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東京大学の入学者選抜に関する考え方について 東大HP

2023年02月16日 | 論述問題
東京大学の入学者選抜に関する考え方について
-平成32年度(平成33年度入学者選抜)以降における入学者選抜方法の検討について-

社会のグローバル化が進展する中で、高校から大学を通じて学生の英語力の4技能を鍛えることが重要です。その意味で、大学入学者選抜に英語認定試験を取り入れ、4技能を評価することは意義があるものと考えます。

一方で、入学者選抜における公平公正の担保について、社会からの要請は非常に高くなっています。英語認定試験を入学者選抜に利用するにあたっては、公平公正の観点から十分な検証が必要と考えており、この点については、かねて国立大学協会の場でも表明してきました。

昨年11月に国立大学協会から「平成32年度以降の国立大学の入学者選抜制度-国立大学協会の基本方針―」が公表され、この中で「平成36年度以降に向けて、認定試験の実施・定着状況とともに入学者選抜機能としての実効性などを十分に検証しつつ、大学入学者選抜における英語4技能評価の在り方について、引き続き検討する」ことが示されています。さらに本年3月末には、「大学入学共通テストの枠組みにおける英語認定試験及び記述式問題の活用に関するガイドライン」が公表されました。

東京大学はこの基本方針及びガイドラインに沿って、英語認定試験の入学者選抜機能を検証するとともに、入学後の教育的効果まで含めた検討を行うなど、入学者選抜での英語4技能評価が実効あるものとなるよう努めていきます。

高大接続改革の理念からすれば、1点刻みの入試に高等学校教育が支配されてしまう状況から脱却し、大学入学以降に英語力を伸ばす機会が提供され、卒業時での学生の能力を担保することが重要です。東京大学では、ALESS, ALESA, FLOW等の外国語教育に加え、新たに国際総合力認定(Go Global Gateway)制度を開始するなど国際性を磨くことのできる様々な制度を整えており、入学者には世界の多様な人々と共に生き、共に働くための力を確実に身につけてほしいと考えています。

以上の状況から、学内にワーキング・グループを設置し、英語認定試験については国立大学協会のガイドラインに従い、認定試験結果の平成32年度以降の大学入学共通テストにおける具体的な活用方策について検討することとしました。検討結果は、今後改めて公表します。                         
平成30年4月27日
東京大学理事・副学長(入試担当) 福田裕穂


〔本件担当〕 東京大学入試課
03ー5841ー2081

2022年東大本試験 トルキスタン通史(2) 解答

2022年02月27日 | 論述問題
2022年東大本試験 トルキスタン通史 解説(2)



「段落1」75字

8世紀タラス河畔の戦いにアッバース朝が勝利し西トルキスタンでイスラム化の契機となった。東トルキスタンでは唐が都護府を置き間接統治した。この間、トルキスタンは東西交渉の舞台となりネストリウス派キリスト教や仏典が中国に持ち込まれた。114字



「段落2」150字

840年ウイグルが西走し東トルキスタンで西ウイグル国を建国。中央アジアがトルコ化する契機となった。11世紀には西トルキスタンで建国したカラハン朝は中央アジアを統一。この間、トルコ系イスラム王朝として中央アジアのトルキスタン化とイスラム化が進んだ。しかし、宋と結んだ金によりモンゴル高原を追われた契丹族はこれを滅ぼしてカラ=キタイを建国した。167字



「段落3」150字

13世紀にチンギス=ハンがホラズム王国を滅ぼし中央アジアを支配。その後チャガタイ=ハン国が成立した。この時期にジャムチが発達し東西交渉が発展。カトリックが中国に伝えられた。西チャガタイ=ハン国から独立したティムールはアンカラの戦いに勝利して西アジア一帯を支配する帝国を建設。その支配下でトルコ=イスラム文化が開花した。その系譜を継ぐバーブルはムガル帝国を建てた。180字



「段落4」150字

16世紀にウズベク人がトルキスタンに侵入しティムール帝国を滅ぼし、やがてブハラ・ ヒヴァ両ハン国が西トルキスタンを支配した。彼らはスンナ派イスラム教を使用した。78字



「段落5」75字

18世紀清の乾隆帝は東トルキスタンを征服。新疆として藩を置き理藩院で間接統治した。19世紀南下政策をとるロシアはブハラ・ヒヴァ両ハン国を征服し西トルキスタンを植民地とした。84字


