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東西の歴史家

2013年09月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 ギリシアの歴史家【ヘロドトス】は【前5】世紀の【ペルシア戦争】を【物語的】に記述しました。同じ前5世紀後半には【ツゥキジデス】がおり、【ペロポネソス戦争】を【科学的】視点で記述しました。
 一方、中国では【前漢武帝】の時に【司馬遷】が『【史記】』を【紀伝体】で記述しています。この紀伝体というのは、皇帝や英雄がどのような業績を残したかを記述することで歴史を著そうとするもので、以後の中国の歴史書のスタイルになりました。
 【後漢】には英雄【班超の兄】である【班固】が『【漢書】』を著しました。前の王朝の歴史を次の王朝の歴史家が書くというスタイルがその後も引き継がれていきます。なお、北宋の【司馬光】は『【資治通鑑】』を書きましたが、司馬光は【編年体】というスタイルでこの書物を書き表しました。編年体という書き方は時代順、年代順に歴史を表す方法です。
 最後にローマの歴史家には、前3世紀『【政体循環史観】』を書いた【ポリビオス】、『【ガリア戦記】』の【カエサル】、オクタヴィアヌスの友人で『【ローマ建国史】』を書いた【リヴィウス】、ギリシア人で『【対比列伝】』を書いてギリシアとローマの英雄を比較した【プルタルコス】、『【ゲルマニア】』でゲルマン人の記録を残した【タキトゥス】などがいます。リヴィウス、プルタルコス、タキトゥスなどは【1】世紀の【ラテン文芸の時代】を代表する歴史家です。

後漢の文化

2013年09月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 後漢の文化においてもっとも重視すべきは経学である。これは儒教のテキストであるが、後漢でもっとも盛んであった。武帝の時、董中舒の献策で『周易』『尚書』『詩』『春秋公羊伝』『儀礼』について五経博士を置き、儒学を官学化したが、民間に定着したのは王莽が儒教を国教化したためであった。さらに後漢では明帝・章帝が儒学を官吏登用の1つの基準としたため、経学が最盛期を迎えた。各地で私塾が開かれ、数千人の弟子が集団生活をしながら学んだとされる。このような風潮の中で、後漢末期に訓古学的アプローチに基づき、馬融・鄭玄により諸経書の統一的解釈が与えられた。また許慎の『説文解字』により漢字(小テン)の書体が整理された。
後漢の発明でもっとも有名なのが紙の発明であろう。宦官の蔡倫によるとされていたが現在では疑問視されている。しかし紙の発明は以後の書道や絵画の発達を促した。また万能の発明家としては張衡がいる。彼は天球儀や地震計を発明した天文学者であり政治家としても成功を修めている。
他にも製鉄技術では水力を利用しピストンを動かして送風するフイゴが発明されたり、一連の工程を備えた工場が建設されている。また磁石が南北を示すことも確認されており、羅針盤の発明の基礎となった。

