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世界史の復習をサポートするブログです

引退を迎えている高3生や、まだ部活を頑張っている諸君に

2014年06月25日 | 何かの足しになれば

 部活動をやっていると「自分ひとり」という世界から「縦横の関係」という世界への広がりを自覚できる機会を得ます。横との関係とは「仲間意識」だあったり「一体感」です。またより重要なのは縦との関係です。縦との関係とは「先輩のために」とか「後輩のために」といったこと。自分の行動が先輩や後輩に与える影響、自分ががんばることで後輩たちがその苦労を少しでも和らげることができるという配慮。このように「自分」という存在が何かを通じて受け継がれていくという体験はなかなか中学生や高校生ではできるものではないでしょう。
 たとえば、受験勉強と部活動との両立に自分が苦しんでいるとします。自分が部活動を引退した後、受験勉強でよい結果を残すことが、後輩のためにしてあげられることでしょう。このように今の自分が何らかの形で「残り香」を残していく。大人に一歩近づく瞬間のように思います。


共和制ローマ 04明治学院(法)

2014年06月25日 | 復習用入試問題

04明治学院(法)共和制ローマ

次の文章の空欄【A】~【J】に最も適切な語句を記入し,下線部(1)~(6)に対応する問~問6に答えなさい。

 前4世紀ころから,中小土地所有農民(平民)が自弁で武装した【A】を中核としたローマ軍は,イタリア半島内の諸民族や諸都市と戦いをつづけ,前270年ごろには北部をのぞくイタリア半島を制圧した。ローマは,【B】街道に代表されるような車道や植民市を建設する一方,各都市・各民族に対して巧妙な個別的協定を結んで【C】統治の支配を行った。
 こののちローマは,西地中海を勢力圏とする【D】人の植民市カルタゴと衝突し,3回にわたる(1)ポエニ戦争で勝利した。また,ローマは,東地中海にも進出して,前2世紀半ばには【E】(アンティゴノス朝)を滅ぼした。こうしてローマは,征服地を属州とし,西アジア~地中海世界に君臨する大勢力となった。
 イタリア半島の同盟都市はローマに対し軍事義務を課せられていただけだが,属州となるとこの軍役に加えて(2)納税義務を負わされた。こうして各属州から莫大な富がローマに流れ込み,ローマは貨幣経済の波に洗われることになる。うち続く海外遠征と貨幣経済の浸透によってローマ市民に貧富の差が広がり,(3)中小土地所有農民は経済的に没落していく。無敵を誇ったローマ市民軍の一角が崩れていったのである。
 ポエニ戦争当時から出征兵士には日当が出されていたが,それではとても兵が集まらない状況になってきた。そうこうするうちに,前111年【F】戦争と呼ばれる戦いが始まった。これは北アフリカにあるローマの同盟国ヌミディア王国の内乱に端を発している。ローマは直接軍事介入を決意した。しかし思うように兵が集まらない。そこで当局は兵役資格資産の額を大幅に下げて兵を掻き集めた。それでもローマ軍は苦戦を強いられた。ローマ市民に当局弾劾の声が巻き起こる。そして前107年,平民出身の【G】が(4)コンスルに選ばれる。
 【F】戦争の総司令官となった【G】は思うように兵が集まらないことに業を煮やし,思い切った軍制改革に着手する。すなわち兵役資格の撤廃である。これは兵制を徴兵制から志願兵制に切り替えることを意味する。志願兵といっても,たとえば1936年から始まったスペイン内戦のとき,【H】将軍率いるファシスト軍に抵抗した人民戦線側に自分たちのイデオロギーを賭けて志願した【I】軍のようなものではなかった。【G】の呼びかけに応じて志願したのは貨幣経済の嵐の中で農地を失ったり,失業に追いやられた人間が大半であった。つまりこの軍制改革は失業対策の一環でもあったのである。軍に志願すれば給料がもらえるのである。こうしてローマの軍役は,市民にとっての義務ではなく,職業に変わったといえよう。この軍制改革でたしかにローマの軍備増大は果たされた。1軍団は,歩兵6000が基本となった。しかし同時に軍団兵の質の低下が急速に訪れる。没落市民が戦利品や土地配分を求めて軍隊に殺到する。だが,軍団は常備軍ではなく戦争のたびに編制される。すなわち戦争が終了すれば兵士はたちまち失業となる。兵士たちは生計の道を軍団長の将軍にすがるしかない。将軍たちも莫大な借金をしながら兵たちを養う。こうなると各軍団は将軍たちの「私兵」と変わらなくなる。この(5)「私兵」を背景に将軍たちが群雄割拠するようになる。ローマは内乱に突入し,独裁権力を握った【J】を経て,最終的にその養子(6)オクタヴィアヌスが内乱の1世紀を収拾した。