全文
8世紀タラス河畔の戦いにアッバース朝が勝利し西トルキスタンでイスラム化の契機となった。東トルキスタンでは唐が都護府を置き間接統治した。この間、東西交渉の舞台となりネストリウス派キリスト教や仏典が中国に持ち込まれた。
840年ウイグルが西走し東トルキスタンで西ウイグル国を建国。中央アジアがトルコ化する契機となった。11世紀には西トルキスタンで建国したカラハン朝は中央アジアを統一。この間、トルコ系イスラム王朝として中央アジアのトルキスタン化とイスラム化が進んだ。
しかし、宋と結んだ金によりモンゴル高原を追われた契丹族はこれを滅ぼしてカラ=キタイを建国。以後中央アジアにモンゴル系国家が成立した。13世紀にチンギス=ハンがホラズム王国を滅ぼし、その後チャガタイ=ハン国が成立した。この時期ジャムチにより東西交渉が発展。マルコ=ポーロやカトリック宣教師が中国に赴いた。西チャガタイ=ハン国から独立したティムールはアンカラの戦いに勝利して西アジアを含む大帝国を建設。サマルカンドでトルコ=イスラム文化が開花した。これを継ぐバーブルはムガル帝国を建てた。
16世紀ウズベク人がトルキスタンに侵入。やがてブハラ・ヒヴァ両ハン国が西トルキスタンを支配した。
18世紀清の乾隆帝は東トルキスタンを征服。新疆として藩を置き理藩院で間接統治した。19世紀南下政策をとるロシアはブハラ・ヒヴァ両ハン国を征服し西トルキスタンを植民地とした。599字










2022年東大本試験 トルキスタン通史 答案の書き方(1)

2022年02月27日 | 論述問題
2022年東大本試験 トルキスタン通史


東大にはエジプト通史、イベリア通史、シチリア史といった過去問があります。これらに共通するのは、長い歴史スパンで地域を考えるときは、大きな時代の変化に注目するべきだという点です。とくにエジプト4000年の歴史を510字で書かせた問題でそれが顕著でした。さて、今年の問題はトルキスタンについて8〜19世紀に渡って600字で論述せよというものでした。


まず問題の読み取り

① 解答すべきは、トルキスタンの歴史的展開(8〜19世紀)です。展開とは「次の段階に進めること。また、次の段階に進むこと。」ですから、「段階」そのものを考える必要があります。世界史的に言えば「段落」でしょう。この「段落」を発見することが解答のポイントです。

② 次にトルキスタンの何を書くのか?を探っていきます。

1、トルキスタンを乾燥地帯(西トルキスタン)とオアシス都市(東トルキスタン)に分けている点に着目します。意外とこんなことが考えるヒントになります。

2、トルキスタンでは文化が交錯する。文化についても書く必要がありそうです。「交錯」ですから、東から西からトルキスタンを通過したり、トルキスタンで定着したりしている世界史知識を思い出します。

⇛8世紀:タラス河畔の戦いでイスラム教が西トルキスタンに、東からは玄奘が仏典を求めてオアシス都市を往復した。

3,トルキスタンの支配について、周辺地域から侵入するケースと、トルキスタンで勃興した勢力が周辺に影響したケースがあり、それぞれ具体的な世界史知識を思い出します。このあたりが「段落」に関係するかな、と思いながら読み進めます。



解答のメモ

1,まず手始めにトルキスタンの勢力を時代順に書き出すことから始めるのが一般的でしょう。その作業をしながら「段落」を並行して考えます。

 

8世紀:西トルキスタンでソグド人 東トルキスタンで西突厥(〜744年)

9世紀:サーマーン朝(875〜999年) 東トルキスタンで西ウイグル国(ウイグルの西走840年)

10世紀:東トルキスタンでカラハン朝が成立。10世紀半にイスラム教を国境として最初のトルコ=イスラム国家となる。サーマーン朝をほろぼして西トルキスタンも支配しトルキスタンを統一。  

12世紀:契丹族のカラ=キタイ(西遼)がカラハン朝(1133〜1211年)を滅ぼす。

13世紀:チンギス=ハンによる征服。チャガタイ=ハン朝が東西トルキスタンを支配。

14世紀:チャガタイ=ハン国が東西トルキスタンで分裂。西チャガタイ=ハン国からティムールが登場。東チャガタイ=ハン国は存続。

15世紀:西トルキスタンでティムール帝国 東トルキスタンについては記述するのは難しいでしょう。

16世紀:西トルキスタンでウズベク人が建国。

17世紀:ブハラ=ハン国に成長した。

18世紀:東トルキスタンを清乾隆帝が征服。新疆とし藩部として理藩院が統括した。

19世紀:西トルキスタンをロシアが征服。



実際、試験会場でここまで書き出すことはできないでしょう。しかし、東大はもっと大きな「段落」を求めているだけですから、現場で細かい世界史記憶にすがる姿勢から抜け出せたかどうかが得点の分かれ目だったでしょう。



2,さて、「段落」です。「段落」ごとの勢力が侵入した勢力なのか、トルキスタンで建国した勢力なのかを明示しながら書く必要があります。またこの「段落」は、問題の読み取りに示したように、民族や国家の特徴を宗教や文化と関連させて考える必要があります。



