

 1260年に即位したフビライ=ハンにより、1271大都を都に置くが建国しました。さらに1279年には南宋ガイ山の戦いで破り、1126~27靖康の変以降南北に分裂していた中国を150年ぶりに再統一しました。
 フビライ=ハンによる中国支配は「モンゴル至上主義」という言葉で表現されます。中国の伝統的な官吏登用制度である科挙を廃止し、中国思想の儒学を極めて軽視しました。その一方で、西域の人々である色目人財務官僚に登用しています。また、金が支配していた華北にいた人々、中国人・満州人・契丹人を「漢人」とし、南宋の支配下にいた中国人を「南人」として蔑視しています。この背景には、モンゴル人はいままでの北方遊牧民族とは違って、中国文明に接する前に西アジアのイスラム文明を知っていたことが影響していると考えられています。
 しかし、5000万人におよぶ中国人を数100万のモンゴル人が支配し続けるには、この「モンゴル至上主義」だけでは不可能でした。そのため、多くの佃戸を支配している形勢戸を官僚に登用する必要から、科挙は再開しています。
 フビライ=ハンはチベット人のパスパに官僚が行政で使用する文字を作らせています。このことは、チベット仏教がモンゴル人に受け入れられていた証ともいわれますが、パスパが作った文字をパスパ文字といいます。この文字は一般のモンゴル人には使用されなかったようです。
 また、フビライ=ハンが隋の煬帝が建設した大運河を改修した功績は非常に大きいものです。陸路のシルク=ロードがジャムチによって統一され、さらにムスリム商人が活発に海路から泉州などに来航していましたから、長い年月で砂に埋もれた大運河が改修されると、ユーラシア大陸が交通路で一周することができるようになったわけです。この交通路を使って、まさに一周したのが有名な『東方見聞録』を著したマルコ=ポーロです。
 元のモンゴル人たちはチベット仏教(ラマ教)に熱狂したといわれています。ラマ教に狂信したあまり、莫大な費用を寺院建設などに投じた結果、財政難に陥り、財政再建のために交鈔という紙幣を乱発し、インフレを誘発して反乱の中で滅亡していきました。

 

 

 

 

 


元統治下の中国文化

2014年11月22日 | 高2用 授業内容をもう一度
 元ではモンゴル人によって【儒学】が極めて軽視されたため、逆に、中国人たちは儒教的倫理に縛られないで、新しいタイプの文化活動を行なうことができました。民衆は口語表現の歌劇である「【元曲】」を楽しみました。 代表的な元曲には、『【漢宮秋】』・『【西湘記】』・『【琵琶記】』があります。【馬到遠】の『漢宮秋』は漢代の【王昭君】の物語です。
 また、【羅貫中】が著した小説『【三国志演義】』・『【水滸伝】』など中国人の英雄が登場する作品が登場。モンゴル人支配下に置かれた中国人の鬱積した気持ちが中国人英雄を生み出したとも言えるでしょう。
 科学では、イスラム教世界のもとではぐくまれてきた天文学を参考にして【郭守敬】が作った「【授時暦】」は、江戸時代の「【貞享暦】」のもとになったことで有名です。中国の文化がイスラム文化などの外国文化の影響を受けて成立することはこれまでにはなかった出来事といえます。

元・モンゴル03年 明治大学 政治経済

2014年11月22日 | 復習用入試問題
03年 明治大学 政治経済


 次の文章を読み,空欄(1~3)に最も適切な語句を下記の語群から選び,その記号を解答欄にマークしなさい。また,下線部(1)~(4)と空欄(ア)~(ウ)に関する設問(1~7)については最も適切な解答を選び,その記号を解答欄にマークしなさい。

