次の文中の下線部に関する問いに答え,最も適当な記号1つをマークしなさい。
漢代の官僚任用制度である郷挙里選は,地方豪族が登用されるなどの弊害が多くなったので,魏においては�九品中正という制度が採用された。その一方,大土地所有が進行する中,�南北朝時代の各王朝は�土地政策を講じた。隋の文帝は,九品中正を廃止して科挙制を実施し,財政・軍事の基盤を固め,中央集権に努めた。隋から�唐の前半期は,律令制度に基づき運営を行う中央集権的なシステムがとられた。唐の統治体制の根本は,前代以来の�均田制・租庸調制・府兵制の3つの柱からなっていた。この律令体制を支持・運営したのが,�三省・六部を中心とする中央官制である。玄宗の時代を境に,藩鎮の割拠や財政の逼迫を来たし,780年,租庸調制にかえて�両税法を採用するなどしたが,10世紀初めに�唐は300年近くにわたる歴史の幕を閉じた。
960年に�宋が建国され,太宗の時代に中国を統一した。宋は文治主義を採用し,科挙制度を充実させるとともに,皇帝の親衛軍の強化をはかった。11世紀後半,王安石は宰相として,軍事・財政の危機を克服するため,�新法と呼ばれる富国強兵の諸政策を実施した。
[問 い]
� 九品中正に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.地方に中正官が置かれた。
b.この制度を始めたのは曹操である。
c.この制度によって特定の地方豪族が上級官職を独占するようになった。
d.官僚志望者を,9つの等級をつけて推薦した。
� 南北朝に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.劉裕は東晋に代わって宋を建てた。
b.司馬炎は建康で晋を復興した。
c.鮮卑の拓跋氏は北魏を建て華北を統一した。
d.宇文氏は北周を建てた。
� 晋が実施し,後の土地制度につながった政策はどれか。
a.限田法 b.均田制 c.井田制 d.課田法
� 唐の第2代の太宗が,その主力を服属させた集団はどれか。
a.エフタル b.羌 c.東突厥 d.ウイグル
� 均田制・租庸調制・府兵制に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.均田制では,永業田と口分田が支給された。
b.租では,主として絹が徴収された。
c.府兵の徴集は折衝府によって行われた。
d.役には,軽労働として雑徭があった。
� 三省・六部の中で,詔勅を起草した機関はどれか。
a.吏部 b.中書省 c.礼部 d.尚書省
� 両税法に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.夏と秋の2回徴税した。 b.明代後半まで実施された。
c.穀物での納税が原則であった。 d.宰相である楊炎が提案した。
� 唐の出来事を年代順に並べたものはどれか。
a.貞観の治 → 武韋の禍 → 開元の治 → 安史の乱 → 黄巣の乱
b.武韋の禍 → 開元の治 → 安史の乱 → 貞観の治 → 黄巣の乱
c.開元の治 → 安史の乱 → 貞観の治 → 武韋の禍 → 黄巣の乱
d.安史の乱 → 武韋の禍 → 開元の治 → 貞観の治 → 黄巣の乱
� 宋の建国以後に周辺地域で起こった出来事はどれか。
a.雲南における大理の成立 b.東北地方における渤海の滅亡
c.朝鮮における新羅の滅亡 d.西北地方における西夏の成立
� 新法に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.市易法では,中小商人への低利の貸付を行った。
b.均輸法は,物価を安定させることを目的とした。
c.保甲法は,農村における治安維持を目的とした。
d.青苗法は,免役銭によって力役従事者を雇用した。
【解答2】
� b � b � d � c
� b � b � c � a
9 d �0 d
次の文を読んで以下の問に答えなさい。
南北朝を統一した隋,およびその後をうけた唐は,ともに北朝系の王朝であり,その国家体制は基本的に�北朝のそれを継承したものであった。均田制や府兵制はその端的なあらわれであるし,科挙制にしても,やはり北朝を通じて成長してきた反門閥主義を制度化したものと考えることができよう。だが唐朝の根幹をなしたこれらの諸制度は,建国より百年もたっていない7世紀末,則天武后が政権を掌握し,一時的に唐朝が断絶するという武周革命のころより,はやくも崩壊へと向かいはじめる。�均田制を前提とする府兵制はしだいに維持しがたくなり,8世紀前半の玄宗期に至り,全面的に廃棄されて募兵制となるし,均田制に対応する税制,租庸調制も,8世紀後半には�両税法に切りかえられた。また�科挙にしても,当初は秀才,明経科が重んじられていたが,武后の時より詩文の能力を試みる進士科が特に重んじられるようになり,破格の人材抜擢がさかんとなった。則天武后の政権掌握が,単なる外戚革命ではなく,社会の変化を政治的に表現したものと考えられるのは,おおよそこうしたわけなのである。
問1 下線部�について。均田制(a),府兵制(b)は,それぞれ北朝のどの王朝に由来するものかを答えなさい。
問2 下線部�について。府兵制はどのように均田制を前提としているのか,説明しなさい。
問3 下線部�について。両税法とはどのようなものか,またそれは均田制の崩壊とどのように対応しているのか,説明しなさい。
問4 下線部�について。同じ科挙といっても,官僚登用制度中におけるその位置づけは,唐代と宋代で大きな違いがあるが,その違いとはどのようなものか,説明しなさい。
【解答2】
問1 (a) 北魏 (b) 西魏
問2 唐制では全国の丁男[成年男子]より府兵を選抜し,装備や糧食は自弁で軍務に当らせた。よってこの府兵制の維持には,自らとその家族を養うに足る土地をもつ丁男がひろく存在していなければならないが,この条件を保証したのが,一般農民に土地を均等給付する均田制であった。
問3 両税法とは夏と秋の収穫期に,現にその地に居住している戸を単位とし,資産に応じた税額を銭納させる税制。これは本籍地の丁男各人より実物を徴収する租庸調制が,均田制の崩壊とともに維持できなくなったため施行された。
問4 唐代の科挙はいわば資格試験で,任官するには別に吏部試に通らねばならなかったし,また科挙を受けずとも,恩蔭などによって高官に至ることが可能であった。一方,殿試が導入された宋代の科挙では,これに合格すればただちに任官できたし,また科挙こそが高官に至るほとんど唯一の途ともなった。
次の文章を読み,問1~3については,適切な語を記入し,問4~10については,選択肢の中から適切な解答をそれぞれ一つ選び,その記号をマークせよ。
