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世界史の復習をサポートするブログです

7年戦争後の英仏の関係の変化  05年京都大学

2015年05月28日 | 高3用 授業内容をもう一度

 18世紀後半から19世紀前半にかけて,大西洋をはさんでアメリカ大陸とヨーロッパの双方で戦争と革命があいついで勃発し,この間にヨーロッパ諸国間の関係は大きく変化した。七年戦争からナポレオン帝国の崩壊にいたる時期にイギリスとフランスの関係はどのように変化したか,300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

解法
まず、問題文から書くべきポイントを探します。
(1)18世紀後半とは1763年以降、19世紀前半は1848年までだろうと考える
(2)この時期の大西洋をはさむ戦争とあるので、7年戦争前のブルボン家の戦争は除外する
(3)問題文では戦争が勃発したので、諸国間の関係が大きく変化したとある
(4)1では1848年頃までかとしたが、ナポレオン帝国の崩壊までと指定されたから、1815年までに修正
(5)「英仏の関係の変化」が主題になる
(6)ただし、問題文前段部分については無視すべきではないだろう。つまり「戦争が」「関係」を変化させた、という観点から書くべきポイントを洗い出していくことのなる。

解答を自分で書いたら添削します。


ピューリタン革命の原因

2015年05月27日 | 高3用 授業内容をもう一度
エリザベス1世は毛織物工業を保護・育成した。毛織物工業に関わる人々はピューリタンが多く、国教会による一元化とは矛盾する政策だった。そのような中、1588年にアルマダの海戦スペインの海上貿易独占が崩れると、香辛料貿易に乗り出すため1600年東インド会社を設立市、た。さらに北米植民地建設を目指してウオーター・ローリーがヴァージニア植民地建設に取り組んだものの失敗した。
1603年エリザベス1世の死により、チューダ朝が終わり、スチュアート朝が発足した。初代国王にはジェームズ1世が即位したが、彼は宗教の一元化を進め、ピューリタンを弾圧した。からはイングランド国王に即位する前に「自由な君主国の真の法」を著し、絶対王政を正当化する理論を発表している。その理論を王権神授説という。
ジェームズ1世がピューリタンを弾圧したため、毛織物工業は打撃を受けた。1620年にはピューリタン達が北米大陸に亡命する事件であるピルグリム・ファーザーズが起きている。ところが1623年アンボイナ事件でオランダに敗北したため、頼りの香辛料貿易ができなくなってしまった。すると毛織物工業の貿易で利益をあげる政策を捨てていたため、王室財政は極端に窮地に追い込まれてしまった。それより以前1607年にジョン・スミスがインディアン娘ポカホンタスの協力で北米にヴァージニア植民地建設に成功しており、タバコ生産に取り組もうとしていたが1620年代にはまだ起動に乗っていなかったことも財政赤字の原因だった。

絶対王政は重商主義政策によって財政をまかなった。そのため重商主義政策が行き詰まると財政が悪化し、王室はその対応を迫られる。ステュアート朝ではトン税やポンド税などの関税や特権を売りさばくことで財政難を乗りきろうとしたが、特権階級のピューリタンを中心とする勢力がこれに強く反発し革命に発展していった。



東インド会社の歴史

2015年05月25日 | 高3用 授業内容をもう一度
1600年にイギリス東インド会社が設立されました。東インドとは現在のアジア地域を指します。この会社はアジアの香辛料貿易に乗りましますが、1623年のアンボイナ事件でオランダに敗れ、香辛料貿易からの撤退を余儀なくされました。
そこでインドに退き、キャラコというインド産の高品質な綿織物を輸入し始めました。キャラコは瞬く間に人気商品になりますが、当時のイギリス政界を握っていたのは、毛織り物工業と関係の深い長老派国教徒です。したがって彼らは権力を振るって1720年代に次々とキャラコ輸入禁止の法律を制定します。

ちょうどイギリス東 インド会社がキャラコで潤っていた17世紀後半は、オランダの東インド会社が香辛料貿易と日中貿易を独占していました。そのためフランスのコルベールは1664年に東インド会社を復活させ、まで介入の余地があるインド貿易つまりキャラコや紅茶の輸入で利益を上げようとしました。ベンガル地方にはシャンデルナゴルフを建設し、イギリスの拠点カルカッタと対抗するとともに、南インドではイギリスのマドラスに対抗してポンディシェリを建設しました。
ここから英仏による重商主義をめぐる戦争が約100年間断続的に始まります。これを第2次英仏100年戦争と呼びます。

