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03 上智大学 心理 ギリシア史

2006年08月27日 | 復習用入試問題
 古代帝国を中心とした以下の文章群(1~15)を読み,小文(a~d)に誤りがあれば,誤っているものをすべて解答欄にマークしなさい。誤りがなければeをマークしなさい。また,波線を引いた地名(イ~へ)を,地図(A,B)上の(a~e)で答えなさい。ただし,下線部分の年代・記述内容は正しいものとする。

1 
a 前2000年ごろ,小アジアの原住民を征服したインド=ヨーロッパ語族の一派が建国した。
b 彼らはハットゥシャシュ(現ボアズキョイ)を都とし,幅広い交易活動を繰り広げた。
c 彼らは鉄器を使用し,前1650年ごろまでに,北シリアからエーゲ海におよぶ大帝国を築きあげた。
d 彼らは,前12世紀初めに海の民の一派「ヒクソス」の侵入によって滅亡した。

2 
a セム系のこの国家は,前2千年紀初めに北メソポタミアに建国した。
b 一時期,ミタンニに服属したが,鉄製武器と戦車・騎兵によって勢力を拡大した。
c 前7世紀にエジプトを除く全オリエントを征服し,最初の世界帝国と称されている。
d 最盛期にはアッシュール=バニパルが君臨し,首都アッシュールに大図書館を建設した。

3 
a インド=ヨーロッパ語族の民族で,イラン高原を中心とする地方から起こった。
b 前550年,キュロス2世がメディアを滅ぼして建国し,さらにリディア・カルデアを征服した。
c 第3代の王ダレイオス1世下でインダス川から東地中海に至る大帝国となった。
d 中央集権の実をあげるため,全土を約20州に分け知事(サトラップ)に統治させた。

4 
a 前8世紀末より首都となったニネヴェを起点に小アジアのサルディスまで国道が建設された。
b 前722年,その侵略によって,イェルサレムを首都としていたイスラエル王国は滅亡した。
c この帝国は重税と圧政で服属民の反抗をまねき,前612年に崩壊した。
d その後,4王国が分立したが,なかでも優勢だったのはネブカドネザル2世の時代の新バビロニアだった。

5 
a 前500年,ミレトスが中心になってイオニア植民市が反乱を起こした。これが3次にわたる戦争の発端だった。
b この時の王が建設を開始したペルセポリスは,のちにアレクサンドロス大王によって破壊された。
c この時の王の事蹟を楔形文字で刻んだのがベヒストゥーン碑文で,19世紀にイギリス人ローリンソンが解読に成功した。
d 思想統一のために国教に採用されたのがゾロアスター教で,これはのちに中国に伝来し祅教と呼ばれた。

6 
a マケドニア王フィリッポスの息子アレクサンドロスは,カイロネイアの戦いで勝利して全ギリシアを制圧した。
b アレクサンドロスの死後,その帝国は四分されたが,武将セレウコスはユーフラテス河畔に首都(イ)セレウキアを築いて,セレウコス朝を開始した。
c その版図に含まれたユダヤは,前2世紀半ばに反乱(マカベア戦争)を起こして,一時,独立を達成した。
d セレウコス朝は,前63年にローマの武将ポンペイウスによって滅ぼされた。

7 
a アレクサンドロスのエジプト領を獲得したのは,武将プトレマイオスだった。彼はアレクサンドリアを首都にした。
b アレクサンドリアは,その後,ヘレニズム文化の中心として栄えた。その学問的拠点となったのがムセイオンである。
c この王国の支配者はあくまでマケドニア人・ギリシア人であり,現地人エジプト人を支配する専制国家だった。
d クレオパトラ7世は,カエサルやアントニウスを利用して王国存続に努めたが,前31年に自殺して果てた。

