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ピューリタン革命の原因

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

【テューダ】朝【エリザベス1世】は、国内の【毛織物工業】を保護・育成しました。しかし、【1588】年の【アルマダの海戦】で、【スペイン】の無敵艦隊に勝利すると、【香辛料】を扱うアジア貿易に参入するチャンスが生まれたため、【1600】年に【東インド会社】を設立し、アジア貿易への参入を図りました。一方、うまくいかなかったものの、【1584~85】年に【北米】大陸への進出も行っています。この計画は中南米をスペインに支配されている当時、北米に植民地を建設するというものです。【ウォーター=ローリー】がエリザベスが結婚をしていなかったことから、この植民地を【ヴァージニア】植民地をしています。しかし、北米大陸の植民地建設は軌道に乗らず、アジア貿易は端緒についたばかりの状態で、エリザベス1世は結婚をせずに亡くなったため、テューダ朝は断絶し、【スコットランド】王国から【ステュアート】家【ジェームズ1世】をイングランド王国の国王に招きました。
 ジェームズ1世は国内の統一を図るため、【国教会】を人々に強要しました。その結果、イングランドのカルヴァン派で、毛織物業者が多かった【ピューリタン】は弾圧され、【1620】年に北米に信仰の自由を求めて亡命しています。彼らのことを【ピルグリム・ファーザーズ】とよびます。このようにピューリタンによる毛織物業が低迷していくこともいとわなかった理由は、エリザベス1世がはじめていた香辛料貿易と北米大陸経営への期待があったからです。
 【1607】年に【ジョン=スミス】がインディアン娘【ポカホンタス】の協力を得て【ジェームズ・タウン】建設に成功し、【ヴァージニア】植民地を軌道に乗せます。【タバコ】生産が期待されましたが、この段階ではまだまだです。そのような中、【1623】年香辛料貿易をめぐって、建国間もない【オランド】に【アンボイナ】事件で敗北してしまいます。東インド会社は更新流貿易から撤退しなければならず、さらに日本との貿易でもオランダに敗れてしまいます。
 こうなると、国内の毛織物製品を輸出して外貨を稼ぐこともできなくなり、香辛料貿易にも失敗。北米大陸経営はまだまだの状態になってしまい、ステュアート朝は【税収難】に苦しみはじめました。これがピューリタン革命の原因です。


ロックの思想

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

ジョン・ロックは,イギリスの政治思想家【ホッブズ】の社会契約説を批判的に継承し,政治社会の成立を【自然状態】から説きおこした。ロックによれば,自然状態において人間はすべて独立・平等で,生命・自由・財産にかんする一定の権利を賦与され,労働や貨幣を通してさらなる財産の形成をするという。そこでは人々の間の紛争を解決する機関も権力も欠けているから,人々は人権を内外の侵略者から守るために,各人が自然状態で保有していた権利の一部を政治社会に譲渡して共通の政治権力を形成することになる。
しかしながらこの政治権力はもっぱら生命・自由・財産にかんする権利を擁護するためのものであるから,政府が信託目的に反してこれを侵害する場合には【抵抗権】が認められ,新たな政府を創ることができるという。この抵抗権はアメリカ独立革命の独立宣言やフランス人権宣言にも採用されている。
このようにロックは,生命・自由・財産という立法権によっても侵されない権利を論じ,政治権力を契約によって成立するものとして位置づけた