さて、イギリスの東インド会社がキャラコの輸入ができなくなると、イギリス人は自分たちでキャラコのような綿織物を製造し始めました。この綿織物工業こそが産業革命の幕開けになります。1733年以降の話です。すなわちそれまでヨーロッパでは毛織物工業が工業生産の中心でした。しかし産業革命は綿織物工業で始まったわけです。

一方、イギリスの 東インド会社は主力商品を失ったのでとうぜん赤字で苦しみます。その東インド会社を救済するために、議会は会社に中国貿易の独占権をあたえます。これが1773年の茶法です。

東インド会社に独占を認めた茶法の制定によって紅茶の値段が上がります。それに起こった北米マサチュセッツ植民地のボストン市民はがボストン茶会事件を起こし、この事件をきっかけにアメリカ独立革命が発生していきます。

イギリス東インド会社はその後、1833年に中国貿易の独占権を失い、インドにおける超税収入による会社経営に転換を余儀なくされました。しかし、インド農民にとってこれは大きな負担になります。この時の徴税方法をザミンダーリー制と言いますが、これに対する反乱がインド大反乱です。1857~59年まで続いた反乱の責任を負って1858年東インド会社は解散しました。

17世紀後半のオランダ・イギリス・フランスの抗争  関西学院大学

2015年05月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

1651年から1689年までと,1689年から1763年までという時期区分は,世界の経済事情の変化を映すものであるが,そうした変化がもたらした政治的結末をも反映したものである。
 最初の時期(1651年から1689年まで)には,【オランダ】のヘゲモニー(覇権)に対する【イギリスとフランス】のチャレンジが成功し,イギリス人やフランス人は,1672年までには,オランダ国家が,もはやこれまでのように疑問の余地のない巨人などではない,と感じるようになった。1689年までには,オランダ人自身でさえ,そのように感じるようになったと思われる。したがって,【ウィリアム3世】と【メアリ2世】のイギリス王位への登位を転換点とみるのが自然といえよう。
 ついで,間断のない英仏抗争期として,1689年から1763年までの時期が設定できる。【1763】年という年は,いわゆる【第二次英仏百年】戦争が終わって,イギリスの勝利が決定した年だといえよう。たとえ,フランスが1815年まで,この事実を認めようとしなかったとしても,である。1689年の時点では,イギリスが対仏抗争に勝利できるかどうかは,決して判然としてはいなかった。フランスはイギリスの4倍の人口と,遥かに大きな陸軍をもっていた。そのうえ,イギリスでは内乱(ピューリタン革命)の後,成長率が低下しつつあったのに,フランスの工業生産は成長しつつあった。したがって,次のように言うとしても,あながち不当とはいえない。すなわち,1689年以降,イギリスはこれまでのスペインやオランダとは桁違いに強力な,フランスという敵対国に直面することになったのだ,と。この抗争は,ヨーロッパでは領土,同盟関係,市場をめぐっての,北アメリカ,南アメリカ,西アフリカ,インドなどの辺境および外縁部からの奴隷供給や砂糖のような熱帯・亜熱帯産物,毛皮,海軍・造船資材などの供給をめぐっての,ほとんど果てしない1ラウンドの戦いのようなものであった。
(I・ウォーラーステイン『近代世界システム』


ルイ14世の気分は

2015年05月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

【ルイ14世】の気分は、ヨーロッパキリスト教徒世界のリーダーとして君臨したい、というものでした。彼が主張してい【太陽王】と言われた所以です。新教勢力をヨーロッパから駆逐する役割を神から任されているという自負を持っていたと考えて良いでしょう。彼が主張していた「【王権神授説】」は、フランス王権がなぜ他を圧倒する権力を持っているかを説明するために、キリスト教の神に統治を委ねられているとしています。神の声に応える必然があるわけです。
そのために、ルイ14世は国内にいるカルヴァン派を追放するため、ルイ14世が出した【1685】年【ナントの勅令を廃止】。ユグノーの追放に踏み切りました。この時、フランスにいたユグノーの多くは【プロイセン】に亡命したと言われています。
しかし、その代償は大きかったと言えます。コルベールが育てた毛織物工業は破綻し,フランスの重商主義は東インド貿易と北米大陸での貿易にのみ依存する事になっ
,その植民地支配を巡って、イギリスとの【第2次英仏100年】戦争を戦わねばならなくなりました。