8 
a ムセイオンで学んだ学者に,エウクレイデス(幾何学),アリスタルコス(地動説),アルキメデス(物理学),エラトステネス(地球測定)たちがいた。
b ヘレニズム時代の美術彫刻として有名なものに,「ミロのヴィーナス」(現在大英博物館蔵)や「ラオコーン群像」(現在ヴァチカン博物館蔵)がある。
c 「イッソスの戦い」を描いたポンペイ出土のモザイク(現在ナポリ考古学博物館蔵)も,ヘレニズム時代を代表する華麗な作品である。
d 「ヘレニズム」とは“ギリシア風文化”を意味し,ヨーロッパ文明のもうひとつの源流ヘブライズムに対置して作られた,19世紀のドイツの歴史家ドロイゼンによる造語である。

9 
a 前3世紀半ばにカスピ海東南にイラン系遊牧民がアルサケスを開祖として建国した。
b セレウコス朝滅亡後,メソポタミア地方を支配下に入れるとティグリス河畔の(ロ)クテシフォンを首都とした。
c 中国の漢と同時期に「絹の道」の西側を占め,東西貿易路の要衝としておおいに栄えた。
d 西ではメソポタミア地方をめぐってローマ帝国と抗争を繰り返し,クラッススやアントニウスを破った。

10 
a イラン高原から起って3世紀はじめに前文9の帝国を倒したアルデシール1世は,後にマニ教を国教に採用した。
b シャープール1世はたびたび外征を行い,西ではローマ軍を連破し,東ではクシャーナ朝を衰退させた。
c 5世紀後半になってエフタルの侵入を受けたが,ホスロー1世はトルコ系突厥と結んでエフタルを滅ぼした。
d この王国は,7世紀半ばにニハーヴァンドの戦いでアラブ人に敗北し,事実上崩壊した。

11 
a 旧名ビザンティウムをコンスタンティノープルに改称し,さらにローマからの遷都を断行したのは,コンスタンティウス帝であった。
b 6世紀のユスティニアヌス帝は地中海沿岸の帝国旧領の多くを回復し,『ローマ法大全』を編纂,聖ソフィア聖堂を建立した。
c しかし彼の死後,イタリアはロンバルドやフランクに,シリア・エジプトはイスラム進出で,バルカン北部はスラヴ民族・ブルガール族に奪われ,国土は次第に縮小した。
d イスラムヘの対抗上,聖像崇拝の対立が帝国内外で続いたが,800年に西ローマ皇帝カールが出現するに及んで収束した。

12 
a アッバース朝のカリフは9世紀初めごろから,騎馬戦士として有能なトルコ人奴隷を「マムルーク」と呼んで親衛隊に徴用した。
b 11世紀になると中央アジアのトルコ系のセルジューク朝が(ハ)バグダードに入城,カリフからスルタンの称号を受け,イスラム世界の指導者となった。
c セルジューク朝は小アジアや東地中海沿岸に進出してビザンツ帝国と対峙し,以来200年に及ぶ十字軍との宗教戦争の原因となった。
d シーア派を奉じたセルジューク朝は,各地に学院(マドラサ)を設けたので,イスラム文化が大きな進歩を見せた。

13 
a 1299年,小アジア西北部でセルジューク朝に服属していたトルコ人がオスマン帝国を創建,ビザンツ帝国の領土を侵略し始めた。
b バルカン半島に進出して,14世紀半ばに(ニ)アドリアノープルを首都とし,その後,14世紀末にニコポリスの戦いで西欧連合軍を撃破した。
c ビザンツ帝国首都コンスタンティノープルを包囲するかの如く領土を拡大し,1453年ついにメフメト2世が同都市を陥落,ビザンツ帝国を滅ぼした。
d スレイマン1世のもとで最盛期を迎え連戦連勝,ただ(ホ)レパントの海戦では破れたが,地中海制海権は彼のもとにあった。

14 
a 長らくオスマンの支配下にあったギリシアは1821年ペロポネソス半島で反乱を起こし,翌年独立を宣言した。
b これに対してオスマンはギリシア系住民虐殺で報いた。スペイン人画家ドラクロワは「シオの虐殺」を描いてギリシア救援を訴え,イギリス人バイロンなどが義勇兵としてギリシア独立運動に参加した。
c オスマンはエジプトの援助で鎮圧しようとしたが,イギリス・フランス・ロシアが干渉。1827年,三国艦隊はナバリノ海戦でトルコ・エジプト軍を撃破した。
d 1829年,ギリシアはアドリアノープル和約で独立が承認され,翌年王国として独立,1932年にはバイエルン王家からオットー1世が国王に迎えられた。

