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ノルマン人の移動 04年青山学院大(経営)

2012年02月29日 | 復習用入試問題

04 青山学院大学 経営学部

 以下の文章(A),(B)はヴァイキング(ノルマン人)のヨーロッパ各地への進出過程に関するものである。それぞれの文章をよく読み,各設問に答えよ。答えは解答欄に記せ。

(A) 
 (a)スカンディナヴィアを原住地とするヴァイキング(ノルマン人)が西欧に侵入し始めるのはカール大帝の治世頃からである。10世紀初めにはロロに率いられた一派がセーヌ下流域を割譲され, ① 公国を建設した。その一部はさらに地中海にまで進出し,両シチリア王国を建てた。また,イングランドではアングロ・サクソン族が建てた ② が9世紀前半にウェセックス王 ③ により統一された。それと相前後して(b)ヴァイキングの侵入が激化したが,9世紀末の ④ の時代には彼らを撃退することに成功した。しかし11世紀にはデンマークの王子 ⑤ がイングランドを征服し,デンマーク,ノルウェーを含め,北海を囲む広い領域をその支配下におさめた。その後,アングロ・サクソンの王が一時復位したが,(c)1066年, ⑥ により廃位され,新たな王朝が成立することとなった。また,東欧では,リューリクに率いられた一派が先住のスラヴ人を支配し,862年に最初のロシア国家を建設し,更に南下して,9世紀末にはその勢力はドニエプル中流域の ⑦ を公国の首都とした。

問1 本文の空欄①~⑦に最も適当な語句を挿入せよ。

問2 下線部(a)と関連して,古代北欧の神話・英雄伝説集は何と呼ばれているかを記せ。

問3 下線部(b)と関連して,ヴァイキングはイングランドでは何と呼ばれていたかを記せ。

問4 下線部(c)と関連して,この事象は歴史上何と呼ばれているかを記せ。

(B) 以下は『ノルマン人簡略年代記』の一部である。

1056年,ギスカールと呼ばれるロベールがプーリア伯となった。ターラントからオトラントに至る地で大殺戮があり,あらゆる都市と地方がノルマン人の支配下に入った。
1059年,プーリア伯ロベールは教皇ニコラウス2世によりプーリア,カラーブリア,シチリアの公とされた。
1072年,ロベール公はシチリア島征服に向かい, ⑧ に入城し,そこから ⑨ 人を追放した。
1074年,ロベール公はサレルノなど多くの都市を征服し,教皇 ⑩ と対立した。
1080年,ロベール公は教皇 ⑩ と和解し,プーリア,カラーブリア,シチリアに有していたすべての土地の領有を認められた。(ビザンツでは)皇帝 ⑪ が廃され,アレクシオス1世が皇帝となった。
1084年,教皇 ⑩ はローマにおいて王 ⑫ により包囲された。同王はラヴェンナ大司教を教皇に立て,教会分裂を招いた。しかし教皇 ⑩ はロベール公とノルマン人の大軍に援助を求め,彼によって救出され,サレルノに連れて行かれた。
(ヨーロッパ中世史研究会編『西洋中世史料集』東京大学出版会刊より)

問5 文章(B)の空欄⑧~⑫に入れるのに最も適当な語句を選択肢イ)~ヌ)の中からそれぞれ一つずつ選び,それを解答欄に記せ。
イ) グレゴリウス7世 ロ) レオ3世
ハ) フリードリヒ1世 ニ) ボニファティウス8世
ホ) パレルモ ヘ) ピ サ
ト) ハインリヒ4世 チ) サラセン
リ) ニケフォロス3世 ヌ) スラヴ

正解
(A) 
問1 [①] ノルマンディー [②] 七王国
[③] エグバート [④] アルフレッド大王
[⑤] クヌート [⑥] ノルマンディー公ウィリアム
[⑦] キエフ
問2 (a) 『エッダ』
問3 (b) デーン人
問4 (c) ノルマン征服
(B) 
問5 [⑧] ホ) [⑨] チ) [⑩] イ) [⑪] リ) [⑫] ト)


板書(42)封建社会の成立と荘園制 

2012年02月29日 | トリオDE世界史

(1)地代の変化 ①8~9世紀②12~13世紀③14世紀
①労働地代
②生産物地代
③貨幣地代
(2)古典荘園の土地利用3つ
①領主直営地
②農民保有地
③入会地・森・沼
(3)封建制 ①呼称②ゲルマン的要素③ローマ的要素
①レーン制
②従士制
③恩貸地制
(4)中世農業革命 ①新技術2つ②農地利用
①牛耕
②水車
③初期三圃制
(5)商業ルネサンス ①復活3つ
①貨幣の復活
②都市の復活
③地域商業圏の成立
(6)商業ルネサンスの原因
①気候の温暖化
②中世農業革命
③西欧世界の安定
(7)純粋荘園 
①三圃制
②解放耕地制
③領主直営地の消滅
(8)三圃制 3耕区
①春まき大麦
②秋まき小麦
③休耕地
(9)ロンバルディア同盟 ①地域②中心都市③時期
①北イタリア
②フィレンツェ
③12世紀
(10)ハンザ同盟 ①地域②盟主③時期
①北ドイツ・バルト海沿岸
②リューリック
③13C~1648年
(11)14世紀の危機 3つ
①ペストの大流行
②百年戦争
③農民反乱
(12)農民反乱 ①イングランド②フランス③パリ
①ワットタイラーの乱
②ジャックリーの乱

(13)農奴解放の3地域
①イングランド
②北フランス
③西ドイツ
(14)ワット=タイラーの乱 ①年②精神的指導者③言葉
①1381年
②ジョン=ポール
③アダムが耕しイヴが紡いだとき誰が領主だったのか
(15)ジャックリーの乱 ①年②指導者③地域
①1358年
②ギヨーム=カイエ
③北フランス農村
(16)14世紀のイングランド農業 ①地主②自作農③現象
①ジェントリー
②ヨーマン
③農奴解放