「段落1」8世紀:タラス河畔の戦いでイスラム化が始まる。トルキスタンを経由してネ  ストリウス派や仏教が中国に伝わった。

「段落2」10世紀:中央アジアのトルキスタン化とイスラム化。

「段落3」13世紀:モンゴル帝国が支配。ジャムチが整備され東西交渉が発達。カトリックが中国に伝播した。

「段落4」16世紀:ウズベク人の支配。18世紀には東トルキスタンを清が藩部をおいて間接統治してウイグル人の文化や宗教は尊重された。

「段落5」19世紀:南下政策をとるロシア帝国により征服され植民地となる。



3,字数配分を考えます。「段落」は5つですが、「段落1」と「段落5」は半分程度しか書けそうもないので、600字を4つの150字ずつに分ける事になりそうです。そう考えると、細かい世界史的知識を書き並べることはできません。




2022年東大本試験 トルキスタン通史

2022年02月27日 | 論述問題
第1問

内陸アジアに位置するパミール高原の東西に広がる乾燥地帯と,そこに点在するオアシス都市は、 ユーラシア大陸の交易ネットワークの中心として,様々な文化が交錯する場であった。この地は,トルコ化が進むなかで,ペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンの名で呼ばれるようになった。トルキスタンの支配をめぐり、その周辺の地域に興った勢力がたびたび進出してきたが、その一方で,トルキスタンに勃興した勢力が、周辺の地域に影響を及ぼすこともあった。

以上のことを踏まえて,8世紀から19世紀までの時期におけるトルキスタンの歴史的展開について記述せよ。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し,次の8つの語句をそれぞれ必ず一度は用い,その語句に下線を引くこと。



アンカラの戦い  カラハン朝  乾隆帝  宋  トルコ=イスラーム文化   バーブル  

ブハラ·ヒヴァ両ハン国  ホラズム朝


感想
1972年(米中接近)から50年、あるいは1932年(満州国建設)から90年に当たる2022年。米中関係を中心とするアメリカ外交史や日米関係を中心とする問題が予想される一方、東大世界史によくあるパターンで、そのような注目点とは関係なく古い時代の問題が出るパターンを予想していました。
その意味で、エジプト通史の書き方考え方を12月に投稿してみました。通史を扱う問題はしばらく出題されていませんでした。
中央アジアの歴史だけを取り上げて学習、準備していた高校生はどれくらいいたでしょうか?良い視点の問題であると思いますが、多くの高校生が苦戦したかもしれません。




2001年東京大学第1問エジプト史概観

2021年12月25日 | 論述問題
2001年東京大学第1問 エジプト通史概観

輝かしい古代文明を建設したエジプトは、その後も、連綿として5000年の歴史を営んできた。その歴史は、豊かな国土を舞台とするものであるが、とりわけ近隣や遠方から到来して深い刻印を残した政治勢力と、これに対するエジプト側の主体的な対応との関わりを抜きにしては、語ることができない。
 こうした事情に注意を向け、
 1)エジプトに到来した側の関心や、進出にいたった背景
 2)進出をうけたエジプト側がとった政策や行動
の両方の側面を考えながら、エジプトが文明の発祥以来、いかなる歴史的展開をとげてきたかを概観せよ。解答は、解答欄の(イ)を使用して18行以内とし、下記の8つの語句を必ず1回は用いたうえで、その語句の部分に下線を付せ。
アクティウムの海戦  イスラム教  オスマン帝国  サラディン   ナイル川  ナセル  ナポレオン   ムハンマド・アリー


東大世界史において有名なエジプト5000年の歴史を510字で概観する問題です。この「概観」という言葉にポイントを向けられたかが結果に大きな違いを生じさせることになります。つまり、エジプト史はざっくり言ってどのような歴史だったのかを記述します。この点を整理すると、

古代エジプト史・ヘレニズム時代
ローマ帝国から東ローマ帝国の時代
イスラム教時代
英仏の侵略を受けた時代
その影響から脱した時代
の6つの時代に区分できるはずです。したがって、字数配分はそれぞれ100字ずつになります。

 そのうえで、リード文を読み返します。「到来して深い刻印を残した政治勢力と、これに対するエジプト側の主体的な対応」とあり、これをより明確にした指示が、それぞれに対応して「エジプトに到来した側の関心や、進出にいたった背景」と、「進出をうけたエジプト側がとった政策や行動」とされています。つまり、侵入した勢力の関心・背景と、エジプトの主体的な対応つまり「進出に対する政策・行動」を考えればよいとわかります。ここまでが問題の読み取りです。

 この問題に置いて、発想として大切なことは、侵入した勢力を書き出し、その時代のエジプトの王朝名などを書くのではない、という点です。この発想に立てば「ヒクソスと中王国」などを書くことになります。しかし、ヒクソスの侵入によって「エジプト史」は大きく変容したとは言い難い。ヒクソスを書いてアッシリアやアケメネス朝ペルシアを書かないという論拠はありません。そのような細かいことではなく、この問題が求めているのは「展開を概観」することです。大きく「エジプト史」全体の展開を考えることが求められています。