コルベール主義

2015年05月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【30年戦争】中に即位した【ルイ14世】は、【1648】年貴族最後の反乱といわれる【フロンドの乱】を鎮圧し、絶対王政の基礎を築きました。宰相【マゼラン】が亡くなると親政を開始し、財務長官に【コルベール】を登用して、重商主義政策を展開させました。コルベールが行ったフランスの重商主義政策を「【コルベール主義】」といいます。コルベールは活動を停止していた【1664】年【東インド会社】を復活し、【1682】年【シャンプラン】に北米植民地の【ルイジアナ】を建設させています。フランスの北米植民地は【1608】年に建設された【ケベック】(カナダ)とルイジアナが中心です。もちろん、ルイジアナの「ルイ」はルイ14世のことです。
 一方、イギリスがピューリタン革命や名誉革命で混乱していたため、イギリスの毛織物生産は停滞していました。このことに乗じてコルベールは、【国立マニュファクチュア】を設立して、フランスにおける毛織物工業を育成しました。その担い手は【ユグノー】です。ユグノーは【1598】年に出された「【ナントの勅令】」で個人の信仰の自由を認められていたことを思い出してください。
 しかし、ルイ14世が【1685】年に「ナントの勅令」を廃止してしまうと、フランスの毛織物工業は一気にしぼんでしまいました。フランスが北米植民地や香辛料などのアジアの貿易で利益を上げられれば問題はないと考えたのでしょう。ユグノーたちはウェストファリア条約でカルヴァン派の信仰を認めていた神聖ローマ帝国内の【プロイセン】に移住してしまいました。


夏休みの学習について

2015年05月19日 | ワークシート

夏休みには赤本の世界史をやりはじめていいんですか?それとも12月くらいに全部の単元が終わってからにしたほうがいいですか?
というコメントに対する回答です。

 夏休みには問題集をやりたいものです。できるだけ多くの問題演習をしたい。本屋でZ会などの問題集を2冊以上購入してください。以下はその勉強方法です。やらなければと思っていたことができるのが夏休みです。
① 古代史などといったように、教科書の分野ごとに問題が配列している問題集を  解いていきます。
② その時に大切なことは、「1分野に対して数冊を一気に解く」ことです。
③ いくつかの分野が混合している問題で、その完成度をチェックできます。たと  えば、オリエント、ギリシア、ローマ、キリスト教が混合している「地中海世  界」の問題などがこれにあたります。中世だと「キリスト教史」など。
④ 赤本ですが、③のような問題も出題されていますから。赤本の最初の方のペー  ジに書かれている年度毎の出題されたテーマをコピーしておくと便利です。   赤本も問題集として扱うことができます。
⑤ これらの学習は完全に覚えてから取り掛かる必要はありません。板書のプリントを覚えたかな?程度で十分です。
⑥ 解らなかったら回答をすぐにカンニングすることです。調べて、まとめて、ノ  ート作り、などはまったく意味がありませんし、山川出版の「世界史サブノー  ト」などはやるべきではありません。
⑦ 最後に、世界史がうまくいかなかった人は、赤本や問題集のうち穴埋めの問題  を多く解きます。青山学院大学のような下線部分の正誤判定は12月以降で結構  です。

 最近の大学入試問題は非常に簡単になっています。英語・国語・世界史の学習時間の配分に工夫していく必要があります。


名誉革命

2015年05月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

1660年王政復古を実現したのは、長老派の国教徒たちでした。彼らはクロムウェルの独立派に追放されていましたが、オリバー=クロムウェルの子で護国卿に就任していたリチャード=クロムウェルの失政に業を煮やし
、一部の王党派と結んで護国卿を追放しました
。したがって、王政復古後の政府には長老派を中心とする国教徒が主体になっています。


