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04学習院(経済)オリエント~共和制ローマ

2006年12月31日 | 復習用入試問題
以下の文章1~7には,それぞれ誤りの語句が1つずつある。誤りの語句,訂正し訂正した語句を記入しなさい。また文章1~7についての設問(1)~(7)の答えを,記入しなさい。

1.ティグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミア地方南部では,前三千年紀にシュメール人たちによってウル,ウルク,ラガシュなどの都市が建設されたこれらの都市では,粘土板に刻まれた楔形文字が用いられ、神殿や王宮の記録文書のほかに英雄マルドゥクを主人公とする叙事詩などの文学も著された。一方,ナイル川流域のエジプトでは,神聖文字・神官文字・民衆文字の3種の文字が円いられ,石造の神殿や慕に刻まれたほか,パピルスも筆記用箋として用いられていた。

設問(1)前三千年紀後半,メソポタミア地方の諸都市を征服して,最初の統一王朝を樹立した王の名前を答えなさい。

2.前1200年頃に地中海東部一帯の諸国家,諸都市を攻撃した「海の民」の活動以降,中王国エジプトやヒッタイトなど旧来の大勢力に替わる諸民族の独自の活動が目立つようになった。アラム人は,シリア地方にダマスクスなど多くの都市国家を築き,隊商貿易に従事し,彼らの言語は交易のための共通語としてオリエント各地に広まった。一方、フェニキア人は,現在のレバノン地方にいくつもの都市国家を建設し,地中海の海上交易に活躍した。彼らはアルファベットを考案し,諸民族に大きな影響を与えた。

設問(2)レバノン地方のフェニキア人都市ティルスが北アフリカに建設した都市の名前を答えなさい。

3.前8世紀にボリスを形成した古代ギリシア人は,共通の神々を信じ,多数のポリスの人々から崇拝される神殿や神域もあった。またギリシア人たちは,ポリス形成の頃から表音文字であるアルファベットを使用し始め,自分たちの生み出した文学作品を書き留めるようになった。まずホメロスやヘシオドスの叙事詩が,ついで女流詩人アナタレオンをはじめとする叙情詩人たちの作品が、記録された。前5~4世紀には,アテネがギリシア文化の中心となり.アイスキュロスをはじめとする悲劇詩人やアリストファネスなどの喜劇作家も出現し,彼らの作品も文字で記録された。

設問(3)古代ギリシア人の諸ボリスが特定の神殿と祭儀の管理・運営のために結成した組織を何と呼ぶかを答えなさい。

4.前4世紀,ペロポネソス戦争に敗れてギリシア世界の覇権を失ったアテネではソクラテスが青年たちに、害悪を与えるなどの理由から死刑を宣告されて自ら毒杯を仰いだ。彼の弟子プラトンは,亡き師を主要登場人物とする対話編を執筆し,アテネ郊外に学塾ムセイオンを創設してイデア論を基本とする哲学を説いた。その学塾で学んだアリストテレスは,自然学・形而上学・倫理学・政治学・文芸論などあらゆる学問領域にわたる多くの著作を著し,後の時代の学問に大きな影響を与えた。

設問(4)前4世紀に一時ギリシア諸ポリスの覇権を握ったテーベの指導者の一人の名前を答えなさい。

5.古代ローマ人は,実用的な分野において才能を発揮し,なかでも法律面では後世の模範となった。共和政初期,前5世紀には最初の成文法である十二表法が制定され,その後も執政官の一人を平民から選出することを定めたりリニウス・セクスティウス法や平民会決議が元老院の承認なしに国法となることを定めたカヌレイウス法など多くの法律が定められた。帝政期にも,皇帝たちの命令(勅法)や法学者たちの意見によって法律の整備が続けられ,後6世紀には皇帝ユスティニアヌスの命令で『ローマ法大全』が編纂された。

設問(5)後212年,ローマ帝国内の自由民のほぼ全員に,ローマ市民権を与える勅法を発布した皇帝の名前を答えなさい。

6.共和政末期から帝政成立期までは,古代ローマ人の文学であるラテン文学がもっとも繁栄した時代だった。法律家・政治家でもあったキケロは,演説や書簡のほか,哲学的な作品など多くの著作を残し,それらはラテン語散文の模範となった。有力政治家カエサルの著した『ガリア戦記』は,簡潔な名文として名高い。歴史家タキトゥスは,建国以来のローマの歴史を記述した。ヴェルギリウスはローマ建国の伝承を詠う叙事詩『アエネイス』を著し,ホラティウスやオヴィディウスも優れた詩人だった。