2021年度東京大学第1問 問題

2021年07月24日 | 論述問題
第1問
 ローマ帝国の覇権下におかれていた古代地中海世界は,諸民族の大移動を契機として、大きな社会的変動を経験した。その際,新しく軍事的覇権を手にした征服者と被征服者との間,あるいは生き延びたローマ帝国と周辺勢力との間には,宗教をめぐるさまざまな葛藤が生じ,それが政権の交替や特定地域の帰属関係の変動につながることもあった。それらの摩擦を経ながら, かつてローマの覇権のもとに統合されていた地中海世界には,現在にもその刻印を色濃く残す, 3つの文化圏が並存するようになっていった。
 以上のことを踏まえ,5世紀から9世紀にかけての地中海世界において3つの文化圏が成立していった過程を,宗教の問題に着目しながら,記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記し、 次の7つの語句をそれぞれ必ず一度は用い,その語句に下線を付しなさい。

ギリシア語  グレゴリウス1世  クローヴィス  ジズヤ  聖像画(イコン)  バルカン半島  マワーリー



コロナ禍もあり19世紀以降は出題できないという予想通り、古代中世史を東大らしく大きな視点で出題した問題。過去にも類題が出題されており、過去問演習の重要性が再確認される。また、駿台直前講習で東ローマ帝国を中心に地中海世界を問うた問題を扱っていた。以上のことから2022年度は近現代に振った問題、かつ中国史を中心にした問題に注目したい。一橋大学第3問の分析が必要かも知れない。






2021年東京大学本試 第1問解説(速報)

2021年02月28日 | 論述問題
2021東大本試 第1問

文化圏内の宗教対立や文化圏間の宗教的対立を経て地中海世界に3つの文化圏が成立していく過程を記述する問題。リード文を読み解くことで「対立」を具体化していく。ただし、リード文に指示語が多いので確認しながら考える必要がありそうです。
 この問題の最大のポイントは文化圏成立の過程をそれぞれ時代順に記述することが求められてはいないということ。受験の現場で多くの受験生は各世紀ごとにカール戴冠による西欧世界の成立、イスラム教世界の拡大の過程、ビザンツ帝国についてはユスティニアヌスの時代とレオ3世のイコン禁止について記述するのではないか。それでもそれなりの得点にはなるはず。
 

書くべきポイント
1. 5~9世紀 地中海世界における3つの文化圏(イスラム世界・ギリシア正教世界・ローマカトリック世界)が成立した過程。それぞれ200字ずつ。
2. 宗教の問題に着目する。

考え方(リード文にある抽象的記述を具体的歴史事実に置き換える作業)
1. 新しい軍事的覇権を手にした征服者と被征服者⇨ゲルマン国家と西ローマ帝国
2. 生き延びたローマ帝国⇨ビザンツ帝国
3. その周辺⇨西アジア
4. 政権の交替➡メロヴィング朝からカロリング朝 ウマイヤ朝からアッバース朝
5. 特定地域の帰属関係の変動
6. ゲルマン国家と西ローマ帝国の宗教的問題が政権の交替や領土の帰属問題を引き起こした。
7. ビザンツ帝国とササン朝ペルシア・イスラム世界の宗教的問題が政権の交替や領土の帰属問題を引き起こした。
8. このような摩擦(宗教的問題)を経て、3つの文化圏が成立していった。(⇦過程)
9. 現在に残る刻印とは?⇒「その」はローマの覇権⇒3地域それぞれに色濃く残るローマの覇権とは?


知識(年代がわからなくても可)
1. 5世紀 418年西ゴート王国建国 476年西ローマ帝国滅亡 481年フランク王国建国
496年カトリック改宗 451年カタラウヌムの戦い 452年教皇レオ1世
2. 6世紀 534年ヴァンダル王国 555年東ゴート王国征服 568年ロンゴバルド王国成立
3. 7世紀 610年イスラム教成立 632年正統カリフ時代 661年ウマイヤ朝成立・シーア派形成 641年正統カリフのウマルがエジプト侵略 610年ビザンツ帝国ヘラクレイオス朝成立(ヘラクレイオス1世即位) 681年ブルガリア王国成立
4. 8世紀 711年西ゴート王国滅亡 732年トゥール・ポアティエ間の戦い 751年カロリング朝成立 756年ラヴェンナ寄進 774年ランゴバルド王国征服 800年カール戴冠 726年皇帝レオン3世偶像崇拝禁止令 750年アッバース朝 756年後ウマイヤ朝成立 789年イドリース朝(モロッコ シーア派)
5. 9世紀 843年ヴェルダン条約 870年メルセン条約 875年サーマン朝成立 843年偶像崇拝禁止令廃止 867年ビザンツ帝国マケドニア朝成立(バシレイオス1世即位)