現在確認できる中国最古の王朝殷を滅ぼした周は,紀元前11世紀頃から,今の西安市付近に都をおいて華北を支配した。続く(A)春秋・戦国時代には,戦乱こそ絶えることはなかったが,域内諸国に共通の文化が拡大し,秦の始皇帝による中国統一の基礎が築かれた。(B)漢の時代に,周辺地域との交流が盛んに行われた結果,域外の情報も中国に伝わるようになり,たとえば,遠いローマ帝国の存在が漢に知られるようになったほどである。
漢代後の分裂の時代において,中国の諸王朝は周辺の新興国家と積極的に朝貢の関係を結び,みずからの権威を高めることに努めた。三国時代の魏が(イ)邪馬台国の朝貢使節を迎え入れたことや,5世紀に中国の南朝が倭国の王の使いを頻繁に受け入れたことは,中国大陸と日本列島との関係を象徴する出来事であった。
唐の政治社会制度と仏教文化の影響を強く受けた東アジア地域では,中国を中心とした文化圏が形成された。朝鮮半島では,(C)新羅が唐と結んで百済と高句麗を滅ぼし,仏教文化を繁栄させた。また,日本は遣唐使を中国に送り,唐の文化を積極的に取り入れた。平城京で栄えた天平文化には唐の影響が色濃く残っている。チベットに建国された吐蕃はしばしば唐に侵入したが,9世紀前半には唐と会盟を結んだ。このほか,8世紀の前半に(ロ)雲南地方を統一した南詔は漢字を公用化し,仏教を奨励した。ベトナムも古くから中国と密接な関係にあり,唐はハノイに大総管府と安南都護府をおいて,この地方に対する支配を行った。
鄭和を指揮官とするインド洋方面への遠征は,明朝の威勢を世界に誇示し,南海諸国の朝貢体制への加入を促した。その結果,中国とインド洋諸国との朝貢貿易が活発になり,中国はこの形式の交流のなかで世界に関する情報を多く入手することができた。しかし,貿易が拡大する一方,明朝はいわゆる倭冠の被害に悩まされた。(D)洪武帝が室町幕府にその対処を求めたことを契機に,日本は中国への朝貢を復活させ,1404年に勘合貿易を開いた。明の重要な朝貢国となった朝鮮は明にならって科挙を整備し,朱子学を導入した。また,ベトナムの黎朝も明と朝貢関係を結び,明の制度を取り入れながら支配を固めていった。やがて世界は本格的な大航海の時代を迎え,16世紀には中国の周辺でも国際商業が繁栄した。貿易の利益を求めるヨーロッパ勢力の進出と新興の交易国家の台頭が本格的に始まると,明を中心とする朝貢体制は著しく動揺した。
しかしながら,(E)直轄領と藩部に分けて広大な領土を支配した清朝は,相変わらず周辺諸国を属国とみなしていた。一方,これらの国々のなかには,清朝との朝貢関係を維持することによって,清朝からの支持を得ることが得策だと判断したものもあった。朝鮮は,正統な中国文化の継承者を目指し,儒教の儀礼を厳格に守った。薩摩の攻撃を受けた琉球は,島津氏に税を支払う一方,清朝にも朝貢を続ける (ハ) 体制を選んだ。このような東アジアの国際情勢のなかで,(F)インドシナ半島の諸国は,清朝に対する服属関係を認めながらも,清朝による実質的な支配を受けることはほとんどなかった。
交易を求めて東アジアに進出したヨーロッパ諸国に対する清朝の姿勢は,周辺諸国への対応と基本的には変わらなかった。ヨーロッパ人の交易を朝貢とみなした清朝は,来航地・品目・数量などを厳しく制限した。清朝がこのような中華思想に基づく世界認識と政策を見直すようになったのは,1840年に始まる(G)アヘン戦争以降のことである。
問1 下線部(イ)に関連し,魏が卑弥呼に与えた称号を漢字で記入せよ。
問2 下線部(ロ)に関連し,南詔の滅亡後,937~1254年にこの地方を治めた国の名前を漢字で記入せよ。
問3 空欄(ハ)に入るべき最も適切な語を漢字で記入せよ。
問4 下線部(A)に関連し,この時代には諸子百家と総称される多数の学派や思想家が登場した。以下の組み合わせのうち,最も不適切なものはどれか。
a.陰陽家 ―― 李斯 b.農家 ―― 許行
c.名家 ―― 公孫竜 d.縦横家 ―― 蘇秦
e.法家 ―― 韓非
問5 下線部(B)に関連する次の記述のうち,最も適切なものはどれか。
a.高祖は皇帝の位につくと,秦の統一政策を継承し,郡県制を全国に施行した。
b.武帝は統治の安定を図り,漢を圧迫していた匈奴に対し和親策をとった。
c.武帝に派遣された張騫は,大月氏との同盟交渉に成功した。
d.武帝の時代に滅亡した衛氏朝鮮は,中国からの亡命者が建てた国である。
e.朝鮮半島南部に設置された楽浪郡は,漢の政治・文化を東方に広める拠点であった。
問6 下線部(C)に関連する次の記述のうち,最も適切なものはどれか。
a.新羅は唐の威力を借りて,676年に統一国家をつくった。
b.朝鮮半島の大部分を支配した新羅は,慶州に首都をおいた。
c.木造多宝塔を有する仏国寺は新羅時代の代表的な寺院である。
d.新羅は唐と冊封関係を結んだが,律令を取り入れなかった。
e.新羅は唐の骨品制を参考に,独自の官僚制度を整備した。
問7 下線部(D)に関連し,明代の日中関係についての記述のうち,最も不適切なものはどれか。
a.明を苦しめた倭寇は,元代にも見られた。
b.勘合貿易の結果,倭寇が減少した。
c.永楽帝以後,海禁政策が緩められ,日中の民間貿易が盛んになった。
d.将軍足利義満は,朝貢貿易の利益を目的に,遣明船を送った。
e.室町幕府の勢力が衰退すると,倭寇が再び力を増した。
問8 下線部(E)に関連し,清朝が直轄領として統治した地方はどれか。
a.青海 b.チベット c.新疆 d.モンゴル
e.台湾
問9 下線部(F)に関連し,18世紀後半以降の出来事に関する記述のうち,最も不適切なものはどれか。
a.ベトナムでは,西山党の反乱によって黎朝が滅ぼされた。
b.阮福暎はフランスの支援を得て,ベトナムを統一し,阮朝を樹立した。
c.ミャンマーでは,コンバウン朝が原住民の反乱で倒れた後,トゥングー朝が興った。
d.タイのアユタヤ朝を滅ぼしたのはコンバウン朝である。
e.タイのラタナコーシン朝を建てたのは,ラーマ1世である。
問10 下線部(G)に関連し,次の記述のうち,最も不適切なものはどれか。
a.1830年代,中国へのアヘン密輸が増大し,銀が暴騰して清の財政を圧迫した。
b.清はアヘン取締りを強化するため,1839年に林則徐を広州に派遣した。
c.南京条約で,広州での外国貿易を独占した特許商人の組合である公行が廃止された。
d.南京条約で上海,天津,福州,厦門,広州の開港が決まった。
e.アヘン戦争の後,イギリスは中国の行政権が及ばない租界を設けた。
【解答1】
問1 親魏倭王 問2 大理 問3 両属 問4 a