15 
a オスマン帝国は,第一次世界大戦に参戦して敗北し,セーヴル講和条約によって領土を大幅に削られた。
b 1922年,ギリシアによる小アジアヘの侵入に対し,ムスタファ=ケマルは国民軍を率いて立ち上がり,ギリシアをうち破った。
c 彼は国内の民主化と近代化を望む声をうけて,1922年スルタン制を廃し,1923年にローザンヌ条約を締結して独立を守った。
d 初代大統領となったケマルは首都を(ヘ)アンカラへ移し,トルコ共和国を樹立し,次々と近代化の新政策を実施した。

正解
1 d 2 c・d 3 e 4 a・b 5 d
6 a 7 d 8 b 9 d 10 a
11 a・d 12 d 13 d 14 b 15 e
イ 地図Aのc ロ 地図Aのb ハ 地図Aのd
ニ 地図Bのd ホ 地図Bのe ヘ 地図Bのa

上智 古代オリエント史

2006年08月23日 | 復習用入試問題
つぎの文章の空欄(1~20)にもっとも適切なものを選択肢(a~d)から選びなさい。正解が見あたらなければeを記しなさい。また,地図上の地点(イ~ホ)は,本文に出てくる地名(a~e)のどれにあたるか。もっとも適切なものを選びなさい。上智大学

 ティグリス川とユーフラテス川のあいだに,紀元前( 1 )年紀頃,ひとつの壮麗な,そして古代エジプト文明や,中央アナトリアの( 2 )文明に匹敵する重要性をもった文明が発展を遂げている。シュメールの最初期の王朝でなされたもっとも重要な発明,それは紀元前( 3 )年頃の( 4 )の発明であった。(a)ウールと(b)ラガシュの初期の王朝での芸術制作や,マリやエブラといった都市の果たした役割によって特徴づけられる時代は,年代的にいってエジプト( 5 )の諸王朝に相当する。当時作られたものとしては,シュメールの浮彫粘土板や,マリで発見されたもろもろの小像や,大英博物館所蔵の有名なウルの軍旗がある。
 ( 6 )の専制は,その祖王( 7 )以来,バビロニアとシュメールを支配したセム族の王国の嚆矢となった。その王国はシュメール人たちの文化を継承し,ルーブルにあるナラム=シン王の石碑は,古代オリエント最高傑作のひとつである。こうした石碑においては,武勲が讃えられている。
 前( 8 )年紀初め,ウル第三王朝が終わるときに,( 9 )第一セム王朝が権力を手にする。( 10 )の人格がこの時代を支配するが,彼はマリを破壊したあと(c)スサを都とする。彼の法典は1902年に( 11 )で発見されたが,これはこの偉大な立法者の活動を物語るとともに,彼の主な業績でもある。( 12 )人たちが前( 13 )年頃に( 9 )を占領し,( 9 )の第一期は終わる。のちに古代オリエントを統一する( 14 )人たちが前2千年紀の半ばにやってくる。彼らの宮殿は,10ヘクタールの敷地に,二百以上の部屋と中庭をもつという複雑な構造を有している。( 15 )の上部に,主な宗教的記念物がある。( 16 )2世のもとで,前8世紀の終わりに,( 14 )芸術は絶頂期を迎えるが,そこに見られるのは,壮大な表現をもった城門を守る動物たち,そしてより一般的にいえば,諸宮殿の高浮彫や絵画である。
 前612年,彼らの首都(d)ニネヴェが破壊される。( 17 )はバビロンを好んで都とし,( 18 )を第二の( 9 )として建国する。そこはやがてペルシア人たちに占領され,彼らの帝国に併合されることになろう。ギリシアとも接触して,( 19 )朝ペルシアの文明は豪奢な芸術を発達させるが,その本質的な部分は( 20 )に見られる。