ローマカトリック世界の成立過程
1. 西ローマ帝国(アタナシウス派)➡西ゴート王国(アリウス派)➡西ローマ滅亡➡フランク王国(アタナシウス派)
★5世紀アタナシウス派の西ローマ帝国のアリウス派に改宗したゲルマン人の西ゴート王国がイベリア半島に建国し、同じくヴァンダル王国が北アフリカに建国した。これに対しフランク王国を建国したクローヴィスはアタナシウス派に改宗した。
★西ローマ帝国の滅亡により西方教会はビザンツ帝国の皇帝教皇主義の下に置かれた。
2. 5世紀教皇レオ1世が教皇権を確立➡6世紀グレゴリウス1世ランゴバルドや西ゴートなどのゲルマン人の改宗に尽力
3. 711年西ゴート王国滅亡➡732年トゥール・ポワティエ間の戦い
★ウマイヤ朝が西ゴート王国を征服しイベリア半島を支配下に置き、732年フランク王国とのトゥール・ポワティエ間の戦いに敗北しキリスト教世界への侵入は止まった。
4. 726年偶像崇拝禁止令➡751年カロリング朝成立➡756年ラヴェンナ寄進➡774年ランゴバルド王国(アリウス派)征服➡800年カール戴冠➡870年メルセン条約
★イスラム教の影響を受けて726年ビザンツ皇帝がイコンを禁止。ゲルマン布教にイコンを必要とした教皇はフランク王国と提携し、800年カール戴冠で皇帝をローマカトリック教会の保護者とし皇帝教皇主義から離れ西欧世界すなわちローマカトリック世界が成立した。古代都市文明と貨幣経済は衰退し自給自足の村社会でゲルマン的伝統とローマ的伝統が共生する社会が成立した。

ギリシア正教世界
1. ★5世紀ゲルマン移動の影響が少なかった。ローマ帝国の都市文明と貨幣経済、皇帝教皇主義を継承した。
2. ★6世紀ユスティニアヌスがイタリアと北アフリカを奪回して地中海世界を再統一。ローマ法大全で法体系を継承した。一方シリアを巡りササン朝ペルシアのホスロー1世と抗争を続けた。東西交易路が変化した結果、7世紀にヒジャーズ地方でイスラム教が成立した。
3. 7世紀に穀倉地帯のエジプトをイスラム勢力に奪われ
4. ★イスラム教の聖像禁止の影響で726年皇帝レオ3世がイコンを禁止したが、9世紀にこれを停止。ブルガリア人やスラブ人への布教に活用した。
5. 9世紀マケドニア朝が成立したが分権化が進んだ。


イスラム教世界
1. メッカでイスラム教が成立。多神教勢力と対立してウンマはメディアに移動。再びメッカに戻りカーバ神殿の偶像を破壊した。632年までにアラビア半島のベドゥインが改宗し、正統カリフ時代エジプトから北アフリカをビザンツ帝国から奪い、ゾロアスター教を国教としたササン朝ペルシアを滅ぼしイランを制圧した。征服地にはミスルが建設され都市文明と貨幣経済が維持される地中海沿岸部の南部と西アジアにイスラム教世界が成立した。
2. 661年ウマイヤ朝が成立。4代目正統カリフのアリーを支持する一派はシーア派としてスンナ派と対抗した。ウマイヤ朝はアラブ至上主義をとりマワーリーにジズヤを課した。そのため750年アッバース朝が起こりムスリムの平等が実現した。しかしウマイヤ家はイベリアで後ウマイヤ朝を立てアミールとしてアッバース家カリフと対抗した。
3. 9世紀になるとアッバース朝の支配が弱まりモロッコにシーア派のイドリース朝、イランにスンナ派のサーマーン朝が成立してイスラム教世界は分断されていった。