問1.(a)第2回ポエニ戦争で,ローマは,アルプスをこえてイタリアに侵入した名将ハンニバルの率いるカルタゴ軍に前216年に大敗した。この戦いを何というか。
(b)結局,第2回ポエニ戦争は,ローマの勝利に終わるが,その勝敗を決定した戦いを何というか。また,このときローマ軍を指揮した将軍は誰か。
問2.属州の徴税は,これを国家との契約で請け負った徴税請負人が行ったが,彼らの多くが属する身分は何か。
問3. (a)こうした中小土地所有農民の没落に拍車をかけたものとして,奴隷使用に基づく大土地経営があったが,これを何というか。
(b)中小土地所有農民の没落により,もはや市民軍の維持は不可能となりつつあったが,共和政再建のための最後の改革が前2世紀後半に行われた。この改革を行ったのは誰か。
問4.2名のコンスルのうち,1名は平民より選出することを定めた前367年に制定された法を何というか。
問5. 私兵化した軍団を率いた将軍たちの中で,ミトリダテスの反乱を最終的に鎮圧した将軍は誰か。
問6.(a)オクタヴィアヌスは,エジプトのクレオパトラと結んだアントニウスをギリシア西北海岸沖で破り,内乱の1世紀を収拾した。この戦いを何というか。
(b)また,この結果滅んだエジプトの王朝を何というか。

正解
重装歩兵 アッピア 分割 フェニキア マケドニア ユグルタ マリウス フランコ 国際義勇 カエサル
カンネーの戦い ザマの戦い 大スピキオ
エクイテス(騎士)
ラティフンディウム グラックス兄弟
リキニウス=セクスティウス法
ポンペイウス
アクティウムの海戦 プトレマイオス朝