(1)a 6千 b 5千 c 4千 d 3千
(2)a アッカド b カッシート c ヒッタイト d バビロニア
(3)a 6千 b 5千 c 4千 d 3千
(4)a 青銅 b 鉄 c 文字 d パピルス
(5)a 初期王国 b 古王国 c 中王国 d 新王国
(6)a アッカド b カッシート c ヒッタイト d バビロニア
(7)a アッシュール=バニパル b サルゴンc ハンムラビ
  d ネブカドネザル
(8)a 4千 b 3千 c 2千 d 1千
(9)a アッカド b カッシート c ヒッタイト d バビロニア
(10)a アッシュール=バニパル b サルゴン c ハンムラビ   
  d ネブカドネザル
(11)a クテシフォン b ジャルモ c スサ d ベヒストゥーン
(12)a アッカド b カッシート c ヒッタイト d バビロニア
(13)a 3100 b 2400 c 2200 d 1600
(14)a アッシリア b アラム c メディア d リディア
(15)a 空中庭園 b ジッグラト c ストーンヘンジ d ピラミッド
(16)a アッシュール=バニパル b サルゴン c ハンムラビ
  d ネブカドネザル
(17)a カンビュセス2世 b キュロス2世 c ダレイオス1世 
  dネブカドネザル2世
(18)a アッタロス朝ペルガモン b アンティゴノス朝マケドニア
  c セレウコス朝シリア d プトレマイオス朝エジプト
(19)a ササン b バクトリア c パフレヴィー d パルティア
(20)a エクバタナ b サルデス c セレウキア d ペルセポリス

正解
(1) c (2) c (3) d (4) c (5) a
(6) a (7) b (8) c (9) d (10) c
(11) c (12) c (13) d (14) a (15) b
(16) b (17) d (18) e (19) e (20) d
イ (a) ロ (b) ハ (c) ニ (e) ホ (d)



02年 明治(文) 古代エジプト史

2006年08月18日 | 復習用入試問題
次の(1)と(2)の文章を読んで,下記の問いに答えなさい。

(1) エジプトでは,定期的に氾濫するナイル川の流域を灌漑するため,地域社会の指導者は人力を結集する必要性から,しだいに強大な権限を行使するようになった。そして,紀元前3000年以降,ナイルの下流域と上流域を統合する王国が形成された。その王は (ア) と呼ばれ,宗教的権威を強く帯び,全エジプトを支配する専制的な君主であっただけでなく,来世においても富と権力を保持できる特別な存在とみなされた。ピラミッドやスフィンクスなどの巨石建造物は,そのような王の権威を象徴するものであった。
 (a)王の権力は軍事・行政を担当する官僚たちと祭祀・儀礼を担当する神官たちに支えられていたが,新王国時代の王 (イ) は神官団の発言力増大を嫌って,それまでの伝統的な神々への信仰を止めさせ,首都を移して王のみに宗教的権限を集中するという,思い切った改革を試みた。この宗教上の改革は史上初の一神教の創設であり,新都にちなんで (ウ) 芸術といわれる写実性の高い独特の文化を生んだ。しかし,改革自体はエジプト全土に受け入れられることはなく,短期間のうちに失敗し,以前の宗教体制に戻されることになった。

問1 空欄(ア)~(ウ)にもつとも適切な語句を入れなさい。

問2 下線部(a)に関連して,1799年に発掘され,彼らが使用していた文字を解読する手がかりとなった史料は何か。

正解
問1 (ア) ファラオ (イ) アメンホテプ4世 (ウ) アマルナ
問2 ロゼッタ石
問3 (エ) ヘブライ (オ) イエス (カ) ディオクレティアヌス
問4 キュロス2世 問5 『新約聖書』 問6 ニケーア

2003年 名古屋大学 ギリシア史

2006年08月16日 | 復習用入試問題
 次の史料は,紀元前431年冬に,アテネの戦没者国葬の式典においてペリクレスが行ったとされる演説の一部抜粋である。この文章を読んで,以下の問に答えなさい。

