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板書(38)セルジューク朝

2008年03月03日 | トリオDE世界史
(1)3カリフ国
①アッバース朝
②ファーティマ朝
③後ウマイヤ朝
(2)ファーティマ朝 ①建国年②建国地③宗派
①909年
②チュニジア
③過激シーア派イスマイール派
(3)後ウマイヤ朝 ①カリフ国の年②初代カリフ③以前の称号
①929年
②アブド=アッラフマーン3世
③アミール
(4)カイロ ①建設した王朝②建設年③カイロの学校
①ファーティマ朝
②969年
③アズハル学院
(5)ブワイフ朝 ①バグダッド入城の年②宗派③称号
①946年
②穏健シーア派12イマーム派
③大アミール
(6)セルジューク朝 ①バグダッド入城の年②建国者③称号
①1055年
②トゥグリル=ベク
③スルタン
(7)イクター制 ①開始した王朝②完成した王朝③以前の制度
①ブワイフア朝
②セルジューク朝
③アター制(俸給制)
(8)セルジューク朝のスルタン3人
①トゥグリル=ベク
②アルプ=アルスラン
③マリク=シャー
(9)マンジケルトの戦い ①年②スルタン③意義
①1071年
②アルプーアルスラン
③小アジアのトルコ化
(10)ニザーム=アルムルク ①活躍した王朝②業績③創設した学校
①セルジューク朝全盛期
②イクター制完成
③ニザーミア学院(スンナ派神学)
(11)オマル=ハイヤーム ①活躍した王朝②業績③作成した暦
①セルジューク朝全盛期
②4行詩ルバイヤート
③ジェラール暦
(12)エジプト支配したイスラム王朝3つ
①ファーティマ朝
②アイユーブ朝
③マムルーク朝
(13)後ウマイヤ朝以降イベリア半島をした王朝3つ
①ムラービト朝
②ムワヒッド朝
③グラナダ王国ナスル朝

ヒッタイト人

2008年03月03日 | 高2用 授業内容をもう一度
 ヒッタイト人は【メソポタミア】の【古バビロニア】王国を滅ぼしました。しかし、その地で建国せず、【小アジア】で建国し、都を【ハトゥシャシュ】に定めました。【前17】世紀のことです。
 その後、ヒッタイトは【前14】世紀になると【製鉄技術】を発明したことで、歴史にその名を残しています。現在のわれわれも【鉄器時代】を生きているのですから、彼らの文化的・科学技術上の功績は偉大でしょう。しかし、彼らはこの技術をひた隠しにしたそうです。製鉄技術者は厳重に国家の管理下におかれたそうです。鉄製の武器はヒッタイト帝国の大きなアドヴァンテージになったことでしょう。このヒッタイト帝国と対抗できたのは、エジプトの【新王国】だけといってよいでしょう。新王国も単独では対抗できず、ミタンニ王国などと外交関係を持ったことが、前14世紀の新王国の【アマルナ文書】に残っています。この両国は【前13】世紀に【カディスの戦い】を行い、ヒッタイト王ムワタリと新王国の【ラムセス2世】は、互いに自分たちが勝ったと記録に残しています。おそらく引き分けだったろう、と考えられています。
 そのようなヒッタイト帝国が滅亡したのは、【前12】世紀のことでした。なぞの民とされれ【海の民】の侵入を受けて滅亡しました。その際、製鉄技術を持ったヒッタイト人技術者はオリエント世界に散らばり、やがてオリエント世界は【前10】世紀ころ、鉄を使用することが一般的になりました

ヒクソスはセム語族です

2008年03月03日 | 高3用 授業内容をもう一度
 ヒッタイトの侵入の影響を受けたのは、【古バビロニア】王国ばかりではありませんでした。同じころ、すなわち【前17】世紀に【シリア】にいた【ヒクソス】人も、住みなれたシリアの地を追われてエジプトに向かいました。しかし彼らがヒッタイト人から学んだものがあり、それが彼らを助けます。【馬と戦車】を前面に出す戦い方でした。エジプトの【中王国】を滅ぼしてヒクソス人は、エジプトの支配者として【第17王朝】を建設しました。前17世紀に第17王朝が作られたわけです。このヒクソスの第17王朝を滅ぼし、【セム】語族による異民族支配を取り除ぞき、エジプトに【ハム】語族の王国を復活させたのは、それから100年ほど後のことでした。ヒクソスが第17王朝でしたから、新しくできた【新王国】は【第18王朝】から始まります。ヒクソスの侵入から100年後ですから、前16世紀のことです。

前12世紀「海の民」の侵入

2008年03月03日 | 高校1年生用
 【「海の民」】には必ずといってよいほど「なぞの」という言葉がつきます。彼らは【前12】世紀に地中海から【エジプト】・【小アジア】・【メソポタミア】に侵入し、その地にあったヒッタイト帝国やミタンニ王国を滅ぼしています。ただし、新王国はこのときは滅びませんでしたが、以前のようにオリエント世界に影響力を持つような国ではなくなってしまいました。このように、海の民はそれまでインド=ヨーロッパ語族の世界であったメソポタミアに混乱をもたらし、全てを無にしたのです。前12世紀からオリエント世界はまったく新しい世界が始まりました。

