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イスラム史 02年立正大学

2010年01月02日 | 復習用入試問題
 次の文章はイスラム帝国の成立から分裂にいたるまでを概観したものである。Ⅰ~Ⅹを読み,各文章の下線部(1)~(3)のうち,間違っているものがあれば,その総数をマークし,間違っているものがなければ5をマークしなさい。02年立正大学

Ⅰ. 21 
 アラビア半島は,ローマ帝国の時代,地中海からインド方面への通商の中継地となっていた。6世紀後半以降,ビザンツ帝国と(1)アルサケス朝との間に戦闘状態が続き,西アジア地域は政情不安となり,メソポタミアなどを通る絹の道は不振となった。かわって(2)紅海貿易が盛んとなり,海の道を通って物資が(3)オアシス都市へ運ばれるようになつた。

Ⅱ. 22 
 イスラム教はムハンマド(マホメット)によって創始された。彼は(1)メッカの商人の家系に生まれ,唯一神アッラーの啓示を受け預言者であることを自覚し,610年ごろ偶像崇拝や多神教を否定し,アッラーへの絶対服従を説いた。しかしメッカの大商人たちから迫害をうけたムハンマドは,メディナに移住してイスラム教徒の共同体をつくった。(2)これをヒジュラという。その後,630年にメッカを征服して,(3)カーバ神殿をムハンマドの聖殿とした。

Ⅲ. 23 
 ムハンマドが没すると,イスラム共同体の最高指導者としてカリフが選出され,(1)アブー=バクル,ウマル,ウスマーン,アリーと続いた。これを正統カリフという。第2代カリフ・ウマルの時,大規模な聖戦(ジハード)を行い,西に向かっては(2)シリア,エジプトを西ローマ帝国から奪った。そして東方に向かってはペルシャの首都クテシフォンを降してその領土を掌中に収めた。(3)この戦いをトゥール―ポワティエ間の戦いという。

Ⅳ. 24 
 彼らは征服地の重要な拠点に軍営都市を建設したが,そこには多くのアラブ人が家族と共に移住した。そして(1)アミールに全権を与えて統治させ,そこを拠点に異民族の間にイスラム教を広めていった。また(2)先住民には宗教と習慣は容認したが,ハラージュ(地租)とジズヤ(人頭税)を課した。ただし,(3)イスラム教に改宗したものには納税の義務,兵役の義務を免除した。

Ⅴ. 25 
 しかし生活環境の急激な変化は,富の分配やカリフの選出をめぐってイスラム教徒共同体の間に対立をもたらし,(1)661年第4代のカリフ・アリーが暗殺されると,(2)シリアを統治していたムアーウィヤがウマイヤ朝を開いた。この王朝は東に向かってはフェルガナ,西北インドを征服,西に向かってはアフリカ北岸からイベリア半島に進出して(3)西ゴート国を滅ぼした。

Ⅵ. 26 
 このウマイヤ朝の成立を契機としてイスラム教はスンナ派とシーア派に分派した。(1)前者は多数派であり,代々のカリフの正当性を認め,預言者ムハンマドのスンナ(慣行)に従い,ウンマの統一を重視する。(2)後者は少数派であり,ムハンマドの従弟アリーの子孫を真のイマームであるとし,カリフの権威を認めない人々であるが,後に(3)中央アジアから興ったセルジューク朝はスンナ派の王朝である。

Ⅶ. 27 
 イスラム教の聖典である(1)コーランはカリフが神から授けられた啓示の記録である。ここには婚姻,財産の相続分与など生活にかかわる規範などが説かれ,(2)六信五行が示されている。また神の前ですべての信者は平等であることが説かれているが,アターや税負担の面で非アラブ人のイスラム教徒は差別された。(3)彼らをマワーリーという。

Ⅷ. 28 
 (1)アッバース朝は,750年ムハンマドの兄の子孫アブー=アルアッバースによって開かれた。彼はウマイヤ朝に不満をもつシーア派やアラブ人優遇政策に批判的な勢力を背景に,(2)ホラサーンを拠点として革命運動を起こし政権を勝ちとったのである。この王朝の第2代(3)マンスールはバグダードを都としたが,『千夜一夜物語』の登場人物としても知られる。

Ⅸ. 29 
 アッバース朝のもとでは,(1)中央集権体制が確立され,イラン人をはじめ非アラブ人改宗者が国家の要職に登用された。また建国の協力者シーア派を弾圧してスンナ派を保護し,(2)アラブ人の税制面での特権を保護した。さらにイスラム教徒間の平等を実現し,(3)8世紀末ごろまでにイスラム法を基本にすえた政治が行われるようになった。

Ⅹ. 30 
 9世紀はじめごろから,アッバース朝は(1)中央アジアのトルコ人奴隷が軍人として活躍するようになったが,彼らはマムルークと呼ばれた。しかし彼らの軍人への登用はカリフの権力を低下させる原因となり,(2)809年に第5代ハールーン=アッラシードが没すると,イランやエジプトに相次いで王朝が独立した。チュニジアにはファーティマ朝が建国され,やがてバグダードでは軍事政権ブワイフ朝が実権を握るところとなったが,(3)この両王朝はシーア派の王朝であった。