2012年 東京大学本試験問題 第2問「遊牧民族に関する歴史」

2012年02月27日 | 高2用 授業内容をもう一度
2012東京大学 第2問

 人類の歴史の中で、遊牧は農耕とならぶ重要な生活様式のひとつであった。湯朴明、とりわく軍事力や機動力に優れた遊牧民の集団は、広域にわたる遊牧国家の建設や周辺農耕・定住地域への侵入、大規模な移動などによって大きな役割を果たした。これをふまえて、以下の設問に答えなさい。1行は30字。

問1 中央ユーラシアの草原地帯に出現した遊牧民のなかでも、4世紀になるとフン族が西進し、それにともないユーラシア西部に大変動が起こっている。やがて、5世紀後半には遊牧民エフタルが台頭し、周辺の大国をおびやかした。

(a)5世紀におけるフン族の最盛期とその後について、2行以内で説明しなさい。

(b)エフタルに苦しめられた西アジアの大国を中心とした6世紀半ばの情勢について、2行以内で説明しなさい。

問2 中央ユーラシアを横断する大草原にすむ遊牧トルコ人は、イスラーム世界拡大とともにこれとさまざまな関係をもつようになり、その一部アやがて西アジアに進出して政権を樹立し、アラブ人やイラン人とならんで重要な役割をはたすことになった。

(a)9世紀ごろになると、アッバース朝カリフの周辺にはトルコ人の姿が目立つようになった。彼らはアラビア語で何と呼ばれ、カリフは彼らをどのように用いたのか、2行以内で説明しなさい。

(b)中央ユーラシアから西アジアに進出したトルコ人が立てた最初の王朝の名①と、この王朝が支持した宗派の名②を答えなさい。

問3 匈奴以来、モンゴル高原にはしばしば強力な遊牧国家が誕生し、中国の脅威となった。あるものは長城を境にして中国と対峙し、あるものは長城を越えて支配を及ぶすなど、遊牧民族の動静は、中国の歴史に大きな影響を与え続けた。

(a)漢の武帝の対匈奴政策と西域政策とのかかわりについて、2行以内で説明しなさい。

(b)15世紀なかごろにはモンゴルのある部族が明の皇帝を捕虜とする事件が起こった。この部族の名①と事件の名を答えなさい。

付箋(ポストイット)を活用しよう

2012年02月24日 | 何かの足しになれば
 授業を受ける目的の一つは「復習をする」ためです。復習とは、自宅などで授業を再現することが理想的です。しかし、時間的に厳しい場合は、授業中の「??」を付箋に書きとめて、その箇所に貼り付けると、勉強のポイントが絞れます。しかも、確認や覚えることができたら、その付箋をはずすともできます。その日のうちに復習ができればいいのですが、そうとは限りません。まとめて復習する場合でも、重要度を色で分けて置けば、優先順位も付けやすいはずです。また、気になる場合は付箋に書いた内容をノートに写すこともできます。さらに、付箋に書かれた内容が書いてある教科書やノートに付箋を移動することもできます。そうすれば、自分の苦手を記録することもできます。
 英語の授業でちょっと気になった単語や文法事項を付箋に書いておきましょう。そうして自宅で調べたら、覚えたと思えたらはずすことができますし、またその付箋をノートの最後のページに貼っておくのはどうでしょうか。最後のページが自分の苦手を集めたページになります。そして覚えたと思ったらはずしていけばよいわけです。
 まだまだいろいろな活用方法が考えられそうです。

板書(41)ノルマン移動とイングランド

2012年02月24日 | トリオDE世界史

(1)ローマにイングランド支配 ①将軍②属州③長城
①カエサル
②属州ブリタニア
③ハドリアヌスの長城
(2)イングランドの民族 ①先住民②5世紀に侵入③ノルマン人の一派
①ケルト人
②アングロ・サクソン人
③デーン人
(3)イングランド布教 ①教皇②布教した人物③その会派
①グレゴリウス1世
②アウグスティヌス
③ベネディクト修道院
(4)イングランド王国 ①最初の王②デーン人撃退③復活王朝
①エグバート
②アルフレッド大王
③エドワード
(5)デーン人 ①占領地域②デーン人の王③出身地
①デーン=ロー地方
②クヌート
③ユトランド半島
(6)デーン朝 ①成立年②王③支配海域
①1016年
②クヌート
③北海
(7)北海帝国支配地域3ケ所
①イングランド王国
②デンマーク王国
③ノルウエー王国
(8)ノルマン朝 ①建国年②建国者③事件名
①1066年
②ノルマンディ公ウィリアム
③ノルマン=コンケスト
(9)ノルマン朝年代 ①成立年②ソールズベリーの誓い③ドゥームズデブック
①1066年
②1086年
③1086年
(10)ノルマン朝成立期 ①1066年②アングロサクソン支配③土地台帳
①ノルマン=コンケスト
②ソールズベリーの誓い
③ドーゥームズデー=ブック
(11)ノルマンディ公国 ①成立年②首長③場所
①911年
②ロロ
③北フランス
(12)ロシア ①部族②王国2つ
①ルス族
②ノブゴロド王国
③キエフ公国
(13)ロシア3人 ①ノブゴロド王国②キエフ公国③キエフ公国全盛期
①リューリック
②オレーグ
③ウラディミール1世
(14)ノブゴロド王国 ①建国年②建国者③部族
①862年
②リューリック
③ルス族
(15)キエフ公国 ①建国年②建国者③下った河川
①882年
②オレーグ
③ドニエプル河
(16)ノルマン系王 ①デーン朝②ノブゴロド王国③キエフ公国
①クヌート
②リューリック
③オレーグ


