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金の建国

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【936】年【後晋】の建国を助けた遼は、その見返りに【燕雲16州】を獲得しました。その結果、その後の五代に現れた中国諸王朝にとっても、【960】年に建国し979年に【北漢】を滅ぼして中国を再統一した宋にとっても、燕雲16州の奪回は大きな外交課題になっていました。宋は繰り返し遼に対して攻撃しましたが、ことごとく失敗しています。
 その結果、【1004】年に宋と遼とは講和条約である【澶淵の盟】を結びました。【燕雲16州の領有は遼が維持する】ことになり、さらに宋は遼に対して毎年絹20万匹、銀10万両を贈るという、宋にとって非常に過酷な内容になっています。両国の「関係」は宋を【兄】とし遼を【弟】としています。家族主義に基づく儒学の国らしい関係の結び方です。また、これほどの負担を宋が負っていながらも、名目上は宋の方が遼よりも高い立場にあるという点も、大義名分を重視する儒学の国(宋)の特徴が出ているといえます。

市舶司

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
唐では広州1港に限定して海上貿易を管理した。その業務は内外商人の出入国の手続きや保護・取り締まり、貨物の検査、徴税、禁制品の取り締まり、官買品の買い上げ、外国使節の接待など、非常に広範なものであった。
宋になると海上貿易がさらに発達したため、広州に加えて泉州と明州にも置かれた。

宋の文治主義

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 唐末五代の時代、武人が自分の領国を治め、軍隊を率いて他の藩鎮との興亡を繰り返していました。そのような武人の一人であった【趙匡胤】が【960】年に宋を建国すると、彼は武人から領地に対する統治権を奪っていきました。その一方で、地方の統治のためにも【科挙】制度を拡大させ、科挙試験合格者を官吏にして、その土地の政治をやらせました。武人は地方政治の場面からは除外されたわけです。
 また、科挙にも改善が施されました。最終試験に皇帝の面接諮問試験を導入。この【殿試】を通過するものは全受験者の0.006%であったそうです。
 武人が地方政治に介入できなくなった結果、宋の軍事力は著しく低下しましたので、対外関係は弱体化しました。しかし、経済発展を背景に税収が増えていたので、【遼】や【西夏】に対して【歳幣】を送るなどして、国防に変えていたと考えられます。

トルコ民族史 

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 トルコ族は,前3世紀から【丁零】(テイレイ)の名で中国史料に見える。5世紀に【高車】と呼ばれたものはその後裔であった。当時の北アジアでは,モンゴル系の【柔然】が強盛を誇っていたが,高車はこれに背いてジュンガリアに建国し,タリム盆地に勢力を伸ばした。
 6世紀の中国史料では,バイカル湖の南からカスピ海まで広がるトルコ族を【鉄勒】と総称したが,やがてその中からアルタイ山麓に【突厥】が興つた。突厥は,柔然に服属し鍛鉄を行っていたが,中国との交易によって勢力を拡大するようになった。
 当時、北中国の西半を支配していた【西魏】と通婚した突厥阿史那氏のブミンは,【552】年,柔然を破って【オルホン】川上流に即位し、イリ=カガンと称した。イリの子は,東方では柔然を滅ぼしたのち,中国に圧迫を加え,西方では叔父のイステミを西面可汗に任じた。イステミはビザンツ帝国と通交するなど大可汗を凌ぐ勢いを見せ,イステミの子の達頭可汗は【583】年に独立し、【西突厥】が成立した。
 【隋】の巧みな離間策に翻弄されて突厥は、一時、内紛状態に陥ったが,隋の滅亡とともに勢力を挽回した。しかし東突厥は,譲利可汗の時,鉄勒諸部の反乱に乗じた唐の攻撃を被り,630年,前期帝国は瓦解した。
 西突厥も657年、【唐】に滅ぼされた。679年頃,阿史那骨咄禄が鉄勒諸部を破って唐より独立。イルティリシュ=カガンを称し,帝国を復興した。かれの子ビルゲ=カガンは弟キュル=テギン及び名宰相トンユククックの補佐を得て,後期帝国の最盛期を迎えた。オルホン川・トラ川流域で発見されたいわゆる突厥碑文はかれらの功績を讃えたものである。だが,734年ビルゲ=カガンが暗殺されると,諸部族が離反し,【744】年、【ウイグル】のクトルク=ボイラが自立してカガンを称し,突厥は瓦解した。
 ウイグルは唐に出兵し、【安史の乱】平定を援助するなど、強盛を誇ったが,ほどなく衰え、【840】年,【キルギス】族のために帝国は崩壊した。ウイグル族は各地に移動したが,このうち,チュー河畔のベラサグン地方に移ったものは,【カラ=ハン】朝を建国した。カシュガルの副王サトク=ボグラ=ハンはイスラム教に改宗し,960年ごろにはチュー河畔の民も改宗した。この頃からトルコ族は定住生活に向かい,タリム盆地では,それまで優勢であったイラン系民族を同化した。今の【新疆ウイグル自治区】の基盤となる【東トルキスタン】の成立である。カラ=ハン朝は,【サーマーン朝】を滅ぼして,パミール高原以西のトルコ化をも進め,トランスオクシアナからイラン系民族を駆逐した。【西トルキスタン】の成立である。