設問(6)共和政末期にアントニウスとオクタヴィアヌスと共に,第2回三頭政治を樹立した政治家の名前を答えなさい。

7.帝政成立期にローマの支配下にあったユダヤにおいて,総督ピラトゥスによって処刑されたイエスを救世主としてキリスト教が成立した。キリスト教では,ユダヤ教から受け継いだ『旧約聖書』と並んで,イエスの言行を伝える4福音書やペテロやパウロなど教父の言動の記述などから成る『新約聖書』が聖典とされた。初めはローマ帝国から迫害を受けていたキリスト教は,313年ミラノ勅令によって公認されると急速に勢力を伸ばし,4世紀末にはローマ帝国の国教となった。

設問(7)5世紀前半,ゲルマン民族の侵入で西ローマが混乱する中で,『神の国』を著し,カトリック教会の教義の確立に貢献した北アフリカ出身の神学者の名前を答えなさい。

正解
1.マルドゥク→ギルガメシュ 2.中王国→新王国 3.アナタレオン→サッフォー 
4.ムセイオン→アカデメイア 5.カヌレイウス法→ホルテンシウス法 6.タキトゥス→リヴィウス
7.教父→使徒
設問(1)サルゴン1世 設問(2)カルタゴ 設問(3)隣保同盟 問(4)エパメイノンダス 
設問(5)カラカラ帝 設問(6)レピドゥス 設問(7)アウグスティヌス

2学期期末試験 「6」問題と解答

2006年12月04日 | 復習用入試問題
『6』次の文を読んで,下線部(1)~(15)に対応する〔設問1〕~〔設問15〕に答えなさい。答えはそれぞれの語群の①~⑤のなかからもっとも適したものを選びなさい。専修

 北京の北方にある八達嶺は,万里の長城の観光スポットとなっている。レンガ造りの城壁が急な山の尾根をくねくねと走ってどこまでも続いている様は,実に壮観である。この長城は(1)明代に建造されたもので,有名な秦の始皇帝の築いたものは,それよりもさらに北を走っていた。
もともと中国における城壁は,(2)新石器時代後期から集落を壁で囲むことを起源とし,やがてそれが,(3)殷代になると一辺が1,000mを越えるものへと発展する。現在までのところ殷代のものとされる城壁のうち,都城クラスの規模をもつものは3か所発見されている。しかし周代の都城はいまだ発見されていない。
城壁で囲まれた都市がさらに発達するのは,各地に権力をもった君主が分立し互いに覇権を争った(4)春秋・戦国とよばれる時代である。多くの国が都城だけではなく,その勢力下の諸都市を,防衛のために城壁で囲むようになる。中国で都市のことを城市というのはこのためである。また城市のなかには内城と外城(これを郭という)という二重構造をもつものもあらわれる。その場合,内城が君主の宮殿などを囲み,郭が民の住居を囲んだものと考える見方もある。
とくに戦国時代になると,都市を城壁で囲むほかにも,各国間の境に,周囲を必ずしもすべて囲むわけではないが,城壁を築くようになる。これが長城とよばれるものである。これは各国間の戦争が激化するにともなって,都市だけではなくその国の領域を他の国の侵略から守ろうとして築かれたものと考えられる。そこに,それまでの都市と都市とを結んだ支配から,領域支配へという君主の支配の質的変化をみようとする見解もある。戦国時代の長城は,楚や(5)斉などに築かれたという記録が残されている。また,北方遊牧民との間に境を接している国には,遊牧民の侵入に備えるという別の意味をもつ長城が築かれた。(6)北京付近に都城をおいた国,(7)河北省から山西省に存在した国などは,こうした北方遊牧民から国を守るために長城を築いている。秦の始皇帝の万里の長城とは,これら戦国時代に北方遊牧民の侵入を防ぐために造られていた長城を連結,修繕したものであった。
なぜ秦は万里の長城を建造したのか。秦が中国を統一したころ,北方のモンゴル高原では,(8)匈奴が諸部族をまとめて強大な部族連合を形成し,戦国末期の戦乱に乗じて黄河を渡り,オルドス地方にまで南下していた。これに脅威を感じた(9)始皇帝は,将軍に匈奴をオルドスから追い払わせ,この地を奪回させるとともに,各国の長城をつなげて万里の長城を完成させた。
万里の長城建造の目的は匈奴の侵入に対する防衛であるが,ひとたびそれが完成すると,他者である遊牧民と区別される自己,すなわち農耕社会を統一した自己を認識することになる。そして農耕社会のさらなる拡大を目指して,秦は広東省・ヴェトナム北部への(10)南方遠征も開始することになる。
この自己意識の形成をさらに進める出来事がおこった。始皇帝の死後,中国が再び混乱しはじめると,北方では匈奴が,オルドスを再び支配下に入れるなど,その勢力を盛り返し,さらに周辺の遊牧民をも撃破してその支配地を拡大させた。匈奴は,高祖が漢の皇帝となったころには,漢とほぼ同じ広さを支配下においていたといわれる。その匈奴が,ついに漢と衝突した。この衝突は匈奴の勝利に終わり,以後長らく匈奴が漢よりも上位となる関係が続き,漢はこれまでよりも強く意識して,この他者と向き合わざるを得なくなった。
両者の関係が変わり,漢が始皇帝の時と同様な,あるいはより完成された自己意識をもつに至るのは,(11)武帝の(12)対匈奴戦争の開始からである。武帝の遠征によって,漢は匈奴を遠く北方へ追いやり,長城をまた両者を分かつ「壁」とした。こうして他者との「壁」が安定すると,漢は南方遠征によって華南の南越からヴェトナム北部までを,東方遠征によって(13)朝鮮半島北部までを,領有化することに成功し,農耕社会としての自己を拡大させることになる。武帝期に,より強く農耕社会としての自己を意識したということは,次の政策をみてもうかがえる。
戦国時代に進められていた治水・灌概裏業は,漢代になってからは武帝期になってはじめて大規模に展開された。この事業は黄河の氾濫への対応が主たる原因であるが,これへの農民の動員は,匈奴戦争への農民の従軍とあわせ,食糧支給による困窮した農民の救済という意味が込められていた。また匈奴戦争の結果,北方・西方での新たな農耕地の開拓が進められたのも,内地の貧しい農民の大規模な移住を実現するためであった。また当時の最先端技術である代田法という,連作障害の防止や農作業の効率化を目指した農法が考案されたのも武帝の死の前後であった。
このように武帝期はそれ以前と比べ,みずからが農耕社会であることをより強く意識していることがわかる。そのため万里の長城は,(14)匈奴に対する単なる防衛のための「壁」としての役割だけでなく,勧農政策の出現に最もよく反映されているように,秦の始皇帝時代にはじまり漢の武帝期に完成する,この時代特有の自己認識を導く表象でもあった。外部である他者の存在を通してはじめて歴史的に,みずからを統一国家として認識したのである。その後も万里の長城は,(15)北方遊牧民の侵人を防ぐために幾度となく改修・建造され続けたが,そのたびにこの認識が深められていった。