独立派 クロムウェルの軍隊と党派

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

ピューリタン革命の争点は、【国王大権】を認めるか(王党派)、認めずに議会主義を政治の基本に据えるか(議会派)という点でした。したがって特権階級が王党派と議会派に分裂し内戦になったといえます。ただし、王党派と戦う人々には、国王【ジェームズ1世】や【チャールズ1世】に弾圧されていた【ピューリタン】も多くいました。彼らを【クロムウェル】が軍隊に組織して、【鉄騎隊】を創設し、王党派の軍隊に勝利していきます。鉄騎隊が強かった理由は、【実力主義】を取ったためで、家柄や身分が低くても、戦いで活躍すれば出世できる仕組みになっていたからでした。議会派の軍隊組織は鉄騎隊をもとに改編され、【ニュー・モデル軍】となりました。そこにはピューリタンだけでなく国教徒の特権階級の人々も加わっています。【1645】年【ネイズビーの戦い】で勝利したニュー・モデル軍は王党派に勝利を決定付けました。
 国王【チャールズ1世】を取り除いて議会中心に政治が始まりましたが、政治のやり方に詳しい特権階級の【国教徒】たちが、初めは政治の実権を握りました。彼らを【長老派】といいます。しかし、軍隊で活躍したピューリタンのエリート達はクロムウェルを中心に【独立派】を形成し、【長老派】を追放しました。この長老派がいなくなった議会を【残部議会】といいます。ピューリタンたちが政治の実権を握り、【1649】年には国王【チャールズ1世】を処刑し、イギリス史で唯一の【共和制】が始まりました。ただし、クロムウェルの軍隊は実力主義でったため、ピューリタンのエリートの中には、もともとは貧しかった人や身分が低かった人もいます。彼らの代表となった【リルバーン】は6か条の「【人民協約】」を発表し、【男子普通選挙】を要求しています。リルバーンを支持する人々を【水平派】(【レベラーズ】)といいます。また、【ウィンスタンリー】を支持する人々はもっと過激な発言を繰り返し、【真正水平派】(【ディカーズ】)と呼ばれ、【身分制度】の廃止まで主張しました。しかし、レベラーズもディカーズもクロムウェルによって弾圧されました。
 クロムウェルは【1653】年に【護国卿】に就任し、5年間の独裁政治を行いました。しかし、彼のあとを継いだ息子の【リチャード=クロムウェル】が護国卿になるとすぐに政治が乱れていきました。そのため、【長老派】はクーデタでリチャード=クロムウェルを追放し、【フランス】に亡命していた王子を呼び戻し、【1660】年【チャールズ2世】として即位させました。これを【王政復古】といいます。


長老派について少し詳しく

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度
独立派のうち立憲君主制を志向した人々を長老派と呼びます。しかし、ピューリタン革命は党派がきれいにわかれていません。つまり特権階級でも大商人は議会派で、貴族は王党派であるといったようにはいかない。どちらかというとロンドン商人は議会派が多かったと考えられています。

さて長老派は特権階級に近いもしくは特権階級に属していた人々です。彼らはジェームズ1世が新しい特権を乱発したり、関税を新しく設けたことに反発した人々です。さらに国王が無理な遠征をして財政をさらに悪化させることに腹立たしく思い、国王が勝手に政治をするという状況を改めて、議会が国王の政治を制限することを目指していました。
しかし特権階級に近い長老派のおおくは国教会に属していました。政治的に反国王を標榜して国王による特権の濫発や戦争のための課税に反発していたので、ピューリタンの経済活動には好意的で、むしろピューリタンの経済活動によって利益を得ていた人々でした。
また特権階級に近かったため政治のノウハウについては素人のピューリタンよりよく知っていたともいえます。

しかし、クロムウェルが独裁を始めやがてその独裁政治が行き詰まると、ピューリタンの政治活動に対する風当たりは非常に強くなります。クロムウェル達の独立派は、王党派だけでなく長老派、水平派、真性水平派を弾圧していたのだから仕方が無いでしょう。

独裁政治が行き詰まると政治の素人の独立派などは上手く立ち回ることができず、長老派がフランスに亡命していたチャールズ2世と妥協して政治の安定を確保することを目指したわけです。長老派は立憲君主制を志向していたのだから国王が議会政治を認めるならば、この妥協は最高の結果です。チャールズ2世もなんとか国王に即位してしまえば、あとはどうにかなると考えていました。