中国史を土地の支配者層からみると

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度

中国が工業化社会に入るのは、19世紀の末頃からと見るのが妥当なところでしょう。したがって、それ以前の中国社会は「農業社会」です。中国経済の基幹産業(中心となる産業)が農業であるため、農地(土地)支配者層が中国の支配層である、といえます。
 では、中国の大土地所有者層はどのように変遷してきたかを見ていきましょう。まず、秦漢帝国(前221年~後220年)の時代です。この約400年間は、「豪族」と呼ばれる人々が多くのを使役して、大土地を経営していました。豪族というのは、貴族とは違います。貴族は家柄によって地位が保たれている人々で、そのため、たとえその貴族の当主が無能であっても、一族の土地を失うようなことはありません。しかし、豪族は3代前の祖父が築いた大土地であっても、父が無能であると、子の代には全財産を失っているかもしれません。そのような人々が広大な農地を経営していた時代が秦漢帝国の時代でした。
 ところが、隋唐帝国(581年~907年)の時代になると、先に述べた「貴族」階級が、「荘園」という大土地を所有するようになります。この時代をまねした日本の奈良・平安時代の貴族たちの生活の様子から、隋唐の貴族の様子を推測することができるでしょう。藤原氏がそうであったように、隋唐の貴族たちは都の長安に住み、皇帝との婚姻関係や自分より少しでも家柄のよう貴族との婚姻関係によって、自分の家柄を守り、官僚や政治にかかわる地位を維持していました。
 この貴族たちはやがて歴史の舞台から退場してしまいます。彼らに代わって大土地経営を行なったのは「形勢戸」でした。宋元明清帝国(960年~1911年)の約1000年間に渡って、彼らが中国の土地を支配し、「佃戸」と呼ばれる不自由な小作人を使って土地を耕させました。この大土地所有制度を「佃戸制」といいます。形勢戸はいわゆる地主のことです。彼らは一族の中から「科挙」試験の合格者を出すことで、免税特権を持つ「」になることを目指しました。科挙試験は受験資格に制限はなかったのですが、裕福な家庭の子弟しか、働かずに勉強するなどできなかったのです。科挙官僚たちが約1000年間、中国の政治を牛耳っていきました。形勢戸は自分の土地を、異民族の侵入や佃戸たちの反乱・暴動から守ってくれさえすれば、たとえその王朝が、元のようにモンゴル人の王朝であっても、清のように満州族の王朝であっても構いませんでした。
 このような地主による支配を打ち破ったのが毛沢東です。彼は地主から土地を没収して小作人に再分配することで中華人民共和国を築きました。しかし、1958ねんからはじまった「大躍進」政策で、生産手段の国有化の名目で、再分配した土地も「人民公社」が没収してしまいます。