古代ローマ史 混乱の1世紀

2014年06月25日 | 高2用 授業内容をもう一度

【前146】年は,古代地中海世界の歴史の中でも注目すべき年である。この年に,地中海の西部と東部において,それぞれ数百年間にわたって栄華を誇っていた2つの有力な都市国家,【カルタゴ】とコリントが破壊され,地上から姿を消したのである。この両市を破壊したローマは,当時,事実上、地中海世界の支配者であった。
 一方,勝利したローマでもその社会の歪みが目立ちはじめていた。ローマ市民層の中核となる【中小自営農民】の一部が,打ち続く海外戦争の負担で没落しはじめていたのである。このローマ社会の危機に対処するために,【前133】年から【グラックス兄弟の改革】が始まった。彼らは,【護民官】に就任して、没落市民たちの救済に努めたが,反対派の抵抗で改革は挫折した。その後,ローマでは【閥族派】と【民衆派】との対立が激化し,社会の混乱が著しくなった。閥族派の【スラ】と民衆派の【マリウス】は,小アジアのポントスの【ミトリダテス】との戦争の指揮権をめぐって激しく対立し,内乱が勃発した。この戦いはスラが勝利し,彼が独裁官となった。この時期は,地中海世界各地で反ローマの抵抗連動が活発化した時代でもあった。王は,地中海東部でローマ軍と長期にわたる戦争を続けていた。また小アジア南部を本拠地とする海賊たちも地中海の海上交通路を脅かしてローマに大損害を与えていた。ローマの本拠地であるイタリアでも,剣闘士奴隷であった【スパルタクス】を指導者とする大規模な奴隷蜂起が勃発した。
 スラの勝利後,ローマでは閥族派優位の元老院が政治を指導する時期がしばらく続いていた。【前60】年,この体制に不満を持つ3人の有力政治家が手を結んで第1回三頭政治をはじめ,政治の実権を握った。三頭政治の一員であった【カエサル】は,【ガリア遠征】の功績で勢力を伸ばし,独裁官となった。彼はしばしば共和政の伝統を無視する政策を実施したため,【前44】年に共和政擁護派の【ブルートゥス】等に暗殺された。その後,カエサルの養子【オクタヴィアヌス】と旧部下の【アントニウス】・【レビドゥス】の3人が第2回三頭政治を結成し,反対派を打倒してローマの政治を支配した。
 第2回三頭政治を構成した3人の政治家の中で,【レヒドゥス】は一早くに失脚し,残りの2人が政治権力を分け合うこととなった。オクタヴィアヌスは地中海西部を、アントニウスはヘレニズム文化の影響が強い地中海東部を支配した。アントニウスは,マケドニアのアレクサンドロス大王の部将【プトレマイオス】の子孫であるエジプト女王【クレオパトラ】と親密となった。オクタヴィアヌスはアントニウスとクレオパトラヘのローマ市民たちの反感を煽って,エジプトに対して宣戦を布告し,勝利をおさめた。ローマと地中海世界の支配者となったオクタヴィアヌスは,【前27】年に元老院から【アウグストゥス】の名前を与えられ,事実上の帝政をはじめた。この体制は,アウグストゥスが【市民の第1人者】を,意味する【プリンケプス】の呼称を採用したことから,【プリンキパトゥス】と呼ばれる。


アメリカ独立革命

2014年06月23日 | 年代暗記法

(1)1764年 砂糖法・・・にまみれた砂糖法
(2)1765年 印紙法・・・無効を唱えたパトリック=ヘンリー
(3)1773年 茶法・・・に沈んだお茶の箱
(4)1774年 第1回大陸会議・・・名無しの代表、大陸会議
(5)1775年~1783年 独立戦争・・・一戦難航悩みの独立
(6)1776年 独立宣言・・・あすなろ独立宣言
(7)1778年 米仏同盟・・・で運んだ自由の女神
(8)1780年 武装中立同盟・・・火縄を持って武装中立
(9)1783年 パリ条約・・・悩み終わったUSA
(10)1787年 合衆国国憲法・・・まる印の合衆国憲法  


共和制ローマとポエニ戦争

2014年06月23日 | 高2用 授業内容をもう一度

【前509】年【聖山事件】をきっかけに【平民会】を公認してから、ローマ貴族(【パトリキ】)と平民(【プレブス】)の対立は激しくなり、やがて【前287】年には【ホルテンシウス法】で平民たちの議会である平民会が決めた法律にも貴族が従わなければならなくなり、平民・貴族の区別は残っているものの、ローマは平民出身でも政治的にも軍事的にも活躍できる社会を作り上げました。 
 平民の政治参加が可能な体制を作り上げたローマは、その間、平民が活躍し(多くは自作農で【ファランクス】の主力です))、対外的にも強力になりました。北イタリアの【エトルリア】人都市国家【ウェイイ】を征服し、さらに中部イタリアに広がる【サムニウム】人都市国家を征服し、さらに南イタリアに散在する【マグナ=グレキア】という【ギリシア人】植民市である【タレントゥム】を【前272】年に陥落させて,イタリア半島全体を支配下におくことに成功しています。
 これ以降,ローマは,西地中海で有力であった【フェニキア】人の都市国家【カルタゴ】と激しく対立するようになり,カルタゴとの間で3次にわたるポエニ戦争を行なうことになります。
 【前264】年に始まった第1回ポエニ戦争で勝利したローマは、初めてイタリア半島の外に領土を獲得し、その【シチリア】を【属州】として支配しました。属州には【】元老院が決定した【】総督が派遣され、その地の支配者になりました。
 第2回ポエニ戦争は【ハンニバル戦争】と呼びます。ハンニバルはカルタゴの将軍で、スペインの【カルタゴ・ノヴァ】で軍事訓練をした兵士を引きいてアルプスを越えてイタリアに侵入。【カンネイの戦い】でローマ軍を圧倒しました。しかし、ローマの将軍【スピキオ】は、主力軍の留守であるカルタゴ本土を攻撃、あわてて帰国したハンニバルを【ザマの戦い】で破り勝利を収めました。この戦いでカルタゴは壊滅的な敗北を喫し、第3回ポエニ戦争で滅亡しました。
 ポエニ戦争は,【前146】年にローマがカルタゴを滅ぼして終結しましたが,その間,ローマは,地中海最大の島である【シチリア島】をはじめとして,半島外に征服地を得て,これを【属州】として支配するようになります。属州はその後も拡大していき,その総督を務めた元老院議員や,徴税を請け負った新貴族(【ノビレス】)は,属州民を犠牲にして巨富をきずくことができたのです。
 他方,ローマの対外的な発展は中小自作農である平民階層の軍役の長期化を意味しました。その結果、中小農民の没落をまねいたので,ローマ軍に参加を望む平民が激減してしまったのです。そのため、ローマでは政治的な緊張が高まりました。前2世紀の後半(【前133年~前123】年)にあいついで【護民官】に就任した【グラックス兄弟】は、【リキニウス・セクスティウス法】の規定を実行し、貴族による占有地の独占を【500ユゲラ】に制限するなど、中小農民にも土地を配分するという改革をめざした。しかしこの改革の試みも挫折し,ローマでは,有力政治家間の激しい抗争の時代がほぼ100年間にわたって続くことになりました。