問5 d 問6 b 問7 c 問8 e
問9 c 問10 d
(1)太平天国 �宗教団体�開祖�特徴
�上帝会
�洪秀全
�変質したキリスト教
(2)洪秀全 �出身身分�出身地�キリスト教との関係
�客家
�江西省金田村
�ロバート=モリソンに教わる
(3)太平天国の乱 �年�スローガン�思想
�1850~64年
�滅満興漢
�反儒教
(4)太平天国の乱のポイント �土地制度�反満州�反儒教
�天朝田畝制
�辮髪の禁止
�纏足の禁止
(5)天朝田畝制の特徴3つ
�土地を男女平等に配分
�正教一致の社会制度
�兵農一致
(6)郷勇3つ
�湘勇
�楚勇
�淮勇
(7)郷勇の指導者 �湘勇�楚勇�淮勇
�曽国藩
�左宗棠
�李鴻章
(8)太平天国の乱の時期の鎮圧軍 �中国人地主�清朝の正規軍�租界軍
�郷勇
�八旗は無力
�常勝軍
(9)常勝軍の将軍 �英�米�のちにマフディの乱で戦死
�ゴードン
�ウォード
�ゴードン
(10)太平天国軍の残党 �指導者�軍隊�活躍した場所
�劉永福
�黒旗軍
�阮朝のヴェトナムで反仏闘争に参加
(11)第二次アヘン戦争 �年�フランスの開戦の口実�イギリスの口実
�1856~60年
�フランス人宣教師殺害
�アロー号事件
(12)第二次アヘン戦争 �英国内状況�仏国内状況�清の国内状況
�パーマストン外交(1830~60年)
�ナポレオン3世の第2帝政(1852~70年)
�太平天国の乱(1856~63年)
(13)第二次アヘン戦争の重要年代 �開戦年�天津条約�北京条約
�1856年
�1858年
�1860年
(14)第二次アヘン戦争の英仏軍の進路 �1856年�58年�60年
�広州占領
�天津侵入
�北京で円明園を焼き払う
(15)天津条約 �開港地�公認�北京駐屯
�南京など10港
�キリスト教公認
�外国使節の北京駐屯を認める
(16)北京条約 �開港地�公認�イギリスへの割譲地
�天津を加えて11港
�アヘン貿易の公認
�九龍半島南部を99年間租借を認める
(17)第二次アヘン戦争中のロシア �1858年�1860年�ロシア代表
�アイグン条約
�北京条約
�ムラヴィヨフ
(18)アイグン条約 �年�ロシアへ割譲した地域(以北)�以南
�1858年
�黒竜江以北
�アムール川とスタノヴォイ山脈以南
(19)北京条約 �年�ロシアへの割譲地域�中心都市
�1860年
�沿海州(アムール川以南・ウスリー江(黒竜江)以西
�ウラディオストク
(20)清の開港地 �南京条約�天津条約�北京条約
�上海など5港
�南京など10港
�天津など11港
(1)清の全盛期の皇帝3人
�康熙帝
�雍正帝
�乾隆帝
(2)清の対外関係 �康熙帝�雍正帝�乾隆帝
�ネルチンスク条約
�キャフタ条約
�最大版図
(3)康熙帝の業績 �国内�対ロシア�文化摩擦
�中国統一
�ネルチンスク条約
�典礼問題の発生
(4)中国統一の重要年代 �入関�三藩の乱�台湾征服
�1644年
�1673年
�1683年
(5)康熙帝による中国統一 �1673年�大砲�1683年
�三藩の乱
�フェルビースト
�鄭氏台湾を征服
(6)三藩の乱 �年�反乱の指導者�鎮圧した皇帝
�1673年
�呉三桂
�康熙帝
(7)ネルチンスク条約 �年�ロシア皇帝�清皇帝
�1689年
�ピョートル1世
�康熙帝
(8)ネルチンスク条約 �国境の山脈�国境の川�特徴
�スタノヴォイ山脈(外興安嶺)
�アルグン川
�対等な条約
(9)康熙帝の税制改革 �年�改革�内容
�1711年
�盛世滋生人丁
�丁数を固定
(10)典礼問題 �発生時の皇帝�決着時の皇帝�ローマ教皇
�康熙帝
�雍正帝
�クレメンス11世
(11)典礼問題に関与した修道会 �典礼容認派�典礼否定派2つ
�イエズス会
�ドミニコ会
�フランチェスコ会
(12)典礼問題への対応 �教皇の対応�康熙帝の対応�雍正帝の対応
�イエズス会の活動禁止
�イエズス会以外の布教活動禁止
�キリスト教布教の全面禁止
(13)典礼問題の決着 �雍正帝�宣教師への処置�殉教
�キリスト教布教の全面禁止(布教公認は1858年天津条約)
�マカオ居住は容認
�殉教者はない
(14)雍正帝の業績 �内政�外交�設置した役所
�地丁銀の施行
�キャフタ条約
�軍機処
(15)地丁銀 �皇帝�廃止した税�時期
�雍正帝
�丁税を廃止
�18世紀前半
(16)キャフタ条約 �年�ロシア皇帝�清皇帝
�1727年
�ピョートル2世
�雍正帝
(17)明~清の最高決定機関 �洪武帝�永楽帝�雍正帝
�殿閣大学士
�内閣大学士
�軍機処
(18)清の役所 �藩部の監督�最高決定機関�貿易の独占
�理藩院(ホンタイジが設置)
�軍機処(雍正帝が設置)
�公行(乾隆帝が施行)
ワークシート(172)中国史(17)明 ②明代中期の北虜南倭
靖難の変で皇帝に即した永楽帝は、積極的に外征を行った。即位した【 】帝は都を北京におき、北方のモンゴル高原へは5回も親征を行った。また、宦官でイスラム教徒の鄭和に南海遠征を行わせた。【 】は永楽帝の命を受けて東南アジアのマラッカ王国を拠点として各地に遠征した。なお、拠点となった【 】王国は東南アジア初のイスラム教国である。鄭和の南海遠征は15世紀の前半に合計7回行われた。【 】の南海遠征の結果、明は各国と朝貢貿易を行って海上貿易がさかんになった。
日本が南北朝時代で約60年間も混乱が続いていたとき、日本人海賊である倭寇が朝鮮半島沿岸を荒らした。14世紀後半の時期の【 】人を中心とした海賊を前期倭寇という。この前期【 】は足利義満が勘合貿易を行って消滅させた。しかし、明は永楽帝が亡くなると海禁策に移った。【 】策とは海上貿易を禁止する政策で鎖国のことである。その結果、沿岸部の中国人が海賊となり、江南地方沿岸部を荒らした。この【 】人の海賊を後期倭寇という。後期【 】は15世紀後半から約100年間続き、明は後期【 】の取り締まりに苦しんだ。
一方、永楽帝の死後、北方のモンゴル高原ではエセン=ハンが登場して全モンゴルを統一した。全モンゴルを統一した【 】は、モンゴル高原西部のオイラト部出身である。1449年【 】部出身の【 】が、明の正統帝の親征軍を土木の変で破った。このとき【 】の変で【 】帝は捕虜にされ北方に連行された。【 】年の土木の変で勝利したエセン=ハンは内紛で殺害されたが、次に15世紀後半になるとモンゴル高原東部のタタール部からガヤン=ハンが登場した。【 】部のダヤン=ハンはラマ教の黄帽派を保護した。【 】派はゲルク派ともいい、ツォンカパという僧が興したラマ教の改革派である。黄帽派を保護したタタール部の【 】も明に対し軍事的圧力をかけた。さらに16世紀中頃に同じ【 】部からアルタン=ハンが登場した。【 】は明との国境貿易を求めて明の都【 】を包囲した。1550年【 】が北京を包囲した事件を庚戌(コウジュ)の変という。1449年【 】の変から1550年の【 】の変まで続いた北方の脅威を「北虜」といい、沿岸部の中国人海賊である後期【 】による脅威を「南倭」という。「北虜(ホクリョ)」と「南倭(ナンワ)」を合わせて「【 】(ホクリョナンワ)」と呼び、15世紀後半から16世紀後半までの約100年間、明はこの「【 】」に苦しめられた。