燕雲十六州

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
五代十国時代の中ごろ、【石敬塘】(トウは王ヘン)が【後晋】を建国する際に、モンゴル高原の【遼】に援助を頼みました。【契丹】族の遼はこれに応じて援助しましたが、その代償は大きなものになりました。中国人居住地域で、万里の長城の南側にある燕州や雲州など16の都市を遼に譲り渡すということです。それ以後、【燕雲16州】の奪回は中国人の大きなテーマになりました。
 この結果、遼は自国であり契丹族が住むモンゴル高原と、万里の長城以南にあり中国人居住地域の燕雲16州の両方を支配することになりました。遼はモンゴル高原の契丹族には【北面官】を設置。一方、燕雲16州には【南面官】を設置し、【二重統治体制】をとりました。
 このように、【異民族が自らの出身地域に対する支配を維持しながら、中国の一部または全域を支配した王朝】、を【征服王朝】と名づけたのは、【ドイツ】人歴史家【ヴィットフォーゲル】です。したがって、【華北】を支配したものの【494】年に【孝文帝】が漢化政策をとった【鮮卑族】の【北魏】は征服王朝には当てはまりません。征服王朝は、【遼】(【モンゴル高原】+【燕雲16州】)・【金】(【満州】+【華北】)・【元】(【モンゴル高原】+【中国全土】)・【清】(【満州】+【中国全土】)の4王朝です。

安史の乱後の唐

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【755】年~【763】年まで続いた【安史の乱】は、唐に多大な影響を及ぼしました。しかし、大切なことは、唐は、それまでの王朝のように反乱によって滅びはしなかったという点です。唐は安史の乱による大混乱を、体制そのものを変革することで乗り切っていったのです。
 まず、【南詔】や【吐蕃】などの周辺民族に襲われた辺境の防衛は、節度使を増やすことで対処しました。ただし、安史の乱の混乱は唐の中心部で発生したため、反乱後では節度使を辺境地域だけでなく【中心地域】にもおかざるを得なくなっていました。安史の乱後の節度使のことを【藩鎮】と呼びます。彼らは軍事権や徴税権をもち、唐の政府の言うことを無視するだけの力を持っていました。この点を考えるとは、唐の支配地域は実質的に減ったことになります。
 安史の乱によって中央政府そのものが機能しなかったため、【均田制】は施行できなくなりました。そのため、均田農民から税をとる制度である【】租庸調制も放棄されました。【780】年に【徳宗】のとき、宰相【楊炎】によってはじめられた新しい税制が【両税法】です。この税制は農民に対してだけでなく商人にも課税するため、支配地域が実質的に減っていた唐の税収入を安定させることができました。
 さらに、均田制の崩壊により、【府兵制】も施行できなくなり、傭兵を用いる【募兵制】に転換していきました。
 また、安史の乱の混乱によって長安にいた貴族階級の多くは自分が所有している荘園に逃げ延びていきました。都を捨てた貴族は地方に住み、在地地主として戦乱を逃れてきた元均田農民たちに耕作させて暮らしていきました。このような小作人には今のように人権は認められていません。彼らのことを【佃戸】といい、佃戸を用いた大土地所有制度を【佃戸制】といいます。また、在地地主たち【新興地主層】を【形勢戸】とよび、彼らが以後の中国の支配階級として君臨していくのです。

佃戸制の成立

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 唐末の混乱期に貴族たちは都【長安】を捨てざるを得なくなりました。とくに【875】年に派生した【黄巣の乱】は、長安をも戦渦に巻き込んだので、この動きは著しくなりました。
 貴族は収入を地方に持っている荘園の農作物に頼っています。田舎にある荘園から運ばれてくる農作物を売却して贅沢な暮らしをしていたのです。しかし、唐末になると、貴族の荘園を藩鎮の武人に奪われてしまったり、荘園から運ばれてくる途中で、山賊に奪われたりして、貴族の生活は困窮していったのです。
 その結果、貴族はまだ安全な自分の荘園に移り住み、【形勢戸】と呼ばれるようになりました。武人の攻撃から自分の土地を守るために、藩鎮などに税を払うようになりました。
 その一方で、荘園に逃げ込んできた農民を【佃戸】という小作人を使って、自分の広い農地を耕させ、彼らから小作料をせしめるわけです。このように形勢戸が佃戸という不自由な小作人を使って工作させる農業を【佃戸制】といいます。この佃戸制は【毛沢東】によって廃止されるまで続きました。