2014年一橋大学本試 第4問 清末の改革 朝鮮と日本・ロシア関係

2021年02月15日 | 論述問題
2014年一橋大学本試【3】

  次の文章は、16世紀から17世紀末にかけて大きく変動した東アジア情勢の一端を伝えるものである。これを読んで、問1、問2に答えなさい。
 万暦47年(1619年)のサルフ山の戦いで大敗して以降、明朝では、女真族の軍事的脅威が高まりを見せる。こうした中で、新式火器の導入をもってかかる危機的状況を打開しようとしたのが、官僚にしてキリスト教徒として著名な徐光啓である。爾後、明朝では、徐光啓やその弟子の李之藻、孫元化などが、火器に精通し、(A.   )のポルトガル人と深い関係を持つキリスト教官僚らを中心に、新式火器の導入や火器の整備が建議・実施される。
 万暦32年(1604年)、進士となり官界に進出した徐光啓は、しばしば兵事、特に新式火器の導入による軍備充実の必要性を陳述して注目を浴びた。それは主として、ポルトガルの拠点となっていた(A.   )で製造される高性能のヨーロッパ式大砲(紅夷砲)を導入し、北京、およびその近郊や遼東諸地域の軍事拠点に配備するというものであった。同時に彼は、彼に師事する李之藻らを通じて(A.   )のポルトガル当局と独自に買い付け交渉を進め、泰昌元年(1620年)、みずから費用を工面して4門の紅夷砲を購入した。天啓元年(1621年)の瀋陽・遼陽の陥落など、いっそう深刻な状況となった対女真情勢を背景に、明朝は、徐光啓の建議を採用し、合計30門の紅夷砲を(A.   )から購入し、北京、および(B.   )や寧遠などの軍事拠点に投入した。また、天啓3年(1623年)、紅夷砲の操作に熟達するポルトガル人技師約100名を火器操作の指導者として招募し、京営での砲手育成の訓練に充当した。  (久芳崇『東アジアの兵器革命』より引用。但し、一部改変)
問1 空欄(A.   )(B.   )に当てはまる地名を答えなさい。さらに、清朝が明朝に替わって中国を支配するようになった経緯を、さまざまな要因を関連づけて説明しなさい。(240字)
問2 16世紀末から17世紀末にかけて、朝鮮と明朝・女真・清朝との関係はどのように推移したのか説明しなさい。その際、次の用語を必ず使用しなさい。(160字)
 壬辰の倭乱   ホンタイジ   冊封

解答例
問1
AマカオB山海関
明朝は万暦の3大遠征により財政難に陥った。さらに「17世紀の危機」で不景気に陥った。一方、1616年女真族のヌルハチが後金を建国。ホンタイジはチャハル部を平定して勢力を拡大した。この状況下、李自成の乱が派生し北京を攻略。崇禎帝が自害して明は滅亡した。そのため明将呉三桂は1644年清順治帝を入関させ、李自成の乱を平定した。
問2
朝鮮は明の冊封を受けていた。そのため壬辰の倭乱がおこると明軍は朝鮮を支援して日本を撃退した。国号を清に改めた女真族のホンタイジは朝鮮を攻撃し、次の順治帝がこれを制圧した。その結果、朝鮮は清の冊封を受けいれた。これに対し朝鮮の支配層である両班は異民族支配を嫌い、小中華思想を持った。その中で李滉は朱子学を発展させた。


2017年筑波大学第4問 冷戦構造の成立

2021年02月15日 | 論述問題
2017年筑波大学 第4問
各問について,それぞれ400字以内で解答しなさい。なお,解答文中では指定された語句に下線を施すこと。

 第二次世界大戦後,世界はアメリカとソ連という二つの超大国を軸に,西側の資本主義陣営と東側の社会主義陣営に分断され,相互に激しく対立した。このいわゆる冷戦構造の成立期におけるヨーロッパの動向について,以下の語句を用いて説明しなさい。

北大西洋条約機構(NATO)   経済相互援助会議(COMECON)
ドイツ民主共和国 トルーマン=ドクトリン   マーシャル=プラン


解答例
ヤルタ会談にしたがって戦後ドイツとベルリンは東西に分断された。ソ連に解放された東南欧諸国と東独はソ連の衛星国となり社会主義政権が成立した。このような中、アメリカは47年トルーマン=ドクトリンで封じ込め政策を展開し、トルコ・ギリシアの共産化を防いだ。また47年マーシャル・プランの受け入れを表明したチェコでクーデタが発生し社会主義化した。その波及を嫌い48年アメリカ主導で西独が単独で通貨改革を実施した。反発したソ連は西ベルリンを封鎖した。このベルリン封鎖は49年に終了したが、49年東独はドイツ民主共和国、西独はドイツ連邦共和国として独立し、ドイツの分断が確定した。49年西側諸国はアメリカの核の傘の下NATOを結成したのに対し、東南欧諸国はソ連と経済相互援助会議を結成し、55年にはワルシャワ条約機構によりソ連への依存を強めた。そして55年西ドイツがNATOに加盟した結果、ヨーロッパはWTOとNATOの軍事同盟による分断がした。(に)

考え方・書き方
1. 成立期をどの時期かを考える必要がある。一般には1946~1955年。1955年WTO成立と西独NATO加盟。
2. 書くべき内容はヨーロッパの動向。したがって文章の主語がヨーロッパになるように書きたい。多くの受験生は米ソの対立を軸に記述する。この場合アメリカとソ連が主語になる。しかし、本来はヨーロッパの動向を書けというのだから、ヨーロッパを主語にすべきだろう。
3. 時間軸を書くことになるだろうから、正確に書ける範囲で年代を書いたほうが良い。ただし、1949年の出来事は多様だからその順番を正確には書けないはず。うまく時間軸にならないように記述した。
4. 「全ては問題文の中にある」のが世界史論述問題の原則。
5. マーシャル・プランはユーゴも受け入れているので「分断」という文脈では扱いづらい。使い方はマーシャル・プラン➡チェコ・クーデタ➡西独単独通貨改革➡ベルリン封鎖➡空輸で対応➡東西ドイツの独立➡ドイツの「分断」が確定
という文脈で記述するほうが良い。