 われらの政体は,他国の制度を模倣するものではない。この政体は,少数者ではなく多数者によって治められているために (a) と呼ばれる。わが国においては,個人間に紛争が生ずれば,法律に従ってすべての人に平等な発言が認められる。だが,一個人が才能に秀でていることがわかれば,無差別な平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて公の高い地位を授けられる。
 さらにわれらは,苦しみを癒す安らぎに心を慰めることができる。(1)われらは四季をつうじて競技や祭典を催し,私邸の美しいたたずまいが悲哀を追い払う。
 軍事訓練においても,(2)われらは敵方よりすぐれている。まず,われらは何人に対してもポリスを開放し,いかなるときにも外国人を排斥したりしない。敵に見られては損をする,という考えをわれらは持っていないのだ。子弟の教育においても,彼らが幼くして厳格な訓練を始めて勇気の涵養につとめるのに対し,われらは自由の気風に育ちながら,危険には敢然と立ち向かう。
 まとめて言えば,(3)われらのポリスはギリシアが追うべき理想の顕現である。これが大言壮語ではなく事実であることは,われらのポリスの勢力そのものが証明してくれる。というのも,列強の中でわれらのポリスだけが試練に直面して名声をしのぐ成果をかちえ,攻め寄せる敵に相手として不足を感じさせず,(4)われらに従う属国も盟主の非をならすことがない。このように偉大な証拠がある以上,われらは後世の人々から驚嘆されるだろう。われらを頌(たた)える (b) は現れなくてもよい。われらは,いたるところに悲しみと喜びをとどめる永久の記念碑を建てた。そして,このようなポリスが奪われることのないよう,この人々は高貴に戦って死んだのだから,残された人々も進んでポリスのために苦難に耐えるべきである。(トゥキュディデス『歴史』第2巻)

問1 この史料の著者であるトゥキュディデス(ツキジデス)は,その『歴史』の別の部分で,「私の記録からは伝説的な要素が除かれているので,読んでおもしろいと思う人は少ないかもしれない」と述べているが,これはある別の有名な歴史家に対する批判と考えられている。この歴史家の名前を答えなさい。

問2 空欄(a)に適切な語を入れ,このような政治制度が古代のアテネでは具体的にどのような仕組みで実現されていたのか,簡潔に説明しなさい。

問3 下線部(1)について,ペリクレスの主導のもとで建築されたアテネのある神殿は,アテネの代表的な祭典である大パンアテナイア祭の行列を表現した浮き彫りによって装飾されていた。この神殿の名称を答えなさい。

問4 下線部(2)について,ここで「敵方」とされているポリスとは具体的にどこのことか,その名称を答えなさい。

問5 下線部(3)について,「ギリシアが追うべき理想」とみなされているのは,どのような性格のポリスであるのか,史料を手がかりとしながら簡潔に述べなさい。

問6 下線部(4)について,ここで属国と呼ばれているのはアテネを盟主とするいわゆるデロス同盟の構成国のことであるが,この同盟が当初いつ,どのような目的のために結成され,その性格がその後どのように変質したのか,説明しなさい。

問7 空欄(b)に適切な叙事詩人の名を入れ,その作品のなかで頌(たた)えられたギリシアの英雄たちが戦った伝説上の戦争の名称を答えなさい。

正解
問1 ヘロドトス
問2 (a)民主政 両親ともアテネ出身の18歳以上の成年男子市民で構成される民会が国政の最高議決機関となる直接民主政がとられ,官職は抽選で決められた。
問3 パルテノン神殿
問4 スパルタ
問5 多数者によって治められる民主政で,法律に従って平等に発言が認められ,能力に応じて国政に参加することができる。また,開放的で自由の気風を持ちながら危機に際しては市民が率先して軍事的義務を果たすようなポリス。
問6 前478年ごろアケメネス朝の侵攻に備えて結成された軍事同盟であったが,後に同盟の資金をアテネが私物化し,アテネによる他ポリス支配の手段へと変質した。
問7 (b)ホメロス, トロヤ戦争