こうして長老派が実権を握り、国教会を堅持する政治を始めました。これが王政復古の時代です。

第2次英仏百年戦争

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【ハンザ同盟】は【ロンドン】に四大商館のひとつを置いたが,当時のイギリスはヨーロッパの辺境でしかなかった。海外進出の面でもポルトガルとスペインに遅れをとったイギリスだが,16世紀初めの【ヘンリ8世】治世下に,ローマ=カトリック教会と絶縁し中央集権化がすすみ絶対主義が生まれた。この国家は国内統治を固めるかたわら,輸出産業の保護育成に力を注ぎ,植民地獲得にむけて積極的な海外進出を企てた。
 絶対主義国イギリスの海外進出は【エリザベス1世】の治世にひとつの頂点に達した。エリザベス1世は西インド貿易をスペインから奪取するために,【カリブ海域】で頻発した【私掠(海賊)】行為すらも援護したといわれる。またアジアとの貿易のために【1600】年には【東インド会社】を設立した。
 イギリスの重商主義政策は【ピューリタン革命】後も踏襲された。これを【議会重商主義】という。【オリヴァ=クロムウェル】は【1651】年に【航海法】を発布して,中継貿易国家【オランダ】に打撃を与え制海権を奪おうとした。このため両国は3度にわたって戦いを繰り広げた。これに勝利したイギリスは,その間にも海上交通の要衝を次々とオランダから奪い取り,17世紀末には世界貿易の覇権を握った。
 イギリスの最後の敵は【フランス】であった。両国は18世紀を通じて海外植民地で血みどろの戦いを繰り広げた。インドでは,財務総監【コルベール】の下で再興されたフランス【東インド会社】が,【ポンディシェリ】などを拠点に活動し,イギリス東インド会社と張り合っていた。だがフランス総督【デュプレクス】が本国召還されると力関係は逆転し,【クライブ】の率いるイギリス東インド会社軍が,【フランス・ベンガル太守】連合軍を破った。これが【プラッシーの戦い】である。これに勝利したイギリスはインド経営の基礎を固めた。
 北米大陸では,フランスは【ハドソン湾】から【五大湖】を経由して【ミシシッピ川】に至るルートを開拓し,その広大な流域一帯を領有していた。だが【】七年戦争の一環として展開された【フレンチ=インディアン戦争】において,フランスの拠点都市【ケベック】が陥落して決着がついた。イギリスは【ミシシッピ川以東ルイジアナ】のフランスの植民地を奪い,他方フランスは北米大陸のすべての植民地を失った。
 こうしてパクス=ブリタニカ(覇権国家イギリス)の第一幕は完了した。


名誉革命でオランダの資本がイングランド経済を支えていくことになった

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 名誉革命には興味深い点が考えられます。コメントにあった卒業生の大学の授業で扱っているように「経済面」について考えたいと思います。


 名誉革命の本質は、オランダ総督のウェレム(ウィリアム)がイングランドを征服したという点にあります。すなわち、ジェームズ2世を議会勢力が追放したというよりも、オランダから軍隊を率いて上陸したウェレムに対抗できずにジェームズ2世がフランスのルイ14世に助けを求めるためにフランスに亡命した、ということです。その結果は、オランダの商業のノウハウがイングランドに持ち込まれ、イングランドの経済発展に大きく貢献したことと、航海法以来対立を繰り返していたイギリス・オランダ間の関係が改善に向かい、イングランドが発行した国債の購入など、オランダの資本がイギリス(イングランド)の戦争遂行能力を支え続けていったことに大きな意味があります。


 17世紀はオランダの世紀といえますが、彼らは7つの州が別々に政治経済を運営し、最も勢力があったホラント州の代表が一応、オランダ総督として7つの州のとりまとめのようなことをしていました。したがってオランダの弱点は中央集権的に経済政策ができないという点にあります。彼らが活躍したのはバルト海の穀物貿易と木材貿易でした。17世紀の段階では新大陸との貿易により利益はまだまだ少なく、18世紀にならないと新大陸貿易はバルト海貿易を上回りません。


 17世紀のヨーロッパは食糧難の時代でした。北イタリアはコムーネという形態の都市国家だったため、都市は周辺の農村を支配し、穀物貿易にはあまり関心を向けなかったようです。したがって17世紀の食糧難の時期に穀物をポーランドのダンツィヒ市から北イタリアなどヨーロッパ各地に輸送し、その輸送費で大きな利益を上げたのがオランダ商人です。世界史的にはさらに奴隷貿易をオランダが独占したことも考える必要があります。


