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世界史の復習をサポートするブログです

不安と自信

2012年12月07日 | 何かの足しになれば

不安がないまま受験の日を迎えられた受験生が何人いただろうか。

多くの受験生は大きな不安と少しの自信とを持ってその場所にいるに違いない。

野球イチロウ選手は不安な自分を振り払うために、バッターボックスに入る前の儀式をしているのかもしれない。

成功する者とは、不安に襲われたときにも、いつものように振舞える人間ではないだろうか。

受験生諸君!あと数日です。大きな不安と少しの自信とともに、笑っていつも通りにやりぬきましょう。


チベット史

2012年12月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【乾隆帝】が行った1720年のチベット遠征以来、チベットは中国支配に組み込まれた。現在、チベットは中国の四川省・青海省・西蔵(チベット)自治区に分割されている。世界史にチベットが最初に登場するのは五胡十六国時代の【テイ】・【羌】である。
 その後、7世紀初頭に【ソンツェン=ガンポ】がチベットに統一王朝を建設し、中国(【唐】)はこれを【吐蕃】と呼んだ。この国は唐との関係が深いが、【漢字】を基にして【チベット文字】を作るなどもしている。9世紀中頃に吐蕃は滅亡するが、これによりチベットは分裂時代に入り、14世紀になって再統一される。

 チベットはインド・中国から文化的影響を受けたが、とくに8世紀後半から【ラマ教】(【チベット仏教】)を国教とした。ラマ教は5世紀頃から衰退したインド【大乗仏教】を継承している。14世紀末~15世紀前半に登場した【ツォンカパ】は戒律主義を説いてラマ教を改革し、【黄帽派】を創始した。これに対して旧来のラマ教を【紅帽派】と呼ぶ。【タタール】部の【ダヤン=ハン】が信仰し保護したのが【黄帽派】であり、現在では黄帽派が圧倒的多数を占めており、ツォンカパの弟子から【ダライ=ラマ】の転生が確立した。

 中華人民共和国建国後、人民解放軍はチベットに侵入し、1951年の【中国・チベット協定】でチベットの【自治】が約束された。しかし、共産党のラマ教への干渉を嫌ったラマ僧が反発し、【1959】年には【チベット反乱】に発展した。この反乱は鎮圧されたが、【14】第代ダライ=ラマはインドに亡命し。このためダライ=ラマの扱いに対して中印国境紛争が発生している。


インド史(6)独立運動の展開とインド独立

2012年12月07日 | トリオDE世界史

(1)インド独立運動の主役3人 ��ヒンズーの指導者2人�ムスリムの指導者
�ガンディ
�ネルー
�ジンナー
(2)インド国民会議派初期の指導者3人
�ナオロジー
�バネルジー
�ティラク
(3)インド国民会議設立 �宗教�特徴�指導者2人
�ヒンズー教徒
�親英的諮問機関
�ナオロジーとバネルジー
(4)独立運動の転換期 �1905年日露戦争の日本の勝利�1919年第1次世界大戦の終結�1929年
�カルカッタ大会
�第1次サティーアグラハ運動
�ラフォール大会
(5)日露戦争の影響 �インド�イラン�トルコ
�カルカッタ大会
�タバコ・ボイコット運動
�青年トルコ党の革命
(6)カルカッタ大会 �年�組織�原因
�1905年
�インド国民会議派
�ベンガル分割令に反発
(7)ベンガル分割令 �年�内容�影響
�1905年
�ムスリム地区とヒンズー教徒居住地区とにベンガル地方を分割する
�国民会議派が反発してカルカッタ大会を開く
(8)カルカッタ大会の4つのスローガン
�英貨排斥
�民族教育
�国産品愛用(スワデーシ)
�自治要求(スワラージ)
(9)ムスリムの行動 �組織�指導者�基本方針
�全インドムスリム連盟
�ジンナー
�親英協調路線
(10)第1次世界大戦中 �インド兵の戦場�インド兵�イギリスの約束
�メソポタミア戦線
�グルカ兵
�モンタギュー宣言(戦争協力の代償に戦後の自治を認める)
(11)第1次世界大戦後のイギリス �支配強化�地方自治容認�シク教徒弾圧
�ローラット法
�インド統治法
�アムリットサル事件
(12)1919年ガンディ �反英運動�その手法�方針
�第1次サティーアグラハ運動
�サルタール
�非暴力不服従
(13)WW1直後のガンディ �糸車�不可触�真理の把握
�チャルカ
�ハリジャン
�サティーアグラハ
(14)WW1直後のジンナー �反英運動�原因�ガンディとの関係
�キラーファット運動
�イギリスによるオスマン=トルコの分割に反対
�連携した
(15)ラフォール大会 �年�指導者�スローガン
�1929年
�ネルー
�完全独立(プールナ・スワラジ)
(16)イギリスの統治方針 �1919年�1928年�1930年
�インド統治法
�サイモン委員会
�英印円卓会議
(17)イギリスの統治方針 �インド統治法�サイモン委員会�英印円卓会議
�地方自治を容認
�インドの行政改革
�ロンドンで自治を検討
(18)第2次サティーアグラハ運動 �指導者�行動�年
�ガンディ
�塩の行進
�1930年
(19)インド独立 �年�承認した英政権�独立の状況
�1947年
�アトリー労働党政権
�インド分離独立
(20)インド独立 �ヒンズーの国�ムスリムの国�ガンディ
�インド連邦(英連邦内自治国)
�パキスタン(英連邦内)
�1948年に暗殺された