 中央アジアに大きく勢力を伸ばした唐の時代には,(1)陸路による東西貿易が発達するとともに,海路からは ア が来航し,特に交易の盛んであった広州には,貿易を管理する必要から イ が設置された。都である長安は,当時人口100万を数える(2)国際色豊かな大都市であったが,政治的都市の性格が強く,治安維持の必要上,商業活動は一定の地域内に限定され,また,都市住民の夜間外出が禁じられていたため,夜間の営業も許されていなかった。
 宋(北宋)の時代に都に定められたのは,当時の穀倉地帯である長江下流デルタから北に穀物を輸送する際に利用される 1 と黄河とが接合する地点に位置し,まさに物流の要衝である ウ であった。宋代には,営業地域,営業時間の両面で自由化が進んだことにより,商業が全国的に発達し,各地に中小の商業都市が生まれた。また,商業上の決済のために民間で当初発行されていた手形の交子などは,後に政府に引き継がれて政府発行の紙幣として利用されるようになった。北方を有力な異民族に取り囲まれていたこの時代には海上交易が活発に行われ,それにともない,広州以外の主要な海港都市にも イ が設置されるようになった。
 元代には,モンゴル帝国内で内陸交通網の整備が進められ, 2 が施行されたことにともなって,東アジアからヨーロッパにまたがる広い範囲で内陸貿易が活発に行われるとともに,このような陸上ルートを通じて(3)東西文化の交流が盛んに行われた。その一方で,この時代も海外との海上交易は積極的に推進され,長江以南の主要な海港都市が繁栄した。元朝は, 3 と呼ばれる紙幣を国内全域に流通させた。元朝末期には財政難を打開するために 3 が乱発され,それが引き起こしたインフレで社会不安が増大する中,(4)白蓮教徒による紅巾の乱が元朝の支配を大きく揺るがせていった。

〔語 群〕
A.均輸法 B.郡県制 C.海の道 D.会 子
E.クリルタイ F.駅伝制 G.地丁銀 H.淮 河
I.交 鈔 J.大運河

設問1 下線部(1)に関連した以下の記述は,次のどの民族について述べたものであるか。

 中央アジアのオアシス都市を拠点にした,当時の代表的な東西交易の担い手である彼らの使用した文字は,中央アジアに広く普及した。
A.ソグド B.フェルガナ C.タンダート D.キルギス

設問2 空欄(ア)に入る外来商人名は,次のどれか。
A.ポルトガル商人 B.ムスリム商人
C.スペイン商人 D.オランダ商人

設問3 空欄(イ)に入る行政機関名は,次のどれか。
A.都護府 B.公 所 C.市舶司 D.公 行

設問4 下線部(2)にあるように国際色豊かな都市であった長安で,当時多くの信者を獲得していた外来宗教の中に含まれないものは,次のどれか。
A.ネストリウス派キリスト教 B.シク教
C.ゾロアスター教 D.マニ教

設問5 空欄(ウ)に入る都市名は,次のどれか。
A.洛 陽 B.臨 安 C.南 京 D.開 封

設問6 下線部(3)に関連した以下の記述のなかで,正しいものはどれか。
A.イスラム教徒を通じて伝えられたアラビア天文学の影響の下に,徐光啓は授時暦を作成した。
B.ローマ教皇から使節として派遣されたモンテ=コルヴィノは,元の都である大都の大司教に任ぜられた。
C.イエズス会宣教師の布教活動の一環としてヨーロッパの学術が積極的に紹介され,世界地図『坤輿万国全図』が作成された。
D.イタリアの商人マルコ=ポーロやイタリア人修道士プラノ=カルピニもこの頃大都を訪れたとされる。

設問7 下線部(4)に関連した以下の記述のなかで,正しいものはどれか。
A.白蓮教は道教的要素の強い民間の宗教的結社で,救世主の登場を待望する信徒には貧民が多かった。
B.後漢末に起こった大農民反乱である黄巾の乱の主力となったのも,白蓮教徒であった。
C.18世紀末に起こった白蓮教徒の乱の平定に十年近く要したことにより,清朝の弱体化が露呈した。
D.黄巣によって率いられた唐末の大農民反乱勃発のきっかけは,農民を主たる信徒とする白蓮教への政府の弾圧であった。