1545年スペインは南米でポトシ銀山を発見した。この【 】銀山の銀はメキシコの港に運ばれ、フィリピンのマニラを経由して中国に持ち込まれた。この銀は【 】の港から運ばれたのでメキシコ銀という。また、日本からも大量の日本銀が中国に持ち込まれた。スペインの【 】銀と日本銀が大量に流入した結果、明は好景気となり「北虜南倭」は解決した。
さらに、780年から続いていた両税法に代わって「一条鞭法(イチジョウベンポウ)」という新しい税制が始まった。この新税法「【 】」を考案したのは張居正である。780年から続いていた【 】法が銅銭で納税したのに対し、【 】が始めた「一条鞭法」は地税と丁税を一括して銀で納める税制である。
ワンフレーズ・チェック
(1) 靖難の変で即位した【 】帝は、【 】に命じて南海遠征を行い、朝貢貿易を盛んにした。
(2) 【 】は日本人海賊を中心に【 】半島の沿岸部を荒らしまわった。
(3) 【 】は中国人海賊を中心に【 】地方の沿岸部を荒らしまわり、「【 】」という脅威になった。
(4) 「北虜」とは、オイラト部の【 】とタタール部の【 】や【 】による脅威をいう。
(5) 【 】年エセン=ハンは【 】の変で正統帝を捕虜にした。
(6) 【 】年アルタン=ハンは【 】の変で北京を包囲した。
(7) 約100年間続いた「【 】」は、16世紀後半【 】銀と日本銀の流入で解決した。
(8) 【 】年から続いた両税法では【 】で税を納めたが、一条鞭法では【 】で税を納めた。
(9) 【 】は両税法に代わって【 】という新税法を採用した。
ワークシート(171)中国史(16)明 ①洪武帝~永楽帝
元はモンゴル人による征服王朝である。しかし、元の王朝はラマ教を信仰したため財政難になった。財政難に対し交鈔(コウショウ)という紙幣を濫発した結果、インフレが起こって社会が混乱した。【 】の濫発による混乱の中、大農民反乱すなわち紅巾の乱が起こった。はじめ韓山童・韓林児の父子がこの【 】の乱を指導したが、途中、【 】・【 】父子は殺害されたため、代わって朱元璋(シュゲンショウ)が登場して、ついに元を滅ぼした。【 】は元を滅ぼして1368年に明を建国し、都を金陵(キンリョウ)に定めた。都となった【 】は現在の南京にあたる。元は滅亡したが、【 】人はモンゴル高原に引き上げて、北元を興した。モンゴル高原で新たに成立した【 】は、非常に軍事力は強く、また【 】教の信仰は続けられた。そのため明を建国し中国を統一した【 】は、北方の辺境地域に自分の子弟を王として配備して北元に備えた。その中でとくに有力だったのは燕王である。この【 】王は元の都大都を本拠地とした。燕王の本拠地【 】は現在の北京である。
【 】の乱を指導して【 】年に明を建国した【 】(シュゲンショウ)は、「一世一元(イッセイチゲン)制」をとった。この「【 】制」とは一人の皇帝のときに一つの元号を用いる制度で、明の建国者【 】は「洪武」という元号に定めたので、朱元璋を洪武帝と呼ぶ。
その【 】帝は自作農や地主を民戸と軍戸に分けた。そして民戸を里甲制に組織した。民戸が組織された【 】制は租税を集めるための農村の社会制度である。【 】制の中で土地台帳の「魚鱗図冊(ギョリンズサツ)」と戸籍台帳の「賦役黄冊(フエキコウサツ)」が作られた。土地台帳の「【 】」とは、土地を魚の鱗のように○で記録したことから名づけられ、戸籍台帳の「【 】」は、黄色の表紙だったことからそう呼ばれた。一方、軍戸は衛所制で管理された。軍戸を管理した【 】制は農閑期に軍事訓練をする機関である。このように民戸となった農民は【 】制で、軍戸となった農民は【 】制で管理された。
さらに【 】帝は皇帝直属のスタッフとして殿閣大学士を設置した。この【 】は宰相に代わる制度である。また中書省を廃止して六部(リクブ)を皇帝の直属の機関にした。皇帝が直接監督するようになった【 】(リクブ)とは、行政官庁である。したがって皇帝が【 】を直接監督するため、明代に皇帝独裁体制が完成したといえる。
建国者の【 】帝が亡くなると、孫の建文帝が即位したが、2代目【 】帝に対して燕王が靖難(セイナン)の変を起こした。この【 】の変は燕王による謀反であったが、燕王が勝利して1402年に3代目皇帝永楽帝として即位した。3代目【 】帝は自分の本拠地大都を北京に改めて、その【 】に都を移した。【 】帝は【 】の変という謀反によって即位したので儒学を保護する方針をとった。その結果、『四書大全』・『五経大全』などが作られた。『【 】』は四書の注釈書で、明代に官学になった朱子学が四書を重視していた。
ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】年に紅巾の乱の指導者【 】が明を建国した。
(2) 朱元璋は【 】帝として即位し、農民を【 】制と【 】制で支配した。
(3) 里甲制の下で、土地台帳の「【 】」と戸籍台帳の「【 】」が作成された。
(4) 洪武帝は宰相を廃止して【 】を設置した。
(5) 【 】帝は六部を皇帝直属として、皇帝独裁体制を完成させた。
(6) 明の建国者は【 】帝、2代目【 】帝、3代目【 】帝である。
(7) 【 】の変で勝利した【 】王は永楽帝として即位し、【 】に遷都した。
(8) 永楽帝は儒学を保護し、四書の注釈書である『【 】』などを編纂させた。
(9) 明代では儒学の一派である【 】学が国学とされた。
ワークシート(33)中国史(16)モンゴル帝国の東西文化交流
モンゴル帝国は駅伝制のジャムチを設置してユーラシア大陸の東西を一つの交通路でつなげた。駅伝制の【 】はモンゴル帝国が分裂したあとも維持されたので、シルク・ロードはモンゴル帝国の時代に最盛期を迎えた。
2代目可汗オゴタイ=ハンが建設した都はカラコルムである。プラノ=カルピニは都【 】を訪れた。そのとき【 】は、3代目可汗グユフ=ハンを選出したクリルタイにも出席した後に帰国し、モンゴル帝国の様子を西欧世界に伝えた。ついで、フランス人のルブルックはフランス王ルイ9世によって派遣され、同じく都【 】を訪れた。フランス人の【 】が派遣されたのは、当時フランス王【 】が十字軍でイスラム教世界と戦っていたので、モンゴル帝国との同盟を求めたのが理由である。