インドの独立運動の展開

2012年12月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 ヒンズー教徒は【ナオロジー】と【バネルジー】の二人を中心に【インド国民会議派】を結成したが、これは親英【】的組織であった。しかし、【1905】年日本が【日露戦争】でロシアに勝利したことを背景に、【1905】年イギリスが制定した【ベンガル分割令】に反発した国民会議派は、【ティラク】を中心に【1905】年【カルカッタ大会】を開き、【スワデシ】(国産品愛用)と【スワラジ】(自治)をスローガンに反英闘争を展開した。このベンガル分割令は、ベンガル地方にいるムスリムとヒンズー教徒とを分けて居住させるという政策である。
 一方、【ムスリム】(イスラム教徒)はこのとき【ジンナー】を中心に【親英】的な【全インドムスリム連盟】を結成している。その後、第1次世界大戦では、イギリス政府が戦後の自治を約束したため、国民会議派は戦争協力をヒンズー教徒に指示し、インド兵は【オスマン=トルコ帝国】との戦い(【メソポタミア戦線】)に出兵していった。
 しかし、第1次世界大戦後、イギリス政府は自治の約束を破ったばかりか、【1919】年に【ローラット法】を制定した。このローラット法とは、逮捕状なしに逮捕拘束ができるというもので、自治権または独立要求運動に参加するインド人を抑圧するための法律であった。さらにイギリスは、イギリスに有利な条件を提示して国民会議派を分裂させる目的で、【1919】年【インド統治法】を制定している。
 インドのムスリム(イスラム教徒)を代表するジンナーは、基本的には親英的な態度をとってきたが、オスマン=トルコ帝国皇帝(スルタン=カリフ)に対して、英仏が1919年に抑圧的な【セーブル条約】を押し付けたため、イスラム教徒としてスルタン=カリフを支援する意味で、この時期に限って【】反英闘争を展開している。ジンナーのこのときの反英運動を【キラーファット運動】という。
 【】1919年の【ローラット法】とインド統治法に反発した国民会議派の指導者は【ガンディ】であった。彼はイギリスで弁護士資格をとった後、【南アフリカ】に渡ったが、そこでアパルトヘイトに苦しむ人々を目撃してインドに戻り、独立運動の指導者になった人物である。ガンディは1919年【第1次サティーアグラハ運動】(【非暴力・不服従運動】)を展開した。その手法は【サルタール】(全面罷業すなわち大規模なストライキ)であり、【チャルカ】という「糸車」を用いて、インド人の洋服をインド人の手で作ることを呼びかけ、インド中に大きな影響を与えた。
 ガンディを中心とした国民会議派の独立運動に対し、イギリス政府は【1928】年【サイモン委員会】を開いて、インドの自治に対する検討に入った。しかし、サイモン委員会にはインド人の代表が参加を認められなかったために、ガンディの弟子である【ネルー】を中心とした国民会議派は【1929】年【ラフォール大会】を開き、【プールナ・スワラジ】(完全独立)を決議して反英闘争を強めた。一方、ガンディは【第2次サティーアグラハ運動】を展開した。これは有名な「【塩の行進】」に象徴される反英闘争である。塩の行進とは、ガンディが海岸まで徒歩で行き、当時イギリス政府が独占的に製造権・販売権を持っていた塩を製造しようというものであった。ガンディの行動を知った多数のインド人がガンディとともに海岸まで行進しただけでなく、インド中の海岸線で無数の人々が塩の製造を行った。
 イギリス政府は運動の規模の大きさに有効な手を打つことができず、妥協を余儀なくされ、【1930】年にロンドンでインド人代表を含む形で、【英印円卓会議】を開催した。インドの自治を検討する英印円卓会議は3回開催されたが、第【2】回にはガンディも参加している。ガンディの考えはヒンズー教徒とムスリムとが分裂することなくインドが独立することであった。しかし、親英的態度に終始するムスリムの指導者【ジンナー】に対して、ヒンズー教徒の国民会議派【ネルーは】不信感を持ち、ムスリムとヒンズーとの対立は深まる一方であった。
 第2次世界大戦が終結する直前、イギリスでは【アトリー労働党】政権が成立した。アトリーはインドの独立を容認し【1947】年【インド】の独立が達成された。しかし、ムスリム達は同じ1947年【パキスタン】の独立を宣言し、インドとパキスタンはヒンズーとムスリムとに分離した状態での独立になった。また、パキスタンはインダス川流域の西パキスタンと、ガンジス川流域(ベンガル地方)の東パキスタンとの2地域に離れた形での独立となり、後に問題を残す結果となった。
 両教徒の統一を呼びかけ続けたガンディは、【1948】年に狂信的な【ヒンズー教徒】の手で暗殺された。