2002年一橋大学第1問 解答例

2021年02月11日 | 論述問題
2002年 一橋大学本試【3】日中戦争と朝鮮支配
解答例
A:1900年山東半島を中心に仇教運動を展開した義和挙が蜂起した。この宗教団体は扶清滅洋を掲げ、反帝国主義的要素を持っていた。そのため保守的な政権である清朝西太后政権は義和団を支援して列強に宣戦した。これに対し列強8か国は共同出兵して清に勝利を収めた。その結果、清朝と列強は1901年北京議定書を締結し、列強は清朝から北京における駐兵権を獲得した。また北京議定書では多額の賠償金を獲得している。

B:1910年初代朝鮮総督寺内正毅は武断政治をとり、日本語を強制し土地を没収するなど強権的に統治した。しかし第1次世界大戦後の民族自決の潮流の中、1919年三・一独立運動が発生。これを契機に日本は文化政治に転換した。その中で創氏改名や神道の強制といった皇民化政策すなわち同化策が展開された。1937年日中戦争が全面化すると、朝鮮人は義務において日本人と同様に扱われ、戦場や後方支援、各地の軍事工場などに強制連行された。

2014年 一橋大学 第1問 解答例

2021年02月11日 | 論述問題
2014年一橋大学 第1問 解答例

百年戦争は長期化し領主階級に負担が広がり、イングランドでも戦費を調達するために農奴に税がかけられた。13世紀に十字軍遠征により広域商業圏が成立すると、イングランドでは貨幣経済が発展した。それに伴って14世紀には生産物地代や定額の貨幣地代を求める純粋荘園が広がった。しかし14世紀にイングランドは寒冷化し、また14世紀後半からペストが大流行したため、農奴が激減し、耕作地が放棄された。そのため農奴の中から、農民保有地を買い取りヨーマンと呼ばれる独立自営農民になる者が出現するなど、農民の地位は向上していった。その一方で領主階級は没落していった。国王側近などの領主階級は定額の貨幣地代による減収、さらに農奴の激減といった危機の中、領内の農奴に対する抑圧を強化しつつ暴力的にヨーマンの土地を奪うなど領主権の強化を図る封建反動に転じた。この封建反動に対し農奴制など身分制を否定する農民反乱が発生した。

2012年一橋大学 第1問 解答例

2021年02月11日 | 論述問題
2012年一橋大学本試【1】解答例

ユグノー戦争の原因は、周辺国で王権が強化される中、フランス王権による集権化を目指す勢力とそれに抵抗する勢力の対立という政治状況である。この構図は14世紀初以来フランス王権が国内教会に対して指導的地位を持つのに対し、カルヴァン派であるユグノー勢力が拡大していた宗教対立でもあった。1572年新旧対立の融和を口実にパリに集められた新教側貴族を虐殺したセント=バーソロミュー事件が転機となった。これにより国王支持勢力と反国王勢力すなわちカトリック側諸侯とユグノー側諸侯の対立は激化し、30年以上の戦乱の中、有力な諸侯の多くが途絶え、王家ヴァロア家も断絶した。やがてユグノー側の指導者アンリ=ド=ブルボンは対抗する勢力を抑えフランス国王に即位した。その際、政治的統一を優先することを目的に法に従ってカルヴァン派から多数を占めるカトリックに改宗した。また領主権と信仰とを切り離すことを目的に個人の信仰の自由を認めた。(に)

2018年東大 第1問 解答例

2021年02月11日 | 論述問題
2018年東大本試験 第1問 
解答例
農業社会では男女は平等な労働力とされていた。19世紀に産業革命が進むと、既婚女性は労働から疎外されジェンダーが社会的に固定化した。さらにフランス人権宣言は女性の権利を認めておらず19世紀以降、男女同権を主張するフェミニズム運動が拡大した。看護学の基礎を確立したナイティンゲール、化学分野で貢献しノーベル賞を受賞したキューリ、奴隷解放運動に大きな影響を与えた『アンクル=トムの小屋』を著したストウ夫人などが活躍した。彼女等の活躍はフェミニズム拡大に寄与した。第1次世界大戦が長期化し総力戦を強いられると、男性に代わり女性の社会進出が進んだ。その結果、イギリスで第4次選挙法改正が行われ、初めて30歳以上の女性が参政権を獲得した。さらに第5次選挙法改正で男性と同等の選挙権を獲得した。またドイツのワイマール憲法、アメリカ合衆国憲法修正、トルコ革命後のケマル=アタチュルクが定めた憲法でも女性参政権を認めた。しかし日本や多くのイスラム諸国では第2次世界大戦後にようやく女性参政権を認めた。1960年代にアメリカで公民権運動が広がる中、女性解放を目指すウーマンリブが拡大した。このフェミニズム運動の広がりにより国連は女性差別撤廃条約を定め、日本など多くの国がこれを批准した。男女の権利格差が大きい日本では1985年男女雇用機会均等法を定め、その改善を図ったが、ジェンダー差別は社会の隅々に残り男女同権の実現は道半ばといえる。(に)