設問1〕下線部(1)について,下記の①~⑤のうち明代において南京から北京に遷都した皇帝が関わったものでないのはどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。
①モンゴル親征 ②南海遠征 ③内閣の設立 ④東廠の設置 ⑤海禁政策の開始

設問2〕下線部(2)について,下記の①~⑤のうち黄河流域,華北における新石器時代の文化に関係のないものはどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。
①龍山 ②半被 ③河姆渡 ④仰韶 ⑤城子崖

設問3〕下線部(3)について,下記の①~⑤のう殷墟から殷代のものとして出土していないものはどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。
①亀甲 ②子安貝 ③王墓 ④青銅器 ⑤鉄器

設問4〕下線部(4)について,下記の①~⑤のうち春秋の五覇とよばれる君主の名で誤っているものはどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。ただし,五覇をどの国にするかには諸説あるが,この語群の国名には誤りがないものとする。
①楚の荘公 ②秦の穆公 ③宋の嚢公 ④晋の文公 ⑤斉の桓公

設問5〕下線部(5)について,下記の①~⑤のうちこのときの斉の都はどれか。もっとも適したものを一つ選び、記号で答えなさい。
①耶鄲 ②臨淄 ③商丘 ④安邑 ⑤薊

設問6〕下線部(6)について,下記の①~⑤のうち戦国時代に現在の北京付近に都をおいた国はどれか。もっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①呉 ②越 ③燕 ④鄭 ⑤號

設問7〕下線部(7)について,戦国時代に,現在の山西省から河北省にかけて存在したこの国は,北方遊牧民との戦争などを通して遊牧民の戦法を学び,それを武霊王のとき自国の墳制の改革に取り入れ,群雄が割拠する戦国の世に強国へと成長していった。その国は何か。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを1つ選び,記号で答えなさい。
①晋 ②魏 ③韓 ④趙 ⑤秦

設問8〕下線部(8)について,秦が中国を統一したころの町奴の単一fはだれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを1つ選び,記号で答えなさい。
①頭曼 ②冒頓 ③軍臣 ④呼韓邪 ⑤狐鹿姑

設問9〕下線部(9)について,始皇帝と同時代でない者はだれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①韓非 ②李斯 ③蒙恬 ④劉邦 ⑤蘇秦

設問10〕下線部⑩について,秦の始皇帝による南方遠征によっての華南の地と思われるところに新たに3郡が設置された。そのうちの1つはどれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①日南郡 ②南海郡 ③交趾郡 ④九真郡 ⑤欝林郡

