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ワークシート(38)3カリフ時代とアッバース朝の衰退

2008年02月29日 | 高2用 授業内容をもう一度
ワークシート(38)イスラーム史(4)3カリフ時代とセルジューク朝

 地方太守(アミール)や有力者たちは、カリフの政治的権威を認めつつも自立化した。9世紀後半、イラン・中央アジアでサーマーン朝が成立し、トゥールーン朝も興った。前者の【      】朝はスンナ派で、中央アジアのサマルカンドを支配しておおいに繁栄していた。

この分裂傾向は、その後も進んだ。909年に北アフリカのチュニジアで成立したシーア派の王朝ファーティマ朝は、アッバース朝スンナ派カリフの権威そのものを認めず、自らカリフを名のり、中カリフ国と呼ばれた。この王朝名となった【       】とは、ムハンマドの娘の名であり、第4代カリフのアリーの妻のことである。ファーティマ朝は【   】年に建国した地である【     】から、さらに969年にはエジプトを征服し、アレクサンドリアにかわる新たな首都カイロを建設している。この新都【    】には、シーア派教学を研究するためのアズハル学院が建設された。しかし、のちになってこの【     】学院は当初の【   】派の学校ではなく、スンナ派教学を教える学校になり、現在に至っている。

 また、アッバース朝建設時にイベリア半島に逃れたウマイヤ家の一族は、756年から都をコルドバに置き、後ウマイヤ朝を建てていたが、彼ら【     】家の支配者たちはアミール(太守)の称号を用いていた。しかし、その君主は、909年に成立して【    】を名乗っていた【       】朝に対抗して、929年からアブド=アッラフマーン3世が、【     】(太守)の称号を改めて、【    】を名のったため西カリフ国と呼ばれるようになった。
こうして、イベリア半島には【  】年からウマイヤ家スンナ派の新カリフ【            】によって始まった【  】カリフ国、エジプトには【    】派の【  】カリフ国、イラクにはアッバース家のスンナ派カリフが並立するようになり、イスラーム帝国の分裂が明確となった。

 このような分裂の傾向は、アッバース朝の本拠地であったイラクでも顕著になった。とくにシーア派イラン系軍人が建てたブワイフ朝は、946年アッバース家カリフがいる都【       】に入城し、大アミールの称号を用いて、アッバース家カリフから完全に政治的実権を奪った。このころから、イスラーム世界はスンナ派とシーア派が激しく対立する場になっていった。
ブワイフ朝がバグダッドに入城した【   】年から約100年間、スンナ派最大の拠点は【   】派に占領されていた。しかし、1055年にセルジューク朝(セルジューク=トルコ)のトゥグリル=ベクが、【     】を称していたシーア派の【      】朝を追い払い、都【       】入城を果たした。その結果、建国者【        】はアッバース家カリフから、「イスラーム法執行権」を持つスルタンの称号を与えられ、軍事・行政の最高執行権を獲得した。
【       】朝第2代スルタンとなったアルプ=アルスランと第3代【     】のマリク=シャーに使えた宰相ニザーム=アルムルクは、各地にニザーミア学院というスンナ派教学の学校を建てている。また、この【          】はイクター制を完成させた宰相としても知られる。つまり2代目スルタン【        】と3代目スルタン【        】の2人のスルタンの時代に、【     】制によって世襲が認められた封土が分与されたことで、西アジアでも「封建社会」が始まったといえる。各地に建設された【       】学院は【    】派の教えを広める役割を担っていた。

 11世紀になると、エジプトでもシーア派のファーティマ朝は滅ぼされ、スンナ派のアイユーブ朝が成立し、サラーフ=アッディーン(サラディン)が全盛期を築いた。しかし、【              】が死ぬと、アイユーブ朝支配下のトルコ系軍人奴隷が反乱を起こしてマムルーク朝を建国した。すなわち、【       】朝・【       】朝・【       】朝の3王朝が、エジプトのカイロを都に繁栄した。


テスト
(1)875年にイラン・中央アジアで建国し、999年まで続いた【 】派の王朝は?
(2)地方太守を【 】、ブワイフ朝が用いた称号は【 】、セルジューク朝が与えられた称号は?
(3)セルジューク朝では西アジアにおける封建社会が成立した。この封土徴税権を分与する制度は?
(4)カイロに建設されたシーア派教学の学校は【 】。各地に建設されたスンナ派教学の学校は?
(5)10世紀初から16世紀まで、エジプトで繁栄した3つのイスラム王朝は?