絶対王政を支える経済政策を重商主義といいます

2015年05月14日 | 高3用 授業内容をもう一度
まず、絶対王政という国家は中世のようなバラバラな状態を抜け出して、国王を中心に特権階級が政治や経済の旨味を独占している国家です。中世は諸侯がバラバラに自立し、国王といえども諸侯に対して権限を振るうことはできませんでした。つまり、諸侯の領土は独立国のような感じです。しかもローマ教皇や神聖ローマ皇帝が国王にたいして影響力を持ち、権限を行使することがしばしば起こっています。教皇が権限を行使した例としては、教皇インノケンティウス3世がイギリス王ジョンを破門した、といったことが挙げられます。
絶対王政では国王が主権者として君臨します。国内に国王にたいして歯向かうような勢力は存在しません。また教皇が国王にの政治にたいしてとやかく言うこともありません。この状態をを主権国家とも言います。つまり絶対王政は主権国家(近代国家)の段階にあると言えます。
諸侯のうち国王を支持して生き残った者を貴族といいます。貴族は国王にたいして歯向かわない代わりに、官僚として軍隊の指揮官として協力します。国王もその代償に貴族に免税特権を与え、貴族年金を支払ってそれに答えるわけです。特権階級の貴族と国王との関係は「持ちつ持たれつ」の関係はであると言えます。
大土地所有者の貴族にが税金を払わないのに国家収入はどうするのか?という疑問を解決するのが「重商主義」という絶対王政がとった経済政策です。重商主義は特権階級の一員でもある「大商人」が外国との貿易を独占して利益を上げ、その利益の一部を国に「特許料」として支払うことで国家財政を賄うという経済政策です。大商人の独占は軍事力で守るのが貴族の仕事でもあります。つまり大商人は特許料を支払って国家財政を負担する代わりに、貿易の独占権を国王に認めてもらい、商売敵からその独占権を守ってもらうわけです。ここでも国王と大商人との間に「持ちつ持たれつ」の関係があると言えるでしょう。
以上にように国王と特権階級とが「持ちつ持たれつ」の関係にありながら、特権を利用して贅沢な暮らしをしている。絶対王政とはそのような国家であるとも言えます。
したがって絶対王政には外国との貿易が不可欠です。もしこの貿易がうまくいかなくなると、国家財政が破綻してしまいます。それが革命の原因になるのです。

イギリス革命は社会改革は不十分だった

2015年05月14日 | 高3用 授業内容をもう一度
 13世紀のイギリスでは身分制議会が成立しました。その議会には「課税承認権」が認められ、国王による課税を無制限には許さない権利を議会が持ちました。1215年に成立した「マグナカルタ」でそのことを定めました。しかし実際には議会は国王の要求に対して拒否することはなかったといってもよいでしょう。
 17世紀のイギリス革命は、その直前の財政破綻が原因で起きました。だからスチュアート朝の国王ジェームズ1世やチャールズ1世は、財政再建のために議会に課税を要求せざるを得なかったわけです。しかしその課税(特権の濫発や関税の強化)があまりに理不尽だったために、議会の一部は国王大権(国王が勝手に政治をすること)を制限するたねみ反乱を起こしたといえます。この動きは最終的に「責任内閣制の成立」まで進みます。つまり、政治をする内閣は議会に責任を負い、国王は「君臨すれども統治せず」といって、政治には無関係な立場に置かれました。ところが、ここで注意しなければならないのは、この「議会」は特権階級によって選ばれた議員で成り立っている点です。つまり、この段階での責任内閣制は特権階級による特権階級のための政治だったわけです。 
 19世紀のフランス革命は特権階級を吹き飛ばし、市民が政治の中心に座るという大事件でした。この影響を受けて19世紀のイギリスでも自由主義改革が進みました。すなわち、特権階級が独占していた政治や経済(議会重商主義)を、一般の市民(実際に政治力を持ったのは資本家でしたが)が徐々に獲得していったのです。
 イギリス革命は、国王中心の政治を終わらせました。しかし特権階級が生まれがいいという理由で政治を独占し、同じように生まれがいいという理由で経済を独占する社会を終わられることはありませんでした。なぜなら、特権階級が起こした革命だからです。言い方を変えると、イギリス革命の「敗者」は国王および王党派であり、「勝者」は議会中心の政治を要求する特権階級だったからです。
 