5代目可汗フビライ=ハンは1271年に元を建国した。5代目可汗【 】が建設した元の都である大都へはヴェネツィア商人マルコ=ポーロが訪れた。【 】は都の【 】でフビライ=ハンに仕えた後、泉州を出港して海路帰国した。途中ジェノヴァで『東方見聞録』を書いている。この『【 】』は別名『世界の記述』とも呼ばれる。
カトリックが中国に伝えられたのも元の時代であった。モンテ=コルヴィノは元の都【 】に始めてカトリックの教会堂を建てた。すなわち【 】は初代大都大司教となった人物である。
大旅行家イブン=バトゥータも元の都【 】を訪れた。【 】はモロッコ出身の大旅行家で、『三大陸周遊記』を著した。この『【 】』が完成したのは、【 】が30年間の大旅行を終えた14世紀中頃であった。
ワンフレーズ・チェック
(1) モンゴル帝国の下で、【 】という駅伝制が整備された結果、【 】は最盛期を迎えた。
(2) 【 】は都カラコルムを訪れ、モンゴル帝国の様子を西欧世界に伝えた。
(3) フランス王ルイ9世は軍事同盟を模索してモンゴル帝国の都【 】に【 】を派遣した。
(4) ヴェネツィア商人【 】は、都【 】でフビライ=ハンに仕えた後、【 】を出港して帰国した。
(5) 【 】商人マルコ=ポーロは、帰国途中の【 】で『東方見聞録』を著した。
(6) 『【 】』は別名『東方見聞録』とも呼ばれる。
(7) 初代大都大司教の【 】が始めて中国に【 】を伝えて布教した。
(8) モロッコ出身の大旅行家【 】は30年間の大旅行の経験を『三大陸周遊記』に著した。
(9) 大旅行家イブン=バトゥータは【 】出身の人物で、『【 】』を著作した。
ワークシート(32)中国史(15)14世紀以降のモンゴル帝国
1240年ロシアのキエフを攻略した翌年の【 】年に、バトゥはリーグニッツの戦いで勝利した。1241年の【 】の戦いはロシアよりもさらに西のポーランドでの戦いであった。リーグニッツの戦いの勝利者となった【 】は、オゴタイ=ハンの死亡後、クリルタイに出席するために帰国した。【 】とは次の可汗を選出するための会議である。クリルタイ出席後【 】はロシアに戻ってキプチャク=ハン国を建てた。バトゥが建てた【 】国の都はサライである。都【 】はステップ・ルート上にある都市で、南ロシアに位置する。この後、ロシアはモンゴル人による「タタールの軛(クビキ)」の下に置かれた。「【 】」とはロシアに住むスラブ人に対するモンゴル人による厳しい支配をさす言葉である。
14世紀になると、この【 】国は全盛期を迎えた。とくに【 】世紀の前半に登場したウズベク=ハンのときが全盛期であった。キプチャク=ハン国の全盛期を現出した【 】はイスラム教を国教にした。しかし15世紀になると【 】国は衰退した。そのような中、1480年モスクワ大公国が自立した。【 】国のイヴァン3世は、ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世の姪ソフィアを結婚した。【 】はビザンツ帝国皇帝の姪【 】と結婚することで、【 】帝国皇帝の後継者を自称した。イヴァン3世が用いた称号はツァーリである。この【 】という称号は以後ロシア皇帝によって用いられた。
一方、1258年にフラグはバグダッドを攻略した。フラグが攻略した【 】はアッバース朝の都であった。バグダッドを攻略した【 】はイラク・イランの地にイル=ハン国を建てた。【 】国の都はタブリーズである。都【 】もイラン北部のステップ・ルート上に位置する。【 】国も14世紀前半に全盛期を迎えた。とくに13世紀末から14世紀初頭に活躍したガザン=ハンのときが全盛期であった。イル=ハン国の全盛期を現出した【 】もイスラム教を国教にした。またガザン=ハンの宰相ラシード=ウッディーンは『集史』を著した歴史家でもある。宰相【 】が書いた『【 】』という歴史書は、チンギス=ハンから始まるモンゴル帝国の歴史を扱った資料である。【 】国ではイラン・イスラム文化が成立した。
14世紀後半になるとイル=ハン国は分裂し、最終的に、中央アジアから登場したティムールが中央アジアからイラン・イラクにまたがる大帝国を建てた。大帝国の建国者【 】は中央アジアのサマルカンドに都を定めた。以後、都の【 】は東西貿易の中心地として発展した。この【 】が建てた大帝国は15世紀に全盛期を迎えた。
ワンフレーズ・チェック
(1) バトゥはロシアに【 】国を建て、都を【 】においた。その厳しい支配を「【 】」という。
(2) フラグはイラン・イラクに【 】国を建て、都を【 】においた。
(3) 14世紀に【 】が登場して、キプチャク=ハン国は全盛期を向かえ、【 】教に改宗した。
(4) 13世紀末に【 】が登場して、イル=ハン国は全盛期を向かえ、【 】教に改宗した。
(5) ガザン=ハンの宰相【 】は著書『【 】』で、【 】から始まるモンゴル帝国の歴史を著した。
(6) ロシアでは15世紀にモスクワにあった【 】国が自立した。
(7) モスクワ大公国の【 】はビザンツ帝国皇帝の姪【 】と結婚し、【 】の称号を自称した。
(8) 14世紀後半に登場した【 】は、中央アジアからイラン・イラクを支配する大帝国を建てた。
(9) ティムール帝国の全盛期は【 】世紀である。
第5代可汗フビライ=ハンの即位に反対してハイドゥの乱が起こった。【 】の乱の結果、モンゴル帝国は分裂したが、ジャムチは継続された。この【 】とはシルク・ロードの駅伝制である。第5代可汗【 】は、1271年に大都を都として元を建国し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。【 】年の南宋が滅亡した戦いは
山の戦いという。元は「モンゴル第1主義」をとり、中国人を差別した。この「【 】主義」とは、モンゴル人が支配者として君臨し、色目人(シキモク)これを助けた。【 】人とは西域にいた人々のことある。華北にあった金の下にいた女真族と中国人を漢人と呼んだ。さらにその下に南宋の支配下にいた中国人を南人と呼んで差別をした。このように「【 】主義」における階級は、第1に【 】人、次いで【 】人、3番目が【 】人、最下層が【 】人である。これは中国の伝統文化を元があまり尊重していないことをしますが、同様に伝統的な官吏登用制度の科挙を採用していなかったことにもこのことは現れている。なお、【 】という官吏登用制度は途中から採用されている。