黄巣の乱から五代十国時代(唐末五代)

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【安史の乱】後、藩鎮の数が続々と増えていくにつれて、唐王朝が支配して税を課すことができる土地は減っていきます。【両税法】は優れた税制でしたが、支配する地域が減少してしまっては、税を確保することができません。藩鎮の多くは唐王朝に税を納めることを拒否していましたから、唐王朝はどうしようもありません。そこで、別の方法で税を集めようとしました。それは、【酒】とか【塩】とか生活需品に税(物品税)を掛ける方法です。中国では塩が場所は限られていたので、そこをしっかりと支配して、塩を高く売る。そうして得た税収は唐の税収の半分を占めるほどでした。
 税がかかる分、とうぜん塩の値段は高くなりますから、安い塩をもとめて塩の闇業者がはびこるようになりました。その中心的人物が【王仙芝】と【黄巣】です。唐王朝としては彼らが売る塩が多くなれば、税収が減ってしまうので、この2人を攻撃します。それに対して2人が起こした反乱が【875】年から約10年間続いた【黄巣の乱】でした。この反乱は、これまでの貧しい農民たちが苦し紛れに起こした農民反乱とは違います。闇商売で大もうけしていた王仙芝と黄巣が起こした反乱です。多くの藩鎮をも味方につけて大反乱に発展しました。
 王仙芝がなくなると黄巣が指導者になりましたが、やがて部下の藩鎮の一人であった【朱温】が唐に寝返ってしまい、彼によって一掃されました。唐王室は朱温に【朱全忠】という名を与えその功績を讃えましたが、【907】年まもなく朱全忠は唐の皇帝を退位させ自ら皇帝として即位。【後梁】を建国しました。
 しかし、朱全忠の後梁が支配していた地域は、唐が支配していた地域とその周辺に限られていました。そのほかの地域には藩鎮がそのまま独立した状態で存続しています。これらの藩鎮は10ヶ国あり、地方を支配しました。中国の中心地域は後梁のあと短命な王朝が後梁む含めて5代続きました。【後梁】・【後唐】・【後晋】・【後漢】・【後周】です。【907】年から【960】年まで10+1で11ヶ国が中国に乱立している時代を【五代十国】時代といいます。
 五代十国時代は、【武人】が盛んに領土を奪い合う戦乱の時代でした。日本の戦国時代のように考えればイメージできます。戦国大名が領国の統治を行なってように、武人が自分の領地を統治しましたから、【武断政治】といいます。この時代に唐のころに繁栄していた【貴族】は消滅し、【佃戸制】が完成しました。