設問11〕下線部(ll)について,下記の①~⑤のうち武帝の政策でないものはどれか。もっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①塩鉄会議の開催 ②五銖銭の鋳造 ③郷挙里選の制定 ④均輸・平準の法の制定 ⑤塩・鉄の専売

設問12〕下線部(12)について,下記の①~⑤のうち武帝時代の旬奴遠征と関係のない人物はどれか。もっとも適したものを一一つ選び,記号で答えなさい。
①張騫 ②衛青 ③霍去病 ④班超 ⑤李広利

設問13〕下線部(13)について,このときに設置された郡でないものはどれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。
①楽浪郡 ②真番郡 ③武威郡 ④臨屯郡 ⑤玄菟郡

設問14〕下線部(14)について,匈奴はその後,前1世紀なかばに内紛により二つに分裂した。分裂後の前36年に,そのうちの一つが前漢などの勢力によって滅ぼされた。それはどれか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを一つ選び,記号で答えなさい。

① 東匈奴 ②西匈奴 ③南匈奴 ④北匈奴 ⑤東胡

設問15〕下線部(15)について,6世紀なかばに建国し,北アジアの草原地帯から中央アジアのオアシス地帯を支配し,隋唐時代の東アジア世界にも大きな影響を与えた遊牧民はなにか。下記の①~⑤のうちからもっとも適したものを1つ選び,記号で答えなさい。
①柔然 ②エフタル ③ウイグル ④突厥 ⑤鮮卑

正解
53512 34152 14324


2学期期末試験 「5」問題と解答

2006年12月04日 | 復習用入試問題
『5』次の文章を読み,設問に答えよ。

春秋戦国時代の混乱を経て中国を統一したのが秦である。秦は度量衡,文字,貨幣を統一するなど,中央集権を確立する政策を行ったが,地方統治に関しても周代の封建制を廃して,全国に(1)を実施した。秦王は,こうした中央集権化を通じて絶対的な支配をめざし,それにふさわしい称号を定め,死後(2)と称された。しかし急激な改革と度重なる外征,長城の修築に代表される土木工事による負担が相まって,(2)の死後,各地に卿農民反乱が起こり,秦は滅亡する。その後,楚の名門出身の(3)と劉邦が対立したが,劉邦が勝利をおさめ,諸王の盟主として漢王朝を開いた。したがって漢の初期においては,諸王の独立性が強く,中央集権を弱めた郡国制がとられた。その後漢王朝が諸王国の領土を削り,中央集権化を強めたため,紀元前154年(4)の乱が起こった。この乱の平定後,(5)の時代には実費Lの中央集権制が確立した。
(5)は,領土の拡大をはかり,大規模な遠征に着手した。まず北方の勾奴を攻撃するとともに,(6)を大月氏に派遣し町奴の挟み撃ちをはかった。東北方面では朝鮮に出兵し,(b)北部に4郡を置き,南方ではヴェトナム中部までをおさえた。
こうした度重なる遠征や中央集権化に伴う賞賛の増大によって.漢は財政難に苦しむことになる。(C)専売制や,貢納制の合理化と物価調節を目的とした(7)法、平準法は財政難解決策であった。しかし,重税による社会不安,地方豪族の勃興,宮廷内の権力争いの激化等によって,漢王朝は弱体化し,ついに外戚の(8)が国を奪って新を樹立した。しかし新も農民による(9)の乱や地方豪族の反乱により15年間で倒れた。この混乱をおさめて後漢を立てたのが(10)である。

設問〕1.空所1~10を埋めるのに最も適切な語句を下記の語群から選び,記号で答えよ。
ア、 始皇帝 イ、煬帝 ウ、三藩 エ、黄巾 オ、王莽 カ、項羽 キ、武帝 ク、八王 
ケ、郡県制 コ、呉楚七国 サ、甘英 シ、均田 ス、府兵制 セ、班固 ソ、赤眉 タ、光武帝チ、太武帝 ツ、張騫 テ、郷里の制 ト、均輸 
2、下線部分(a)について,秦末の代表的な農民反乱で「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉を残した人物たちの反乱を何というか。
3.下線部分(b)について,郡名を1つあげよ。
4.下線部分(C)について,この専売の対象となった物品名を3つあげよ。