正解
1 J 2 F 3 I
設問1A 設問2 B 設問3 C 設問4 B
設問5 D 設問6 B 設問7 C


ブレトンウッズ体制

2014年11月22日 | 高3用 授業内容をもう一度
 第2次世界大戦後、戦前の【ブロック経済】で世界貿易の規模が縮小し、さらに戦争で壊滅的な打撃を受けていた世界経済を安定化させる必要があった。そのため、�国際的に各国が協力し合って各国の通貨価値を安定させ、�さらに世界貿易を復活安定させることが求められた。
 そこで、各国経済担当者は、【1944】年アメリカのブレトンウッズに集まって、各国が自由で多角的な世界貿易体制をつくるため、為替相場の安定を図るこを決めた。これを【ブレトンウッズ協定】という。
 さらに【1946】年戦後経済の復興策として、国際連合の専門機関として【国際復興開発銀行】を設立、また【国際通貨基金】(【IMF】=International Monetary Fund)を設立した。これを【IMF】体制、または【ブレトンウッズ】体制と呼ぶ。
 具体的には、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めた。このような【固定相場制】のもとでは、各国の経済状況に関わらず、たとえば日本円は1ドル=360円に固定された。
 このブレトンウッズ体制は資本主義各国に安心して世界貿易に参加することを可能にしたため、各国は経済復興を成し遂げた。
 しかし、ドルの価値を金で固定するこのブレトンウッズ体制は、アメリカ経済が非常に安定していることを前提としている。またアメリカの経済力が他国に対して圧倒的な力を持っていることが前提となっている。そのため、【ヴェトナム戦争】によってアメリカ経済が疲弊すると、ブレトンウッズ体制を維持することができなくなり、【1971】年【ニクソン】大統領が固定相場制を放棄し、【変動相場制】への移行を宣言した。


キューバ革命

2014年11月22日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1934】年【Fルーズベルト】の「【善隣外交】」は【プラット修正】によって始まったキューバ支配を終わらせはした。しかし、内実はキューバのサトウキビ畑の地主はアメリカ人で、砂糖精製向上の経営はアメリカ資本により、その下で働くのは貧しいキューバ人達であった。このような状況を維持するため、キューべでは「【親米バティスタ】政権」がアメリカの支援で維持されていた。このバティスタ政権を打倒したのが【カストロ】とゲバラ達であった。

★キューバ革命のチェック・ポイント
�革命が発生した年は?
=1959年1月
�革命の指導者は?
=カストロ(協力者とした革命家ゲバラ。彼はボリビアの反政府闘争に参加して処 刑された)
�革命当時のカストロ政権の性格は?
=民族主義者
�革命によって打倒された旧政権は?
=親米バティスタ政権
�カストロ政権が変質した理由は?
=アメリカCAIダレスが計画実行した、亡命キューバ人を利用したカストロ打倒ももくろんだ「ピッグス湾事件」は失敗したが、アメリカの 侵攻に怯えたカストロは1961年に社会主義化を表明し、ソ連に接近した。


各国の各クラブ入り(核保有)

2014年11月22日 | 高3用 授業内容をもう一度

 合衆国の核保有はもちろん第2次世界大戦末期の【1945】年。ソ連は【1949】年。イギリスは【1952】年。このときのイギリス首相は【チャーチル】が返り咲いている。この3国は【1963】年に前年の【キューバ危機】の反省から「【部分的核実験停止条約】」を結び、【地下核実験】のみを認め大気圏外および海上・陸上における核実験を禁止した。だが、1960年に核保有したばかりの【フランス】や当時はまだ保有していない【中華人民共和国】は、大国による核独占に反対して不参加であった。なお、中国の核クラブ入りは【1964】年、6番目の各保有国となったのは【インド】で1974年のことである。
 【1957】年ソ連が人工衛星【スプートニク】号打ち上げ(【スプートニ・ショック】)に成功したことは核軍事バランスにおいて合衆国の先進性が否定されたことを意味した。大気圏外にロケットを飛ばす科学技術は、軍事面においては大陸間弾道弾ミサイルの技術開発に成功したことを意味した。モスクワから核弾頭を積んだ大陸間弾道弾ミサイル(【ICBM】弾)がワシントンに着弾する時代を迎えたのである。