 名誉革命はこのようにオランダ商人が穀物・木材・奴隷貿易で細かく利益を上げていた時期に発生しました。世界史では英蘭戦争はイギリスの勝利として扱ってしまいますが、実際はオランダが勝利を収めたといえます。その間のイギリス議会とオランダとの和平交渉のなかで、王女アンとホラント州の名門出身のウェレム(ウィリアム)との結婚が実現したわけです。そのウェレムがのちにオランダ総督に就任し、軍隊とともにイギリスに上陸したのが名誉革命でした。


 結果的にオランダがイングランドを征服したともいえます。両者はルイ14世とフランスに亡命したジェームズ2世との連合と対抗するために連帯したともいえます。とくに経済面で両者の提携は進み、先述したような状況になったわけです。


 オランダの貿易独占は18世紀になると崩れていきました。ロシアが啓蒙専制主義をとり、穀物輸出を積極的におこなったことがオランダの独占を崩壊させたわけです。ロシア穀物を扱ったのはイングランド商人でした。さらに新大陸経営が拡大したことも、オランダの経済的覇権を相対的に低下させたといえるでしょう。したがって、オランダ経済は貿易活動からイングランドなどに対する金融活動で利益をあげることがメインになっていったわけです。


 


 


コルベール主義

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

絶対王政は極端にいえば、農業からは税金を集めずに、大商人に外国と貿易をやらせて、その利益の一部を
「特許料」という名目で納めさせることで、財政を運営する方法を取りました。これを、商業に重きをおいた経済政策なので、重商主義政策と言います。
重商主義には大きく分けるとふた通りの方法があり、一つは
、ポルトガルやスペインがやっていた重金主義、もう一つがイギリスやフランスがやっていた貿易差額主義です。重金主義は国内では毛織物生産を行わずに、中継貿易のみで利益を上げる方法です。一方、貿易差額主義は、国内で毛織物生産を行い、貿易全体を黒字にすれば良いという考え方です。毛織物生産を行うには羊毛の輸入や、穀物の輸入などが必要になるからで


啓蒙専制君主

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【18】世紀にフランスやイギリスで啓蒙思想が盛んになった頃になって、ロシア・プロイセン・オーストリアではようやく絶対王政が成立しました。それは、イギリスでは17世紀のピューリタン革命や名誉革命で絶対王政は崩れ去っていましたし、フランスのブルボン朝では重商主義政策の失敗から国家財政が苦しくなり、絶対王政に先行きに不安が大きくなっていた頃です。
 【ロシア】・【プロイセン】・【オーストリア】では、そのような英仏の政治情勢を無視して絶対王政を築くことはできませんでした。新しい政治思想である【啓蒙思想】がすでにこの3国の人々にも知られていたからです。
 そこで、この3国の王たちは、啓蒙思想家が説くような世の中にするには、強力な指導力が必要なのだ!といいました。とくに【プロイセン】の【フリードリヒ2世】は自らを「【国家第1の下僕】」と呼び、国王が進んで国民を指導し、イギリスやフランスに追いつく必要性を説いています。このことは矛盾した考え方です。民主主義を実現するために強力な独裁が必要だ、というわけです。
 以上ような考え方に基づいて絶対王政をおこなった、ロシアの【ピョートル1世】や【エカチェリーナ2世】、プロイセンの【フリードリヒ2世】、オーストリアの【マリア=テレジア】や【ヨーゼフ2世】のことを、【啓蒙専制君主】とよびます。啓蒙専制君主は東欧で出現した絶対王政の一種といえます。


アメリカ独立革命の前提として知っておきたいこと

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

アメリカ独立革命は北米大陸に建設されたイギリスの13の植民地が本国議会に反旗を翻して独立を果たしたという事件です。まず前提として知っておきたいことは、13の植民地は全く別々の目的で別々の時期に建設されたということ。そして2点目は、そこに住んでいる人々は、自分たちのことを
「イギリス人」だと思っていることです。
したがって
、彼らは本国と同じように自分たちの議会(植民地議会)をそれぞれの植民地ごとに持ちました。しかし、植民地ごとに全体をまとめるような議会は作りませんでした。この辺が中南米にできたスペインの植民地や北米にできたフランスの植民地との大きな違いです。例えばばスペイン植民地では、ペニンスラールという本国生まれの破棄人が役人などといった支配者として派遣され、現地で生まれた白人derるクリオーリョや混血のムラートを支配下においていました。つまり、クリオーリョたちもスペイン本国の重商主義支配に組み込まれているという自覚があったと思われます。
 一方、13植民地人はそうではありません。彼らはインディアンたちを追い出して手に入れた土地を自分たちの所有地としており、事実上、本国議会からの支配は受けていなかったのです。