塩の専売と黄巣の乱、五代十国時代

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【安史の乱】後、藩鎮の数が続々と増えていくにつれて、唐王朝が支配して税を課すことができる土地は減っていきます。【両税法】は優れた税制でしたが、支配する地域が減少してしまっては、税を確保することができません。藩鎮の多くは唐王朝に税を納めることを拒否していましたから、唐王朝はどうしようもありません。そこで、別の方法で税を集めようとしました。それは、【酒】とか【塩】とか生活需品に税(物品税)を掛ける方法です。中国では塩が場所は限られていたので、そこをしっかりと支配して、塩を高く売る。そうして得た税収は唐の税収の半分を占めるほどでした。
 税がかかる分、とうぜん塩の値段は高くなりますから、安い塩をもとめて塩の闇業者がはびこるようになりました。その中心的人物が【王仙芝】と【黄巣】です。唐王朝としては彼らが売る塩が多くなれば、税収が減ってしまうので、この2人を攻撃します。それに対して2人が起こした反乱が【875】年から約10年間続いた【黄巣の乱】でした。この反乱は、これまでの貧しい農民たちが苦し紛れに起こした農民反乱とは違います。闇商売で大もうけしていた王仙芝と黄巣が起こした反乱です。多くの藩鎮をも味方につけて大反乱に発展しました。
 王仙芝がなくなると黄巣が指導者になりましたが、やがて部下の藩鎮の一人であった【朱温】が唐に寝返ってしまい、彼によって一掃されました。唐王室は朱温に【朱全忠】という名を与えその功績を讃えましたが、【907】年まもなく朱全忠は唐の皇帝を退位させ自ら皇帝として即位。【後梁】を建国しました。
 しかし、朱全忠の後梁が支配していた地域は、唐が支配していた地域とその周辺に限られていました。そのほかの地域には藩鎮がそのまま独立した状態で存続しています。これらの藩鎮は10ヶ国あり、地方を支配しました。中国の中心地域は後梁のあと短命な王朝が後梁む含めて5代続きました。【後梁】・【後唐】・【後晋】・【後漢】・【後周】です。【907】年から【960】年まで10+1で11ヶ国が中国に乱立している時代を【五代十国】時代といいます。
 五代十国時代は、【武人】が盛んに領土を奪い合う戦乱の時代でした。日本の戦国時代のように考えればイメージできます。戦国大名が領国の統治を行なってように、武人が自分の領地を統治しましたから、【武断政治】といいます。この時代に唐のころに繁栄していた【貴族】は消滅し、【佃戸制】が完成しました。

宋(北宋)の滅亡 靖康の変(1126~27年)

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【1115】年に【女真】族の【金】が建国すると、当時の宋皇帝の【徽宗】は金と協力して遼を攻撃しようと計画しました。長年の中国人の夢であった【燕雲16州】の奪回のチャンスと考えたわけです。しかし、金は独力で遼を攻撃し、燕雲16州の中心都市である【燕京】を攻略しました。
 すると今度は、金の強大化を恐れた徽宗は、遼との妥協を影で画策しました。そのため、金は遼を滅ぼし、さらに宋の都【開封】を攻撃したのです。脅威を感じた徽宗は息子の【欽宗】に皇帝の位を譲り、金の怒りを抑えようとしましたが、結局、金によって開封を攻略され、【徽宗】・【欽宗】親子を含む高位高官3000人が満州に拉致されるという異常事態になりました。この【1126~27】年におきた事件を【靖康の変】といいます。金はさらに華北一帯の支配を目論んで勢力を拡大しました。
 この靖康の変を逃れることができた者の中に、徽宗の息子で欽宗の弟がいました。彼は江南の【臨安】(現在の【杭州】)に逃れ、そこで即位して【高宗】となります。彼は華北一帯を征服していた金と対峙する中国人王朝を再建しました。この王朝を【南宋】と呼びます。一般に、【960】年に成立した宋は中国全土を支配していましたが【北宋】と呼び、1127年に【臨安】を都に建国した中国の南半分を支配している王朝が【南宋】です。