ヘレニズム文化(1)アレクサンドリアにて

2014年06月16日 | 高2用 授業内容をもう一度

 ギリシア文化はオリエントに散らばったギリシア人(【ヘレネス】)によって、オリエント世界に広まりました。ヘレネスによる文化、すなわち【ヘレネス】+イズムで【ヘレニズム】という造語で説明されます。
 彼らは都市生活を維持し、ギリシアで生活していたように生活しました。支配階級として君臨するギリシア人は、【コイネー】というギリシア語を共通語としました。そのうえで重要なことは、エジプト文明との出会いです。ギリシア人は、暦を完成させた【天文学】、ピラミッドを作った【測量学】、ミイラをつくる医学的知識といったエジプトの実用的学問を学び、ギリシア人が得意とした概念の世界を深めていったのです。この概念の世界というのは、「万物の根源は何か?」といった問に対する答えを探すような思考をさします。このような、一見どうでもいいようなことを突き詰めようとしていたイオニア自然哲学の姿勢が、エジプトの実用的学問とであって、科学を進歩させたわけです。
 つまり、【アリスタルコス】が【地球の自転と公転】を指摘し、【地動説】を唱えたり、【エラトステネス】が【地球の周囲】を計測したり、【エウクレイデス】が【幾何学】を大成したり、以後の科学の発展に貢献するような研究が、【アレクサンドロス】の【ムセイオン】研究所で行われました。ギリシアの概念とエジプトの実用が結びついたヘレニズム文化の典型的側面といえます。