アメリカ独立宣言の重要事項とその限界

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度
アメリカ独立宣言の特徴は「幸福の追求」を権利として認めている点にあります。しかし、重要事項としては、以後の様々な宣言に大きな影響を与えている点をあげる必要があります。

1、基本的人権を主張している点。この権利を神から与えられた自明(当然)の権利としています。基本的人権の中に「幸福の追求」をする権利も含めている点が特徴的です。この考え方は以後の様々な憲法に影響を与えました。

2、統治する権力は統治される人々の同意に基づいて行使される必要がある、として点。この考え方は「人民主権」の考え方を示しています。「人民主権」の思想は民主主義の大原則ですが、合衆国憲法にも採用されています。まさに近代民主政治の基本理念を宣言したと言えます。

3、抵抗権(革命権)を認めている点。もし政府(統治する権力)が人々の同意を無視して政治を行った場合、その政府を倒して(革命)新しい政府を作ることを認めています。此の考え方は、名誉革命を正当化したJロックの思想を受け継いだものです。

4、ただし、この独立宣言には「奴隷制度」を否定する考え方や、先住民の生活権を無視している点は問題として残ります。また男女同権の考え方も見ることはできません。この点がアメリカ独立革命の限界と言えます。

アメリカ独立革命の大陸会議

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

第1回大陸会議は【1774】年に【フィラデルフィア】で開催されました。革命以前は植民地ごと別々に植民地議会を持っているに過ぎなかったため、【1773】年の【ボストン茶会事件】から始まったボストン(マサチュセッツ植民地)と本国議会との関係悪化に対して、13植民地人がどのような態度を取るべきかを相談する場として、1774年に第1回大陸会議が必要になったわけです。【ボストン港を閉鎖】するという本国議会の強硬な姿勢に対して、大陸会議は本国との通商関係を断ち切ろうと決定しました。つまり、本国の商人とはとは商取引をしないよ、ということです。これを【通商断絶同盟】を結成したといいます。
 【1775】年マサチュセッツ民兵隊がボストン市の【レキシントン】という町で本国からきていた部隊と小競り合いになり、さらに【コンコート】でも軍事衝突が起きてしまいました。このため、13植民地人は第2回大陸会議を開催。このマサチュセッツで起きた軍事衝突をどうするかについて議論され、最終的に【ワシントン】を総司令官とする【大陸軍】の創設が決定しました。つまり、独立戦争を行うということが決まったわけです。
 この大陸会議は独立戦争中のアメリカ側の臨時政府の役割を担っていたといえます。


フランス革命の始まり

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

18世紀のヨーロッパではフランス絶対王政が,【ルイ14世】期以来の膨大な戦費負担などによって財政的危機を迎えていた。ルイ16世は財政の立て直しをはかるため銀行家の【ネッケル】を登用し,【免税特権】をもつ聖職者(第1身分)や貴族(第2身分)にも課税しようとした。
しかし、これに反対する貴族は,王権を制限するため【1615】年以来【175】年間も開かれていなかった【全国三部会】の開催を要求した。全国三部会は1789年5月に招集されたが,【議決方法】をめぐって特権身分とブルジョアジーを中心とする第三身分とが対立し,第三身分の議員たちは、第1身分の【シェエス】を中心に自分たちこそが国民を代表すると宣言し,【国民議会】を結成して憲法制定までは解散しないことを誓った。これに貴族の一部などが合流したため国王も認めざるをえず,国民議会は憲法制定議会と改称した。
しかし,国王は保守的な貴族と結んで,武力で議会を弾圧しようとした。これに対して手工業者や商工業者は激しく抵抗し,物価上昇に苦しんでいたパリの民衆も圧政の象徴であったパリの【バスティーユ監獄】を襲撃した。この動きはパリ以外の都市にも波及し,農村では農民が領主の館を襲う「大恐怖」が発生した。これをおさえるため議会では【領主裁判権】や教会への【10分の1税】などの「封建的特権の廃止」が8月4日に決議され,さらに【ラ=ファイエット】らの起草した「【人権宣言】」が採択された。そこでは【ルソー】などの思想を基本理念として,【財産権】や自由権を中心とする権利が,圧政にも対抗できる不可侵の権利として認められ,それを保障するのが政府の目的であると明示された。