フェンキア人

2008年03月03日 | 高校1年生用
 【シリア=セム】に属する【フェニキア人】は、地中海沿岸の【海上貿易】に従事して繁栄しました。フェニキア人は【前12世紀】頃から活発に地中海に出没したようです。彼らが扱った貿易品は、【エジプト】の【パピルス】・【奴隷】・【穀物】・【象牙】、【黒海北岸】地帯で取れる【穀物】、シリアのレバノン山脈で取れる良質な【レバノン杉】などです。
 フェニキア人が建設した港湾都市には【シドン】・【ティルス】・【ビブロス】などがあります。海岸沿いにレバノン山脈が迫っているため、これらの都市は切り立ったがけで分けられていて、狭い土地に作られました。そのため、フェニキア人は農業では生計を立てられなかったので、危険を承知で海上貿易に乗り出していったのでしょう。【ティルス】の人々は現在の【チュニジア】(北アフリカ)という場所に【カルタゴ】という名の植民市を建設し、貿易の拠点を建設していますが、このようにフェニキア人は地中海沿岸で港が作りやすい土地に移り住むことも多かったようです。
 フェニキア人が地中海各地に出向いて、それぞれの土地の人々と交渉した結果、フェニキア人が【シナイ文字】から作った【フェニキア文字】は、地中海沿岸の人々にも使用されるようになりました。このように、フェニキア文字は現在の【ギリシア文字】・【ローマ字】原型になっています。フェニキア人が古代地中海世界に与えた文化的影響は大きかったといえるでしょう。

エジプトの神

2008年03月03日 | 高校1年生用
 エジプトの各【ノモス】(都市国家)には、それぞれ主神がいてその都市を守っていて、エジプト全体は【太陽神ラー】を守護神としていました。エジプトは多神教の世界だったわけです。たとえば、テーベの主神は【アモン】神でした。中王国と新王国の時代を通じて、テーベに都が置かれ、他のノモスを支配していたので、やがてテーベの神アモンと太陽神ラーが一体となった【アモン=ラー】の信仰が生まれました。
 エジプト人は不死の魂を切望したといわれています。早稲田大学の吉村教授は古王国【第4】王朝時代に作られたピラミッドも、王が不死の力を得るための建造物であったという説を唱えています。しかし、一般の人々はそのようなチャンスはありません。死後に再生できるかどうかは、【オシリス】神が行う【最後の審判】で、天秤が右に傾けばその心臓が食われ、逆ならば再生することができると考えました。
 このようなエジプト人の様子を現在の私たちが知ることができるのは、水草で作られた【パピルス】紙に残っている【死者の書】の記述からですが、エジプト人が使用した絵文字(象形文字)は、フランス人【シャンポリオン】が「【ロゼッタストン】」を使って【ヒエログリフ】(神聖文字)や【デモティック】(民衆文字)を解読してからに他なりません。現在、大英博物館にある「ロゼッタストン」はフランス革命の時に【ナポレオン】が率いた歴史学者ブッサールたちが発掘したものです。

ファラオ

2008年03月03日 | 高校1年生用
 ギリシアの歴史家【ヘロドトス】は「【エジプトはナイルのたまもの】」という言葉を残しました。彼は【前5】世紀の歴史家ですが、ピラミッドについても多数の奴隷に労働によって作られたと、書き残しました。
 【カイロ】の対岸にある【ギザ】という場所に【3大ピラミッド】があります。【クフ】王のピラミッドが最大ですが、カフラー王やメンカフラー王のピラミッドも巨大なものです。彼らのようなエジプトの王を【ファラオ】とよびました。現在ではピラミッドはファラオの墓ではないのでは??と考えられています。このような大ピラミッドは【古王国】時代の【第4】王朝にさかんに作られました。
 それより以前、上エジプト(ナイル川【上流】地域のことをそうよびます)から登場して、下エジプト(ナイルの【デルタ】地帯)を征服し、最初のファラオになったのは【メネス】です。ファラオは【太陽神ラー】の化身とされ、ファラオも神の名によって政治をしましたから、まさに【神権政治】が行われていたわけです。

新王国時代

2008年03月03日 | 高校1年生用
異民族【ヒクソス】を追い出して建国した新王国は【第18】王朝と【第19】王朝の時が全盛期でした。当時のエジプト人はヒクソスを撃退できたのは、テーベの主神【アモン】の守護があったからだ、と考えました。この時代は小アジアに【ヒッタイト帝国】、メソポタミア北部に【ミタンニ】王国、南部に【カッシート】王国が繁栄し、互いに争っていました。そのような国際情勢の下、第18王朝10代目のファラオになった【アメンホテップ4世】は、アモン神を讃える神官たちが発言力を強めている状況を嫌い、即位から5年後に【テル=エル=アマルナ】という新都を建設しました。そして【アトン】神のみが神であり、他の神々は偽りだと宣言したのです。自らの名前も【イクナートン】(アトンを歓ばせる者)に改めました。当時の国際情勢からこのような宗教改革が必要だったといえます。
 イクナートンになったアメンホテップ4世は、積極的に【ミタンニ】王国と国際条約を結び、ヒッタイト帝国と対抗したことが、【アマルナ文書】に残されています。世界最古の国際関係の存在を示す基調内資料です。
また、エジプトが国際関係に関わる時代であったため、壁画に描かれた絵画にもそのような【躍動感や写実性】が表れていて、これらを【アマルナ美術】と呼びます。

ウル=ナンム法典

2008年03月03日 | 高3用 授業内容をもう一度
現存する最古の法典は、【ウル第3王朝】時代の「【ウル=ナンム法典】」です。1952年にこの「ウル=ナンム法典」が発見されました。それまで、紀元前1750年のものとされる「【ハンムラビ法典】」が最古の法典とされていましたが、「ウル=ナンム法典」はそれよりも古いものであり、現存する最古の法典です。
 残念ながら、全ての条文が残されているわけではなく、残存する35条の本文には、殺人、盗み、傷害、離婚、農地の荒廃などについての刑罰が規定されています。ハンムラビ法典の特徴である「【目には目を、歯に歯を】」の原則はうたわれていません。