97京都産業大学(経営・法)古代オリエント史

2006年08月10日 | 復習用入試問題
97京都産業大学(経営・法)古代オリエント史

以下の文章を読み,(1)~(10)にもつとも適す語句を記入せよ。
 
世界の文明は,オリエントから始まった。オリエントとは,もともとラテン語で「日の昇る方向」を意味し,ヨーロッパから見て東の,今日のエジプト・西アジア・小アジアなどの地域を指す。オリエントは世界の文明の発祥地という点で,まさに「日が昇る」地域だったといえよう。オリエントの諸地域は通常,気温が高く降雨は非常に少ない。そのため,砂漠ないしそれに近い乾燥地域である。しかしながらオリエントにおいては,メソポタミアのチグリス・ユーフラテス川流域,エジプトのナイル川流域で毎年一定の時期に氾濫が生じていた。それによって沃土がもたらされ,農業が行なわれるようになった。そのため人々が定住し,文明が生まれたのである。
メソポタミアにおいては,すでに前4000年紀には,多くの村落が存在していた。それらが発展して,やがて都市国家となった。都市国家を築いたのは民族系統不明のシュメール人であった。以降,前2700年頃まで,メソポタミアにおいてシュメール人による都市国家が多数建設された。シュメール人の都市国家遺跡のうち,著名なものにウルやウルクがある。各都市の周囲は城壁で囲まれ,中心部には神の住居とされる7層の塔の(1)があった。シュメール人の都市国家では,各都市は独立し,互いに抗争を行なった。神権政治がなされ,市民は神殿共同体に属し,土地は原則的にすべてが神のものとされた。大規模な灌漑事業によって生産性が高められ,交易が行なわれ,富が蓄えられた。また銅や青銅器なども普及しはじめた。メソポタミアの農業生産性は,中世ヨーロッパの10倍以上もあったといわれるほど高かった。シュメール人はその豊かな経済力にもとづき大規模な神殿や宮殿,王墓を築き,高度なシュメール文明を発展させたのである。
 シュメール人はさらに象形文字の一種である楔形文字を作った。楔形文字は神官や書記が祭祀や法規を書く際に利用された。楔形文字はまたさまざまな民族の間でも用いられるようになり,それは粘土板の上に陰刻された。農業との関連でシュメール人は,天文学も発展させた。太陰暦が使われ,うるう年も設けられた。天文上の円周の分割から始まった60進法が使われ,角度・時間の単位となった。このように政治面のみならず,学問面,とくに実用的な分野が大いに発達したシュメールであったが、絶え間なく戦争が行なわれ,さらに周辺の諸民族の侵入により国土が疲弊し,アッカド人に滅ぼされた。
 アッカド人は前24世紀の国王の(2)のとき,メソポタミアの都市群を統一することに成功した。この国王は領土を大きく拡大し,メソポタミア最古の征服者となった。しかしアッカド人の王国も南部都市を中核とする反乱や,東方の山岳民族の侵入により,約1世記後に滅んだ。ついで一時シュメール人が勢力を回復させたが,やがて遊牧民の(3)人がメソポタミアに多数侵入し,前19世紀にはバビロンを都として古バビロニア王国を建国した。そして前18世紀,第6代の王ハンムラビのとき,全メソポタミアを統一した。ハンムラビ王は運河の大工事を行ない,治水・灌漑に努め,シュメール法を継承したハンムラピ法典をつくった。全282条からなるこの法典では,刑法は「目には目を,歯には歯を」という(4)の原則と,身分によって異なった刑罰を科す身分原理にのっとっていた。ハンムラビ王は中央集椎化をはかり,他民族の支配を行なった。ハンムラビ王以降,古バビロニア王国は衰退を迎え,前16世紀初頭に,(5)系語族のヒッタイト人によって滅ぼされた。ヒッタイト人の最盛期は前14世紀で,ミタンニやエジプトと抗争した。前13世紀初頭には,北進して来たエジプト新王国のラメス2世とカデシュの戦いを行なった。ヒッタイトは民族大移動のなか,前1190年頃,バルカン方面から来襲した民族に滅ぼされた。
 すでに述べたように,エジプトのナイル川では,毎年氾濫がおこった。氾濫により生じた沃土を利用して農業が発達し,しかもナイル川はまた流域各地を結ぶ交通路として機能した。古代エジプトの歴史はナイル川によって形成されたという色彩が強く,したがって史家(6)の「エジプトはナイルのたまもの」という言葉は,けだし名言と言えよう。ナイル川流域には後世ギリシア語でノモスと呼ばれることになった村落が分立した。ナイル川の治水には住民の共同労働および住民を指揮するための強力な指導者が必要であったので,ノモスを統一する気運が生まれた。やがて上エジプトと下エジプトの二つの王国にまとまり,ついに前3000年頃,メネスによって統国家が形成された。
 前27世紀の第3王朝から始まる古王国時代においては,首都は(7)におかれていた。中央集権体制が完成し,古代エジプトは最初の繁栄期を迎えた。そしてファラオと呼ばれる国王が神の化身として君臨する,神格政治が行なわれた。王の力はすこぶる強く,王の墓として知られるピラミッドの存在がそれを示している。ピラミッドは古王国時代の代表的建造物であり,最大のピラミッドは,(8)王のものである。第5王朝では太陽神ラーの信仰が強くなり,国家祭祀の中心は王ではなく太陽神になった。そのため,ピラミッドは小規模になった。
 第6王朝ののち,一時エジプトは統一を失ったが,前22世紀に中王国が再び全土を統一した。しかし前17世紀初頭,西アジア系のヒクソスが侵入し,彼らは馬と戦車をエジプトにもたらし,1世紀にわたって,エジプトを支配した。前16世紀、アアフメス世がヒクソスを追放し,エジプトを統一し,第18王朝を開いた。これ以降第20王朝までの約500年間は,新王国時代と呼ばれる。第18・19王朝が全盛期で,対外的にも積極策をとった。トトメス3世は北はシリアやナイル川上流のヌビアを征服し,広大な領土を獲得した。また前述のように,ラメス2世は,ヒッタイト人と喰った。エジプト人は多神政を信仰していた。第18王朝のアメンホテプ4世は,アモン中心の多神教に代え,唯一神(9)の信仰を強制した。しかし急激な変革は内政の混乱をもたらし,彼の死後はアモン神の信仰が復活した。エジプト人は自然現集や天佑,物など人知を心えたあらゆるものに対して神性を認め神格化した。彼らは霊魂不減と(10)神が支配する死後の世界を信じ,遺体をミイラにして保存した。