唐宋の社会経済 

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 中国では唐代中葉から貨幣経済がしだいに活気を帯びるようになり、唐朝の支配体制が弱体化したことも手伝って、これまでのさまざまな経済に関する規制がゆるみ崩壊した。商品の売買は唐代前期までは城内の特定区画である【東市】や【西市】のみ許されていたが、唐末には市場は城内の各所に、さらに城外でも広く【草市】が開かれるようになった。
 宋代になると都市は都である【開封】や南宋の都になる【臨安】などの大都市のほか、草市から【市】や【鎮】に発展した。【青磁】や【白磁】の特産物を製造することで知られる【景徳鎮】もこのような地方都市のひとつである。これらの都市では商人が【行】、手工業者が【作】という同業組合を作って活動した。また、地方都市と地方都市とを結ぶ遠隔地商人の活動も活発になった。彼らを【客商】と呼ばれるが、都市には【酒楼】という宿泊施設があり、客商らによって利用された。
 日本が盛んに輸入した【宋銭】(銅銭)は大量に鋳造されたものの、その需要をまかなえず、紙幣が使用されるようになり、南宋では主要な通貨となった。紙幣は民間で重宝されていた【手形】が発達したもので、【交子】は北宋、【会子】は南宋の代表的な紙幣である。
 元が金にならって発行した紙幣【交鈔】は銀との交換を保証されたため広く流通し、ときには西アジアにまでおよび、遠くイル=ハン国の首都タブリーズでも同様の紙幣が発行された。元が発行したものにはにせ札を作るものは死刑に処すと書かれていた。
 また、対外貿易も繁栄した。とくに【広州】を中心に南海貿易が盛んとなり、【唐】代には広州には貿易事務をあつかう【市舶司】が設置され、やがて宋代になると、【広州】のほかに、【泉州】や【明州】(寧波)にもおかれた。
 東南アジアの商人や【ムスリム商人】の来航も多くなり、南宋の商船もペルシア湾にまでおもむいた。これには宋代に【羅針盤】が発明されたことや、従来は長江を行き来していた【ジャンク船】が改良されたことが大きい。南ヴェナムの国【チャンパ】(中国名は【占城】)からは【チャンパ米】が長江下流域に持ち込まれ、【長江下流域】は宋の穀倉地帯となった。中国、朝鮮、日本の3国の間では朝貢とは別に民間の貿易が盛んとなり、多数の宋船や新羅船(後には高麗船)が往来した。

金の建国 1115年

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【926】年に【渤海】が【】遼によって滅ぼされると、満州にいた【ツングース】系【女真】族は遼に従っていました。しかし、遼の搾取がひどかったので、【】砂金で富を得ていた【完顔阿骨打】が遼を破り、【1115】年に【金】を建国しました。なお、ツングース系女真族は【半農半牧】の民族で、【女真】文字を使用しています。
 完顔阿骨打が亡くなると、弟が即位し太宗になりました。彼は遼を滅ぼした後、さらに宋を滅ぼして【華北】も支配する大帝国に発展させました。金は出身地域の【満州】を支配しつつ、【華北】を支配する【征服王朝】であるといえます。

宋の政治の動きと王安石の新法

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【武断政治】を否定した宋の建国者【趙匡胤】は、【文治主義】を採用。そのため【科挙】制度が完成しました。一方、文治主義の結果、軍事力が低下しますから、外交政策は【消極的外交】政策をとることになったわけです。【1004】年に遼と結んだ【澶淵の盟】、【1044】年に【西夏】と結んだ【慶暦の和】がその顕著な例といえます。
 しかし、遼や西夏に対して毎年多大な歳幣を贈るため、宋の財政は非常に苦しくなっていきました。【1070年代】に【神宗】が登場すると、【王安石】を宰相に登用し、財政再建に取り組ませます。これを【王安石の新法】といいます。【青苗法】では政府が小農民に貸付を行い、【保甲法】で農民の一部を兵士にし、【保馬法】では軍馬の管理を一般の農民に任せるなどをしています。
 王安石の新法には強烈な反対が起きています。反対派を【旧法党】といい、その中心人物は【司馬光】でした。かれは歴史家としても非常に有名で、【編年体】という年をおって歴史を記述する方法をとった『【資治通鑑】』という歴史書を残しています。彼らの反対によって王安石は7年ほどで失脚しますが、その後も財政再建方法をめぐって、新法党と旧法党との政治的抗争が長く続きました。

慶暦の和

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 建国間もない【西夏】に対し、宋は【1044】年に【慶暦の和】を結びました。西夏と宋との【国境を確定】することが目的でしたが、西夏の要求に応じて【国境貿易】もおこなわれることになりました。両国の「関係」は宋が【君主】・西夏が【臣下】の関係です。
 唐末の【タングート】族は【黄巣の乱】を鎮めた功績で唐朝から節度使に任ぜられ、李姓を賜っていました。