空欄ノート(38)アッバース朝の分裂

2008年02月29日 | 高2用 授業内容をもう一度
空欄ノート(38)
(1)イラン
①サーマーン朝
875年にイランで成立した【1】朝は、スンナ派の王朝として999年まで繁栄を続けた。

(2)イベリア半島
①後ウマイヤ朝
ウマイヤ家の亡命者【1】は【2】年に、イベリア半島に逃れて都を【3】とし、【4】半島で建国した。

②西カリフ国
【1】年に【2】はそれまで用いていた称号である【3】に換えて、【4】の称号を用い始めた。
これにはエジプトの【5】朝に対抗する意味もあった。

(3)エジプト
①ファーティマ朝
【1】年に北アフリカの【2】で建国した【3】朝は、イスマイール派という過激な【4】派の一派を奉じた。ファーティマ朝はアッバース朝カリフに対抗してカリフを称した。

②カイロ建設
【1】年になるとファーティマ朝は穀倉地帯のエジプトに侵入し、新都【2】を建設した。そこにはシーア派教学を確立するために【3】学院が建設された。

③アイユーブ朝
11世紀の末から始まったキリスト教徒による十字軍に対し、ファーティマ朝に代わった【1】朝が退けた。その英雄が【2】(サラディン)である。

④マムルーク朝
【1】が死ぬとアイユーブ朝が衰退した。抑圧されていたトルコ系軍人奴隷が反乱を起こし、1250年に【2】朝を建設した。

(4)イラク・バグダッド
①ブワイフ朝
【1】家カリフの本拠地である西アジア一帯でも、多くのアミールが乱立し始めた。その一つ【2】朝が、【3】年にバグダッドに入城した。【4】派を奉じるブワイフ朝は【5】の称号を用いた。

②セルジューク朝
【1】年に【2】朝の【3】は、【4】派に占領されたバグダッドを奪回した。この功績によって、アッバース家カリフから【5】の称号を与えられた。

③イクター制
  それまでの俸給制すなわち【1】制を改め、兵士に封土を与え、その土地の世襲を認めた。この新しい制度を【2】制という。
  イクター制は一部ブワイフ朝時代から始まっていたが、本格的に採用したのは【3】朝の宰相【4】の時代である。

④ニザーミア学院
2人のスルタンに使えた宰相【1】は、シーア派に対抗するために、各地に【2】学院を建て、スンナ派教学の発展に貢献した。

⑤セルジューク朝スルタン
  初代スルタンは建国者の【1】。第2代スルタンは、1071年マンジケルトの戦いでビザンツ帝国を破った【2】。次いで【3】はイクター制の完成に貢献した。

⑥セルジューク朝時代の文化
  【1】は太陽暦の【2】暦を作成した科学者であり、4行詩【3】を歌った詩人でもあった。ジュラール暦は中国に伝わり授時暦に発展した。


用語の整理
(1) 後ウマイヤ朝の建国者。
(2) 後ウマイヤ朝の初代カリフ。
(3) ファーティマ朝が建国した年。
(4) 後ウマイヤ朝がカリフ位を用いた年。
(5) 9世紀後半イランで自立したスンナ派王朝。
(6) 946年にバグダッド入城したシーア派王朝。
(7) セルジューク朝の建国者。
(8) セルジューク朝がバグダッド入城した年。
(9) セルジューク朝の宰相。
(10)セルジューク朝で完成した分与地制度。
(11)セルジューク朝が用いた称号。

イスラム史 関西学院大学

2008年02月29日 | 復習用入試問題
【1】次の文中の   に最も適当な語を語群から選び,記号にマークしなさい。関西学院大学

 いわゆるイスラム世界とは,7世紀以降のイスラム教の拡大にともなって形成されていった地域のことで,具体的には,アラビア半島を中心にした西アジアとエジプト,さらには中央アジアからインド,東南アジアにかけて,また西北アフリカとイベリア半島,そしてサハラ砂漠以南のアフリカなどが含まれる。