政治の場面で中国人が活躍する場が減った一方、中国文化は新しく展開した。「元曲」は口語の歌劇で、「【 】」の代表作に『漢宮秋』がある。『【 】』は後漢時代の匈奴と中国人の関係の中で、王昭君という女性の悲劇を扱った元曲である。また、イスラムの暦法が中国に伝わった結果、「授時暦」が作られた。この「【 】」を作成したのは郭守敬である。さらに「【 】」は日本の江戸時代に「貞亨暦」として利用された。
フビライ=ハンの即位に反対して起きた【 】の乱の最中でもシルクロードの駅伝制【 】が維持されたことで、13世紀~14世紀にかけて東西交流は大きく発達した。つまり、シルク・ロードは【 】世紀~【 】世紀に全盛期を迎えた。たとえば、ヴェネツィア商人マルコ=ポーロが元の都大都を訪れ、元の建国者【 】に仕えたのもこの時期である。その後、ヴェネツィア商人【 】は泉州から海路で帰国したが、途中のジェノヴァで『東方見聞録』を著している。この『【 】』という書物は『世界の記述』とも呼ばれる。
元では一般のモンゴル人はウイグル文字で文章を書いたが、公式な文章用としてフビライ=ハンがパスパという人物に「パスパ文字」を作らせて使用した。この【 】という人物はラマ教の僧である。元の宮廷はこの【 】教を信奉して厚く保護した。しかし、元の宮廷が【 】を保護したことで財政を圧迫するほどであったので、財政再建のために交鈔を濫発した激しいインフレを引き起こした。この濫発された【 】とは元で使用された紙幣のことである。もともとこの【 】という紙幣は金が使用していた。
そのような中、弥勒菩薩の下生を信じる白蓮教徒が中心とした紅巾の乱が起こった。はじめ、【 】の乱の指導者は、韓山童・韓林児の親子であった。しかし【 】・【 】の親子が殺されると、【 】の乱は朱元璋に受け継がれた。そしてついに反乱指導者【 】は元を滅ぼして、1368年に明を建国した。【 】年に成立した【 】は、久しぶりに中国人が自ら全中国を支配する王朝である。一方、滅亡した【 】のモンゴル人はモンゴル高原に退いて北元を建国した。
ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】年に【 】が建国した元は、「【 】主義」をとって中国人を差別した。
(2) 元の時代にはモンゴル人・【 】人・【 】人・【 】人という差別的階級があった。
(3) 中国人は【 】の悲劇を題材とした『【 】』などの「【 】」という歌劇を楽しんだ。
(4) 郭守敬が作成した【 】暦は、日本に伝えられた【 】暦のもとになった。
(5) 元の都【 】を訪れたヴェネツィア商人【 】はジェノヴァで『【 】』を著した。
(6) 元では【 】教が流行して、ラマ教僧【 】がチベット文字からパスパ文字を作成した。
(7) 元末期に【 】という紙幣が濫発されたため【 】の乱が起こり、元は滅亡した。
(8) 紅巾の乱の指導者は【 】・【 】の父子から【 】に移った。
(9) 朱元璋は【 】年に元を滅ぼして【 】を建国した。
1206年モンゴル高原でテムジンがチンギス=ハンに即位した。【 】とはチンギス=ハンの幼名である。また、可汗(ハン)とはモンゴル民族の皇帝を意味する。【 】年に可汗に即位した【 】は、西北トルキスタンにあったタングート族の西夏を征服し、中央アジアのナイマン部とホラズムを征服した。西北トルキスタンの【 】、東トルキスタンの【 】部、西トルキスタンの【 】を次々と征服した結果、チンギス=ハンがシルク・ロードを征服した。さらに【 】の功績はジャムチを設置してシルク・ロードを発展させた点にある。【 】とはシルク・ロードを東西に行き交うための駅伝制度で、「パイザ」を持った旅行者が利用できた。「【 】」は通行手形である。またチンギス=ハンは「千戸万戸制」を採用した。この「【 】制」は平時の生活をしている部族の単位を戦時にも活用できる利点があった。こうして【 】によってモンゴル帝国が建設された。
2代目可汗に即位したオゴタイ=ハンは、1234年に華北の金を征服した。【 】年の金征服は【 】自身が行っている。また、さらにバトゥに命じてロシアからポーランドまで遠征させた。これを「【 】の征西」という。1240年ロシアのキエフを攻略すると、翌【 】年のリーグニッツの戦いでポーランドとリトアニアの連合軍に圧勝した。【 】の戦いは別名でワールシュタットの戦いともいう。この【 】とは「地に塗られた土地」という意味である。しかし、2代目可汗の【 】が亡くなったため、征西を行っていた【 】は重要な会議であるクリルタイに出席するため帰国した。【 】という会議は可汗を決める会議である。1240年にロシアの【 】を攻略した後にバトゥが建てた国がキプチャク=ハン国である。この【 】国は約250年間ロシアを支配した。
4代目可汗に即位したのはモンケ=ハンであった。【 】は弟フラグに命じてアッバース朝を1258年に征服した。モンケ=ハンの命を受けた弟【 】はアッバース朝の都バグダッドを攻略した。【 】年のバグダッド攻略で【 】朝は滅亡した。都であった【 】は人口が激減して輝きを失った。アッバース朝を征服した【 】はイラン・イラクにイル=ハン国を建てた。フラグが建てた【 】国はやがて14世紀に全盛期を迎えた。また、4代目可汗【 】は別弟のフビライに命じて朝鮮半島にあった高麗を征服した。
5代目可汗に即位したフビライ=ハンは都をカラコルムから大都に遷都し、1271年にモンゴル高原と華北をあわせて元を建国した。新都【 】は現在の北京である。元が建国した【 】年の段階では南宋は抵抗を続けていたが、1279年山(ガイザン)の戦いでついに南宋は滅亡した。すなわち【 】年に成立した元は、【 】年の【 】の戦いで中国統一を達成した。しかし、【 】が5代目可汗に即位したことに反対して2代目可汗【 】の子ハイドゥが反乱を起こした。このハイドゥの乱は30年以上も続き、【 】の乱の結果、モンゴル帝国はロシアの【 】国、イラン・イラクを支配する【 】国、モンゴル高原と中国全土を支配する【 】に分裂した。
ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】年可汗に即位した【 】は、【 】・【 】・【 】を征服してシルク・ロードを支配した。
(2) チンギス=ハンは【 】という駅伝制を設置してシルク・ロードを発展させた。
(3) 【 】は親征して【 】年に金を滅ぼして華北を征服した。
(4) オゴタイ=ハンの時【 】は征西し、1241年【 】の戦いで【 】・【 】連合軍を破った。
(5) 【 】が死ぬとバトゥは【 】に出席するために急遽帰国し、その後ロシアに【 】国を建てた。
(6) モンケ=ハンの時【 】は【 】年に【 】を攻略してイラクにあった【 】朝を征服した。