板書(40)教会刷新運動と帝権の衰退

2012年02月24日 | トリオDE世界史

(1)修道院運動 ①目的②成立時期③成立場所
①修行
②4世紀
③エジプトの砂漠地帯
(2)初期の修道院 ①4世紀末②6世紀③910年
①レナンス島に西欧初の修道院
②モンテ=カシノ修道院
③クリュニー修道院
(3)モンテ=カシノ修道院 ①場所②戒律③スローガン
①中部イタリア
②ベネディクトゥスの戒律
③祈り・働け
(4)クリュニー修道院 ①場所②目的③運動
①中部フランス
②ベネディクトゥスの戒律の復活
③教会刷新運動
(5)教会刷新運動 ①中心②教会腐敗2つ
①クリュニー修道院
②聖職売買
③聖職者妻帯
(6)叙任権闘争 ①内容②事件③対立
①神聖ローマ帝国内の聖職者任命をめぐる対立
②カノッサの屈辱事件
③教皇対皇帝
(7)カノッサの屈辱事件 ①教皇②皇帝③年
①教皇グレゴリウス7世
②皇帝ハインリヒ4世
③1077年
(8)叙任権闘争の結末 ①妥協②年③結果
①ヴォルムス協約で妥協
②1122年
③皇帝権が衰退した
(9)13世紀 ①絶頂期の教皇②皇帝権の衰退③神学の完成
①インノケンティウス3世
②大空位時代
③トマス=アクィナス
(10)大空位時代 ①期間②解消した人物③帝位継承方法
①1256~73年
②アプスブルク家ルドルフ1世
③金印勅書で決定
(11)金印勅書 ①年②制定した皇帝③意義
①1356年(大空位時代から100年後)
②カール4世
③皇帝による集権化は不可能になった
(12)カール4世 ①出身②都市建設③1356年
①ベーメン王
②プラハ建設
③金印勅書発布
(13)修道院のスローガン ①モンテ=カシノ修道院②シトー修道会③托鉢修道会
①祈り・働け
②開墾と開拓
③清貧と信仰


現代中国史

2012年02月12日 | 高3用 授業内容をもう一度

1911年湖北省武昌における新軍の蜂起をきっかけに、中国全土で革命運動が拡大した。この結果、中華民国が成立したが、その実権はやがて強力な北洋軍の軍事力を背景に大総統に就任した袁世凱の手中に帰した。袁世凱政権は、列強の支援を元に強引な中央集権体制を追及し、国内における反対勢力の排除には成功していった。しかし、1915年に袁世凱政権が行った「21ヶ条要求」の受け入れは、国内のさまざまな政治勢力から強い反発を受け、その政治運営は1916年には大きく行き詰る結果を招き、袁世凱は失意のうちに病死した。

袁世凱の死後、中華民国中央政府による中国全土への統一的支配は次第に崩壊し、軍閥が割拠する局面に至った。そのような中、孫文を中心とする国民党は、一部の軍閥勢力の支援を受けて、北洋軍閥が支配する北京中央政府に対してもうひとつの中央政府を樹立した。しかし、独自の政治基盤が脆弱であったため、中国全土の政治状況から見れば、その政治的影響力は低かった。

このような政治的混乱状況下、パリ講和会議における旧ドイツ権益を日本が継承する問題を巡って、1919年中国全土で愛国を訴えるナショナリズム運動が大きく盛り上がった。その口火を切ったのは北京の学生運動であった。これ以降1920年代前半にかけて、中国各地では大衆運動が次第に活発化に展開されるようになった。一方、国民党は改組と国共合作を実行することで党組織を強化し、武力による軍閥の打倒と、社会改革の実行を柱とする国民革命を訴えた。そして、分裂状況にあった中国を武力によって再統一するため、1926年に北伐を開始した。北伐は順調に進行し、翌年には国民革命軍は長江流域まで支配下に収めた。しかし、この段階で国民革命の進路を巡る路線対立が表面化し、ついに1927年4月12日流血の事態にまで至った。国民党はさらに北伐を続行し、国民政府は全国統一を宣言した。

国共合作の分裂過程で、国民革命軍内部の共産党員である朱徳や周恩来などは南京国民政府の弾圧に抵抗し、毛沢東は工農革命軍を組織して農村地帯などで蜂起したが失敗し、湖南・江西省境にある山岳地帯に移動し、これに朱徳の部隊も合流した結果、そこに革命拠点地が建設された。毛沢東を党代表、朱徳を軍長とする中国工農紅軍第4軍が成立した。

柳条湖事件が起きると中華ソヴィエト共和国臨時政府が設立され、紅軍も勢力を拡大した。しかし、蒋介石が5回にわたって執拗に攻撃した結果、その地を維持できなくなった紅軍は、中国西南・西北地域へ移動を開始した。その移動の途中、遵義会議において、毛沢東は紅軍の最高軍事指導権を獲得した。陝西省北部に到達した紅軍は、その地を拠点にしだいに勢力を拡大していった。

日中戦争が始まると、再び国共合作が成立し、紅軍は蒋介石の国民革命軍統一指揮下に入り八路軍と名称を変え、朱徳が総司令官になった。また、長江中下流域でも紅軍遊撃部隊が新四軍と名称を変えて華中などを部隊に抗日戦争を戦った。しかし、日中戦争終結後、国共内戦が始まると一時は解放区の中心地である延安が陥落するなど、国民党軍が優勢であった。しかし、共産党軍は形勢を逆転し、共産党軍の名称も人民解放軍と改めて、野戦軍などを編成して農村地区を解放し、さらに都市部の支配権も奪って国民党軍を圧倒した。194910月1日毛沢東は30万の群衆が集まる天安門広場で、中華人民共和国の樹立を宣言した。

1960年代の中ソ対立以降、中国はソ連を含む隣接する社会主義国との関係を悪化させていた。とくにヴェトナムがカンボジアに侵攻し、1978年にヘン=サムリンを元首とするカンボジア人民共和国を樹立させたことに中国は強く反発した。1979年にはヴェトナム北部に侵攻して中越戦争を起こした。この間、約10年にわたる文化大革命を経験し、その混迷の時代が終息とともに、いわゆる毛沢東の時代から小平の時代に移った。小平が実権を握ってから、1978年末に開かれた共産党の第11期3中全会は内外政策を大きく転換し、「改革・開放政策」を推進することを決定した重要な会議であった。1981年胡燿邦が党主席、趙紫陽が首相になり「4つの現代化」をスローガンに、人民公社の解体や、外国資本・技術の導入、地域を限定して資本主義的企業形態を許容する経済特区の設置等の「改革・開放政策」をさらに進めた。しかし、保守化の動きも強まり、1989年胡燿邦が死亡すると、民主化を要求する学生を中心とする100万人規模の運動が発生した。6月に中国政府は軍隊を投入し、流血によってこれを鎮圧した。