イギリス東インド会社の歴史

2015年05月14日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1600】年【エリザベス1世】は【香辛料】など東インド(アジア)貿易を一手に行うために、【ロンドン】に本社を置く東インド会社を設立させた。この会社は貿易に関する特許状を与えられただけではなく、軍事権・立法権まで認められていた。しかし2年後の【1602】年に設立された【オランダ】東インド会社も同様な権限を持っていたが、資本規模はイギリスの10倍に達していた。
 イギリス・オランダ両国の東インド会社は【1623】年、香辛料貿易の独占をめぐって【アンボイナ事件】を起こした。イギリス東インド会社は敗北を喫し、香辛料貿易はオランダの独占するところとなった。オランダ東インド会社はその後、日本貿易をも独占するが、彼らの活動がアジアを舞台に貿易活動を行っていたアジア系の人々を阻害したため、アジア貿易そのものを低迷させる結果になった。つまり、「自分の首を自分で絞めた」結果になった。また、【ジャワ島】の領有に意欲を示して現地の首長たちの抗争に関わりすぎたことも、その後のオランダ東インド会社の発展を阻害したといえる。
 一方、香辛料貿易から追い払われた結果になったイギリス東インド会社は、貿易の舞台を【インド】に移した。彼らは当時衰えを見せていた【ムガル帝国】に対して、【ベンガル地方】の支配権を奪い、【カルカッタ】を中心とする植民地支配を確立させていった。また、貿易商品としては【キャラコ】という手工業製品で薄手で良質な【綿織物】製品を輸入した。キャラコはイギリスで爆発的な人気商品となり、東インド会社の財政は潤った。
 しかし、そのことは同じ衣料品を扱っていた毛織物関連の業者にとっては許しがたいことであった。イギリス革命以降、議会政治を牛耳っていたのは毛織物業に関わる人々が多く、このことはイギリス議会の議長を英語で「wool sack」ということからもうかがい知れる。【1720】年代になると、議会は東インド会社に対してキャラコの輸入停止を命じた。このことから二つのできごとが発生した。一つは、輸入できなくなったキャラコの類似品をイギリスで生産しようという動きから産業革命がスタートしたということ。もう一つは、東インド会社はその後赤字経営におちいったため、その代償として【1773】年【茶法】が制定され、【中国貿易の独占権】が認められるという救済処置が取られたことである。
 1773年中国からの茶を東インド会社だけが扱えるようになると、独占によって茶の価格が高騰した。このような本国議会による重商主義的な支配の強化に怒ったマサチュセッツ植民地ボストンの人々が起こした事件が【1773】年の【ボストン茶会事件】である。これをきっかけに13植民地は本国の重商主義支配に対抗して独立戦争を展開し、1783年パリ条約で独立を達成した。また、アメリカの人々がイギリス人のように紅茶を飲むことをせず、軽いコーヒーを飲むのはこのボストン茶会事件に由来する。
 19世紀になると重商主義的な独占に対する批判が強まり、東インド会社の中国貿易独占(茶法)も【1833】年に廃止された。その結果、東インド会社は商業活動を停止し、財政はベンガル地方への【徴税権】に依存することになった。徴税のための制度を【ザミンダーリー制】という。これはインド人地主(ザミンダールという)から税を徴収する制度であったが、結果的にインド農民はその分を負担させられたので、インドの人々からの不満は膨張していった。【1857~58】年に【インド大反乱(シパーヒーの乱)】が発生した理由である。
 東インド会社は【1858】年インド大反乱の責任をとって解散し、インド統治は本国議会が【直接統治】をすることになった。
 
 
 