匈奴

2013年09月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【前6】世紀に【黒海北岸】に現れた【スキタイ】人は、羊の群れの中で生活する方法を編み出しました。【騎馬遊牧文明】の成立です。彼らは【黄金のくし(櫛)】や馬具などを残しており、【黄金細工】に長けていたことがわかっています。また、彼らについて、【前5】世紀アテネの歴史家【ヘロドトス】が「【歴史】」の中で記述していることは有名です。
 このスキタイ人の新しい文明を、はるか東方の【モンゴル高原】で受け継いだのが【匈奴】でした。匈奴は前4世紀頃からモンゴル高原で台頭し、【前3】世紀末に登場した【冒頓単于】によって、【モンゴル高原】と【西域】のオアシス都市地帯とを合わせて支配する大帝国に成長しました。単于というのは匈奴などが用いた彼らの王の称号です。
 彼らが北方から襲撃してくることに対して、戦国時代の中国人たちは苦しみました。そこで北京周辺にあった【燕】や中国北部にあった【趙】、西北部の【秦】は、匈奴と領土が接していたため、各国それぞれに長城を建設しました。秦の始皇帝は【前221】年い中国を統一すると、【蒙恬】を【オルドス】地方に派遣してその地の匈奴を追い払い、すぐに戦国時代からあった長城を修復延長して、いわゆる【万里の長城】を建設しました。しかし、その建設の負担から秦は完成直後に滅亡してしまいます。
 【前202】年中国を再統一した【高祖劉邦】は、北方の【冒頓単于】に対して自ら遠征軍を率いて挑みました。しかし、前200年【白登山の戦い】で殲滅され、以後、漢は匈奴に従属する立場を余儀なくされます。
 【前141】年に即位した前漢【武帝】は、匈奴に対して初めて本格的な戦争を挑んだ皇帝でした。【衛青】をオルドス地方に派遣、さらに【霍去病】を西域に派遣し、さらに万里の長城の建設を行ないました。
 しかし、この50年間におよぶ漢と匈奴の戦争は、両国を疲弊させました。漢は財政難におちいり、豪族の台頭を許したために、8年【王莽】によって国を奪われてしまいました。一方、匈奴は前50年頃に東のモンゴル高原と、西域とに分裂し、遊牧地帯のモンゴル高原に【東匈奴】が成立。シルクロードを支配するオアシス地帯には【西匈奴】が成立します。後に【馬致遠】が『【漢宮秋】』で【王昭君】の物語を書いていますが、これは東匈奴の【呼韓乎単于】に嫁いだ王昭君の物語を題材とした【元曲】です。
 中国で後漢が成立すると、後漢と東匈奴は同盟して【西匈奴】を滅ぼしました。その後の西域はオアシス都市国家が点在することになりましたが、【100】年頃【和帝】に派遣された【班超】が【西域都護】として、一時的に西域を支配しています。しかし、班超がなくなると、西域はふたたびオアシス国家が点在する状態に戻りました。
 一方、東匈奴は南北に分裂し、【南匈奴】は後漢と同盟して【北匈奴】を攻撃しました。その結果、【北匈奴】は西走し、4世紀になっって、遠く【黒海北岸】や【ハンガリー高原】に【フン族】として出現したのです。このフン族はゲルマン民族の大移動を引き起こし、【375】年に【西ゴート】族が移動を開始。376年に【ドナウ】川を渡って【ローマ帝国】領内に侵入しました。
 南匈奴は、後漢末の混乱期に乗じて【華北】に移住しました。彼らの多くは【傭兵】として雇われるケースが多かったようです。彼らが華北に移住したことで、モンゴル高原には匈奴の勢力が消滅したことになり、これで匈奴の歴史が終焉しました。

匈奴の分裂

2013年09月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 匈奴は【冒頓単于】の下、【モンゴル高原】と【西域】を支配して全盛期を迎えた。その後、匈奴は前漢に対して圧倒的優位を保っていた。しかし、前漢【武帝】の登場で、前漢が【衛青】を【オルドス地方】に、【蒙恬】を【西域】(東トルキスタン)に遠征を行った。匈奴と前漢の約50年間の抗争が始まった。
 この長期の抗争の結果、漢は財政難となり、大土地所有が拡大して【新】の【王莽】に取って代わられた。一方、匈奴も内紛が発生し、複数の【単于】が即位する混乱を招いた。その結果、前54年モンゴル高原を支配する【東匈奴】と西域を支配する【西匈奴】に分裂。東匈奴の【呼韓乎単于】は漢と結んで【西匈奴】を攻撃し、西匈奴を崩壊させた。そのため西域の地域は政治的に空白状態になった。
 その後、東匈奴は南北に分裂する。これは安定期に入った後漢に対し、匈奴がどう対応するかを巡って内紛した結果である。後漢との隷属的友好関係を認める匈奴東の一部の人々が【南匈奴】を建設した。南匈奴は後漢の庇護を受けるようになる。一方、【北匈奴】は後漢と南匈奴に押され、モンゴル高原を捨てて「西走」し、【4】世紀【ハンガリー】の地で【フン族】として出現する。この間、後漢【和帝】の時、西域は【班超】が【西域都護】として支配した。
 その後、南匈奴は【】後漢末の混乱に乗じて華北に移住した。彼らは戦乱が続く華北において【傭兵】として生活した。しかし、その地位は低く、【西晋】が中国を統一すると地位の改善を求めて【永嘉の乱】を起こしたが鎮圧された。