その後も中国は、政治的には共産党による中央集権的体制を維持しながら、経済面では、「社会主義市場経済」というスローガンで自由主義的な経済政策を推進し、1990年代に入いると江沢民が党・政府・軍での中心的な役割を担ったものの、この間も小平が実質的な中国のリーダーであり続けた。


中国文献史

2012年02月12日 | 高3用 授業内容をもう一度

中国には蔵書の多いことを言い表す「汗牛充棟」という4字熟語がある。この語のもつ意味は、車に積んで牛にひかせると、書物の重さでその牛が汗をかき、家の中に積み上げると、棟まで届いて家中が書物で一杯になるというものである。また、中国は「文字の国」とも言われることがある。それは中国人が古くから漢字を連ね、さまざまの事物や出来事を表現する習慣を持った民族でることに由来している。まさに、「汗牛充棟」もその一つである。このような4字熟語が生み出された背景には、中国で古くから書物が多かった点が指摘できる。

中国で最も古い書物は、周の史官が記録したともいわれ、王者の言辞などが記載されている【A書経】であり、また、華北の国々の民謡や宮廷の儀礼歌などを集めた詩経であろう。【A書経】の編者は孔子であると伝えられ、堯・舜から夏・殷・周3代の帝王の事蹟をまとめたものである。ただし、現存する58編の真偽は定かではない。また、紀元前1世紀頃、【B班固】は自身の著である漢書の一篇である「芸文志」(図書目録)に、13000巻にのぼる書物が宮廷の書庫にあったと記録に残している。

後漢から魏晋南北時代にかけて、文学創作が活発になり、多くの書物が著された。そこで体系的にすぐれた作品の選集を編纂することが求められた。南朝梁の【C昭明太子】が、周から梁にいたる130人の詩文を集めて編纂した文選がその代表であり、後世に伝えられて内容ある美文の手本として重んじられた。また、日本の「十七条憲法」や「万葉集」の部立に影響を与えている。一方、北魏の賈思勰が華北の乾燥地帯における古くからの農業技術や農家経営法など文献を集大成し、かれ自身の考えなども加えて、全文7万字・小字注記4万におよぶ【D斉民要術】という�農書を著したのも同様の傾向の表れといってよい。

唐の時代になると科挙の盛行もあって、いっそう多くの書物が著された。そのため、唐中期の玄宗の時代、宮廷にあった書物を経(経書)・史(史書・詔令・地理等の書)・子(諸子百家の書)・集(詩文の書)の4種類に分類し、その分類ごとに色分けをした4つの庫に収納した。中国書の分類法を四庫分類というのはこれにもとづいており、日本の大学や研究所などの図書館でも、中国書籍の分類にはこの方法をとることが一般的に行われている。宋代になると木版印刷術が盛んになった。そのためもあって、四書・五経をはじめ、【E司馬光】が編集した通史『資治通鑑』など多くの書物が刊行された。

宋代から明清の時代かけて、たくさんの書物の中から、内容を類似する事項によって分類、編集した書物である「類書」がおおく編集された。これは中国における百科全書ともいえよう。宋代につくられた類書には『太平御覧』1000巻、『冊府元亀』1000巻がある。さらに明代には永楽帝の命によって編纂された22877巻におよぶ【F永楽大典】、清初には康煕帝の命による1万巻の【G古今図書集成】などがある。とくに後者は、形式が整備され内容豊富なため、現在も利用されている。

また、明清時代には類書とは異なって、書物そのものを集めた膨大な「叢書」が刊行された。なかでも清の【H乾隆】帝の命によって、古今の書を集めた約8万巻にのぼる叢書【四庫全書】がつくられた。これは、当時集められるだけの重要な書籍を集めて、それらを前述の四庫分類法にもとづき分類した欽定一大叢書である。ただし、その際、清朝に都合の悪い内容のものは一部を削除し、あるいは【J禁書】に指定している。これらの大部な類書や叢書がつくられたのは、印刷術が発達していたことにもよるが、また、中国の知識人が書物を読み、著作し、収集することを好んだためでもあろう。文頭に述べた「汗牛充棟」の語が必ずしも誇大ではないことを実証する結果ともなっている。


米英の覇権交代

2012年02月12日 | 高3用 授業内容をもう一度

アメリカ合衆国大統領ローズベルトとイギリス首相チャーチルは、1941年8月に会談し、領土の不拡大・民族自決・通商の自由・社会保障の充実・すべての国家の安全と自立の保障・海洋の自由・平和機構の再建・軍備縮小などを内容とする大西洋憲章として発表した。これはファシズム打倒という共通の戦争目的を明らかにするとともに、第2次世界大戦後の国際秩序の形成に大きな影響を与えるもので、後に連合国としての共同宣言という性格が付与された。またその理念は、1945年のサンフランシスコ会議の国際連合憲章に結実していった。

 一方、大西洋憲章では、すべての国々に対する貿易上の機会均等がうたわれた。イギリスはすでに、マクドナルドを首相とする挙国一致内閣の下、英連邦経済会議で、それまでの貿易政策を大きく転換していたため、この理念を実現することは大きな困難を伴ったものの、1948年、GATTが発足に結実した。

GATT は、関税その他の貿易障壁を軽減し、通商の差別待遇を廃止することによって各国経済の発展を期することを目的としたものである。しかし、その後先進国主導型のGATT体制は、発展途上国からの不満を招き、1960年代にその是正が試みられ、1995年には、GATTにかわるWTOが設立された。

一方、イギリスの覇権は第2次世界大戦中、アメリカに取って代わられることは明白になっていった。1944年7月連合国側44カ国の参加のもとに、ニューハンプシャー州北部のブレトン・ウッズ会議が開催された。その会議には、資本主義における失業の存在を解明したケインズがイギリス政府代表として出席したものの、イギリスは多くの点で妥協を余儀なくされた。さらに、戦後イギリスの経済的・政治的地位の低下し、あいつぐ植民地の独立、支配地域からの撤退などによって、イギリスとアメリカの覇権交替は明確になっていった。

 