ソ連邦の構成

2014年11月22日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1991】年12月25日に消滅・崩壊したソ連邦(ソヴィエト社会主義共和国連邦)は、【15】の共和国からなる連邦制国家でした。各共和国は軍事・外交・通貨制度など、単独で運営するよりも効率よく、しかも強力にできることはソ連邦政府に依存し、その他の地域性に関係する内容は各共和国政府が行っていました。ただし、ドイツの連邦制とは違ってソ連邦では、各共和国の政治力は大きく制限されており、事実上1つの国と考えた方が正確です。この15の共和国には、グルジア共和国やバルト3国(エストニア共和国・ラトヴィア共和国・リトアニア共和国)などが含まれ、その中で最大のものがロシア連邦でした。
 ロシア連邦はソ連邦最大の国家ですが、ロシア連邦も現在21の共和国からなる連邦制の国家です。現在でも、【チェチェン】共和国などはその連邦制から離脱を求めて【チェチェン】紛争が発生しています。ロシア連邦はロシア共和国と同義語と考えた方が分かりやすい。ソ連邦崩壊後は、ソ連邦を継承した国家と認められているため、国連の常任理事国になっています。
 【CIS】とは「【独立国家共同体】」の略称です。1991年【バルト3国】がソ連邦から独立したことで、事実上ソ連邦が崩壊したため、各共和国に設置されていた核施設などの処理・管理問題を解決するためなどに結成された共同体です。ソ連邦時代とは比較にならない程度に、緩やかに結びつく共同体といえます。基本的にはロシア連邦が中心になりました。また、ソ連邦に参加していた15共和国のうち、バルト3国とグルジア共和国は参加しませんでしたから、11の共和国からなる共同体です。


ハンガリー動乱

2014年11月22日 | 高3用 授業内容をもう一度

 社会主義は大きく分けて、�社会民主主義(修正主義)と、�マルクス主義とがある。また、別の分け方をすると、�個人独裁をともなう社会主義と、�そうではないもの、とに分類できる。個人独裁を伴う社会主義を「スターリン主義」と呼ぶ場合がある。【56】年に【フルシチョフ】が主張したのは「スターリン主義批判」であった「社会主義批判」ではない。

ハンガリー暴動のチェック・ポイント
�発生した年は?
=1956年10月
�暴動の指導者は?
=ナジ・イムレ首相
�要求した民主化の内容は?
=ソ連軍撤退
=秘密警察の廃止
=生活の安定
=WTOからの脱退
�ソ連の対応は?
=ソ連軍で介入してナジ政権を打倒(ナジは逮捕後1958年に処刑された)
�ソ連が樹立した新政権の第1書記は?
=カダル第1書記(親ソ連政権1956~88年)


プラハの春

2014年11月22日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1968】年の【プラハの春】は、70年代後半オイル・ショック後の東側陣営の経済危機をふまえ、共産党自体がソ連の意に反して、新しい社会主義の建設を約束したものであった。この点で、56年の東欧民主化と性格を異にする。すなわち中央集権的計画経済が破綻し、かつての工業国チェコソロヴァキアは【コメコン】の中で、機械機器輸出国の地位に甘んじていた。これに対して市場主義経済の導入を含む経済再建計画をキェコ共産党が提示し、民衆の共産党離れに歯止めをかけようとしたのであり、もちろん、民衆もこの動きを大いに支持した。
 しかし、【ブレジネフ】書記長はチェコをソ連から離脱することを許さず、ソ連軍を主体とした【ワルシャワ条約機構軍】60万を投入。チェコの【ドプチェク】第1書記はただちに解任され、プラハの春は8ケ月で終わった。


ポーランド連帯

2014年11月22日 | 高3用 授業内容をもう一度

 1980年にポーランドの労働組合「【自主管理労組連帯】」も新しい社会主義の建設を目指した。プラハの春との違いは、ポーランド共産党はオイル・ショック以来の経済危機の責任を回避し、自力再生を怠ったことに、民衆が反旗して連帯を中心に結集した点にある。ポーランド民衆の結集には、カトリック教会の協力があったこともポーランドの特徴といえる。【ワレサ】が率いた連帯のストライキは全ポーランドに波及したもの、1981年【ヤルゼルスキ】軍事政権による弾圧で沈静化していった。


ソ連邦の解体と共産党独裁体制の終焉

2014年11月22日 | 高3用 授業内容をもう一度

 ソ連邦は共産党の一党独裁体制で運営されていました。つまり共産党しか政党がないので、共産党のトップである共産党書記長がソ連邦の政治の最高責任者であるわけです。ソ連邦共産党はソ連邦の政治・軍事などの決定を行い、ソ連邦を運営する組織と言ってよいでしょう。したがって、ソ連邦が解体すれば共産党の存在意義のなくなりますし、共産党が解散すればソ連邦は崩壊してしまうことになります。


