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修道院と騎士団の歴史 上智大学2009より

2016年01月25日 | 高2用 授業内容をもう一度
 レコンキスタ運動には,実は修道院活動が深く関与していた。その歴史を簡単に眺めてみよう。ユダヤ側史料では「大酒飲みで大食らい」と揶揄されているように,イエスの教えは決して禁欲主義的ではなかったが,その後のキリスト教の一方の動向には禁欲の思想が常に存在していた。その起源のひとつはユダヤ思想にあって,たとえばローマ時代のプリニウスは自著『【博物誌】』で,死海西岸に独居していた一群の人々に言及していた。それは1947年に「死海文書」が発見され,その実在が確認されたのである。
 
 また,ギリシアの哲学者【プラトン】によれば,霊魂は本来彼岸の存在であるにもかかわらず「肉体という牢獄」のなかに閉じこめられており,禁欲的な生活実践をめざすことで人間は理想に近づけると考えた。前3世紀に活躍した【ゼノン】からローマ時代におよぶ【ストア】派の禁欲思想は,人間はうむことなき鍛錬をとおして自らの自由を発見することに主眼があった。その代表者セネカは,著書『【幸福論】』で知られている。
 こういった諸源流との習合の中から,とりわけ聖書外典においてキリスト教的禁欲思想が定着していった。そしてイエスとその弟子たちが禁欲主義の実践者としてとらえられるようになった。キリスト教信者は公認されるまで,常に一般社会との緊張関係にさらされていた。イエスの教えに従うこと自体が禁欲的生き方だったし,聖書の「この世の終わりは迫っている」という『【黙示録】』に特に顕著な終末思想の与えた影響も大きかった。
 エジプトの砂漠で展開した修道制が徐々に西地中海に伝えられていった。その最大の紹介者はアレクサンドリア出身の【アタナシウス】で,彼は【ニケーア】公会議後に皇帝によって西方に追放されたとき,隠修士の伝記『聖アントニオス伝』を書いて東方修道制を紹介した。ラテン語訳聖書の翻訳者でもあった【ヒエロニムス】は,シリアで隠遁生活を行い,最後はベツレヘムでなくなった。北アフリカ出身の【アウグスティヌス】は友人たちとともに共住生活を開始し,自らの修道規則「アウグスティヌス会則」を執筆する。彼は『【神の国】』の著者としても著名である。
 
 こうしたさまざまな人々の試みを集約して西ヨーロッパに普及することになる修道制は,【イタリア】生まれのベネディクトゥスによって【6】世紀に【モンテ・カシノ】で起草された「ベネディクトゥス戒律」に従ったものだった。それは,「隠遁・禁欲・苦行・瞑想」を重視した東方修道制とくらべ,「【清貧】・【純潔】・【服従】」を特色とし,「【祈り、かつ働け】」をモットーに掲げていた。同じモットーにしたがって10世紀初めにフランス東部に設立されたのがクリュニー修道院で,中世の【教会刷新】運動の中心となった。それから分かれて「戒律」をより厳格に守ろうとしたのが【シトー】修道会で,【大開墾】運動において大きな役割を果たすことになった。そのほかに,説教と清貧・托鉢で著名なイタリア起源の【フランチェスコ】修道会や,異端撲滅と神学研究で成果を上げた【ドミニコ】修道会も【13】世紀に設立された。
 
 そしてこの【クリュニー】修道院は,【サンチャゴ=デ=コンポステラ】巡礼の公的援助をおこない,順路上の諸施設を整備し,騎士を勧誘して巡礼団の護衛にあたらせていた。こうして私的信心業としての巡礼は,公的な武装巡礼団に成長し,まもなくイベリアにおける【レコンキスタ】運動の一翼をになうようになり,ついには十字軍の中核を形成するに至る。すなわち,各種の宗教騎士団の結成である。
 その代表例が,第1回十字軍で結成された【ヨハネ】騎士団で,これは根拠地をキプロス島,ロードス島と変転を繰り返して,現在も【マルタ】騎士団として存続している。12世紀初頭に巡礼の保護と聖地の聖墳墓防衛を目的に結成された【テンプル】騎士団は,寄進で富裕化して西欧各地にも拡大したため,その富をねらったフランス王フィリップ4世によって弾圧され,14世紀初頭に解散させられた。この王はまた,初めて【三部会】を招集し,教皇庁を【アヴィニヨン】に移したことでも著名である。最後に,12世紀末に聖地防衛のために【アッコン】で結成された【ドイツ】騎士団がある。十字軍終了後は【シトー】修道会とともに【東方植民】で活躍し,【バルト海沿岸】を開拓した。16世紀にその歴史的使命は終わったものの,現在も一種の慈善団体として存続しているらしい。