ヘレニズム国家の変遷

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

 【前330】年アケメネス朝が滅亡してから【前30】年に【プトレマイオス】朝エジプトが【クレオパトラ】の死によって滅亡するまでの約【300】年間をヘレニズム時代といいます。この間、【アンティゴノス】朝マケドニア、【プトレマイオス】朝エジプト、【セレウコス】朝シリアなどギリシア人が支配者として君臨するヘレニズム国家が成立しました。
 このうち、【前146】年にアンティゴノス朝マケドニアは属州マケドニアをしてローマに併合され、【前31】年の【アクティウムの海戦】の敗北で、前30年いプトレマイオス朝エジプトもローマ領に併合されました。
 一方、セレウコス朝シリアは、辺境地域が次々に独立したため、広大な領土は減少し、前200年ころにはシリアの都【アンティオキア】周辺を支配するだけの弱小国になりました。
 その経過は以下のようでした。まず、【バクトリア】王国の独立によって中央アジアを失いました。バクトリア王国は【ギリシア】人が支配階級を構成するヘレニズム国家です。ギリシア文化をインドに伝えたという文化的功績を残しました。ついで、イラン人がセレウコス朝シリアの東方で独立。【前248】年に【アルサケス】がパルティア王国を建国しました。中国人はこの王国を「【安息】」と呼びます。【ゾロアスター】教を国教とする【遊牧イラン】人の国家ですが、はじめのうちは、ギリシア人の活動や行政能力を無視できず、ギリシア語である【コイネー】を共通語としました。パルティアが拡大するとセレウコス朝シリアはアンティオキアに遷都しています。
 セレウコス朝シリアの衰退はさらに、【小アジア】の【ペルガモン】王国の独立を促し、パレスティナの【ユダヤ】人もアカベアに率いられた【アカベア】戦争で独立を達成し、【ハスモン】朝を建国しました。しかし、ペルガモン王国、ハスモン朝、小国となったセレウコス朝はともにローマ併合されています。
 このようにほとんどのヘレニズム国家は最終的にはローマに併合されました。このことを後の歴史家は「【すべての水はローマに流れる】」といいました。この言葉は文化的にもヘレニズム文化をローマが継承したことも含めて言い表しています。以上の結果、ローマはイランのパルティアと軍事的衝突を繰り返すようになりました。
 


ヘレニズム国家

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

 アレクサンドロスの東征は【インダス川】流域までおよびましたが、部下の反対に合い、アケメネス朝ペルシアの都【スサ】に帰還して終わりました。マケドニア王国の都【ベラ】ではなく、スサに帰還した意味は大きいと考えるべきです。すなわち、アレクサンドロスは官僚制度の上に国王が君臨するオリエント風の政治体制を採用するつもりであったということです。結果的にも、ギリシア的民主政治はその後に成立するヘレニズム諸国家では採用されることはありませんでした。

 【アレクサンドロス】が【バビロン】で急死すると、その子アレクサンドロス4世も暗殺されました。その結果、帝国の後継者はいなくなり、【ディアドゴイ】戦争とよばれる後継者戦争が勃発。【前301】年の【イプソスの戦い】で帝国の分裂が決定的になりました。すなわち【アンティゴノス】朝マケドニア、【プトレマイオス】朝エジプト、【セレウコス】朝シリアが帝国を統治したわけです。
 これらの王朝の支配者層はギリシア人であったので、ギリシア語【コイネー】が公用語とされ、政治、経済、文化にかかわるギリシア人の比率は圧倒的に大きかったわけです。もちろん、支配者であるギリシア人の人口のほうが、全人口に占める割合においては圧倒的に少ないので、単純にギリシア文化がオリエント世界に浸透したわけではありません。オリエント世界が培ってきていた文化や社会制度は非常に優れていたので、統治機構などはオリエントの方法が採用されたようです。すなわち、ギリシア文化を基準にしてオリエント文明をうまく取り入れた【ヘレニズム文化】が繁栄したのです。
 また、【バクトリア】では一般のギリシア人で定住する者がおおく、一般の現地民にも大きな影響を与えました。とくにギリシア人の偶像信仰は写実性にとみ、リアルに表現された神々の像は、オリエント世界やインド世界の人々に驚きをもって受け入れられたようです。