イギリス革命の経過説明

2015年05月14日 | 高3用 授業内容をもう一度

【スコットランド】王【ジェームズ6世】がイングランド王【ジェームズ1世】となって始まった【スチュワート】朝の時代は、絶対王政から立憲王政への移行期にあたる時代となった。『【自由な君主国の真実の法】』を著わし,絶対王政の信奉者として知られるこのジェームズ1世は議会を軽んじ,議会の同意を得ることなく、【トン】税や【ポンド】税といったような無理な課税を強行した。また,国教会による統制を強化してピューリタンを圧迫したため,ピューリタンが力を増していた議会は王との対立を深めた。
 【チャールズ1世】も父と同様,専制政治をおこなったため,議会は【1628】年に【権利の請願】を提出し,【議会の同意のない課税】や【不法な逮捕】をおこなわないことを王に約束させた。しかしながら,王は翌1629年に議会を解散させ,その後,【】11年間も議会を開くことなく、側近【ロード】や【ストラットフォード】を用いて専制政治を続けた。
 1640年4月13日,王が議会の召集を余儀なくされた理由は、【1639】年からの【スコットランド】の反乱を鎮圧するための戦費調達の必要にあったが,この議会は王の求めた課税の承認を拒否したばかりか,彼の議会軽視を厳しく責めたため,同年5月5日に解散させられた。あまりに短い開催期間であったことから、この議会を【短期議会】と呼ぶ。その後,王は停戦条約によってスコットランドに賠償金の支払いを約束し,その財源を得るために改めて議会を召集したが,同年11月3日に開かれたこの議会も王を非難し,翌年には彼の悪政を具体的に列挙した【大諫奏】(大抗議)を通過させた。いよいよ武力衝突が目前に迫っていた。
 戦況は当初,王党派に有利であったが,やがて議会派は指導者【クロムウエル】によって組織された【鉄騎隊】の活躍によって力を盛り返し,【1645】年,この鉄騎隊にならって編成された【新型軍】(ニュー・モデル・アーミー)によって王党派軍を撃破した。戦局を決定したこの戦いを【ネイズビーの戦い】という。
 内乱の終結後,クロムウエルは王に妥協的な【長老】派を議会から追放し,さらには【普通選挙制度】の導入を求める【水平】派を弾圧するなどして権力を強め,【1653】年には【護国卿】の地位に就いて軍事独裁政治をおこなった。
 クロムウエルの死後,勢力を挽回した【長老】派は【王党】派との妥協を図り,そうした情勢下,フランスに亡命していた王子が呼び戻され,【1660】年に【チャールズ2世】として王位に就いた。
 翌年に召集された議会は【長老】派が多数を占め,排他的な国教会体制が確立したが,他方,チャールズ2世はフランス王【ルイ14世】と【ドーヴァーの密約】を結ぶなどして【カトリック】の擁護を図り,議会の反発を招いた。議会は【1673】年に【審査律】を制定し,【公職就任者】を【国教徒】に限定した。またもや王と議会との対立であった。
 そうしたなか,チャールズ2世の弟の王位継承問題をめぐって2つの党派が形成された。この王位継承に賛成する一派は【トーリー】派と呼ばれ,これに反対する一派は【ホイッグ】派と呼ばれた。なお,トーリー派は【保守】党の前身,ホイッグ派は【自由】党の前身とされる。
 結局,この弟は【ジェームズ2世】として王位に就いたが,【審査律】を事実上,無効にするなど,極めて反動的な政策をとったため,議会は党派を超えて結束し,王女【メアリ】の夫【ウィレム】に武力干渉を求めた。ウィレムは【1688】年11月,【オランダ】軍を率いてイングランドに上陸し,【ジェームズ2世】はフランスに逃亡した。ウィレムは妻とともに王位に就いて【ウィリアム3世】となった。この夫婦は議会が提出した【権利の宣言】を承認し,これは【1689】年12月に【権利の章典】として法律化された。王権に対する議会の優位を示すこの法律は立憲王政の礎となるものであった。


