FORZA世界史inBLOG

世界史の復習をサポートするブログです

モスクワにいた二人の大統領

2012年12月01日 | 高2用 授業内容をもう一度

ゴルバチョフ書記長は1990年3月に共産党の一党独裁体制を放棄し、他の政党の結成を認めました。したがってこの段階で、ソ連邦共産党書記長=ソ連邦の最高責任者ではなくなったわけです。そこで、ゴルバチョフは初代ソ連邦大統領に就任し、ペレストロイカを継続しました。しかし、1991年8月にソ連共産党保守派によるクーデタが発生しました。クリミアに夏休みの保養に行っていたゴルバチョフ大統領をペレストロイカに反対する保守派が監禁した事件です。しかし、首都モスクワでは保守派のクーデタはモスクワにいたエリティン大統領に封じ込められました。このエリティン大統領とはソ連邦の最大共和国であるロシア共和国の大統領です。エリティン大統領も民主化政治家の指導者で、保守派クーデタに対する勝利をモスクワの戦車の上から叫びました。解放されたゴルバチョフ大統領はモスクワに戻ると、ソ連邦共産党の解散を決定しました。
 ソ連共産党が解散したことはソ連邦の存在そのものを否定することです。共産党解散と前後してソ連邦からバルト3国が離脱を宣言、さらにエリティン・ロシア大統領もソ連邦からの離脱を示唆したため、ゴルバチョフ・ソ連邦大統領は1991年12月25日ソ連邦の解体を宣言し、大統領を辞任しました。


イラン現代史

2012年12月01日 | 高3用 授業内容をもう一度

 中東とは,かつては近東と極東の間に位置する地域を漠然と指していたが,現在では西アジアおよびアフリカ北東部の総称として用いられている。それは古代オリエント文明が開花し,さまざまなイスラーム王朝の盛衰を経て,オスマン帝国の版図となった地である。その後,英仏の分割統治下に入り,今日の独立国となったのは第2次世界大戦前後のことであった。しかし,列強の思惑を反映した人為的な国境の画定は,民族や宗教の対立を増幅し,現在まで続く紛争の原因となっている。
 紛争の一つはパレスチナ問題である。この地域へのユダヤ人の入植がアラブ人との対立を引き起こし,さらに1948年イスラエルが独立を宣言すると,中東戦争が始まった。第1次中東戦争(パレスチナ戦争)はイスラエルの圧勝に終わり,敗北を喫したアラブ諸国では民族主義が高まった。エジプトでは1952年青年将校団のナギブとナセルを中心に革命が起こり、メフメト=アリーが建てたエジプト最後の王朝が滅亡した。さらに1956年ナセルによってスエズ運河の国有化が宣言されると,それが引き金となって,1956年英仏イスラエルとの間に第2次中東戦争(スエズ戦争)が勃発した。
 第3次中東戦争では,先制攻撃をかけたイスラエルがわずか6日間で大勝利を収め,新たにシナイ半島・ゴラン高原・ガザ地区・ヨルダン川西岸地区といった広大な占領地を得た。そのことがパレスチナ難民問題を深刻化させ,第4次中東戦争の火種にもなった。この第4次中東戦争ではアラブ諸国すなわちAPECが石油戦略を発動し,いわゆる第1次オイル・ショックをひきおこした、アラブ世界は国際社会にその影響力を見せつけた。
 このように中東戦争はイスラエルとエジプトを中心に戦われた。しかし両国間で1979年キャンプ・デーヴィット合意に基づきエジプト・イスラエル和平協定が締結されると,エジプトに代わってパレスチナ解放機構(PLO)が表舞台に登場し,イスラエルとの間で和平への道が探られることになった。
 中東では1908年代以降,もう一つの問題,すなわちイラク問題が浮上する。イラクが2度にわたり隣国へ侵攻し,国際社会をも巻き込む戦争へと発展したのである。イラン=イラク戦争の直接の契機は,イランにおいて革命が起こり,イラン=イスラーム共和国が成立したことであった。それに対して,イラクのサダム=フセインは1979年イラン革命の自国への波及を懸念するとともに,隣国の不安定化を覇権確立の好機ととらえ,侵攻したのである。続いてイラクはクウェートにも侵攻したが,国際社会はそれを非難し,対イラク軍事制裁に踏み切った。それが湾岸戦争である。結局イラクは敗北し,その後フセイン独裁政権も崩壊するが,いまだイラク国内の混乱は収まっていない。