国際連盟からの脱退と除名

2014年11月22日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1932】年に【満州国】の建国を宣言した日本に対して、国際連盟は【リットン調査団】を派遣。【31】年の【柳条湖事件】が日本の【関東軍】による自作自演であることを発表した。これを不服とした日本は国際連盟を脱退している。
 【1933】年【ヴェルサイユ体制打破】ヒトラーが政権を握ると、その年のうちに、国際連盟から脱退した。ドイツが【1926】年に加盟したばかりであった。ソ連の【スターリン】は、国際連盟をファシズムに対抗する勢力であると考え、【1934】年に連盟に加盟した。しかし、ソ連は【1939】年に【フィンランド】に侵攻したことにより、国際連盟から【除名】された。
 イタリアが国際連盟から脱退したのは【1937】年。
 

★国際連盟からの脱退 チェック・ポイント
�ドイツが連盟に加盟した年は?
=1926年(24年ドーズ案、25年ロカルノといた国際協調外交すなわちシュトレ ーゼマン外交の成功)
�ドイツが脱退した年は?
=1933年
�ドイツが脱退した理由は?
=軍事平等権
=ヴェルサイユ条約破棄がナチスの政策の根幹であった。
�ドイツが脱退した影響は?
=ソ連が国際連盟に加盟(1934年~39年の間ソ連が加盟。39年フィンランドの提訴でソ連は連盟から除名された)
�日本が脱退した年は?
=1933年でドイツ より早い


東西ミサイル危機と核軍縮

2014年11月22日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1956】年の【フルシチョフ】による「【スターリン批判】」は、スターリン主義という「1人支配・個人崇拝」の下でその他の有力者が粛清され、スターリン死後の次を担う「1人」に成りえる人物がいない状況であったソ連が、「1人」支配の体制から「【集団指導体制】」へ以降したことを示している。つまり、ゴルバチョフによるペレストロイカとは違い、はるかに政権内における「権力闘争」の要素が強い。スターリン死去の【53】年から【第20回ソ連共産党党大会】でフルシチョフが「スターリン批判」を行うまでの間、すでに、首相マレンコフの重工業重視の経済政策は批判され、1955年に失脚している。
 しかし、この「スターリン批判」によるソ連指導体制への変革は東欧に波及し、1956年にポーランドの【ポズナニ暴動】、ハンガリーのブダペストでの【ハンガリー動乱】が発生した。これらの暴動はソ連の軍事的圧力で鎮め、(ポーランドへはソ連軍の介入は回避されたが、ハンガリーはソ連軍により一気に民主化は漬された)介入後に親ソ政権(ポーランドの【ゴムルカ】はソ連の軍事介入回避のためにソ連に妥協、ハンガリーは民主化指導者【ナジ】は処刑され【カダル】が登場した)を作り上げた。
 しかし、「ソ連離れ」の傾向はさらに東ドイツからの労働力流出という形で続く。そのため「ベルリン問題」がソ連圏内問題として再び浮上。これは東西冷戦構造にも多大な影書を与えずには置かなかった。1959年【キャンプ・ディヴィッド】で米ソ首脳会談(【アイゼンハウアー】大統領と【フルシチョフ】)が冷戦後始めて開催されたが、これは協調を模索するより「ベルリン問題」の処理をソ連側が求めたものであり、結局、会談は失敗に終わった。そして【1961】年「ベルリンの壁」建設で「消極的」に解決せざるを得なかったフルシチョフは、【1962】年【キューバ危機】を引き起こした。ベルリン問題をキューバ危機とリンクさせることで、もう一度再燃させようとしたとも考えられる。
 キョーバ危機は世界の人々に「核の脅威」を実感させた。そのため、米ソは【1963】年「【核実験部分的停止条約】」を実現。さらに【1968】年「【核拡散防止条約】」を締結し、【デタント】は進んだ。しかし、デタントはあくまで米ソの関係改善であり、もちろんソ連圏内の「ソ連」と「チェコスロヴァキア」の関係を改善したものではない。【1968】年チェコスロヴァキアの民主化運動である「【プラハの春】」は【ワルシャワ条約機構軍】により踏み消され【フサーク】、親ソ政権が樹立された。