イギリス革命

2015年05月14日 | 高3用 授業内容をもう一度

15世紀末に始まるいわゆる「大航海時代」において,世界進出の先陣を切ったのはポルトガルとスペインであったが,他のヨーロッパの国々も追随した。なかでも,イギリスは,イギリス王【ヘンリー7世】(在位1485~1509)の命を受けた【ジョン=カボット】が【カナダ】沿岸を探検しており,その後も,【ドレイク】が【エリザベス1世】の許可を得て,スペイン領西インドをおそい,イギリス人最初の【世界周航】を行い,【1588】年には【アルマダの海戦】でスペインの無敵艦隊の撃破も助けた。また【ウオーター=ローリー】は新大陸で最初のイギリス植民地【ヴァージニア】を建てた。
 17世紀になると,ピューリタン革命が起こり,【1651】年に【クロムウェル】が発布した【航海法】は,イギリスの植民地貿易から外国船を排除したために【】オランダの中継貿易に打撃を与えた。クロムウェル時代には,【アイルランド】を征服して,植民地帝国の基礎を築いた。かくして,17世紀後半には,各地の植民地との貿易が激増し,砂糖やたばこなどの生産にはアフリカ人奴隷が使われたので【奴隷貿易】も盛んとなった。
 【ヘンリ8世】はローマ教皇と対立して【1534】年に【】首長令を制定し,イギリス国教会を設立した。【エリザベス1世】は,【1559】年の【統一令】によってイギリス国教会を再建して,宗教改革をさらに進めた。その他に,大西洋に進出したばかりか【1600】年の【東インド会社】設立など,広い範囲で海外進出を進めた。彼女の死とともに【1485】年から開始された【チューダ】朝は終わりを遂げた。
 【スコットランド】王家【スチュアート】家の【ジェームズ1】世は,絶対王政を正当化する【】国教会を信奉して,議会を無視したために議会との対立を深めた。次の【チャールズ1世】も絶対主義的政策をとり続けた結果,【1628】年に議会は王に【権利の請願】を提出した。【1649】年に【チャールズ1世】は処刑されて共和制が打ち立てられ,1660年までイギリス史上で唯一国王が不在の時期となった。このピューリタン革命に中心的な役割を果たした社会層である【】ジェントリーは,独立自営農民と貴族の間に位置する地主層だった。彼らは,旧来の家内手工業に代わって発展した制度である【マニュファクチュア】による毛織物業で富を集積していた。
 ピューリタン革命で王を支持したグループは【王党派】であり,これと戦ったのは【議会派】であった。議会派の中にはさらに【長老派】と【】独立派があり,【クロムウェル】は独立派の指導者であった。クロムウェルは【1653】年には終身の【護国卿】となった。


30年戦争

2015年05月11日 | 高3用 授業内容をもう一度

【ベーメン】(【ボヘミア】ともいいます)の新教徒に対する弾圧が始まると、【フス】の故郷で聖書主義の伝統が強いベーメンの人々は激しく反発しました。そして【1618】年プラハの王宮から支配者を突き落とす事件(【プラハ王宮窓外放出事件】)が起き、カトリックを強要したい皇帝側軍隊と、新教徒たちの軍隊が争う戦争に発展しました。
 戦争が始まった頃は皇帝側の軍隊が優勢だったため、新教徒を救うために隣国【】デンマーク王国の国王で【ルター派】の【クリスチャン4世】が立ち上がり、皇帝軍に対してしだいに優勢になっていきました。しかし、皇帝側は傭兵隊長の【ヴァレンシュタイン】が登場し、最強の軍隊を率いてデンマーク軍に勝利していきます。
 これに対して、同じ【ルター派】の【スウェーデン】王【グスタフ=アドルフ】が参戦。ヴァレンシュタインを【リュッツェンの戦い】で破り、新教側が優位に立ちました。しかし、残念なことにグスタフ=アドルフ本人は流れ弾に当たって戦死してしまいます。するとヴァレンシュタインは皇帝軍を建て直し、再び反撃に転じます。ヴァレンシュタインはさらに軍を進め、いよいよ皇帝側が神聖ローマ帝国を統一する勢いを見せ始めました。
 しかし、このようなドイツの状況を恐れていたのが【フランス】の【ブルボン家】国王【ルイ13世】とその宰相【リシュリュー】です。もちろんフランスは【】カトリック教国ですが、西のスペイン・アプスブルク家と東に統一国家の神聖ローマ帝国・アプスブルク家ができてしまう国際情勢はどうしても避けなければならない状況です。そこで二人はカトリックであるが、新教徒側に味方するために、【1635】年にこの戦争に参戦しました。さらにスウェーデンも再び介入しましたから、皇帝側はしだいに敗北を重ね、【1648】年【ウェストファリア】条約で30年間の長い戦争が終わりました。なお、その途中、ルイ13世は死去し、【ルイ14世】が戦争を引き継いでします。
 【1618】年から始まり30年間続いたこの【30年戦争】は、ドイツを荒廃させました。戦争の悲惨さから、戦争にもある程度のルールがあるべきだと主張する【オランダ】の【グロティウス】が登場し、国際法を提案しました。『【戦争と平和の法】』は【国際法の父】といわれる【グロティウス】の主著です。
 30年戦争は戦争が始まった頃は新教徒対カトリックという図式であり、まさに【宗教戦争】でした。しかし【1635】年にカトリック教国フランスが新教徒側に味方した段階で様子が大きく変化したといえます。すなわち宗教よりも国際情勢を優先させた戦争が始まったわけで、30年戦争を最初の【国際戦争】とよぶ所以です。そのため【1648】年の【ウェストファリア条約】も最初の【国際条約】と呼ばれます。