正解
ケアキコキツトオソタ 陳勝・呉広の乱 楽浪郡 塩・鉄・酒


2学期期末試験 「4」問題と解答

2006年12月04日 | 復習用入試問題
『4』次の文章を読んで空欄に最も適切な語句を記入し,下線部についてあとの問いに答えよ。立命館

紀元前25年に漢を再興して,後漢の創始者となった光武帝劉秀は,(1)前漢第6代皇帝【A】の孫とされ,南陽(現在の河南・湖北省にまたがる地域)の豪族の出身であった。彼ら劉一族は挙兵にあたり豪族間の結びつきを利用した。光武帝は、王朝を建国すると,宰相とは別に(2)皇帝直属の秘書機関を利用して権力強化を図ったが,他方で儒教に基づく礼制の整備に努めたので,後漢帝国は豪族の連合政権であるとともに,儒教国家の様相を呈した。彼の敷いた路線は,第2代明帝,第3代章帝のころまで比較的安定していたが,1世紀末に幼少の(3)第4代和帝が即位すると変調をきたすようになる。幼少の皇帝に代わり政治を総撹する太后とその一族である外戚と,皇帝の手足となって外戚の打倒に活躍した宦官との権力闘争が激化するのである。
その一方,地方の豪族層は儒教的教養を身につけ,おもに郡太守が推薦する方法の官吏登用法【B】によって中央政界に進出し始めた。彼ら豪族層は,郷里で大土地所有に努め,零細農民を圧迫する者もいれば,貧窮した人民を救済し地域のリーダーとして名声を博する者もいた。後漢末になるとそうした名声が【C】で重視され,その結果人物評価が流行するようになった。後年,魏王朝の事実上の創始者として武帝の諡号をおくられた風雲児【D】も,若い頃,「人物評価の達人」許劭のもとを.訪れ,彼を脅迫して「清平の姦賊,乱世の英雄」(「治世び)能臣,乱世の姦雄」とする史料もある)という,ほめているのか,けなしているのか分からない評をもらい,有り難がって大喜びしたぐらいである。
こうした風潮の中で,名声を重んじるエリート達と,名声の代わりに利権獲得を目指す人々との対立が深まり,首都では宦官の腐敗に反対する名士達が活発に政治活動を行った。しかし,時の皇帝桓帝・霊帝は,宦官側に立ち166年と169年の二度にわたって名士らを弾圧し,後漢政治は行き詰まりを露呈してしまった。
後漢王朝の危機は地方でも進行していた。2世紀以後,羌族の反乱や(4)天災が相次ぎ,農民の没落流亡が加速される。拠り所を失った民衆の一部は,(5)張角の組織した宗教教団に吸引され,184年,王朝打倒の武力蜂起を起こしたのである。これをきっかけに地方長官達の軍閥・自立化が進み,中国は統一帝国の崩壊と分裂の時代へと急転していくのである。

(1)前154年,【A】の治世に内乱が勃発し,その鎮圧の結果,前漢王朝が事実上の郡県制に転換するきっかけとなったが,これに対して,前漢建国時に高祖が採用した地方統治体制を何と呼ぶか。

(2)この機関は時代が降るとともに大いに膨張・発展し,唐代になると中央政府の三省の一角を占めるようになる。唐代では詔勅を施行する政務行政機関となったこの官庁を何と呼ぶか。

(3)(a)和帯のころ西域都護に任命され,五十余国を服属させた武将は誰か。
(b)また,(a)の兄で「両都賦」で前漢と後漢を比較して後漢の優位性を説き,著名な歴史家でもある人物は誰か。

(4)このころ地震が多発し,国家はその対応に追われたが,地震計を発況して甘粛で起こった地震を実際に探知したとされる学者は誰か。

(5)張角と同時期に漢中(陝西省南部)で独立王国を築き,【C】に討伐された宗教教団がある。
(a)この宗教教団を何というか。
(b)その宗教教団の創始者を挙げよ。

正解
景帝 郷挙里選 曹操 郡国制 尚書省 班超 班固 張衡 五斗米道 張陵

2学期期末試験 「3」問題と解答

2006年12月04日 | 復習用入試問題
『3』中国古代史に関する下記の問に答えなさい。仏教大

中国では紀元前5000年ごろから,初期の農耕文化が現れた。(1)華北では黄河中流・下流の黄土地帯に,アワやキビが栽培され村落が形成された。いわゆる黄河文明である,(2)近年,長江中下流域に.稲作文化の存在したことが発見され,稲の起源・伝播の問題があらためて議論されている。紀元前1600~1500年ごろ,華北に確認できる最古の王朝殷が出現した。この王朝は甲骨文字,青銅器などで知られる。殷を滅ぼした周は約800年にわたって存続したが,遷都した前8世紀を境に西周と東周に区別され,東周はさらに,(3)春秋時代と戦国時代に区分される。春秋時代は中原の王室の権威を認める諸侯が全国で200を越えた時代であり,このうちとくに有力な諸侯を覇者と称した。戦国時代は周の権威が衰え,各地の有力諸侯はそれぞれ王と称し,自国の勢力を養って争った。激しい興亡が繰り返された結果(4)有力な7国が残り,さらに(5)西方に根拠地のあった秦か中国の統一を果たした。(6)春秋戦国時代は社会が激しく.変動!新しく形作られた社会は秦以降の帝政の前提となった。また(7)激動の時代にふさわしく多くの思想家を拠出した時代でもあった。