正解
ジッグラット サルゴン1世 アムル 復讐法 インド=ヨーロッパ ヘロドトス
メンフィス クフ アトン オシリス

04 明治学院(経済)古代ギリシア史

2006年08月06日 | 復習用入試問題
04 明治学院(経済)古代ギリシア史

次の一節は『蛙』という文芸作品の一部である。これについて以下の問1~問5に答えなさい。

ソクラテスの傍らに坐りこんで
おしゃべりをしながらムゥサの技芸を捨て去って
悲劇の技の最も重大な事柄を
かえりみぬのはめでたからぬこと。
もったいぶった言葉の数々とつまらぬ屍理屈とに
無為の時を過ごすのは
正気をはずれた男のすること。
(『藤澤令夫著作集』第2巻,岩波書店より)

問1.この作品の作者は,ソクラテスとほぼ同じ時代に同じポリスで活躍した劇作家である。この劇作家はユーモアのある作品のなかで,当時の政治や文化の問題を取りあげ,風刺・批評した。この劇作家は誰か。
問2.「おしゃべり」,「庇理屈」などの悪口はいわゆるソフィストにもあてはまるが,ソクラテスとソフィストとでは「真理」に対する考え方が異なるように思われる。ソフィストの真理観を端的に表わすプロタゴラスの言葉を記しなさい。
問3.ソフィストの活躍の背景には,このポリスの民主政治が盛んになるとともに言論の重要性が高まったことがある。公職が抽選制となるなど,民主政治が最盛期を迎えたころの指導者は誰か。
問4.このポリスの民主政治は,ペロポネソス戦争中に腐敗した。腐敗の一因となった一群の扇動政治家をギリシア語で何と呼ぶか。
問5.この劇作家のようにソクラテスに対して批判的な人々がいる一方で,ソクラテスの言動に感銘を受けた人々もいた。その一人で,ソクラテスの「おしゃべり」をもとにして数々の対話形式の作品を書き,独自の哲学を発展させたのは誰か。

正解
人間は万物の尺度 ペリクレス デマゴーゴス プラトン