前漢武帝の国内政策

2013年09月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 武帝は官僚を採用する方法を確立しました。武帝がとった官吏登用法を【郷挙里選】といいます。これは、地方の大土地所有者である【豪族】たちが互選(お互いに自分たちの息子を推薦しあうこと)によって地方の役人を選出し、そこからさらに中央政界に出て行く、という方法です。
 また、【董仲舒】の勧めで、【儒学】を漢が指定する学問としました。このようなことを【国学化】といいます。儒学が国学化されたのは、【匈奴】との戦いに備えて中国を皇帝中心の国に固める、という点が挙げられます。儒学がもっとも嫌うのは下克上でしょう。下克上とは「下の者が上の者と倒す」ことです。皇帝が言う無理難題を黙って聞け!ということです。そのようのことが当たり前である世の中にするには、儒学はもってこいな学問といえます。もちろん、法家の思想を否定したわけではありません。法律によって政治が行われることは今までどおりです。
 匈奴との長い戦いによって、漢の財政も非常に苦しくなっていくと、武帝は「【塩鉄専売】」に踏み切りました。これは、塩を製造・販売することができるのは武帝の許可を受けた業者だけ、鉄を製造・販売することができるのは武帝の許可を受けた業者だけという決まりにしたものです。塩や鉄は誰もが必ず使うものですから、これらを独り占めできた武帝は、大いに儲かるということになります。しかし、このことは、後で漢を苦しめ、滅亡に導くことになります。
 最後に、武帝の時代に有名な『【史記】』という歴史書を書いた【司馬遷】のことを忘れるわけにはいきません。司馬遷は友人であった将軍の李陵をかばった為に「宮刑」を受け、宦官にされてしまいましたが、【紀伝体】という歴史の書き方を確立して、歴史に名前を残しました。紀伝体というのは、歴史を「何年に何があった」というように書くのではなく、「誰がどんなことをした」という記述で表すものです。なお、「何年に何があった」という書き方を編年体といいます。

前漢武帝の財政再建策

2013年09月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【前漢武帝】と匈奴との50年に及ぶ戦争によって、両国ともに疲弊しました。前漢はこの戦争によって財政難に落ちいり、財政の再建が急務となりました。
 そこで武帝は【桑弘羊】を用いて、国家による【専売制】を実施し、【塩】・【鉄】・【酒】の3品目について国家の独占としました。それまでこの3品目を扱っていた一般の商人たちは、商売から締め出されたわけです。
 さらに、【均輸法】と【平準法】を制定しました。均輸法というのは、たくさん取れた土地で安く買占め、あまり取れなかった地方に高く売るという、その商売を漢の王室が独占的に行なうものです。また、平準法とはたくさん取れて時に安く買占め、あまり取れなかったときに高く売るというもので、このような商売を王朝が独占的に行なうという政策です。
 商業に国家が介入するということは、一時的には国家の収入を増やすことになります。しかし、長い目で見ると、一般の商人たちの不満を増大させ、商業も活発さを失いました。商業から締め出されてしまった商人たちは、自分の資産を増やすために農地を買占めたり、自作農から土地を奪ったりしました。彼らは新しい大土地所有者になっていったのです。つまり、武帝の財政再建策が失敗であるというのは、このような税を納める自作農を減らし、逆に【豪族】を増やしてしまったこと。また、国家が商業を行なうために多くの役人を雇わなければならず、このことは漢の財政を圧迫する要因にもなりました。
 

郡国制

2013年09月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【前202】年に中国を統一して【漢】を建国した【劉邦】は、【高祖】となりました。彼は秦の始皇帝が実施した【郡県制】と周の時代の【封建制】とを併用した【郡国制】を施行しました。すなわち、都の【長安】周辺など漢王室が直接統治した直轄領には【郡県制】を施行し、地方に対しては【封建制】を施行して一族や功臣を王に任じて統治させたのです。
 この王たちは、世襲の支配地を持ったいましたが、第6代皇帝の【景帝】が諸王の権限奪おうとしたことに反発して、【前154】年に呉王や楚王など7人の王が景帝に対して【呉楚七国の乱】を起こしました。呉楚七国の乱は景帝の勝利で終わったため、第7代皇帝の【武帝】は、諸王の制度は事実上廃止して、地方にも郡県制を施行しました。これにより漢は税収を増やすことができ、中央集権体制を完成させたわけです。
 
 