問1.下縁部①について,西安市東部の村落遺跡として有名なものはどれか。
1.半坡遺跡 2.河姆渡遺跡 3.殷墟 4,城子崖遺跡

問2.下線部(2)ついて,銭塘江南岸の農耕遺跡として有名なものはどれか。
1.半坡遺跡 2.河姆渡遺跡 3.殷墟 4,城子崖遺跡

問3.下線部(3)について,春秋時代と戦国時代は何で区分するか。
1.晋の分裂 2.斉の分裂 3.楚の分裂 4.呉の分裂

問4、下線部(4)について,戦国七雄として適切なものはどれか。
1. 楚 2.斉 3.越 4.趙

問5.下縁部(5)について,秦の根拠地はどこか。
1.河南省 2.四川省 3.陝西省 4.山東省

問6.下線部(6)について,社会変動の現象として不適切なものはどれか。
1.鉄製農具が出現し,農業生産力が高まった。 
2.射撃制(フユーダリズム)的社会が形成された。
3.青銅貨幣が理れ,貨幣経済が進展した。
4.氏族制的統制が緩んだ。

問7.下線部(7)について,以下の文章は春秋戦国時代諸子百家から著名な一節を抜き出したものである。それぞれ〔語群1〕からは学派(○○家)を,〔語群2〕からは思想家を選んで答えよ。
1.子曰く,吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って,矩を楡えず。

2、道与常に為す無くして,而轟為さざるは無し。侯王若し能くこれを守らば,万物将に自ら化せんとす。

3.馬は,形に命ずる所以なり。白は,色に命ずる所以なり。色に命ずるは,形に命ずるに非ざるなり。故に白馬は馬に非ずと曰う。

4.昔の聖王,禺・湯・文ち承は,天下の百姓を兼愛し,率いて以て天を尊び鬼に事う。其の人を利すること多く,故に天これを福とし,立てて天子と為さしむ。

5.夫れ法を以て刑を行いて,君これがために流涕す。此鯉以て仁を効すも,以て治を為すに非ざるなり。夫れ泣を垂れて刑を欲せざるは仁なり。然れども刑せざるべからざるは法なり。

〔語群1学派〕0.縦横 1.儒 2.陰陽 3.名 4.墨 5.法 6.兵 7.道
〔語群2思想家〕0.老子 1.鄒衍 2.孔子 3.公孫龍 4.孫子 5.蘇秦 6.韓非 7墨子

正解
1.2.1.3.3.2. 1・2 7・0 3・3 4・7 5・6

2学期期末試験 「2」問題と解答

2006年12月04日 | 復習用入試問題
『2』次の文章を読み,下記の設問に答えよ。名城大

インドではaインダス川流域に都市文明が栄えていたがそれが衰えると,アーリヤ人が侵入した。彼らは紀元前1000年ごろにガンジス川流域へ進出し,都市国家を形成した。そこでは,【1】にもとづいて宗教をつかさどるバラモン(司祭者)が最高位につき,【2】(武士・貴族)とともに,【3】(庶民)と最下級の【4】(隷属民)を支配する身分制度によって,社会秩序が維持された。やがて,【2】や【3】が力を伸ばすと,彼らのための新しい宗教として,b仏教とジャイナ教が成立した。紀元前5世紀のなかごろにガンジス川流域を統一したマガダ国に保護されて,仏教は北インドに広まった。その後,紀元前4世紀にマガダ国の【5】を倒した【6】は,西はアフガニスタンから東はベンガル湾にいたるインド最初の大帝国を建設した。【6】の最盛期を実現したCアショーカ王は仏教を国家の基本精神とし,その保護に努めた。しかし,王の死後,【6】は衰え,インドは分裂をつづけることとなった。
d1世紀にアフガニスタンに成立した【7】は,カニシカ王の時代に最盛期をむかえ,西北インドを支配した。仏教はカニシカ王の保護のもと,西北インドを中心におおいに栄えた。南インドでは,デカンー帯を支配した【8】がローマ帝国や東南アジア諸国との交易で繁栄し,【7】と対抗する勢力を維持した。
3世紀にはいると【7】は衰え,北インドはいくつかの小国に分裂したが,4世紀に【9】によって統一された。この時代にはヒンズー教が信奉され,仏教をしのいでさかんになった。【9】の統一は5世紀後半以降,【10】の侵入によって崩壊した。7世紀の初め北インドは【11】によって統一される汎それも短命に終わり,以後約5世紀の間,分裂の時代がつづいた。この間,ヒンズー教はいつそうさかんとなったが,仏教は衰退の運命をたどった。