中世西欧社会の様子について

2016年01月25日 | 高2用 授業内容をもう一度

中世西欧社会には「戦う人々(【騎士】)」と「祈る人々(【聖職者】)」と「働く人々(【農奴】)」とがいました。戦う人々を「【】騎士」といいます。騎士は広い領地を持っている「【領主】」でもあります。彼らは自分の領地を守るために、より強い者と主従関係を結びました。自分の領地を守ってもらうために主従関係を結び、その代わりに主人の命令に従って軍役の義務を負う。この関係を「【レーン制】(封建制)」と呼びます。
 レーン制は日本の封建制と似てはいますが、大きく違う面もあります。レーン制の場合、主従関係は「【双務的契約関係】」で結ばれています。これは主従の関係が「契約」で定められたものであり、その契約が「双務的」だ、ということです。双務的というのは、一方方向ではないことを意味します。つまり、主人は家来が義務を果たさなければ(契約を違反すれば)、家来を保護する責任を放棄できるし、逆に、家来の側でも主人が自分を守ってくれなければ、主人に対する軍役を放棄し主従関係を解消できるというものです。
 さらに、レーン制では、契約は年間40日間のみのものでしたから、一人の騎士が複数の主人を持つことも可能でした。その騎士が2箇所に分かれた領地を持っていれば、必要に迫られて、それぞれの領地を守るために二人の主人を契約を結んだはずです。以上のレーン制はあくまで「戦う人々」の間で結ばれた人間関係です。
 次に領主が所有している「領地」の中には「【荘園】」という村がいくつかありました。荘園には「耕区」という農地があり、「働く人々」が耕していました。彼らのことを「【農奴】」といいます。農奴になったのはローマ帝国末期の【コロヌス】や【ゲルマン農民】、没落した【ローマ自作農】などでした。彼らはローマ末期の大混乱の中で生き抜くために、荘園に移り住んできた人々です。荘園で暮らしていれば、領主がならず者を追い払ってくれるでしょう。
 しかし農奴は自分の土地を所有していたわけではなく、領主から土地を借りて食べ物を作っていました。この土地を「【農民保有地】」といいます。土地を借りている代わりに領主に対して地代を払う必要がありますが、8~9世紀ころの農奴たちは、農奴に配分されなかった良質な農地を耕して、そこで取れたすべての農作物を領主に献上する必要がありました。このように働いて地代を払ったので「【】労働地代」といいます。また、取れたものを領主がすべて受け取ることになる農地を「【領主直営地】」といい、農民保有地とは区別されました。農奴はまったく自分のためにならない農地を耕さねばならなかったので、生産性は非常に悪かったはずです。
 農民保有地を借りていたので、農奴は自分の家族を養うために必要な収入を得ることができました。しかし、農民以外の者になることはできず(【転職の自由】がない)、他の土地に移り住むこともできません(【移住の自由】がない)。だから農奴を「【土地付き小作人】」といいまうす。このように基本的な人権を制限されていたわけです。さらに、【結婚税】や【死亡税】といった農奴だから払わねばならない「【身分上の税】」もあり、パン焼きの竈の使用税や森から薪を拾うことにも税を要求されました。


不安を超える

2016年01月24日 | 何かの足しになれば
感情を紙に書き出す

試験やスポーツで緊張して力を出し切れないことがあります
人間の脳に感情に関する部分と思考を組み立てる部分があり、この二つが隣接しているため、不安や緊張といった感情が脳で発生すると 感情を扱う脳の活動が活発になり、思考のための脳の活動が低下してしまうようです。

ではこの二つの隣接する脳の活動を分けるにはどうすれば良いか?

不安や緊張といったネガティヴな感情を紙に書き出すこと
思っていることや感じていることを紙に書き出すと 思考の脳が感情を認識することができ その結果、二つの脳の領域が分離するそうです。

試験前10分に何もしなかった生徒群と感情を紙に書いてから試験を受けた生徒群とでは 平均点に開きが出たという実験結果もあります。

先のラグビーワールドカップで活躍した日本代表の立川選手は 大会一週間前に極度の緊張でうまくプレーができずにいたが、感情を紙に書き出すというアドバイスを実行して試合に臨み、素晴らしいパフォーマンスを見せてくれました。