ヘレニズム時代

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

ペルシア戦争ののち,ペルシア軍の再攻にそなえて,諸ポリスは【デロス】同盟を結成したが,盟主【アテネ】が,同盟をてこにほかのポリスを支配するようになった。【スパルタ】は,アテネが急速に勢力をひろげたことに対抗して,みずからを盟主とする【ペロポネソス】同盟を強化した。【前431】年デロス同盟の盟主アテネとペロポネソス同盟の盟主スパルタは,全ギリシアの覇権をかけてたたかった。これを【ペロポネソス】戦争という。
 この戦争のあいだにアテネは疫病の流行で【ペリクレス】をうしなってから政治が混乱し,ついにペルシアの支援でスパルタが戦争に勝利した。しかしまもなく前4世紀なかばには,【エパミノンダス】が率いる【テーベ】にとってかわられた。
 ペルシアの干渉による有力ポリス間のたえまない争いは,ギリシア社会を荒廃させてしまった。そして【前338】年アテネ・テーベの連合軍は,北部ギリシアの【マケドニア】王国の【フィリッポス2世】に敗れた(【カイロネイアの戦い】)。その結果スパルタをのぞく全ギリシアのポリスはマケドニア王国支配下の【コリント】同盟に集められ支配された。
 フィリッポス2世の子の【アレクサンドロス大王】は,前336年に即位した。そして,前334年に大王はギリシアとマケドニアの連合軍をひきいて,アケメネス朝ペルシアを討つため【東方遠征】に出発した。アケメネス朝との3回の戦いによって,大王は【ダレイオス3世】治下のアケメネス朝を【前330】年に滅ぼし,さらにインダス川流域まで侵入したが,部下の反対にあったため兵を引き返した。ここに,西はギリシア・エジプトから東はインドの【インダス】川流域にわたる広大な帝国が建設された。大王は東西文化の融合をはかったが,その実現をみることなく,【前323】年に【バビロン】で急死した。
 そののち,大王の部下の将軍たちはそれぞれ【ディアドコイ】(後継者)と称して争いを続けた。その結果、前3世紀前半には帝国は【プトレマイオス】朝エジプト,【セレウコス】朝シリア,【アンティゴノス】朝マケドニアの3国に分裂した。前334年にはじまった大王の東方遠征から【前30】年の【ローマ】による地中海世界統一までの【約300】年間を【ヘレニズム】時代という。分立した3国のなかで最も繁栄をとげたプトレマイオス朝エジプトは,専制国家として強盛を誇り,とくにその首都【アレクサンドリア】は,研究所【ムセイオン】が設置されるなど、経済・文化の中心地としておおいに繁栄した。


アレクサンドロスの東征

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

 【前334】年に【アレクサンドロス】に率いられたギリシア人は、【前333】年【イッソスの戦い】でアケメネス朝ペルシアの【ダレイオス3世】を破り、さらに【前331】年【ガウガメラ(アルベラ)の戦い】でその勝利を決定的なものにしました。アケメネス朝ペルシアの最後の国王になったダレイオス3世は、部下に暗殺され、帝国は滅亡しました。アレクサンドロスはダレイオス3世を尊敬していたので、その暗殺者を処刑したそうです。
 アレクサンドロスはさらに東征を続け、【インダス】川にたどり着きました。インドの象軍に苦戦しながらも、彼自身はさらに東を目指そうとしたのですが、部下たちが帰還を要求したため、前324年やむなく【スサ】に引き返しました。しかし、まもなく【バビロン】で熱病のため、【前323】年に急死してしまいました。
 


サラミスの海戦とアテネ市民

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

アテネは国家財政をもっていませんでした。それは市民が「税」を払うという習慣がなかったからです。税がないということは、国家として「軍隊」を保持できないことでもあります。それは、武器を買う国家予算がないからです。
 ではどのようにしてアテネは国や市民を守ったのでしょうか。市民は武器を自分で購入して戦争に参加するしかなく、そのようなポリスに対する奉仕を行えることは、市民にとって誇りであり名誉でありました。貴族や富者はそのような意味で、多くの市民たちから、尊敬を受けていました。このような精神文化は現在の西欧社会にも受け継がれているように思います。そのような名誉ある人々が政治や裁判や立法行為を委託されていたのは当然でしょう。
 サラミスの海戦は、財産もなくその日暮らしの日雇い労働に明け暮れていた無産市民にも、誇りと名誉と与えてくれました。しかし無産市民を含めたすべての成年男子市民3~4万人が、政治や裁判や立法行為に従事させるには制度改革が必要です。ペリクレスがその重責を担ったのです。