 アラビア半島では,ムハンマドの死後,選挙制によって選出された4人の正統カリフの時代が続いたが,第4代カリフのアリーが暗殺されると,シリア総督であった ① が ② にウマイヤ朝を開き,西北インドよりアフリカ北岸を支配下に入れ,さらにはイベリア半島に進出して ③ 領に侵入し,ピレネー山脈を北限にその地を支配した。その後,アラブ人を中心に据えるウマイヤ朝の支配を,信者の平等を説く『コーラン』の教えにそむくと批判した勢力によってアッバース朝が開かれ,第2代カリフの ④ の時代には首都 ⑤ が建設された。

 滅亡したウマイヤ朝の一族はイベリア半島に逃れ, ⑥ を首都に後ウマイヤ朝を建てた。また10世紀になると,イラン人の軍事政権ブワイフ朝がカリフからイスラム法を施行する権限を与えられ,エジプトではファーティマ朝が ⑦ を首都に栄えて,カリフの称号を用いてアッバース朝と対立するなど,イスラム世界は新たな段階に入ることになった。

 11世紀に入るとトルコ系のセルジューク朝が栄え,中央アジアからインドにかけてはガズナ朝が成立し,さらに13世紀初頭にはインドで最初のイスラム王朝などが生まれた。このほか,サハラ地域にはムラービト朝,サハラ以南のアフリカでは,西スーダンのマンディンゴ人が13世紀半ばに建国した ⑧ や,すでに9世紀から存在していたチャド湖東岸のカネム王国などがイスラム教を受け入れて栄えた。

 これらの地域では,イスラム教をもとにして各地の文化遺産を融合したイスラム文化が形成された。なかでも,ガズナ朝時代の『シャー=ナーメ』や,アッバース朝末期からイル=ハン国時代にかけて諸国を放浪した ⑨ による『薔薇園』や『果樹園』は評価が高く,また ⑩ に残るアルハンブラ宮殿は世界で最も美しい建築の一つといわれている。

[語 群]

a.ダマスクス b.ビザンツ帝国 c.コルドバ

d.ムアーウィヤ e.グラナダ f.オマル=ハイヤーム

g.カイロ h.バグダード i.サーディー

j.テヘラン k.マンスール l.ソンガイ王国

m.フランク王国 n.ボルヌ王国 o.マフムード

p.マリ王国 q.ガザン=ハン r.サラディン

s.ウマル t.サマルカンド

正解

① d ② a ③ m ④ k ⑤ h

⑥ c ⑦ g ⑧ p ⑨ i ⑩ e




板書(37)アッバース朝全盛期 

2008年02月27日 | 高2用 授業内容をもう一度
(1) 成立期のアッバース朝
① 成立の背景
征服された異民族でイスラム教に改宗した【      】と呼ばれる人々と、【    】派などのウマイヤ家支配を批判するアラブ人が、アッバース家の【         】に協力してウマイヤ朝を倒した。
・・・【    】年 アッバース家の【          】が初代カリフになり、アッバース朝が始まった。協力した【     】人は財政面や行政面で重用され、官僚制度が整えられた。しかし、【    】派はふたたび迫害された。

② 後ウマイヤ朝の成立
敗れたウマイヤ家の一族が【      】半島に逃れて、【       】朝を建国した。
・・・建国者【           】が【      】という称号を用いながら、都を【     】に置いて、政治的、軍事的に独自の勢力を維持した。     
 
③ アッバース革命
   アラブ人を優遇した【      】朝を【     】帝国と呼び、イスラム教徒の平等が実現した【      】朝を【     】帝国という。
  ・・・ウマイヤ朝は【     】人は免税特権をもち、地税【     】も人頭税【     】も払わなかった。しかし、アッバース朝では、アラブ人も地税
  【     】を支払い、異民族のイスラム教徒も地税【     】を支払ったので、税制上の平等が実現した。一方、異教徒は地税【     】に加えて、人頭税【     】を支払った。逆に言えば、人頭税【     】を支払えば異教徒でも信仰の自由が認められた。
 