2017年筑波大学 第3問 問題と解説解答例

2021年02月07日 | 論述問題
2017年筑波大学 第3問 
 キリスト教の中国への布教と中国での受容に関する諸問題について,因果関係に留意しながら,以下の語句を用いて説明しなさい。

アロー戦争 義和団   対抗宗教改革   典礼問題   マテオ=リッチ

解答例
異端とされたネストリウス派は唐の長安で布教。その結果、景教と呼ばれ流行した。十字軍の時代にプレスタ―=ジョンの伝説を受けてモンテ=コルヴィノが大都に派遣され、多文化が共生する元で布教した。その結果、初代大都大司教となった。
対抗宗教改革が進む中、新大陸到達に伴い異教地への布教を目的としたイエズス会は、地理的知識や天文知識を支配者層に伝えつつ中国に布教した。明高官徐光啓はマテオ=リッチと『崇禎暦書』を著し改宗した。
イエズス会は中国の典礼を容認したが、典礼問題が起こると教皇が会の布教法を否認したため清の康熙帝はイエズス会以外の布教を禁止。雍正帝は全ての布教を禁じた。
清は英仏とのアロー戦争に敗北。1858年天津条約でキリスト教布教の自由が認めた。これに対し華北を中心に仇教運動が広がり、1900年北京に入城した義和団が教会を襲撃した。列強は共同出兵しこれを鎮圧。北京議定書が結ばれて清の反植民地化が進んだ。

字数配分
① ネストリウス派からカトリック布教まで・・・100字
② イエズス会・・・100字
③ 典礼問題・・・100字
④ 義和団・・・100字

書き方のポイント
① 原因がなにでその結果どうなったのかを明示する。その場合「その結果、~したため、これに対し」といった表現が有効。
② 受容と反発を区別して書く。
③ 歴史用語を用いることで説明を簡素化する。

記述のポイント
1. 異端とされた…原因
2. その結果、景教と呼ばれ流行した。…結果・受容
3. 十字軍の時代にプレスタ―=ジョンの伝説…原因
4. 多文化が共生する元…原因
5. その結果、初代大都大司教となった。
6. 対抗宗教改革が進む中、…原因
7. 新大陸到達に伴い異教地への布教を目的…原因
8. 明高官徐光啓はマテオ=リッチと『崇禎暦書』を著し改宗した。…結果・受容
9. 教皇が会の布教法を否認したため…原因
10. 康熙帝はイエズス会以外の布教を禁止。雍正帝は全ての布教を禁じた。…結果・反発
11. アロー戦争に敗北…原因
12. 布教の自由が認めた…結果
13. 仇教運動が広がり…結果・反発
14. 反植民地化が進んだ…結果

一橋大学予想問題 啓蒙思想 問題と解答例

2021年02月05日 | 論述問題
 17~18世紀の啓蒙思想の展開
(1)18世紀ヨーロッパにおける経済上の自由思想の発展について100字程度で説明せよ。1972東大改

   自然法 ケネー 重商主義 アダム・スミス

(2)オーストリアは,マジャール人がオット1世によって撃退されたのも,この外敵に対する防壁として設けられた辺境碩に起源をもつ。15世紀いらい代々の皇帝を出したハプスブルク家の支配のもとマ,オーストリアは大いに領土を拡大したが,他方では,そのころ東方から進出してきたオスマン帝国によって,しばしば脅かされた。宗教戦争の時代にオーストリア政府はカトリシズムを強制しようとしたため,1618年,その属領のボヘミアでブロテスタントの反乱がおこり,30年戦争へと発展した。 18世紀後半には,オーストリアは,典型的な啓蒙絶対主義(啓蒙専制主義ともいう)と目されるヨゼフ2世の治世をむかえた。
 啓蒙絶対主義の特徴を17世紀の絶対主義(たとえばルイ14世のフランス)との比較を念頭に置きながら、200字以内で説明せよ。 1974東大改




一橋大学 予想問題 啓蒙思想
解答例(1)
植民地争奪に敗れフランス重商主義が行き詰まると百科全書派のケネーは『経済表』で、自然法を論拠に重農主義を展開し自由放任主義を説いた。イギリスのアダム=スミスは『国富論』を著し市場経済の優位性を示した。

解答例(2)
ルイ14世は「太陽王」と自称し、王権神授説に基づく絶対王政を確立した。しかし重商主義が行き詰まると、社会契約説をとる啓蒙思想が絶対王政を批判した。30年戦争で荒廃したオーストリアでは18世紀に啓蒙思想がオーストリアなどにも広がる中、絶対王政が成立した。しかし、その影響下「上からの改革」という形態となり、農奴解放などが進んだ。プロイセン王フリードリヒ2世は「国家第一の下僕」を自称した。