クレイステネスの民主政治

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

【僭主】の出現を防ぐために、港に落ちている割れた陶器の破片を紙代わりにして、僭主になりそうな人物の名前を刻む。【6000】票以上集まった人物のうち、最多得票の者を【10】年間アテネから追放する。このような方法を【オストラシズム】(【陶片追放】)といいます。【クレイステネス】が【前508】年に行った政策です。なお、陶器の破片は港での積み下ろし作業中に割れてしまったワインのカメの破片です。  
 さらにクレイステネスは重要な政策をとりました。それまでアテネには4大貴族が実権を握っていました。貴族とのつながりでポリスに住み着いた平民たちは、貴族の言いなりだったわけです。しかし、クレイステネスは貴族を中心とする4部族制をやめ、ポリス内の住まいなどを基礎とした「【10部族制】」に改革しました。10部族の中から50人の代表を選び、500人評議会を開催し、そこで物事を決定します。将軍職も1部族ずつから1人ずつ選び、戦争を担当しました。貴族がすねてを決めていた時代が終わったのです。


前6世紀のオリエント世界とギリシア世界

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

【前550】年にアケメネス朝ペルシアの【キュロス2世】が【メディア】から独立すると、【前538】年には【新バビロニア】王国の都バビロンを攻略し、その地にいたユダの人々を解放しました。前521年に即位したダレイオス1世のころが、アケメネス朝ペルシアの全盛期で、【小アジア】の【サルデス】まで「【王の道】」が建設されました。
 そのころギリシア世界では、前530年ころに僭主ペイシストラトスが活躍。【ダレイオス1世】のころに【クレイステネス】が民主政治をはじめていました。
一方、小アジアの【イオニア】地方もアケメネス朝ペルシアの支配を受けていましたが、前500年、中心都市【ミレトス】はアテネの支援を受けて反乱を起こしました。
 この2つの世界はまったく異なる政治の手法を取っています。オリエントで発達したのは特権階級による官僚制度で、ギリシアで発達したのは身分制の廃止による民主政治です。この2つの制度は、現代では混ざり合って政治手法に生かされています。


古代ギリシアのポリスの 市民の一体感

2014年06月09日 | ワークシート
古代ギリシアのポリスには数多くの奴隷と在留外国人がいました。その数は市民の数倍に達します。彼らは著しく差別され、奴隷などは人間として扱われていませんでした。
したがって、市民は団結してこれらを支配し、活用し、働かせる必要があったわけです。ひとびでは人々の一体感をどのように育てたのか?共通の美意識や価値観を身に付けるために、市民たちは演劇を干渉し、これらを育てました。また、市民の資格を制限することで特権意識を持つことができ、その事によって一体感も強めることができました。市民は戦時には兵士として闘います。奴隷の反乱にも協力して戦いました。


100年も続いたギリシア世界の内戦

2014年06月09日 | 高2用 授業内容をもう一度

 【前431年~前404】年に及んだ【ペロポネソス】戦争でスパルタが勝利しました。アテネはこの戦争により著しく衰退しました。しかしスパルタの勝利によってギリシア世界に平和が訪れたわけではなく、【テーベ】など他のポリスがスパルタの指導力に反発したのでした。
 このようなポリスの間の対立に【アケメネス朝ペルシア】が上手に付け込んできました。テーベにペルシアが軍資金を与えスパルタを攻撃させました。前395年テーベはアテネと組んでスパルタの覇権に挑みました。この【コリント】戦争でスパルタは非常に苦戦したため、外交家アンタルキダスをアケメネス朝ペルシアに派遣して、スパルタとペルシアとの軍事同盟結成に成功します。これを【大王の和約】といいますが、別名【アンタルキダス】条約ともいいます。これによりスパルタはなんとか勝利を収めました。
 テーベは【エパミノンダス】を中心に再度、スパルタに挑み、【前371】年【レウクトラの戦い】で勝利しました。しかし、テーベを支えていた英雄【エパミノンダス】が戦死するとテーベの覇権も長続きせず、急速に衰し、やがて北方にあってギリシア人が【バルバロイ】と呼んでさげずんでいた【マケドニア】によって征服されることになります。【前338】年の【レイクトラの戦い】でマケドニア王【フィリッポス2世】がギリシア・ポリス連合軍を破り、さらにマケドニアに対して【コリント】同盟を各ポリスに誓わせました。なお、コリント同盟は別名【ヘラス】同盟ともいいます。