(2) 全盛期のアッバース朝
① 第2代カリフ【         】
  都【      】を建設した。この都の名は「【    】の都」という意味の、【             】と呼ばれた。
  ・・・【   】世紀にはバグダッドには【    】万人以上の人々が住み、西アジア世界の中心として繁栄した。これは中国の王朝【   】の都【    】が東アジア文化圏の中心であったことと比較される。

② 全盛期のカリフ【          】第5代カリフ
  千夜一夜物語【           】の主人公のモデルとしても知られる。【   】世紀の後半にアッバース朝の全盛期を作り上げた。
   ・・・【    】人を登用し、イラン人を排除したため、イラン人の自立化を招く結果になった。

③ 全盛期最後のカリフ【        】第7代カリフ
  【      】語文献をアラビア語に翻訳するための研究所【        】(【     の館】)を都【       】に建設して、古代ギリシア文化やヘレニズム文化を受け継ぐことに貢献した。

アッバース朝全盛期

2008年02月25日 | トリオDE世界史
(1)アッバース朝カリフ3人
①マンスール
②ハールン=アッラシード
③マンスール
(2)後ウマイヤ朝の年代 ①ウマイヤ朝滅亡年②後ウマイヤ朝成立年③カリフ
①750年
②756年
③929年
(3)タラス河畔の戦い ①年②唐の将軍③歴史的意義
①751年
②高仙芝
③製紙法が西伝した
(4)10世紀アッバース朝時代の地方政権 ①イラン②エジプト③イベリア
①サーマーン朝
②ファーティマ朝
③後ウマイヤ朝
(5)サーマーン朝 ①繁栄した都市②宗派③医学者
①サマルカンド
②スンナ派
③イブン=シーナー(アヴィケンナ)
(6)イブン=シーナー ①ラテン名②著作③活躍した国
①アヴィケンナ
②医学典範
③サーマーン朝
(7)バイト=アル=ヒクマ ①建設者②役割③別名
①マームーン
②ギリシア語文献をアラビア語に翻訳
③知恵の館
(8)3カリフ時代 ①東カリフ国②中カリフ国③西カリフ国
①アッバース朝
②ファーティマ朝
③後ウマイヤ朝
(9)800年前後の人物 ①中国②西アジア③西欧
①徳宗
②ハールン=アッラシード
③カール大帝
(10)バグダッドの年代 ①ブワイフ朝入城②セルジューク朝入城③フラグ入城
①946年
②1055年
③1258年

03日本大(法)ローマ史

2008年02月03日 | 復習用入試問題
03日本大(法)ローマ史

次の文章を読み,問1~問10に答えなさい。答はすべて数字で記入しなさい。

 古代ローマ帝国の領土は(1)の統治下で最大となり,地中海沿岸諸地域はもとより,(2)ガリアやブリタニアも含むまでに拡大した。もともとローマはラテン人が半島中部のティベル河畔に建設した小都市国家からおこったものであり,最初は王政がとられていた。だがラテン人たちは,紀元前6世紀末に先住民族の(3)からでた王を追放し,以降数世紀にわたってローマは(4)共和政のもとで強国へと発展していった。しかし,前1世紀になると,同盟都市との戦争,海賊の横行,剣奴の反乱などがあいつぎ,ローマの混乱はその頂点に達し,このため前60年には(5),クラッスス,ポンペイウスによる第1回の三頭政治がはじまったが,これは共和政とはあいいれないものであった。
「ローマの平和」とよばれる(6)ローマ帝国の最盛期は,アウグストゥスから五賢帝にいたるまでのおよそ200年にわたってつづいた。だが2世紀も末になると帝国の政治は乱れはじめ,3世紀には各地の軍隊がかってに皇帝をたてたり,北方からのゲルマン人,東方からの(7)ササン朝の侵入が激しくなるなど,帝国の支配体制は動揺した。3世紀末になってこの混乱を収拾したのはディオクレティアヌス帝であるが,彼はまた(8)キリスト教徒に対する大迫害をおこなったことでも知られている。しかし,コンスタンティヌス帝の時代になると,帝国統一の必要性からキリスト教が公認され,ニカイア(ニケーア)の公会議では,皇帝主導のもとに(9)の教義が正統とされた。コンスタンティヌス帝は,この他にもローマからコンスタンティノープルに遷都するなど,さまざまな改革をおこなうが,これらの努力も帝国の解体を防ぐことはできず,4世紀末に古代ローマ帝国は東西ローマに分割された。そして,東ローマ(ビザンツ帝国)はそれ以後1000年あまり続いたが,(10)西ローマは476年に滅亡した。