問1 【1】~【4】にあてはまる語句を下記のなかからえらび,その記号を書きなさい。
ア.シュードラ イ.クシャトリヤ ウ.ジャーティ エ.ヴェーダ オ.ヴァルナ カ.ヴァイシャ

問2 【5】~【9】【11】にあてはまる語句を下記のなかからえらびその記号を書きなさい。
ア. クシャーナ(クシャン)朝 イ.グプタ朝 ウ.ナンダ朝 工.バーンディヤ朝 オ.マウリや朝
カ.ヴァルダナ朝 キ.サータヴァ一ハナ朝 ク.チョーラ朝

問3 【10】にあてはまる語句を下記のなかからえらび,その記号を書きなさい。
ア.バクトリア イ.エフタル ウ.サカ族 エ.大月氏 オ.パルティア

問4 下線部aについて。インダス文明に関する次の説明文のうち,誤っているものをすべてえらび,その記号を書きなさい。誤りがなければ記号オを書きなさい。
ア.インダス文明は,パンジャーブ地方のモヘンジョ=ダロとシンド地方のハラッパーの2大遺跡に代表される。
イ.インダス文明においては一種の象形文字が使用された。
ウ.インダス文明においては武器などに鉄器が使用された。
エ.インダス文明のもとで住民はすでに綿織物をつくっていた。

問5 下腺部bについて。仏教とジャイナ教に関する次の説明文のうち,誤っているものをすべてえらび,その記号を書きなさい。誤りがなければ記号オを書きなさい。
ア.仏教はガウタマ=シッダールタ,ジャイナ教はヴァルダマーナによって,ひらかれた。
イ.ウパニシャッド哲学は輪廻からの解脱を説き,仏教に影響を与えた。
ウ.仏教は,徹底した薫常規にたち,人は無我の境地にはいることによって,生・老・病・死の苦しみから逃れられると説いた。
エ.ジャイナ教は,解脱のための激しい苦行と極端な不殺生を要求した。

問6 下線部cについて。アショーカ王に関する次の説明文のうち,誤っているものをすべてえらびその記号を書きなさい。誤りがなければオを書きなさい。
ア.王の政治の精神は,磨崖碑や石柱碑の勅令によって知られる。
イ.王は仏典結集をおこなった。
ウ.王の時代にはじめて仏像がつくられた。
エ.王はセイロン島へ宣教師を派遣した。

問7 下線部dについて。この王朝時代の仏教に関する次の説明文のうち,誤っているものをすべてえらび,その記号を書きなさい。誤りがなければオを書きなさい。
ア.この時代の仏教は大乗仏教とよばれ,菩薩信仰にもとづいて万人の救済を目的としたことに特徴がある。
イ.中国の僧法顕がインドをおとずれたのは,この時代である。
ウ.ナーガールジュナ(竜柑)は,この時代の仏教を理論化した学者である。
エ.この時代の仏教美術は,首都パータリプトラのあった地方の名にちなんでガンダーラ美術とよばれる。

正解
エイカア ウオアキイカ イ ア・ウ オウ イ・エ

2学期期末試験 「1」問題と解答

2006年12月04日 | 復習用入試問題
『1』次の問題は古代インド史に関するものである。次の文章ⅠからⅢを読んで以下の設問に答えなさい。神奈川大

Ⅰ 「1」は,マガダ国のナンダ朝を滅ぼして,マウリヤ朝を興した。彼は,西北インドから東はベンガルに至る諸国を征服し,インド最初の統一国家を形成した。その都,「2」は,花の都と呼ばれた。
この王朝は,アショカ王の時代に全盛期を迎え,「3」王国を滅ぼして,デカン高原のサータヴァ一ハナ朝を朝貢させ,南端を除く全インドを統一した。しかし彼の死後,マウリヤ朝の勢力は急速に衰え,これに乗じて「4」王国は,西北インドに領土を広げた。これによってギリシア文化がインドに流入し,後のガンダーラ文化の基礎が築かれた。
マウリヤ朝が滅んだのち,南インドでは多くの国が興亡したが,その中でサ一夕ヴァ一ハナ朝が勢力をふるった。この国は,ドラヴィダ人がデカン高原を中心に興したもので,一時は北インドも支配した。この王朝の下で,インド最大の仏教学者といわれる「5」が生れたが,彼は後世,(イ)大乗仏教の祖と仰がれている。
問1. Ⅰの文章中の空欄(1~5)に,最も適当なものを次の語群からそれぞれ1つ選び,その記号を答えなさい。
a.カリンガ b.ナーガールジュナ c.プルシャプラ d.チョーラ e.チャンドラグプタ f.クシナガラg.大月氏 h.ブッダガヤ i.バクトリア j.パータリプトラ k.達磨 l.チャンドラグプタ1世  m.サールナート n.鳩摩羅什 o.バーンディヤ