宗教改革の概要 

2015年05月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 16世紀にドイツから起こった【宗教改革】は,ルネサンスと並んで,近代ヨーロッパを誕生させる大きなうねりとなったものである。この動きを,前史から余波に至るまでのひとつの大きな流れのなかに置いて眺めてみよう。
 かつては隆盛を誇ったローマ=カトリック教会の権威も,【14】世紀には教会大分裂(大シスマ)で失墜し,こうした状況のなかで教会の世俗化や腐敗が進んだ。14世紀後半,イギリスに出た【オックスフォード】大学の【ウィクリフ】や,その影響を受けた【ベーメン】の【フス】は,【聖書】に基づいて教会のあり方を批判した。このような宗教界の混乱を収拾するために15世紀前半に開かれた【コンスタンツ】公会議では,フスの説は異端とされ,フスは【火刑】に処された。彼らによる教会刷新運動は結果として挫折した形とはなったが,宗教改革運動の先駆として大きな影響を残した。
 16世紀前半,【メディチ】家出身の教皇【レオ10世】は【サン=ピエトロ】大聖堂の建築資金を得るために,ドイツで【贖宥状(免罪符)】を販売することを許可した。これに対して【ヴィッテンベルク】大学の神学教授ルターは,1517年,魂の救済はただ福音への【信仰のみ】によるものであり,贖宥状とは無関係であると主張する「【95カ条の論題】」を発表し,後に『【キリスト者の自由】』を著した。あくまでも自説を変えなかったルターは、1519年の【ライプチヒ討論】の結果、教皇から破門され,【ヴォルムス国会】にいて【カール5世】に法の保護を剥奪された。しかしルターの説は多くの人々に支持され,その後ドイツ国内ではルター派を旗印とする勢力の関与する争乱があいついだ。争乱状態に一応の決着がつけられたのは,【1555】年の【アウグスブルクの宗教和議】によってである。
 ドイツに並行してスイスでも宗教改革が起こった。まず【ツヴィングリ】が,【チューリヒ】で改革運動を開始した。続いて【ジュネーヴ】に,人間の救済は神の絶対的な意志に基づいて予定されているもので,人間は信仰によってのみ救済を確信することができると説くカルヴァンが出た。彼の【予定説】は,人々が世俗的な勤労に励むことによって【蓄財】することは,救済の確信につながることとして認められるとするものであったため,各国の資本主義勃興期における【中産市民】の間に広く普及した。
 ローマ教皇の権威を認めないこれらのルター派,カルヴァン派を総称して新教,あるいは【プロテスタンティズム】という。対する旧教,ないしカトリック教会もいつまでも手をこまねいていたわけではなかった。【1545】年から開かれた【トリエント】公会議では,教会の粛正がはかられるとともに,教皇の至上権【教義】とが再確認された。さらに,一方では【宗教裁判の強化】や【禁書目録の制定】による新教派の弾圧,他方ではヨーロッパ内外への強力な宣教活動が行われた。こうした動きを一般に【反宗教改革】というが,このため新旧両教派の対立は一段と激化し,ヨーロッパ各地で宗教戦争を引き起こした。その最後で最大のものが,17世紀前半のドイツを中心として起こった【三十年戦争】である。