女性史

2012年02月12日 | 高3用 授業内容をもう一度

女性が歴史上に果たしてきた役割は大きい。先史時代にもすでに豊穣を祈る呪術的な意味を持つ女性裸像が見られ、農耕が拡大するにつれ大地の生産力を象徴する神として地母神が祭られている。古代ギリシアにおいては、自給自足的な農業に基礎をおく家族生活の下にあり、さらに、男性のみが戦士となり女性は家を守るという性的役割分業が明確であった。その結果、独立自営的な農民であり戦士である男性が社会の主体となり、女性は家にあって家長であるこの男性の家父長的支配に服する傾向が強かった。そのような中、恋愛を多く扱った四行詩を残したサッフォーの名は、古代ローマ時代にも伝えられた。ただし、スパルタの若い女性には、強い兵士を生み育てることが期待されたため、男性と同様に体育訓練を受けるといった国政への一定の関与を見ることができる。キリスト教が支配的になった時代でも、イエスや聖人を扱った絵画とともに、聖母マリアを題材にしたものが信仰の対象とされた。また、悪霊に憑かれた病をイエスによって癒され、復活したイエスに最初に立ち会った一人とされるマグダラのマリアも、「マタイによる福音書」ではイエスの復活を弟子たちに告げるために遣わされたとされ、信仰の対象となっている。しかし、キリスト教倫理観においては,一般的に女性を男性に従属すべき存在として扱っており、それは宗教改革を経ても変わることはなかった。また、古代エジプトでは、アトン神一神教を信仰したアメンホテップ4世の妻であるネフェルティティや、プトレマイオス朝エジプトの最後の王クレオパトラは、政治上大きな役割を果たしたものの、悲劇的な最後を送った。

 中世から近代にかけて、実際に政治を動かし、権力者となった女性も少なくない。1397年ネフェルティティ同盟によってデンマーク連合王国を成立させたデンマーク女王マルガレーテやアラゴン王フェルナンドと結婚してスペイン女王となったイザベラがその代表例である。各国の宮廷を中心に始まった文明化の進展によって、騎士道文化やサロン文化に見られるように、上流階級の女性が社会的な重みを持つ傾向が強まっていった。また、ルネサンスが人間を解放したことも、女性の活躍する舞台を広げたという点において重要な意味を持った。イギリスでは、スペイン王になった皇太子時代のフェリペ2世と結婚してイギリスの新教徒を徹底的に弾圧したイングランド女王メアリ1世、イングランド王位継承を主張したスコットランド女王メアリ=ステュアート、そしてエリザベス1世の3人の女性は、当時の宗教上の問題とも絡んで、政治の中心にいながら複雑に対立していた。フランスにおいても女性が政治に関与した例は多い。たとえば、ジャンヌ=ダルクは国王シャルル7世をオルレアンの包囲から救出しながら処刑された。また、カトリーヌ=ド=メディチは新教徒とカトリック教徒との対立に関与し、サン・ヴァルテルミー事件を招き、国内政治の混乱を一層深刻なものにした。もちろん、フランス革命のマリ=アントワネットも悲劇的な最後を送った女性であった。しかし、このような有名な女性ばかりが歴史的役割を果たしたわけではない。フランス革命が拡大するなか、1789年に国王一家はヴェルサイユ宮殿を離れ、パリのチュイルリー宮殿に移ることを余儀なくされた。その主役を演じたのはパリの平凡な女性たちであった。

近代に近づいて、自然法思想および近代市民革命によって人権と平等、民主主義が確立しはじめたものの、家長である男性が支配する家を単位とした社会構造の伝統を克服すること派容易ではなかった。近代的民法典の模範とされる「フランス人の民法典」は第213条において、「夫は妻を保護する義務を負い、妻は夫に服従する義務を負う」と規定している。19世紀の女性たちも性的役割分業の呪縛から離れることは難しかった。 産業革命の進行は、社会に大きな変化をもたらしたが、豊かになった中産階級の間では、男性が外で働き、女性が家庭に留まるという関係が強化されるに過ぎなかった。産業革命以前は問屋制家内工業が主力であったため、レース編みなど労働は家庭内の女性によって担われていた。しかし、産業革命で出現した経済的余裕を持つ中産階級の家庭では専業主婦が出現した一方で、下層階級においては、単純労働や家政婦といった家事奉公に従事する低賃金の女性労働者が多数創出され、各国が近代的政治制度を整備する中でも、女性が政治参加をする権利を獲得するにいたらなかった。

フェミニズム運動の先駆は、1792年メアリ=ウルストンクラーフトの『女性の権利擁護』であった。だが、彼女が示した思想が具体的運動となるにはビクトリア時代中期まで待たねばならなかった。また、1903年パンカース夫人などが婦人社会政治同盟を結成すると、婦人参政権を求める運動がしだいに広まっていった。イギリスで婦人参政権が始めて認められたのは第4回選挙法改正のときで、1918年のことである。しかし選挙権を制限する年齢には男女間に差別が残された。また、アメリカでも憲法修正代19条において1920年になってようやく婦人参政権が認められたに過ぎない。家庭内に電化製品が持ち込まれた結果、家事労働の軽減化は女性の社会進出を可能になった。このような変化は、第1次世界大戦が長期化した結果、総力戦の状況になり、銃後を守る女性の地位を向上させたことに起因する。戦争中、イギリスはクリミア戦争の際に活躍したナイティンゲールを偶像化し、女性が後方支援の要員として活躍することを求めている。第2次世界大戦後は各国で女性政治家が頭角を現す。とくにアジアでその傾向が顕著であった。インドの初代首相の娘インディラ=ガンディもその一人で、国民会議派の政治家として首相に就任した。

 


2010慶應(法)朝鮮半島史 

2012年02月12日 | 復習用入試問題
2010 慶應義塾大学 法

 以下の問題文の空欄 (27)(28) から (43)(44) に入る最も適切な語句を語群の中から選び,その番号を解答用紙の所定の欄にマークしなさい。また,下線部に関する設問(ア) (45)(46) から(ウ) (49)(50) に対する解答として最も適切な語句を語群の中から選び,その番号を解答用紙の所定の欄にマークしなさい。

