ソグディアナとは、アラル海に南東から注ぐ2大河川、シル川・アム川の中間を流れるザラフシャン川の流域の古名である。今日では、1924年の「民族的境界区分」以来の(カザフスタン)・キルギスタン・タジキスタン・トルクメニスタン・ウズベキスタンの5共和国がある。
この地は肥沃であったため古くから灌概農業が発達した。さらにシルク=ロードの要衝にもあたることから、サマルカンド、ボハラなどのオアシス都市国家が繁栄した。この地の古名にもなっているイラン系のソグド人はこの地を中心に隊商民としてシルク=ロード活躍し、その言語は中央アジアの共通語となり、ソグド文字は多くの遊牧系民族の母字となった。しかし、経済的な基礎の弱いオアシス都市国家群は、周辺地域を支配するような強力な統一国家を形成することはほとんどなく、逆に、シルク=ロードの利益を求める異民族の侵入とその支配をうけることが多かった。
前6世紀、アケメネス朝ペルシアが西アジアで拡大すると、ソグディアナはその支配下に置かれた。アレクサンドロスの東征によりアケメネス朝が滅亡してヘレニズム時代が訪れると、ヘレニズム国家の1つであるセレウコス朝シリア王国がこの地を支配した。しかし、前250年頃、アム川上流域を中心にギリシア系住民がその王朝の支配から独立して(2バクトリア)王国を建てると、ソグディアナはその一部となり、中央アジアにおけるヘレニズム文化の拠点となった。この王国は、前140年頃、トハラ(大夏)によって滅ぼされた。
つぎにソグディアナを支配した月氏は、甘粛・タリム盆地東部を故地とする騎馬民族である。匈奴が東西交易の支配を求めてオアシス地帯へと支配を伸ばしたため、月氏はこれに追われてイリ地方に移った。ジュンガリアからトルコ系の(3烏孫)が南下したため、月氏はさらにイリ地方をも放棄してアム川流域に居住した。これを一般に大月氏国と呼んでいる。ついでアム川の南方に成立したイラン系クシャーナ族が、後1世紀半ばに大月氏から独立してクシャーナ朝を建国し、北西インドに侵人した。2世紀半ばに登場したカニシカ王は仏教の保護者としても知られる。彼はガンダーラ地方の(4プルシャプラ)を都とし、ソグディアナから西北インドに加えてガンジス川中流域までを統治する大帝国を築いた。しかし、3世紀に入るとクシャーナ朝は西方のササン朝ペルシアにソグディアナを奪われて衰退した。5世紀には、遊牧民である(5エフタル)が拡大し、クシャーナ朝はこの民族によって最終的に滅ぼされた。この遊牧民は6世紀初頭までオアシス地帯一帯を支配下においたが、6世紀なかばにモンゴル高原を支配するトルコ系の突厥と、西アジアで全盛期を迎えていたササン朝ペルシアに挟撃されて滅亡した。
突厥は、アルタイ山脈の西南から出てモンゴル高原・オアシス地帯を支配する大遊牧国家を建設した。しかし6世紀末ごろ東西分裂し、ソグディアナは西突厥の支配するところとなった。西突厥は657年全盛期を迎えていた唐によって攻撃され、7世紀末に壊滅した。8世紀になるとまもなく、西アジアのイスラム王国であるウマイヤ朝がソグディアナを支配した。そのホラサン地方総督に着任したのはクタイバであった。イラン人の民族宗教であるゾロアスター教徒のソグド人は、ウマイヤ朝下でイスラム教に改宗していったが、この動きは750年にウマイヤ朝を打倒して開かれたアッバース朝が、翌年(6タラス河畔)の戦いで唐を破ってから決定的となった。その後、イスラム教圏に入ったソグディアナでは、874年にイラン系イスラム王朝のサーマン朝がアッバース朝から事実上独立し、10世紀末まで繁栄した。
ソグディアナの地はやがてイラン系民族の居住地域からトルコ系民族の居住地域へと変化していく。中央アジアがトルキスタンと呼ばれるのもその頃からであった。突厥に続いてモンゴル高原から大遊牧国家を形成したトルコ系ウイグル人であったが、9世紀の半ばに(7キルギス)に破れて西走した。彼らが中央アジアに定住するにつれてソグディアナでもトルコ語が用いられるようになった。この結果、パミール高原を境に、東のタリム盆地を東トルキスタン、西のソグディアナ方面を西トルキスタンというようになった。やがて、トルキスタンにはカラ=ハン朝が建国し、サーマン朝は999年に滅亡した。サーマン朝下のトルコ系がアフガニスタンに建国したガズナ朝は、11世紀に西北インドに侵人した。このため、インドのイスラム化が開始し、やがて、デリー=スルタン朝が成立した。ガズナ朝は1008年にカラ=ハン朝を破り、西トルキスタンをも支配下においた。しかし、西アジアで強大となったトルコ系のセルジューク朝は、1055年バグダードに入ってイスラム帝国の支配者となると、ガズナ朝をから西トルキスタンを奪った。
12世紀初頭、モンゴル高原で勢力を誇った契丹族の遼が金によって滅亡すると、その王族であった(耶律大石8)は中央アジアに逃れてカラ=キタイ(西遼)を建てた。この王朝は一時トルキスタン全域を支配下に入れたが、12世紀後半になると急速に衰退した。13世紀初頭の時点で西トルキスタンを支配したのはホラズム王国であった。この王国は11世紀末セルジューク朝のトルコ系奴隷がアム川下流の太守に任ぜられて創始した王国で、弱体化したセルジューク朝からイランを奪い、さらにガズナ朝の後継王朝であるゴール朝を滅ぼしてアフガニスタンを併合した。
1219年に西進を開始したチンギス=ハンは、その翌年にはホラズム王国を攻略してトルキスタンの地を手中に収め、第2子チャガタイにトルキスタンの支配をゆだねた。チャガタイ=ハン国は14世紀半ばに東西に分裂したが、その後、西チャガタイの内紛に乗じて、台頭したのがティムールであった。ティムールはチンギス家の娘を娶り、サマルカンドを都に定めた。彼の統治はオアシス諸都市の経済力を有効に活用するものであったため、都のサマルカンドは空前の繁栄を極めた。ティムールは東西トルキスタンを統一すると、西進してイル=ハン国の領土を併せ、さらにキプチャク=ハン国や北インドに侵入した。さらに、当時アナトリアから台頭してきたオスマン=トルコを1402年に撃破し、その皇帝(9バヤジット1世)を捕虜とした。ティムールは1405年、明への遠征を計画し、その途上で病死したが、彼がイラン人の世界とトルコ人の世界とを統一したことにより、イル=ハン国で成熟とげていたイラン=イスラム文明が中央アジアにもたらされ、トルコ=イスラム文明として発展した。ペルシア文学や細密画の傑作が多く作られたほか、すぐれたトルコ語の文学作品もあらわれ、天文学や暦法も発達した。
15世紀末、シル川流域のトルコ系遊牧民ウズベク人が強勢となると、ティムール帝国を滅ぼしてシェイバニ朝を建てた。さらに16世紀末シェイバニ期が滅びてジャーン朝、ボハラ=ハン国が興り、アム川下流のヒヴァ=ハン国と並立して西トルキスタンを支配した。また、18世紀にはフェルガナのウズベク人がコーカンド=ハン国を建国し、この3ハン国は長くその命脈を保ったものの、(10ロシア)がボハラ=ハン国に続いてヒヴァ=ハン国を保護国とし、1876年にはコーカンド=ハン国を併合した。