バスチーユ牢獄襲撃事件

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

1789年7/14にバスチーユ牢獄襲撃事件が起こりました。フランス革命の幕あけです。この暴動はパリの大銀行家が裏で動き、パリ市民すなわちサンキュロットたちが絶対王政の象徴と考えられていたバスチーユ牢獄を襲撃した事件でした。この直前、国王ルイ16世が改革派財務長官ネッケルを罷免したことで、パリの大銀行家たちは危機感を募らせ、ネッケルを復職させるために起こした事件です。


 ネッケルはスイス出身の銀行家で、重農主義の経済政策を採用することを目指しました。それは、フランスの財政再建を宮廷貴族などに負担を強いることで実行しようとする政策です。すなわち貴族年金の廃止、貴族が持っていた免税特権の廃止などです。とうぜん宮廷貴族は猛反発しましたが、宮廷貴族の再建策は、大銀行家などの商人層に強制的に赤字国債を購入させるというもので、強制借款制度を実行するものでした。財政破綻直前のフランス政府が発行する赤字国債を買っても、利息を付けて返してもらえるはずはありません。大銀行家たちはネッケル罷免であわてたのも無理はなかったわけです。


 バスチーユ牢獄襲撃事件で(憲法制定のための)国民議会を国王が承認しましたが、これにより事実上絶対王政は終焉したといえるでしょう。この革命的事件の勝者はパリの銀行家に代表される大ブルジョワジーで、敗者は財政再建の負担を担うことになる宮廷貴族であるといえます。


アンシャン・レジーム

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

この絵は「アンシャン・レジーム」というフランス革命前の身分制度を説明するときのよく使われています。第3身分の人々が税負担を負っていて、第1・第2身分は特権に甘んじているという説明でしょう。しかし、この絵を良く見ると、下敷きにされている第3身分も「キュロット・パンツ」を穿いていることが分かります。当時、キュロット・パンツを穿くのは特権階級の人々だけでした。下の絵がその姿です。
一方まさに第3身分の平民たちは、「キュロット・パンツをはかない」という意味で「サン・キュロット」と呼ばれていました下の絵がサン・キュロットたちです。この絵は志願兵として登録を待っているサン・キュロットの様子を描いたもので、フランス革命はこのサン・キュロットたちの力で進められました。

つまり、最初の絵は、絶対王政の時代、特権階級の中で第3身分の特権階級であるいわゆる大商人が重商主義の担い手として特許料を負担し、第1身分の聖職者や第2身分の貴族階級は大土地所有者として免税特権をもって税負担を免れていたことを意味しているわけです。
すなわち、フランス革命の開始は重商主義が行き詰ったとき、ブルボン王朝はこれまで免税特権をもって税負担を免れていた第1・第2身分にも税負担を負わせるべきか?否か?の論争から始まったわけです。

大土地所有者である第1・第2身分にも税負担を負わせるべきであるという考え方を「重農主義」といいます。


革命と臨時政府の関係

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度

革命が成功すると、古い政府が倒されます。古い政府に参加していた人は処刑されたり、難を逃れることができれば亡命や田舎に逃れる。一方、ちゃんとした政府ができるまでの間、革命を闘った人々の中からリーダー的な人々が臨時政府を樹立します。この臨時政府の仕事(役割)は、憲法を制定することと、政治的な空白を埋めて国内の安全を守ったりする政府としての機能を維持することです。
 臨時政府は憲法を制定すると解散し、憲法にのっとって総選挙が実施されます。総選挙の結果、正式な議会が誕生し、そこから正式な新政府がスタートするわけです。