 朝鮮半島は,歴史的に中国大陸や日本列島と深く関わってきた。前2世紀の朝鮮半島には戦国の七雄に数えられる (27)(28) の系譜を引く国家が成立している。前1世紀頃,中国東北地方の南部に貊族がたてた国家は,鴨緑江沿いの (29)(30) に都を置き,4世紀初頭には朝鮮半島北部まで支配するようになった。三国時代には,各国が国家の諸制度を整えるために,中国から漢字・仏教・儒教などの文化を競って受容した。これらの中国文化は,朝鮮半島から海を渡った外交使節や移民によって,日本列島へも伝えられた。
 7世紀半ばには唐と連合した王朝が朝鮮半島の大部分を統一し,唐の冊封を受け,中央集権の体制をつくりあげた。その都に建造された (31)(32) と仏国寺は,現在ともに世界遺産に指定されている。しかし,10世紀初頭,この王朝が衰えると,地方豪族の王建は新たな王朝を築いた。新王朝では中国大陸の影響を受けながら,大蔵経の出版に代表されるような高度な文化が栄えた。この頃から朝鮮半島では,自国を中華王朝と並ぶもう一つの中華とみなす小中華思想が育っていく。
 1392年,李成桂によって国号が改められ,科挙の整備や朱子学の導入といった改革が取り入れられた。(ア)第四代国王の時代には固有の表音文字が制定されたほか,1442年には世界初といわれる (33)(34) がつくられ,実用化された。
 19世紀半ば以降,開国の圧力が朝鮮半島に及び,大院君は鎖国攘夷につとめた。しかし,1875年に日本は江華島事件をおこし,翌年には釜山など三港を開港させるとともに,領事裁判権を認めさせた。1894年には甲午農民戦争がおきたが,これを鎮圧するため中国の王朝と日本は朝鮮半島に出兵した。そして日本は (35)(36) によって大韓帝国の自主外交権を奪い,保護下においた。1919年,三・一独立運動が発生した翌月には大韓民国臨時政府の樹立が (37)(38) で宣言されている。
 1945年,北緯38度線を境に,朝鮮半島の北部をソ連が,南部をアメリカ合衆国が管理下に置いた。同年には, (39)(40) 主席を選出し,朝鮮人民共和国の樹立も宣言されているが,ソ連とアメリカ合衆国はそれを承認しなかった。(イ)分断された二つの国家の独立が宣言されたのは,それから約3年後のことである。1950年に勃発した朝鮮戦争にはアメリカ合衆国が国連軍の主力となって介入したほか,建国後まもない中華人民共和国も義勇軍を派遣した。この戦争の休戦会談は,1951年に (41)(42) で始まり,1953年には休戦協定が締結された。
 休戦後,大韓民国は資本主義陣営の一員として経済的に発展した。その一方で,朝鮮民主主義人民共和国は中ソ論争を背景に,1972年の改正憲法で (43)(44) を国家活動の指導的指針とし,親子二代にわたっての統治を続けた。しかし,ソ連・東欧の社会主義体制崩壊や中韓国交正常化によって,国際的な孤立を深めていく。こうしたなか,核開発問題が浮上し,(ウ)六カ国協議が開催された。

設問 
(ア) 7世紀頃,中央アジアの商用共用語に用いられ,ウイグル文字の原型となった表音文字は何か。 (45)(46) 文字

(イ) 南北朝鮮と同じく1948年に独立を果たし,1972年に国名を改めた国はどこか。 (47)(48)

(ウ) 六カ国協議発足にあたって主導的な役割を担った中華人民共和国の国家主席は誰か。 (49)(50)

〔語群〕 
01.阿房宮 02.安東
03.李承晩 04.元山
05.ウラジヴォストーク 06.燕
07.温家宝 08.韓
09.丸都城 10.魏
11.金日成 12.金正日
13.キリル 14.金玉均
15.金属活字 16.景福宮
17.開城 18.江沢民
19.胡錦涛 20.紫禁城
21.上海 22.朱鎔基
23.新民主主義 24.人民民主主義
25.斉 26.西夏
27.セイロン 28.石窟庵
29.全体主義 30.ソウル
31.測雨計 32.ソグド
33.染付 34.第一次日韓協約
35.第二次日韓協約 36.第三次日韓協約
37.大興城 38.ダホメ
39.単独行動主義 40.張勉
41.主体思想 42.趙
43.小平 44.都察院
45.突厥 46.日韓基本条約
47.日韓併合条約 48.ハワイ
49.板門店 50.東パキスタン
51.平壌 52.ビルマ
53.夫余 54.平城
55.香港 56.マラヤ
57.モン 58.有輪犂
59.ワシントン 60.綿繰り機

【解答3】<L128W22> 2010 慶應義塾大学 2/16,B方式 法
(27)(28) 06 (29)(30) 09 (31)(32) 28 (33)(34) 31
(35)(36) 35 (37)(38) 21 (39)(40) 03 (41)(42) 17
(43)(44) 41
(ア) 32 (イ) 27 (ウ) 19