封建制・郡県制・郡国制

2013年09月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 古代中国の諸王朝が採用した統治方法にはいくつかの種類があります。
 【殷】では【大邑商】が他の邑を支配下に置きましたが、この仕組みを【邑制国家】といいます。周では【封建制】が採られました。周の王室を【本家】とし、諸侯を【分家】とする血縁関係(【宗族】)によって支配を維持しようとしたのです。秦の【孝公】は前4世紀の秦王です。彼は【郡県制】を施行して地方を治めました。【前221】年に最初の中国全土の支配者になった秦の【始皇帝】は、この郡県制を中国全土に実施しました。全国を48郡に分けて長官を派遣し、郡の下に県を置いて、さらに細かく支配をいきわたらせました。
 しかし、急激な改革に反発があった為、【前202】年に漢を建国した【高祖劉邦】は、郡県制と封建制を併用する【郡国制】を施行しました。漢の直轄地には【郡県制】を、地方には周の時代のように功臣などを王として配置し、その地域の世襲を認めたうえで支配を任せる【封建制】で統治したです。【前154】年に発生した【呉楚七国の乱】は、これら諸王たちが皇帝【景帝】に対して起こした反乱でした。この反乱を鎮圧した景帝を継いだ第7代皇帝の【武帝】は、事実上、ふたたび【郡県制】を全国規模で実施し、古代中国王朝として中央集権的体制を完成させました。
 

ワッハーブ派とサウード家

2013年09月23日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【サウード】家は【ネジド】地方の【リヤド】を支配する一族である。ネジド地方には18世紀から【ワッハーブ】派というイスラム原理主義の一派が拡大していた。やがて、ワッハーブ派を【サウード】家が保護して、19世紀に【ワッハーブ】王国が成立し、オスマン帝国領内の地方政権となっていった。しかし、エジプト太守【メフメト=アリー】はオスマン帝国政府に依頼されてワッハーブ王国を滅ぼした。この功績によってメフメト=アリーの発言力は強まり、やがて【エジプト】事件を経てエジプトの世襲権を獲得していく。
 第1次世界大戦後、サウード家の【イブン=サウード】はイギリスの支援を受けて、メッカ太守ハーシム家のフサインを破り、【ヒジャーズ・ネジド】王国を建国し、後にサウジアラビアと解消している。なお、ワッハーブ派はサウジアラビアの【国教】とされている。


国際連盟

2013年09月23日 | 高3用 授業内容をもう一度

国際平和を維持するための機構という構想は古くからくりかえし提唱されてきた。たとえば近世においては,ドイツの哲学者【カント】がその晩年の1795年に『【永久平和のために】』を著して、国際連盟の基本構想を提出している。それは18世紀の混乱した国際秩序の真っ只中に生きた彼が、哲学者としてこれを反省するなかで育んだ構想であった。
 しかしこうした国際機構の設立は、諸国家間の高度に政治的な問題であったため、実現にいたらず、人類が第一次世界大戦という未曾有の惨禍を経験して初めて、政治日程にのぼることになった。国際連盟として結実するこの国際平和のための機構は、直接的には、第一次世界大戦中にアメリカ合衆国大統領【ウィルソン】が発表した「【平和のための十四カ条】」のなかの一項にその起源を有した。国際連盟設立の提案は第一次世界大戦終了後のパリ講和会議でとりあげられ、講和条約であるヴェルサイユ条約の第1篇に国際連盟規約がもりこまれ、国際連盟は【1920】年に発足した。
 国際連盟は【ジュネーヴ】に本部をおき、中央に総会・理事会・事務局がおかれ、自主的な外部機関である【国際労働機関】(ILO)と【国際司法裁判所】のほか、補助機関として多くの専門機関と諮問委員会が設置された。連盟の任務はまず第1に平和の維持であり、そのために【集団安全保障】の原理が採用され、連盟規約に違反して戦争をおこした国に対し、他の加盟国が協力して制裁を加えることが定められた。また連盟は、公正な国際関係や人道的諸問題のために国際協力をすすめることをも任務とした。国際労働機関もこの任務のうちの1つである人道的な労働条件の確立のために設置されたものであり、連盟の消滅後は国際連合の専門機関となって今日にいたっている。さらに連盟には、戦後処理の特殊な任務として、敗戦国ドイツの旧植民地やトルコの旧支配地の統治を、連盟が指定する国に【委任】する役割があたえられた。
 しかし国際連盟の提唱国として大きな役割を期待されたアメリカが、【上院】の反対でこれに加盟せず、【ソ連邦】と敗戦国【ドイツ】が当初排除されて連盟に加わらなかったことは、連盟の力を制約した。また総会決議が【全会一致】を必要としたことは、機動的な動きを制約した。さらに連盟が侵略国に対しておこなう制裁は主に【経済制裁】であり、それも必ずしも徹底せず、大国がかかわる紛争の解決には非力であった。例えば連盟は【1935】年【エチオピア】に侵入した【イタリア】を侵略国とみなし、経済制裁を決議したものの、効果なくおわり、その無力さを露呈した。
 1930年代後半、ヨーロッパとアジアで国際紛争が拡大するなかで、国際連盟に対する期待はいちじるしく弱まり、39年に第二次世界大戦が勃発すると、連盟の活動は事実上停止した。これに代わる新たな国際平和維持機構の構想は、戦時中の【1941】年アメリカの【Fルーズベルト】大統領とイギリスの【チャーチル】首相により発表された戦後の国際秩序と安全保障の原則を謳った【大西洋憲章】に由来する。これをもとに翌42年、連合国共同宣言が出され、さらに【43】年にはアメリカ・イギリス・ソ連邦・中国の4カ国による【モスクワ】会談で国際平和維持機構の必要性が確認され、【44】年【ダンパートン・オークス】会議で国際連合憲章の草案がまとめられた。