(7) 5代目可汗に【 】が即位したことに反対して【 】の乱が起き、モンゴル帝国は完全に分裂した。
(8) フビライ=ハンは【 】年に元を建国し、都を【 】から【 】に遷都した。
(9) フビライ=ハンは【 】年に山の戦いで【 】を滅ぼして、中国全土を支配した。
隋と唐は長安を都とした。都の【 】は貴族が生活する政治都市であった。とくに唐代になると都の【 】は人口が100万人を越え、世界各地から人々が訪れる国際都市でもあった。たとえばネストリウス派キリスト教が伝わり、「大秦景教流行中国碑」が建てられた。この【 】派キリスト教はエフェソス公会議で異端とされた。また、長安で異邦人が住む場所を「蕃坊(バンボウ)」という。「【 】」の「坊」とは直角に交わる道が作る区画をさす。一方、海上貿易も発達した。イスラム教商人が広州に訪れたが、その【 】には市舶司が置かれた。広州におかれた【 】とは貿易を管理する役所である。
960年に成立した宋(北宋)の都は開封である。都の【 】も100万を越える大都市だが、商業都市として発達した。唐の都長安が貴族の住む【 】都市であったのと対照的に、宋の都【 】は商人が住む【 】都市であった。開封には「酒楼(シュロウ)」や「瓦市(ゴイチ)」があったが、「【 】(シュロウ)」は現在のホテルで、「【 】(ゴイチ)」は市場である。その他の都市も商業が発展した。唐代で都市の外に開かれた草市から「鎮」という都市が成立していった。すなわち「【 】」は地方の商業都市で、「行(コウ)」・「作(サク)」という組合が商業を独占していた。「【 】(コウ)」は商人の組合で、「【 】(サク)は手工業者の組合である。また、これらの商業都市を結びつける広域に活躍する商人を「客商」という。「【 】」といった広域商人は各地の特産物を運んで利益を上げた。とくに白磁(ハクジ)・青磁(セイジ)という陶器を製造した景徳鎮が有名であり、この【 】では現在でも陶器を製造している。【 】は唐代に広州だけに置かれた貿易管理の役所だが、宋代になると、【 】に加えて泉州にも置かれた。
南宋の都は臨安に置かれた。都の【 】は現在の杭州である。南宋では中国人が華北から大量に移住した。そのため江南地方は飛躍的に発展し、とくに長江下流域では「江浙(コウセツ)熟すれば天下足る」といわれるほど、【 】地方は中国の穀倉地帯になった。とくに南ヴェトナムのチャンパから持ち込まれたチャンパ米が栽培され、二年三毛作で高収益を上げた。南ヴェトナムの【 】を中国では「占城」といったので、【 】米を占城米ともぃう。
唐代780年に両税法が施行された。【 】法は銅銭で納税したため貨幣経済が急速に発展した。唐代では使われ始めた「飛銭」は手形であったが、北宋では「交子」が使用された。この「【 】」は世界初の紙幣である。南宋では「会子」が、金では「交鈔(コウショウ)」という紙幣が使用された。しかし、金は「【 】」を印刷しすぎたためインフレに苦しんだ。
ワンフレーズ・チェック
(1) 唐の都長安には【 】派キリスト教が伝わり「【 】碑」が建てられた。
(2) 【 】は政治都市として、北宋の【 】や南宋の【 】は商業都市として人口100万人を越えた。
(3) 宋代の地方都市である【 】には商人組合の【 】や手工業組合の【 】が成立した。
(4) 【 】は白磁や青磁を特産物として発展した。
(5) 宋代になると長江下流地域は穀倉地帯として「【 】」といわれるほど発展した。
(6) 江南地方には南ヴェトナムから「【 】米」が持ち込まれた。
(7) 唐では【 】という手形が、北宋で【 】、南宋で【 】、金で【 】の紙幣が使用された。
12世紀になると宋(北宋)で徽宗(キソウ)が即位した。この【 】は『桃鳩図(トウキュウズ)』などの作品を残した画家でもあった。一方、満州では1115年に女真族の完顔阿骨打(カンガンアクダ)が金を建国した。満州の【 】族は半農半牧の民族である。宋の皇帝【 】(キソウ)は、【 】(カンガンアクダ)が建国した金と結んで、遼から燕雲十六州を奪回しようと考えた。しかし、金が遼を攻撃すると、宋は金を裏切ったため、金は単独で【 】を滅ぼし、さらに宋の都開封を攻撃した。1126年~27年のこの事件を「靖康の変」という。この「【 】の変」で、金は宋の都【 】を攻略し、宋の皇帝【 】とその子欽宗は3000人の官僚とともに金に連れ去られた。金はそのまま華北一帯を征服したが、徽宗の次男であった高宗は、多くの中国人とともに江南に逃れて南宋を建国した。南宋の都は臨安だが、都【 】は現在の杭州である。
満州と華北を支配する【 】族の【 】と、江南で建国した中国人王朝の【 】とが対抗しあう状況がしばらく続いた。やがて南宋の交戦派将軍の岳飛(ガッピ)が和平派の秦檜(シンカイ)に暗殺されたため、1142年金と南宋は「紹興(ショウコウ」の和」を結んだ。「【 】の和」では南宋の立場は臣下で、金が君主の立場と定められた。
女真族の金も二重統治体制を採用した。【 】族に対しては「猛安謀克(モウアンボウコク)」という制度で統治した。この【 】は別に「ミンガン・ムケ」ともいう。一方、華北にいる中国人に対しては州県制で統治した。金などのように自分の出身地域を維持しながら中国の一部または全部を支配する王朝を「征服王朝」という。遼が最初の「【 】王朝」で、金も「【 】王朝」である。また、宋は【 】年~1127年の「【 】の変」で華北を失った。そのため、「【 】の変」以前を北宋、以後を南宋と呼んで区別する。
北宋では儒学が飛躍的に進化した。北宋の儒学を宋学という。この【 】を興した周敦頤(シュウトンイ)は『大極図説』で宋学の世界観を示した。宋学の創始者【 】を継承したのは程(テイコウ)・程頤(テイイ)の兄弟である。【 】・【 】の二人を「二程」と呼ぶ。さらに南宋になると、朱子学が成立した。【 】学の創始者は朱熹(シュキ)で、「大義名分論」を展開した。また、それまでの儒学は「五経」を重視したのに対し、朱子学を創始した【 】は「四書」を重視した。「【 】」とは「大学」・「中庸」・「論語」・「孟子」の4つの古典である。
また、道教も金と南宋の時代に飛躍的に発展した。華北を支配した【 】では王重陽が全真教を始めた。江南を支配した【 】では正一教が成立した。南宋で成立した【 】教は張陵(チョウリョウ)の子孫が興したものである。
ワンフレーズ・チェック
(1) 1115年【 】族の【 】が満州で金を建国した。
(2) 【 】年~1127年の「【 】の変」で、宋の皇帝【 】と【 】は金に拉致された。
(3) 「靖康の変」で金は出身地の【 】と征服した【 】を合わせて支配する【 】王朝になった。