インド独立運動のチェック・ポイント
�第1次世界大戦においてイギリスがインドにとった対応は?
=モンタギュー宣言で戦争協力と引き換えに戦後の自治を容認した。
�第1次世界大戦でガンディがとった対応は?
=戦争協力を呼びかけた(インド兵はおもにメソポタミア戦線でオスマン軍と戦っ た)
�第1次世界大戦後にイギリスが打ち出した抑圧策は?
=1919年ローラット法(礼状なしの逮捕や裁判抜きの投獄を容認したもの)
=1919年インド統治法(モンタギュー・チェルムスフォード改革の中で制定され  た。地方議会の設置を決めたが、藩王国に分断しているインドはさらに一体性を 失う危険があった)
�これらイギリスの政策に対するガンディの対応は?
=第1次サティーアグラハ運動(反英闘争の手法は全面罷業サルタール、反英闘争の 理念は心理の把握サティアグラハ、反英闘争の運動は非暴力不服従)
�ハリジャンとは?
=神の子(ガンディが不可触賎民を呼んだ呼び名)
�チャルカとは?
=国産品愛用を説くガンディが用いた糸車)
�反英闘争に押されて1928年にイギリスがとった政策は?
=サイモン委員会(インド人の参加は認められていない)
�サイモン委員会に反発した国民会議派の行動は?
=ラフォール大会(ネルーが中心。完全独立プールナ・スワラジを決議した)
�ガンディがとった対応は?
=1930年から第2次サティーアグラハ運動を展開した(塩の行進)
�これらの反英闘争の展開に対してイギリスがとった対応は?
=1930年英印円卓会議(ロンドンで3回開催。ガンディは第2回のみ参加)
�オスマントルコ帝国分割の危機に対してジンナーがとった対応は?
=キラーファット運動(ガンディと連携して反英闘争に転換)