【解答】 
A 1 B 2 C 2 D 1 E 5
F 5 G 1 H 2 I 1 J 5



イスラム史  01年西南学院大学

2010年01月02日 | 復習用入試問題
 次の文は,中世初期のイスラムについて述べたものである。これを読んで,下の問(A・B)に答えよ。01年西南学院大学

 インダス川以西に広がるイラン高原部からアナトリア半島・アラビア半島までの西アジア地域と,サハラ砂漠以北のアフリカ地域には大小のオアシスが点在する。そこでは古くから農耕が行われ,都市が発達し,周辺部の牧畜遊牧民との交易を通じて経済的共存・共栄がなされてきた。またオアシス間の a 交易を背景に,人と物の交流・交換が盛んに行われていた。
 アラビア半島のオアシス都市メッカに生まれたイスラムは,本来商人の宗教であり,この地域に広がる広域交易圏とその社会の開放性に支えられて,7世紀以降急速に発展する。その背景としては,まず b とビザンツ帝国との抗争により,6世紀後半以降の西アジア地域が政情不安定となったこと,そして従来のメソポタミア交易ルートが敬遠され,さらにビザンツ帝国の弱体化により紅海交易も衰え,その代わりにアラビア半島西部のルートが好まれたという事情があった。その結果,メディナやメッカなどのオアシス諸都市が国際交易の中継地として急速に発展した。
 メッカに生まれた c 族の商人ムハンマドは,610年頃唯一神アッラーの啓示を受けた預言者であることを自覚し,厳格な一神教であるイスラム教をとなえた。しかしメッカの大商人達により迫害され,622年に少数の信者達を率いてメディナに移住し,ここにイスラム教徒の共同体ウンマをつくった。630年,ムハンマドはムスリムの戦士とともにメッカを占領し,ア)その権威の下にアラビア半島の統一を実現した。
 ムハンマドの死後,その後継者(カリフ)達は周辺地域の征服を開始した。獲得された広大な征服地は,全権をもつ総督により統治され,中央には財務をつかさどる役所が新たに設置された。しかしカリフの選出や征服地の土地と富の分配をめぐって,ウンマ内部に対立が生じ,第4代カリフのアリーが暗殺されると,彼と敵対していたシリア総督のムアーウィアは661年 d にウマイヤ朝をひらいた。ウマイヤ朝は征服事業を継承し,東方ではソグディアナとシンド,イ)西方では北アフリカを征服し,イベリア半島に進出して西ゴート王国を滅ぼした。その後フランク王国内に侵入したが,フランク軍に北上を阻止された。その間ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルヘの包囲戦も繰り返された。
 ところが8世紀に入り,地方反乱やカリフの位をめぐる内紛によってウマイヤ朝の支配体制が揺らぎ始め,アラブとしての特権を享受することができないホラーサーン人などの地方のアラブ人は,ウマイヤ朝政権に対して強い不満をあらわにした。またフサインの悲惨な殉教以来,イラクの e 派ムスリム達もウマイヤ朝カリフに対する復讐の念を忘れることはなかった。反ウマイヤ家の気運が高まる中で,預言者の叔父の系統をひくアッバース家は,カリフ権の正当な後継者であることを主張し始め,ついに f 年に革命を成功させた。
 アッバース朝のもとでは,イラン人を中心とする新改宗者が要職につき,宰相の統率する官僚制度が発達し,行政の中央集権化が進んだ。そして第5代カリフのウ)ハールーン=アッラシードの時代に,ビザンツ帝国に対して優位に立ち,フランク王国のシャルルマーニュとも外交関係をもち,黄金時代を迎えた。しかし,その後統治は乱れ,カリフの位をめぐる争いも繰り返され,カリフの権威は弱まり,エ)地方反乱も相次いだ。帝国内のエジプトやイランでは次々と独立国家が生まれ,帝国は分裂し,1285年ついにフラグ率いるモンゴル軍により滅ぼされた。

問A 文中の   (a~f)に,最も適当な語または数字を記入せよ。
問B 文中の下線部(ア~エ)について,下の問(ア~エ)に最も適当な語を記入せよ。
ア 下線部ア)について,ムハンマドがメッカ占領後に定めたイスラムの神殿を何というか。
イ 下線部イ)について,アラブ軍がチュニジアに造営した軍営都市は何とよばれたか。
ウ 下線部ウ)について,彼はバグダードにギリシア語文献を中心とする図書館を建設したが,それは何とよばれたか。
エ 下線部エ)について,969年に起きた南イラクの農場で働く黒人奴隷を中心とする反乱は何とよばれたか。


【解答】 
問A a 隊商〔キャラバン〕 b ササン朝
c クライシュ d ダマスクス e シーア
f 750
問B ア カーバ神殿 イ カイラワーン
ウ ヒザーナ―アル―ヒクマ〔知恵の宝庫〕 エ ザンジュの乱