ポーランド回廊(グダニスク)

2013年09月23日 | 高3用 授業内容をもう一度

 グダニスクはドイツ名では【ダンツィヒ】。13世紀【ハンザ同盟諸都市】の一員として繁栄。【15】世紀にポーランドの支配下に入った。その後、ポーランドの重要な港として繁栄し、18世紀中ごろには東ヨーロッパ最大の都市に成長した。
 しかし、第2次ポーランド分割(1793年)でプロイセン領となった。【1807】年、【ティルジット】条約によってフランスに従属する【自由市】とされたが、【1815】年に【プロイセン】領に復帰した。19世紀を通じて大きな発展はみられず、バルト海貿易の中心地としての地位を失ったが、19世紀後半には造船業が発達した。
 第1次世界大戦後は【ベルサイユ】条約によって【自由市】の地位を復活。【ポーランド】はグダニスク市の港湾、鉄道施設の使用権などを得たものの、ドイツ系人口が90%以上を占め、ナチス党の台頭に悩まされた。
 1938年【ヒトラー】はドイツへの併合を要求して拒否されると、良く【39】年9月1日ここから【】ポーランドに侵攻し、【第2次大戦】が勃発した。1945年3月ソ連軍が解放すると、同年8月ポーランドに復帰した。


メンシェヴィキとボリシェヴィキの違い

2013年09月23日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1898】年にロシアでマルクス主義政党である「【ロシア社会民主労働党】」が成立した。この政党は【1903】年に【メンシェヴィキ】と【ボリシェヴィキ】に分裂したが、分裂の理由は、現在のロシアの状況をどのように捉えるか、という点であった。このことはロシア革命(3月革命)に対するメンシェヴィキとボリシェヴィキの対応の違いにも現れてくる。
 そもそもマルクス主義には「階級闘争」として歴史を捉えている。つまり、人類の歴史の初期段階にあたる「農業社会」においては「領主階級」と「農奴階級」とが対立していた。この対立は市民革命(ブルジョワ革命)の成功によって終わる。さらに産業革命後に成立した「資本主義社会(工業社会)」では「資本家」と「労働者」が対立し、この両者の闘争はやがて発生する社会主義革命の結果、労働者階級の勝利に終わり、やがて社会主義社会が成立すると、マルクスは考えていた。
 そこで問題になるのが20世紀初期のロシア社会が「農業社会」の段階なのか?「資本主義社会」の段階なのか?という点である。
 【メンシェヴィキ】は「農業社会」の段階であると考えたため、3月革命を【ブルジョワ革命】と捉え、その結果成立した臨時政府をしっかり支えて、早く安定した資本主義社会を建設することが、社会主義革命を少しでも早く実現することになると考えた。その中心人物が【プレハーノフ】である。
 一方、【レーニン】が率いる【ボリシェヴィキ】は、ロシアの現状を「資本主義社会」と捉えたため、それを打倒した3月革命こそが「社会主義革命」であり、この革命を一気に推し進めることが社会主義実現になると考えた。


カーゾン線

2013年09月23日 | 高3用 授業内容をもう一度

  英外相【カーゾン】が第1次世界大戦後に民族分布にしたがって設定した新興国【ポーランド】と新興国【ソ連】との国境線。ブレストリトフスクを通る。しかし、1920~21年の【ポーランド=ソ連戦争】で【ソ連軍】が破れたため、カーゾン線よりはるか【東方】に国境線は移っていた。
 第2次世界大戦は独ソによる【ポーランド侵攻】で始まった。その際、ソ連はカーゾン線付近まで侵攻している。さらに、終戦時にソ連とポーランドとの国境線は【カーゾン線】に設定された。そのため、ポーランドは東方の領土をソ連に大きく奪われることになった。ポーランドはその失った領土を敗戦国ドイツから奪い、東ドイツとの国境線を【オーデル】川と【ナイセ】川を結ぶ線(【オーデル・ナイセ線】)に設定した。西ドイツは当初、このオーデル・ナイセ線を認めなかったが、1970年代にとられた「【東方外交】」でこれを容認した。