エジプト現代史

2012年12月01日 | 高3用 授業内容をもう一度

 エジプトは1517年オスマン帝国の支配下に入る。1798-99年ナポレオンのエジプト遠征後、1831-33年1839-40年のエジプト事件でエジプト太守メフメト・アリーがシリアの領有には失敗したがエジプトの世襲権を獲得。メフメトアリー朝が成立した。1869年仏人レセップスがスエズ運河を建設。その後エジプト政府は財政難からその保有株式を1875年イギリス首相ディズレイリに売却した。1881年アラビ・パシャの乱を鎮圧したイギリスは翌82年エジプトを保護国化した。1920年代にワフド党のザクルールが反英活動を展開したが、やがてワフド党は親英に転じ、1936年ワフド党政権下に独立を達成した。

★エジプト現代史のチェック・ポイント
�メフメト・アリー朝滅亡の年は?
=1952年エジプト革命で滅亡
�エジプト革命の指導者は?
=ナギブ大統領
�エジプト革命の主体と成った党派は?
=自由将校団
�ナギブにかわって実権を掌握した人物は?
=サダト大統領


朝鮮半島の対外関係

2012年12月01日 | 復習用入試問題

2007 東京学芸大学 教育

 次の文章を読んで,以下の問いに答えよ(固有名詞など,漢字で書くべきものは漢字で解答すること)。

 朝鮮半島は, (1) 年以来,李朝が支配していた。李朝の基本的な対外関係は,近隣国とは(a)事大と交隣という言葉で表される関係,そして欧米諸国に対しては (2) であった。しかしながら,19世紀にはいると,朝鮮近海にも外国船が来航するようになり,とりわけ (3) の結果,1860年,北京条約が結ばれると(b)外国船の来航はより一層活発となった。このような李朝の対外関係は,明治日本の新たなる対外関係の模索により,大きく変貌することになった。1869年,明治政府は (4) を設置し,(c)新たなる対朝鮮外交樹立に向けて出発した。ところが,対朝鮮外交は日本側の思惑どおりには展開しなかった。李朝との交渉を進めつつも,結果として,(d)日本はまず清朝と外交関係を樹立せざるを得なかった。やがて,朝鮮国王の父であった摂政 (5) の引退後,朝鮮政府の外交方針は変化した。彼の引退が内政外交に及ぼした影響は大きく,これを契機として日朝間の外交交渉が開始された。日本は,1875年, (6) 事件を引き起こして外交関係締結の突破口とし,翌年,日朝修好条規を締結した。この条約では朝鮮は「 (7) 」の国であるとされるとともに,外交使節を相互派遣しうること,朝鮮の三港の開港,そして批准書交換を待たずして条約の調印後の即時発効,などが盛り込まれたが,実質的には朝鮮にとっては(e)不平等な条約であった。
 同じころ朝鮮国内では, (5) 派と王妃の外戚であった (8) 一派との政治的対立が深まりつつあったが, (5) の引退後,改革派勢力は勢力を得て,日本にならった近代化を進めようとした。しかしながら,開国や改革によって生活をおびやかされた民衆や兵士等の不満は大きく,1882年にはついに兵変を口火とする暴動が発生した。日清両国は軍隊を派遣して暴動を鎮圧したが,その後,朝鮮国内では清朝の影響力が強まり,その影響下に (8) 政権が再建された。しかし,改革を目ざす動きは継続され,1884年12月,保守化した (8) 政権(事大党)に対して (9) 等を中心とする改革派( (10) 党)は,清仏戦争における清朝艦隊全滅の知らせを契機としてクーデターを決行した。クーデターは一時的に成功するもわずか数日にして弾圧され,これ以後,清朝の影響力はより一層強まることになった。

