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EU(ヨーロッパ統合まで)

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 ヨーロッパ統合の起源は,古く中世に遡ることができるが,統合が具体的な政治運動に発展したのは第一次大戦後クーデンホフ=カレルギーが「パン=ヨーロッパ運動」を呼びかけてからである。この運動は第二次大戦で頓挫するが,戦後イギリス元首相【チャーチル】がいち早く「ヨ一ロッパ合衆国」を提唱している。大戦による荒廃,東西対立の激化の中で米ソ二大勢力に対抗できるヨーロッパ再建の気運が高まった。ヨーロッパ諸国の協力の噛矢となったのは【マーシャル=プラン】(【ヨーロッパ経済復興援助計画】)受け入れのために,1948年西ヨーロッパ17カ国で結成した【OECD】である。さらに,1951年【シューマン】の提唱に基づいて【ECSC】(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)が発足したのに続いて【A】が6カ国の間で調印され,1958年EEC(ヨーロッパ経済共同体)とE【URATOM】(ヨーロッパ原子力共同体)が発足した。
 【EEC】はまず共通関税をもつ関税同盟を1968年に完成させ,翌年には共通農業市場も確立し,12年の過渡期を乗り切った。これと相前後として【1967】年には【EEC】,【ECSC】,【EURATOM】がブリュッセル機関融合条約によって結合され,全体が【EC】と総称されることとなった。1969年ハーグ首脳会議は完成(共同農業市場の融資方式の決定),拡大(イギリスなどの加盟),深化(経済・通貨同盟の結成)を掲げたが,このうち実現をみたのは【イギリス】,デンマーク,アイルランドの加盟のみである。イギリスは【EFTA】を結成してこれに対抗しようとしたが,【1973】年ついに加盟することになったのである。イギリスの加盟が【ド=ゴール】が率いた【フランス】によって二度にわたって拒否されたことは,有名である。これを第一次拡大と呼ぶが,1970年代に入ってドルの金交換を公式に停止した【ニクソン=ショック】にともなう国際通貨危機,【1973】年と【79】年に起きた二度の【オイルショック】などが発生すると,失業とインフレが共存する【スタグフレーション】に多くの加盟国が陥った。そのため,統合への動きも停滞してしまった。これをユーロペシミズムと呼ぶが,1980年代にいたってやっとペシミズムから脱することになる。
 ペシミズム脱出のきっかけになったのは,1979年のEMS(ヨーロッパ通貨制度)の発足である。その中核となる通貨は【ECU】であったが,実質的には西ドイツマルクが基軸通貨の役割を果たして,域内貿易の拡大と経済成長に寄与した。ただし,1993年には変動幅を拡大したため,EMSは共同変動制の実を失っている。
 つぎに,加盟国についてみると,第二次拡大(1981年),第三次拡大(1986年)ではそれぞれ1カ国,2カ国の加盟をえた。1990年のドイツ統一,旧ソ連の崩壊後1991年には,さらに東欧3カ国のちに合計6カ国と連合協定(ヨーロッパ協定)を結ぶとともに,EAFTとも翌年ヨーロッパ経済領域協定を締結したうえ,1995年には第四次拡大でこの中の3カ国の加盟を承認した。こうした加盟国の拡大や連合協定によって,その領域はヨーロッパの主要地域をカバーすることになった。
 大きな進展がみられたのは,市場統合の面である。1985年に理事会は【域内市場白書】を採択し,域内市場統合に向けて本格的取り組みをスタートさせた。これを受けてチェッキー二報告(1987年発効)は1992年末までに物,人,サービス,資本の自由市場を実現するとし,これに従って市場の統合が実現され,単一市場がスタートした,また,【1993】年までに批准され,発効した【マーストリスト条約】は,EMU(ヨーロッパ通貨同盟),共通外交・安全保障政策の樹立を目指すEPU(ヨーロッパ政治統合),司法・内務の分野における政府間協力を三本柱とする【EU】(ヨーロッパ連合)を創設するとしていた。このうち,EMUは1998年の段階で11カ国が参加を表明し,その中核となるヨーロッパ中央銀行(ECB)も同年6月に発足した。さらに,【1999】年には新しい単一通貨に全面的に移行することになっている。


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