問2. 文中の下線部(イ)に関して,誤っているものを次の中から1つ選び, その記号を答えなさい。
a.大乗仏教がインド史ヒで最も盛んであったのは,アショカ王からサータヴァ一ハナ朝の初期の時代であった。
b.大乗仏教は,中央アジアの諸都市から中国,朝鮮,日本に伝えられたので,北伝仏教ともいう。
c.大乗仏教の原典は,古代インドの言語であるサンスクリットで記されている。
d.大乗仏教に対する小乗仏教とは,仏教の革新者から見た既成仏教に対する蔑称である。
e.大乗仏教とは,戒律にとらわれず,菩薩信仰を中心に広く衆生救済をはかろうとする教えである。

Ⅱ. 「6」から独立したクシャーナ朝は,インダス川上流域からガンジス川上流域に至る地域を支配して,西北インドを中心に国を興した。特にカニシカ王のとき,その最盛期を迎えた。この時代,この王朝は西はローマ,東は中国とも交渉をもち,首都「7」は,東西交渉の要地としても繁栄した。カニシカ王は,仏教に篤く帰依し,(ロ)仏典結集を行なってその保護に努めたので.仏教は再び西北インドを中心に栄え,その結果仏教の経典の多くがこの頃成立した。しかし王の死後,この国は衰退して3世紀には「8」の侵入をうけ,中央アジアの領土をうばわれて事実上ほろんだ。
問3. Ⅱの文章中の空欄(6~8)に,最も適当なものを次の語群からそれぞれ1つ選び, その記号を答えなさい。
a.バ一夕リプトラ b.烏孫 c.ササン朝ペルシア d.サールナート e.プルシャプラ f.突廠 
g.大月氏 h.エフタル i.ガンダーラ

問4. 文中の下線部(ロ)に関して,誤っているものを次の中から1つ選び, その記号を答えなさい。
a.仏典結集とは,シャカの教えを確定し教団を統一するため,代表者を集め経典を整理編集したことをいう。
b.第1回の仏典結集は,シャカの入滅後まもなく行なわれたといわれている。
c.第2回の仏典結集は,シャカの入滅後100年程のち行われたといわれている。
d.第3回の仏典結集は,アショーカ王の時代に行なわれたので,紀元前1世紀の頃である。
e.第4回の仏典結集は,カニシカ王の時代に行なわれたので,紀元後2世紀の頃である。

Ⅲ. 4世紀に入ると,ガンジス川中流域のマガタ地方に「9」を都としてグプタ朝が興り,第3代のチャンドラグプタ2世のとき,北インドの大部分を統一して全盛期を迎えた。しかし5世紀の中頃,中央アジアの遊牧民「10」の侵入を受けてからその領土をせばめ,6世紀の中頃に滅んだ。
このグプタ朝ののち,北インドにヴァルダナ朝が興こり,ハルシャ=ヴァルダナ王のとき,南部を除く全インドの統一に成功した。彼は,アショカ王以来の名君ともいわれるが,この王の死後,ヴァルダナ朝は分裂し急速に衰えた。
グブタ朝の時代には,(ハ)古代文化の復興の気運がおこり,仏教はそのためヒンドゥー教に圧倒され振わなかったが,まだ仏教は多くの信徒により研究が行なわれていた。東晋の僧「11」がインドに来訪したのもこのグプタ朝の時代であり,唐の僧で『大唐西域記』を著わした「12」が学んだのもヴァルダナ朝時代のナーランダー僧院であった。

問5. Ⅲの文章中の空欄(9~12)に,最も適当なものを次の語群からそれぞれ1つ選び, その記号を答えなさい。
a.法顕 b.義浄 c.エフタル d.仏図澄 e.プルシャプラ f.トハラ人 g.慧遠 h.ガンダーラ 
i.デリー j.パータリプトラ k.ソグド人 l.玄奘

問6. 文中の下線部(ハ)に関して,この文化を代表する人物にカーリダーサがいる。次の中から彼の代表作品を1つ選び, その記号を答えなさい。
a.『パンチャタントラ』 b.『ラーマーヤナ』 c.『ジャータカ』 d.『ルバイヤート』
e.『シャクンタラー』

正解
ejaibagecdjcale