ポーランドの消滅と東西国境線の変化

2013年09月23日 | 高3用 授業内容をもう一度

 ポーランドは歴史上3度消滅している。1回目は【1772年・93年・95年】の「ポーランド分割」、2回目は【1815】年に成立し、ロシア皇帝【アレクサンドル1世】がポーランド国王を兼務する「【ポーランド立憲君主国】」が、【1830】年の【7月革命】の影響を受けて、同君連合として事実上ポーランドを支配していたロシア皇帝の【ニコライ1世】に対し蜂起したが失敗。その結果、ポーランドは「【ロシアの1州】」の地位にされた時に消滅している。3回目は第2次世界大戦の開戦時、独ソによって行われた「【ポーランド侵攻】」の時である。
 したがって、第1次世界大戦開戦時には、ポーランドはロシア領であり、ポーランドという国家は存在しなかった。このポーランド問題をいかに扱うか、という点が戦後処理の最大の問題であった。
 ウィルソン大統領は「14ケ条」で「【民族自決権】」を提唱し、ポーランドの国家建設が認められた。しかし、ロシア革命で成立した【レーニン】政権は1918年3月に【ブレスト=リトフスク条約】をドイツ帝国と結び、直接国境を接していた独ソ国境線が両国間で定められた。この条約では、ドイツが優位に戦争を進めていたこともあって、第1次世界大戦の開戦時よりもはるかに東方、すなわちソ連側に食い込む形で、国境は東に移動していた。もちろん、この段階ではポーランドは復活していない。
 しかし、第1次世界大戦ドイツ敗戦後、【パリ講和会議】においてポーランドの独立が認められた。会議で英仏は、ポーランド領は敗戦国ドイツから作られ、東のソ連との国境線はイギリス外務大臣【カーゾン】が、いわゆる「【カーゾン線】」を提唱して決定しようとした。カーゾン線はブレスト=リトフスク条約における独ソ国境線よりはるかに西方にあった。そのため、新興国ポーランドがカーゾン線に反発し、【1920】年【ソ連・ポーランド】戦争が勃発した。1918年から始まっていた【干渉戦争】と、革命政権に反発する【白色テロ】に苦しむソ連に、ポーランドが勝利した結果、ポーランド・ソ連の国境線は、カーゾン線よりも大きく東方に移された。
 【1939年9月】【独ソ】がポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発したが、ソ連の独裁者【スターリン】はカーゾン線こそが、ポーランドとソ連の正しい国境線であるという主張であった。
 第2次世界大戦後のポーランドの西方に当たるポーランドと東ドイツの国境線は【オーデル・ナイセ線】(オーデル川とナイセ川を結ぶ線)となり、さらに西に位置する西ドイツ政府も【ブラント】政権の時にこれを了承した。また、ポーランドの東方に当たるポーランドとソ連の国境線は「【カーゾン線】」が採用された。
その結果、ポーランドの国土は、第2次世界大戦前後では、大きく西に大きくずれ込んだ。


ドイツ共産党

2013年09月23日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1917】年に【社会民主党】から独立した【独立社会民主党】の左派として【カール・リープクネヒト】と【女性】の運動家【ローザ・ルクセンブルク】が、1918年、独立社会民主党から分離して【スパルタクス団】を結成。1919年【スパルタクス団の蜂起】(べルリン蜂起)を強行した。この蜂起に失敗し2人の指導者を失ったが、1919年【コミンテルン】の指導下で【ドイツ共産党】が結成された。共産党は社会ファシズム論の立場から、社会艮主党とは激しく対立したため、両党は反ナチスのための協調関係を築けず、ナチスの権力掌握を許す結果となった。
 【1933】年1月に政権を獲得したナチスは、すぐに総選挙に打って出たが、2月に【国会議事堂法家事件】を捏造し、共産党にその責任を負わせた。この国会議事堂放火の嫌疑で【共産党は解散】させられてしまった。その後は、多くが政治活動を中止したり亡命者も多く出した。
 第2次世界犬戦後の1946年、東ドイツでは社会民主党と連合して【社会主義統一党】を結成。ソ連の指導の下、一党独裁体制を固めた。一方、冷戦の影響で西ドイツの共産党は1956年に連邦司法裁判所で違憲判決を受け、解散されられている。