東欧史(1)前近代史

2012年02月01日 | トリオDE世界史
(1)東欧史の概観 ①10世紀②17~18世紀③19世紀
①カトリック化(文明化)の時代
②啓蒙専制君主国家による支配を受けた時代
③自由主義・国民主義の影響で独立運動が発生した時代
(2)10世紀の東欧諸国 ①ハンガリー②チェコ③ポーランド
①ハンガリー王国
②ボヘミア公国・モラヴィア王国
③ピアスト朝
(3)ハンガリー王国 ①民族②955年③宗教
①マジャール人
②レヒフェルトの戦いでオットー1世に敗北
③カトリック(11世紀から)
(4)ボヘミア王国 ①1356年②国王③東欧最初の大学
①金印勅書
②神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王カレル1世)
③プラハ大学
(5)ピアスト朝 ①建国時期②カトリック化(文明化)の時期③最初の大司教座
①10世紀
②10世紀
③グニェズノ大司教座
(6)ポーランド ①13世紀②14世紀③16世紀
①東方殖民とモンゴル人の侵入
②ヤギェロ朝成立
③選挙王政で衰退
(7)13世紀 ①西からの攻撃②東からの攻撃③ポーランド勢力の対応策
①ドイツ東方殖民
②モンゴル人の侵入
③リトアニア公国と結んで、ヤギェロ朝を建国
(8)モンゴル人の攻撃 ①指導者②年③戦い
①バトゥ
②1241年
③タンネンベルクの戦い
(9)ヤギェロ朝 ①リトアニア大公②ポーランド女王③大学
①ヤギェロ
②ヤドヴィガ女王
③クラクフ大学
(10)タンネンベルクの戦い ①年②勝者③敗者
①1410年
②ポーランド・ヤギェロ朝
③ドイツ騎士団
(11)16世紀 ①王政②ポーランド貴族③状況
①選挙王政
②シュラフタ
③王権が弱体化し、シュラフタ(ポーランド貴族)が勢力を拡大した
(12)ポーランド分割3回の年代 ①第1回②第2回③第3回
①1772年
②1793年
③1795年
(13)ポーランド分割 ①国際情勢②抵抗運動が起きた分割③その中心人物
①フランス革命期
②第2回分割
③コシューシコ
(14)19世紀のポーランド ①1807年②1815年③1830年
①ワルシャワ大公国が成立
②ポーランド立憲君主国
③ロシアの1州に格下げ
(15)19世紀のポーランドに関係する人物 ①ワルシャワ大公国②立憲君主国③ロシアの1州
①ナポレオン1世
②ロシア皇帝アレクサンドル1世がポーランド王を兼務
③ニコライ1世がワルシャワ暴動に対して報復
(16)15世紀のチェコ ①ボヘミアの指導者②それを処刑した皇帝③抵抗運動
①フス
②ジギスムンと
③フス戦争(1419~36年)
(17)コンスタンツ公会議 ①年②目的③処刑
①1414~17年
②グレート・シスマの解消
③聖書主義者フスを処刑
(18)コンスタンツ公会議の年代 ①フス処刑②大シスマ解消③フス戦争
①1415年
②1417年
③1419~36年
(19)ボヘミアの抵抗 ①15世紀②17世紀③19世紀
①フス戦争
②30年戦争
③スラブ民族会議
(20)ハンガリー王国 ①1396年②1526年③1699年
①ニコポリスの戦いでジギスムンとが敗北
②モハチの戦いでオスマン・トルコ領になる
③カルロヴィッツ条約で再びハプスブルク家領になる
(21)19世紀の東欧 ①ハンガリー②チェコ③ポーランド
①コシュートの共和国宣言
②パラツキーのスラブ民族会議
③ロシア皇帝ニコライ1世がロシアに編入
(22)ハンガリーの独立 ①年②原因③名称
①1867年
②普墺戦争でオーストリアが敗北
③オーストリア・ハンガリー二重帝国
(23)第1次世界大で独立後の人物 ①ハンガリー②チェコ③ポーランド
①ベラ=クンの社会主義革命失敗後、ホルティ独裁
②マサリク大統領とベネシュ外相
③ピウスツキ独裁


インド洋の歴史 03 法政大学改

2012年02月01日 | 高3用 授業内容をもう一度
インド洋の西部地域では,おおむね4月から9月にかけて強い風が南西から北東に,つまりアフリカ方面からアラビア・インド方面に向け,やむことなく吹きつける。そして11月から3月にかけては,逆に北東から南西へ向けて風が吹く。インド洋交易を行っていたエジプト在住の無名の商人によって【紀元1世紀】中頃に書かれた,【ギリシア】語の小冊子「【エリュトゥラー海案内記】」によれば,ギリシア人の船乗り【ヒッパロス】がこの季節風を知り,アラビア海からインドヘの直接航海を行ったため,その南西風を【ヒッパロスの風】と呼ぶようになったと言われる。
 古代ギリシアの歴史家【ヘロドトス】はその著書「【歴史】」の中で,紀元前7世紀頃にエジプト王ネコがフェニキア人の船団をアフリカ周航のために派遣したことを記している。それによると,彼らは紅海から東アフリカを経てアフリカ南端を回航し,ジブラルタル海峡を通り地中海へ出てアフリカを一周し,エジプトに戻ってきた。しかし,初期の交易活動については史料が少なく,詳しいことはわかっていない。
 交易活動についての情報が増えてくるのは,アッバース朝の中頃以降のことで,その頃には交易活動が盛んに行われていたことが知られている。東アフリカとアラビアを行き来したのは,一般的には【ダウ】と呼ばれた木造の帆船である。
 東アフリカから北に向かった海の交易ルートは,古い時代には,まずアラビア半島に至り,そこを経由してペルシア,エジプト,インドなどともつながっていたものと考えられる。アラビア半島やインドは,海の道と呼ばれる東西交通路の真ん中に位置していた。そのルートは,西は地中海世界,東は東南アジアを経て中国とつながっていた。
 8世紀半ばに【バグダッド】を首都として【アッバース】朝が成立すると,アラビア近海の海洋交易ルートもペルシア湾経由のルートが中心になった。10世紀後半以降,アッバース朝の力は衰えていき,13世紀半ばには滅亡した。代わって,10世紀後半にはエジプトを征服して首都【カイロ】を建設した【ファーティマ】朝が,後には【マムルーク】朝などが力を伸ばしてくる。そのため,紅海の出入口に位置した【イエメン】出身の商人たちが活躍することが多くなり,東アフリカ沿岸地方でもイエメン系の商人や船乗りが増えてくる。
 この頃から15世紀にかけて,東アフリカでは【キルワ】,【モガディシュ】,【マリンディ】,【モンバサ】などの海港都市が成長した。14世紀半ばに東アフリカを訪れた【イブン=バットゥータ】は,その旅行記「【三大陸周遊記】」の中で,モガディシュは大きな町でその住民は商人でたくさんのラクダをもっているとし,またキルワについても,それは大きな町でたいへん立派につくられており,住民の多数は【ザンジュ】と呼ばれる【黒人】であると伝えている。どちらの町もスルタンによって統治されていた。
 このように,この時期には海港都市が成長し,インド洋交渉も発展したが,それを象徴したものが,【明朝】が派遣した中国艦隊の東アフリカヘの来航である。明の第3代皇帝【永楽帝】は積極的な対外政策を推進したが,東南アジアやインド洋にも関心を向け,【朝貢貿易】の再開などを目的に1405年,【鄭和】に数十隻からなる大艦隊を授け東南アジアやインド洋に派遣した。以降,鄭和に率いられた中国艦隊は1433年まで都合【7】回,インド洋に来航した。第1回から第3回まではその艦隊はインド西岸の【カリカット】までしかやってこなかったが,第4回以降はペルシア湾にまで来航している。中でも,1413年に出帆した第4回,1417年の第5回,1421年の第6回航海では,分遺隊が東アフリカの【マリンディ】にもやってきた。
 1497年7月8日,【ヴァスコ=ダ=ガマ】に率いられ,4隻170人の陣容で【リスボン】を出帆したポルトガル艦隊が,【喜望峰】を回りインド洋に入ったのは11月22日のことであった。翌年4月4日に【キルワ】を通過し,モンバサに立ち寄ったのち4月13日には【マリンディ】に到着した。ポルトガル艦隊のインド洋への登場は,交易活動に依存した東アフリカの都市国家に大きな影響を与えた。ポルトガルは通商活動を支配するために,モザンビークなど,支配下に置いた東アフリカ沿岸のいくつかの港町に要塞や通商拠点を設けた。