問1  (1) から (10) に入る適切な語句を解答欄に記せ。

問2 下線部(a)の内容を50字以内(句読点等を含む)で説明せよ。

問3 下線部(b)の理由を40字以内(句読点等を含む)で説明せよ。

問4 下線部(c)に関して,徳川政権期の日本の対朝鮮関係について,外交,貿易面から120字以内(句読点等を含む)で説明せよ。

問5 下線部(d)の理由を40字以内(句読点等を含む)で説明せよ。

問6 下線部(e)の内容を記せ。


【解答4】
問1 (1) 1392 (2) 鎖国
(3) アロー[第二次アヘン]戦争 (4) 外務省
(5) 大院君 (6) 江華島
(7) 自主 (8) 閔氏
(9) 金玉均 [朴泳孝] (10) 独立
問2 外交的には清の冊封をうけて宗主国と属国の関係で結ばれるが,内政的には李朝の自主性が保たれる関係。
問3 北京条約の結果,朝鮮に近い営ロ,天津,芝罘の三港が開港地とされたから。
問4 外交的には,豊臣秀吉の朝鮮出兵[侵略]によって日朝関係は一旦断絶したが,17世紀初頭,徳川政権により再度国交を回復し,朝鮮国王と徳川将軍とを対等とする外交関係を結び,朝鮮はたびたび通信使を派遣した。また貿易は対馬藩(宗氏)を通じて行われた。
問5 朝鮮は清の属国であり,清の許可無くして外交関係の締結ができなかったから。
問6 (朝鮮の開港地において)日本にのみ領事裁判権を認めたこと。



20世紀以降の朝鮮半島

2012年12月01日 | 復習用入試問題

 次の文を読んで各問に答えよ。01年中央大学

 日清・日露戦争後の日本は海外市場の獲得をめざして大陸侵略をはかり,民衆の激しい反日運動を容赦なく弾圧して1910年に韓国併合を強行した。その推進者であった伊藤博文が独立運動指導者の A によって暗殺されたことからも,反日運動の強さがわかる。日本に併合された朝鮮は日本の天皇に直属する B による激しい統制支配のもとにおかれたが,1919年には独立を強く求める(1)三・一運動が起きた。この運動は朝鮮民族運動の出発点として大きな影響をあたえることとなった。この三・一運動以降,日本政府は C を断行して一種の同化政策をとったが,その内実は日本の習慣だけでなく言語までも強制するというものだった。特に日中戦争が開始されると日本の支配は朝鮮民衆の日常生活の隅々まで及び,朝鮮名を日本名にあらためさせる D などが進められた。光州学生事件などの朝鮮民衆による抵抗運動は徹底的に弾圧されたが, E は1936年に祖国光復会を組織して朝鮮の独立のために粘り強く抵抗運動を続けた。
 1943年に開かれた(2)カイロ会談で大戦後の朝鮮の独立が承認されたが,1945年8月に第二次世界大戦が終結すると,暫定的に北緯38度線を境にして北をソ連軍が,南をアメリカ軍が占領することとなった。冷戦構造を反映し朝鮮の独立方法をめぐって米ソの対立が続く中で,1948年に F を大統領とする大韓民国と E を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立した。しかし,南北の激しい対立はほどなく朝鮮戦争を引き起こした。大韓民国側には(3)アメリカ軍を主力とする国連軍が出動して,朝鮮民主主義人民共和国軍を鴨緑江近くまで押し戻し,これに危機感を抱いた(4)中国は義勇軍を派遣し,アメリカ軍対中国軍の様相をおびて世界大戦の危機をはらみつつ38度線で戦局は膠着状態となった。結局,2年間の停戦期間を経てようやく休戦となったが,これ以降南北朝鮮の分断は固定化され,世界の冷戦構造の矛盾を国家レベルで端的にしめすこととなった。
 大韓民国は反共の砦としてアメリカの世界戦略に位置づけられた。成立してわずか1年の張勉内閣をクーデタによって打倒した G は,日韓基本条約を結んで日本との経済的結び付きを強めたが,1979年に暗殺された。翌年に実権を掌握した全斗換大統領はさらに日本及びアメリカとの軍事的及び経済的関係を強化して経済の発展をはかったが,強権的な政策に反対する反政府運動のために退陣した。その後,史上初めて直接選挙で選ばれた H 大統領は1991年に朝鮮民主主義人民共和国と同時に国際連合に加盟するなどの成果を果たした。