問1.空欄(1)に該当する人名を,次の1~4の中から一つ選びなさい。
1.ハドリアヌス 2.ネロ 3.トラヤヌス 4.コンスタンティヌス

問2下線部(2)に関する次の文a・bの正誤を判断して正しいものを,次の1~4の中から一つ選びなさい。
a.ガリアに建設されたローマ風の都市はルテティアとよばれ,のちのパリとして今日まで栄えている。b.ブリタニアに建設されたローマ風の都市はヴィンドポナとよばれ,のちのロンドンとして今日まで栄えている。
1.aのみが正しい 2.bのみが正しい 3,a・bともに正しい 4.a・bともに誤り

問3.空欄(3)に該当するものを,次の1~4の中から一つ選びなさい。
1.イオニア人 2.ドーリア人 3.イタリア人 4.エトルリア人

問4.下線部(4)のローマの共和政に関する次の1~3の記述のうち,誤りを含むものがあればその番号を,なければ0を記入しなさい。
1.初期の共和政は貴族の手ににぎられており,執政官をはじめとしてあらゆる官職は貴族に独占されていた。
2.平民が重装歩兵として国防をになうようになると,平民出身者を護民官に選ぶ制度がうまれた。
3.前3世紀にはあらゆる官職が平民に解放され,また平民会の決議が元老院の承認なしに国法として認められた。

問5.空欄(5)に該当する人名を,次の1~4の中から一つ選びなさい。
1. オクタヴィアヌス 2.カエサル 3.アントニウス 4.レピドゥス

問6.下線部(6)に関する次の文a・bの正誤を判断して正しいものを,次の1~4の中から一つ選びなさい。
a.帝国内は一般に平和で,経済活動もさかんであった。
b.ローマの市民権はイタリア半島に住む自由民にだけあたえられた。
1.aのみが正しい 2.bのみが正しい 3.a・bともに正しい 4.a・bともに誤り

問7.下線部(7)のササン朝に関する次の1~3の記述のうち,誤りを含むものがあればその番号を,なければ0を記入しなさい。
1.この王朝をおこしたアルデシール1世は,マニ教を国教に定めた。
2.第2代皇帝シャープール1世はシリアでローマ軍を破り,ローマ皇帝を捕虜にした。
3.この王朝は,アラブ人に征服されて7世紀のなかばにほろびた。

問8.下線部(8)に関連する次の文a・bの正誤を判断して正しいものを,次の1~4の中から一つ選びなさい。
a.ローマヘの宣教に大きな役割をはたした使徒のペテロとパウロはともに,暴君ネロの迫害によって殉教したといわれる。
b.ローマは般に宗教的には寛容であったが,キリスト教徒は皇帝崇拝を認めようとしなかったので迫害された。
1.aのみが正しい 2.bのみが正しい 3.a・bともに正しい 4.a・bともに誤り

問9.空欄(9)に該当するものを,次の1~4の中から一つ選びなさい。
1.スンナ派 2.ネストリウス派 3.アタナシウス派 4.アリウス派

問10.下線部⑩の西ローマの滅亡にいたる過程に関する次の1~3の記述のうち,誤りを含むものがあればその番号を,なければ0を記入しなさい。
1.本土のイタリアは兵をださず,国境を守るべき属州の軍隊に多数のアラブ人の傭兵が採用されていた。
2.歴代の皇帝が都市に重税をかけたので都市の没落がはじまり,経済や文化も衰えてきた。
3.都市から地方に移った有力者の大所領が,しだいに帝国の行政から独立するようになってきた。

正解
31402 11331