戦後の国際経済体制 ブレトンウッズ体制とGATT

2012年02月01日 | 高3用 授業内容をもう一度

1次世界大戦後の世界は1919年に締結されたヴェルサイユ講和条約に始まる。この講和条約が示す基本精神は、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「勝利なき平和」であり、それは無併合・無賠償・民族自決などを示した「14ケ条」の平和提言であった。さらに平和維持機構として、国際連盟も設立された。しかしこれらの平和原則は広く尊重されたとはいえない。たとえば大戦前の同盟諸国の領土は戦勝国によって分割された。とくにオスマン帝国に対して英仏が任統治を行い、事実上の植民地支配に似た状況に置かれたし、ドイツでも東西の領土を奪われている。さらにドイツにはその支払い能力をはるかに超えた巨額の賠償金が課せられた。また民族自決の原則はヨーロッパ地域ではある程度尊重されたものの、すでに民族主義の芽生えていた西アジア地域やインド、東アジア地域には適用されることはなく、これらの地域では植民地支配から脱するための闘争が展開されたものの、多くの場合宗主国によって弾圧されて失敗している。一方、(b)個別安全保障体制の失敗が原因して(1)ボスニアをめぐるオーストリアとセルビアの地域紛争が、大きな被害招く世界大戦に発展したという反省から、集団安全保障体制への転換が求められた。その結果国際連盟が成立したが、これも(2)上院の判断によってアメリカが不参加となり、またソ連も参加が見送られた。これによって国際連盟が果たせる役割は著しく減退した。

 以上見てきたように、第1次世界大戦後の世界では国際政治・国際経済を安定させるための政策や機構が十分に発達しなかった。これに加え、1917年に発生したロシア革命が西欧世界の政治状況を不安定にし、各国政府に社会主義拡大への警戒心を植えつける結果となった。この革命の影響で敗戦国ドイツでは1919年(3)スパルタクス団の蜂起が発生し、経済的安定を欠いたイタリアでも1920年に北イタリアの労働者がストライキを繰り返し、いっそう政治的混乱を深め、ファシズム勢力の台頭を許す結果となった。1919年(4)ダンヌンツィオは義勇軍を率いて「未回収のイタリア」といわれたフィウメを占領した。さらに1922年ムソリーニはローマ進軍により政権を獲得し、1928年には国家最高議決機関を定めて一党独裁体制を確立した。一方、ドイツでも当時としては優れて民主的なワイマール憲法を有していたにもかかわらず、ヴェルサイユ体制への不満もあって全体主義の誕生を許してしまった。その背景には19231兆分の1にまでマルクの価値が下がる超インフレーションが発生したことや、1929年から続いた世界恐慌による経済混乱がある。また世界恐慌で英仏が取ったブロック経済が世界貿易の規模を縮小させた。このことがナチスや日本に生存圏獲得の正当性を与えたともいえる。この間、各国は国際平和を維持する目的で、軍備縮小や戦争禁止のための条約を締結した。1921年から始まったワシントン会議や1925年のロカルノ会議がその好例である。ドイツにナチス政権が誕生すると、イギリスやフランスは宥和政策をもって対処した。しかしそのことがヒトラーを増長させる結果となり、第2次世界大戦を回避することはできなかった。

 一方、第2次世界大戦後の国際社会の主たる目的は、二度繰り返された世界大戦をもう繰り返さないことにあり、そのために国際社会における平和と安定が不可欠であると考えられた。また国際社会全体が経済的にも政治的にも発展していく必要性も説かれた。この点では第1次世界大戦後の国際世界が取った政策に対する反省を基本に置くこととなる。さまざまな国際社会の活動の欠点を改善し、平和と発展のためにより強力な国際機関が設立された。具体的には国際社会の発展を促すために国際連合が設立され集団安全保障体制が強化されたし、経済的混乱が政治状況の悪化を招いた反省から各国通貨の安定を図る目的でブレトンウッズ体制が確立され、(5)世界銀行、国際通貨基金が設立された。さらに保護貿易主義を監視して世界貿易の縮小を防ぐ目的で(6)GATTが設立された。このように国際社会は組織化されたといえる。

第2次世界大戦後に顕著に見られる国際社会の傾向は人権の尊重である。人権の尊重が国際秩序の一要素となったといえよう。1948年(7)国際連合総会で決議された「世界人権宣言」がその方向性を示している。したがって平和、発展、人権が第2次世界大戦後の国際社会の理念である。

 しかし現実の戦後の国際社会は、冷戦下の米ソそれぞれ作った東西陣営に分かれて対立したばかりか、先進工業諸国と発展途上諸国との経済格差の拡大による南北問題も見られた。この問題は枯渇しつつある資源分配の問題や地球規模の環境問題としても考える必要に迫られている。さらに核兵器が世界に分散しつつある問題もあり、必ずしも人々が期待したようには戦後世界の理念が達成されてはいない。また1970年代以降日米あるいは欧米間でも貿易摩擦が表面化している中、さまざまな地域経済統合が形成される傾向にあって、世界経済のブロック化を懸念する声も絶えない。しかしその一方で1990年代以降社会主義世界でも自由化が進み、また東西ドイツの統合も行われた。