〔設問�〕「A」から「H」にはいる最も適当な語を,すべて漢字で記しなさい。
〔設問�〕下線部(1)から(4)に関する下記の設問に答えなさい。

問1 下線部(1)の「三・一運動」について,正しいものを選びなさい。ただし,正しいものがない場合は�を選びなさい。
� ロシア革命の影響を受けて1919年3月1日にソウルで独立を求めるデモが起き,たちまちのうちに全国にひろがったが,日本の軍隊と警察によって徹底的に弾圧され,わずか1週間で鎮圧された。
� アメリカ大統領ウィルソンの14カ条における民族自決などの影響を受けて,1919年3月1日に京城で独立を求めるデモがおき,たちまち全国にひろがった。朝鮮独立万歳を叫んだので,別名万歳事件ともよばれる。
� ウィーン講和会議の影響を受けて1919年3月1日ソウル市民が朝鮮独立万歳を叫んでおこなったデモに端を発し,たちまち全国に広がった独立運動で,日本軍による徹底的な弾圧を受け死者多数をだしながら朝鮮革命軍の成立に結実していった。
� 金九の指導のもとに京城市民が独立を求めて1919年3月1日におこなったデモを皮切りとして,全国にひろがった反日独立運動で,大韓民国臨時政府の樹立を勝ち取ったが,明確な独立の理念がなく他力本願的であったため,すぐに消滅した。
問2 下線部(2)の「カイロ会談」に出席した人物について,正しいものを選びなさい。ただし,正しいものがない場合は�を選びなさい。
� ルーズヴェルト・チャーチル・スターリン
� ド=ゴール・スターリン・�拔介石
� トルーマン・ド=ゴール・スターリン
� ルーズヴェルト・チャーチル・�拔介石
問3 下線部(3)の「アメリカ軍を主力とする国連軍」について,正しいものを選びなさい。ただし,正しいものがない場合は�を選びなさい。
� 国際連合は常任理事国のひとつであるソ連が欠席のまま,緊急安全保障理事会で朝鮮民主主義人民共和国を侵略者として決議し,ほとんどアメリカ軍から成る当時世界最強の陸・空・海軍を動員した。
� 国際連合は国際連盟の失敗の反省にたって,アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・ソ連の5大国が拒否権をもち常任理事国制をとっていたが,ソ連が欠席のまま,朝鮮民主主義人民共和国を侵略者と決議した。
� 国連軍最高司令官として総指揮をとったマッカーサーは,共産圏封じ込め政策をとっていたアイゼンハウアー大統領に中国本土に対する爆撃と核兵器の使用を強く求め,解任された。
� 当時世界最強を誇っていた第7艦隊を朝鮮半島付近に派遣して朝鮮民主主義人民共和国に対する進攻を積極的におこなうとともに,朝鮮半島と台湾と日本を結んだ軍事的反共ラインの結成を強く促すこととなった。
問4 下線部(4)の「中国は義勇軍を派遣し」について,正しいものを選びなさい。ただし,正しいものがない場合は�を選びなさい。
� 中華人民共和国は国際連合の常任理事国となってはいたが外交政策では国際連合を相手にせず,もっぱらアジア・アフリカ諸国との関係を独自に切り開いていたため,アメリカ軍の進攻に対し兄弟国の支持を背景に大規模な義勇軍を投入した。
� このときの義勇軍の派遣により朝鮮民主主義人民共和国との関係は兄弟国として密接なものとなったが,大韓民国とは正式な国交関係のないまま現在にいたっている。
� 中華人民共和国が成立して国家主席に毛沢東が就任し,第1次5カ年計画を実施したばかりの時期にあたり,もっぱら国内の建設に忙しかったが,中国人民は祖国防衛の呼びかけにこたえて立ち上がった。
� 国防・工業・農業・科学技術の四っの現代化実現のために国内建設に邁進していたが,国連軍が国境まじかまで迫るという非常事態を受けて,多くの人民が義勇軍として立ち上がった。

【解答】 
〔設問�〕
A 安重根 B 朝鮮総督府 C 文化政治 D 創氏改名
E 金日成 F 李承晩 G 朴正熙 H 盧泰愚
〔設問�〕
問1 � 問2 � 問3 � 問4 