中ソ論争

2012年12月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 1941年12月,日本が真珠湾を攻撃し,第二次大戦が世界的規模に拡大すると,【蒋介石】の率いる中国国民政府はただちに枢軸国側に宣戦を布告し,連合国側のアジア戦線の主力を担う中華民国の国際的地位は顕著に上昇することとなった。1943年11月,蒋介石は【カイロ】会談でアメリカ大統領ローズヴェルト,イギリス首相チャーチルと会談し,中国が戦後アジアの国際秩序の中心的な担い手となることを示した。
 1945年2月,クリミア半島南端の保養地【ヤルタ】でローズヴェルト・チャーチル・スターリンの米英ソ3巨頭会談が開催され,アジア・ヨーロッパの戦後政治秩序を最終的に決定づけることとなった。この過程でスターリンは,中国に関し,日露戦争でロシアが失った大連・旅順の【租借】権のソ連への返還日本の植民地鉄道であった【南満州鉄道】の中ソ共同経営,などの要求を提出し,【1932】年胃成立した「満州国」崩壊後に権力の空白が生じる中国東北への政治的進出の野心を明らかにしていた。
 日本の敗北後,中国では国共両党間の対立が激化し,内戦へと発展するにいたったが,その結果,【1949】年10月1日には【毛沢東】を主席とする中華人民共和国が成立し,アメリカの支援する【蒋介石】の国民政府は台湾へと逃げのびることとなった。
 翌1950年2月,モスクワで【中ソ友好同盟相互援助】条約が締結され,中ソは,日本に対する共同防衛と中国復興のための経済援助に合意した。その見返りとして中国はモンゴル人民共和国の独立を追認した。
 しかしこの中ソの団結は,決して長くは続かなかった。【1953】年3月に【スターリン】が死去したあと,【1956】年にはソ連共産党第【20】回大会で【フルシチョフ】が【スターリン】批判をおこなった。この動きは国際的にも大きな影響をもたらしたが,その過程で中国共産党はソ連の【平和共存路線】への批判を強め,やがてソ連を「現代【修正】主義」と非難するようになった。ソ連も1959年12月に【中ソ技術】協定を破棄し,翌1960年には中国から技術者を引きあげ,経済援助を停止したため,両国関係はいっそう悪化した。続く中ソのイデオロギー論争では,各国共産党の多くはソ連を支持し中国は国際丘産主義運動の内部でも孤立した。1969年3月,中ソはついに国境紛争をめぐって【ダマンスキー】島(中国名【珍宝島】)で大規模な武力衝突を起こすまでにいたった。
 その後も中ソ対立は続いたが,1980年代に入って中国では最高指導者【小平】の下で改革開放政策が推進され,またソ連でも【ゴルバチョフ】いわゆる【ペレストロイカ】(改革〕が進展する中で,【1989】年5月,ソ連共産党の【ゴルバチョフ】書記長が訪中し,中ソ両国はようやく過去の対立関係を清算することとなった。


戦後史(14)インドシナ戦争とヴェトナム戦争

2012年12月07日 | トリオDE世界史

(1)20世紀初頭の近代化運動 �モデル�中心人物�運動
�日本
�ファン=ヴォイ=チャウ(潘佩珠)
�東風(トンズー)運動
(2)ヴェトナムの抗日運動 �中心人物�組織�正式名称
�ホー=チ=ミン
�ヴェトミン
�ヴェトナム独立同盟
(3)戦後の状況 �ホー=チ=ミンの国�フランスの傀儡国家�戦争
�ヴェトナム民主共和国
�ヴェトナム国
�インドシナ戦争
(4)ヴェトナム国 �国王�首都�特徴
�バオ=ダイ(阮大)
�サイゴン
�フランスの傀儡国家
(5)インドシナ戦争 �開始年�特徴�決戦
�1946年
�フランスが植民地支配の再建を狙った戦争
�ディエンヴィエンフーの戦い
(6)インドシナ戦争 �北ヴェトナムの指導者�北の将軍�ヴェトナム国王
�ホー=チ=ミン
�ボー=グェン=ザップ
�バオ=ダイ
(7)ジュネーブ協定 �年�アメリカの態度�ヴェトナム国の態度
�1954年
�調印せず
�不参加
(8)インドシナ戦争の終結 �年�休戦協定�南北の休戦ライン
�1954年
�ジュネーブ協定
�北緯17度
(9)アメリカの態度 �当時の反共思想�傀儡国家�南ヴェトナム大統領
�ドミノ理論
�ヴェトナム共和国
�ゴ=ディン=ジェム
(10)南ヴェトナムの反政府ゲリラ �組織�指導者�正式名称
�ヴェトコン
�グェン=フート
�南ヴェトナム解放民族戦線
(11)ヴェトナムの共産指導者 �北の国家元首�北の将軍�ヴェトコン
�ホー=チ=ミン
�ボー=グェン=ザップ
�グェン=フート
(12)ヴェトナム戦争 �米大統領�アメリカの口実�開始の年
�ジョンソン
�トンキン湾事件
�1965年
(13)ヴェトナム戦争と大統領 �北爆開始�ヴェトナム化�北爆再開
�ジョンソン
�ニクソン
�ニクソン
(14)ヴェトナム戦争の年代 �北爆開始�北爆再開�米軍完全撤退
�1965年
�1971年
�1973年
(15)ヴェトナム戦争の終結 �和平協定�南北統一�サイゴン陥落の年
�パリ和平協定
�サイゴン陥落
�1975年
(16)ヴェトナム戦争後 �対外戦争�隣国への侵攻�改革解放政策
�中越戦争(1979年)
�カンボジア侵攻(1979~89年)
�ドイモイ(刷新)



インドネシア現代史とアメリカの東南アジア政策

2012年12月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

第二次世界大戦中、1942年3月に日本軍はインドネシアに進攻し、オランダ軍は無条件降伏をしてオランダ領東インドはいったん消滅した。その後、1945年に戦争が終結すると、8月17日国民党の指導者スカルノが独立を宣言し、インドネシア共和国が誕生した。しかし、オランダは再植民地化をもくろみ、武力によってその独立を阻止しようとしたため、インドネシア共和国軍との間で戦闘が続いたが、194912月ハーグ協定によりインドネシアは名実ともに独立を獲得した。

 

 その後、1955年には、中国・インドをはじめとする史上初のアジア・アフリカ会議が29ケ国出席のもとにインドネシアのバンドンで開かれ、反植民地犠・平等互恵のなどの「平和10原則」が確認された。しかし、50年代の政治は不安定であり、経済建設をはじめとする数多くの課題が解決していないことが露呈されていった。その中でスカルノ大統領は軍と共産党の支持のもとに独裁権を強め、これ以後大統領内閣が組織された。しかしながら、スカルノ大統領も1965年9.30事件で失脚を余儀なくされたのである。

 1961年にマレーシアの独立をイギリスが承認したが、民族主義者であってかつ社会主義者でもあるスカルノは傀儡国家の誕生を意味しているとして批判した。1961年はケネディ大統領が南ベトナムに軍事顧問を大量に派遣した年でもあり、その意味でアメリカが本格的にベトナム戦争への介入を始めた年といえる。アメリカの東南アジア政策の基本はアイザンハウアー大統領時代からの「ドミノ理論」に支えられた「巻き返し政策」。これは積極的に共産主義化を防止するもの。この流れは1965年ジョンソン大統領の北爆開始(ベトナム戦争開始)でピークに達する。そのような時代背景の中でCIAが指導したという疑いもある9.30事件が発生し、スハルト親米政権がインドネシアに誕生したのである。


インドシナ戦争

2012年12月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1940】年日本の【仏印進駐】以後、抗日のための【ヴェトナム独立同盟】(【ヴェトミン】)で反日闘争を展開した【ホー・チ・ミン】(中国名【胡志明】)は、45年8月の日本敗戦とともに、アジア最初の共産党による民族解放を達成。ヴェトナム民主共和国をハノイに建国した。
 これに対し旧宗主国フランスは【46】年からヴェトナム支配を再開するために軍隊を派遣し、49年には阮朝国王【バオ=ダイ】(【阮大】)を擁立して傀儡国家【ヴェトナム国】を【サイゴン】に建国した。ホーのヴェトナム民主共和国対フランス・ヴェトナム国の戦争が【インドシナ戦争】である。したがってこの戦争は旧帝国主義国の植民地支配復活に対する民族闘争という性格のもので、南北問題ととらえることができる。
 【1946】年から始まったインドシナ戦争は【54】年【ディエン=ビエン=フーの戦い】でフランス空挺部隊が大敗して終結。【ジュネーブ協定】では56年の南北統一選挙実施と北緯17度線を暫定境界線と決定した。しかし、共産主義の拡大を恐れ、【ドミノ理論】を展開するアメリカはこれにジュネーブ協定に調印せず、統一選挙を待たずに55年北緯17度以にアメリカの傀儡国家【ヴェトナム共和国】を建設し、【ゴー=ディン=ジェム】政権を支援した。【1965】年から始まるヴェトナム戦争は北の共産党政権対南の反共親米政権という図式、すなわち冷戦の戦争と見ることができる。