(4) 金は満州の女真族に対して「【 】」で統治し、華北の中国人を【 】制で統治した。
(5) 「【 】の変」で江南に生き延びた高宗は都を【 】において【 】を建国した。
(6) 宋学の創始者【 】は『【 】』を著して儒学を飛躍的に発展させた。
(7) 周敦頤を受け継いだ「二程」とは【 】と【 】の兄弟である。
(8) 南宋になると【 】が登場して朱子学を興した。朱子学では「【 】」を重視した。
(9) 「四書」とは、【 】・【 】・【 】・【 】の古典を指す。
(10) 華北では【 】が【 】教を興し、江南では【 】が成立して、道教が飛躍的に発展した。
907年朱全忠が唐を滅ぼして後梁を建国した。この【 】から始まる5王朝の時代を五代十国という。そのころ、916年契丹(キッタン)族の耶律阿保機(ヤリツアホキ)がモンゴル高原で遼を建国した。【 】年にモンゴル高原で遼を建国した【 】(ヤリツアホキ)は、926年に渤海を征服した。【 】(ヤリツアホキ)は渤海征服直後になくなった。さらに、遼は五代十国の3番目の王朝である後晋の建国を助けて936年に燕雲十六州を獲得した。【 】年に獲得した燕雲十六州は現在の北京周辺の土地である。なお、【 】を遼に譲った後晋の建国者は石敬瑭である。遼はモンゴル高原を支配するために北面官を、中国の一部である【 】を支配するために南面官を置いた。すなわち【 】官はモンゴル高原の【 】族を支配する役所で、【 】官は燕雲十六州の中国人を支配するための役所である。遼がとった【 】族と中国人を別々に支配する方法を二重統治体制という。以後、燕雲十六州を【 】から奪い返すことが、歴代の中国皇帝にとっての悲願になった。
五代十国の最後の王朝は後周であった。960年この【 】を倒したのが趙匡胤(チョウキョウイン)で、都を開封において宋(北宋)を建国した。都の【 】は商業都市として繁栄した。宋を建国した【 】は、武人を政治の舞台から追放して文治主義をとった。この【 】主義とは、科挙という官吏登用制度で採用した官僚に政治を任せるものである。宋代には皇帝自ら試験を行う殿試が採用されて、官吏登用制度である【 】は完成した。
しかし、【 】主義をとって武人を追放した結果、宋の軍事力は著しく低下したので、消極的外交政策をとった。そのためモンゴル高原の遼と1004年に「澶淵の盟」を結んで和睦した。「【 】の盟」では宋の立場は兄、遼を弟とした。また、チベット系のタングート族が建てた西夏とも1044年に「慶暦の和」を結んだ。「【 】の和」では宋の立場は君主で、【 】は臣下とされた。その代わり、宋は【 】年の「澶淵の盟」や【 】年の「慶暦の和」で国境貿易を約束し、絹など多くの贈り物を与えねばならなかった。
宋が採用した【 】外交政策の結果、宋の財政支出は大きくなったので、王安石が財政再建を行った。【 】が行った財政再建策を「王安石の新法」という。「【 】の新法」は均輸法や平準法、保甲法や保馬法などである。しかし、この「【 】の新法」に反対する勢力は司馬光を中心に抵抗した。【 】を中心とする反対派を「旧法党」という。なお、財政再建反対派の「【 】党」の指導者【 】は、『資治通鑑』という歴史書を書いた。『【 】』は編年体で書かれた最初の歴史書である。年代順に歴史を書く方法を編年体といい、この【 】体に対して、人物や出来事中心に歴史を書く方法を紀伝体という。
ワンフレーズ・チェック
(1) 契丹族の遼は【 】年に【 】が建国し、【 】年に渤海滅ぼし、【 】年燕雲十六州を得た;
(2) 契丹族の【 】は【 】体制をとり、【 】官と【 】官を置いてそれぞれを支配した、
(3) 中国歴代皇帝にとって【 】族の遼に奪われた【 】を奪回することが悲願になった。
(4) 【 】年に【 】が宋を建国した。都の【 】は商業都市として繁栄した。
(5) 宋は【 】主義をとり、皇帝が行う最終試験である【 】を始めて科挙を完成させた。
(6) 宋は【 】外交政策をとった。
(7) 宋は遼との間で【 】年に「【 】の盟」を結んだ。宋を【 】、遼を【 】という立場をとった。
(8) 宋は西夏との間で【 】年に「【 】の和」を結んだ。宋を【 】、西夏を家臣という立場をとった。
(9) 宋が行った財政再建のための改革を「【 】の新法」といい、反対派を【 】党と呼んだ。
(10) 旧法党の指導者【 】は『【 】』という歴史書を著した。
「武韋の禍」を終わらせて皇帝に即位した玄宗は、はじめのうち善政を行ったので、この【 】の善政を「開元の治」という。しかし、やがて楊貴妃を寵愛してその一族を重んじるようになると、節度使の有力者安禄山が反発して反乱を起こした。【 】とその部下の史思明が起こした反乱は755年から763年まで続く大反乱になった。【 】年に始まったこの反乱を安史の乱という。皇帝の【 】は愛妃【 】とともに都の長安を追われたが、二人の悲哀を白居易は『長恨歌』で歌った。『【 】』の悲歌を書いた白居易は白楽天ともいう。南詔(ナンショウ)は【 】の乱の混乱に乗じて四川に侵入し、吐蕃(トバン)は【 】の乱の混乱に乗じて都の【 】に攻め込んだ。四川に侵入した【 】(ナンショウ)はビルマ系の民族で、長安を攻略した【 】(トバン)はチベット系の民族である。唐は北方のウイグルの力を借りて【 】の乱をようやく鎮圧することができた。唐を支援した【 】はトルコ系の民族である。
このように唐は周辺の民族の侵入を受けただけでなく、安史の乱によって大きく変質し、均田制も崩壊した。安史の乱後、唐は節度使を辺境だけでなく中心地域にも設置した。この中心地域にもおかれた【 】を藩鎮という。この【 】のなかには唐の中央政府の命令に従わない者も多かった。一方、安史の乱による混乱で唐は均田制を行えなくなった。そのため【 】制と結びついている租庸調制も実施できなくなった。そこで780年皇帝の徳宗のとき、宰相の楊炎が両税法を定めた。この【 】法は安史の乱後実施できなくなった税制の【 】制に代わる新しい税制である。【 】年から始まった【 】法の特徴は、現住所に対して課税し、夏と秋の2回納税し、銅銭で納める(銭納)という点にある。宰相【 】が考えた【 】法によって、唐は税制の建て直しに成功して滅亡を防いだ。
一方、安史の乱の混乱により、それまで唐の政治を担ってきた貴族は没落し、代わって新興地主層が台頭した。この新興地主層を形勢戸という。この【 】が経営する土地制度を佃戸(デンコ)制といい、【 】(デンコ)制のもとで働く小作人は佃戸という不自由な農民であった。貴族と違って形勢戸には免税特権はなく、形勢戸は一般に自分の大土地で生活する在地の地主である。
875年塩の密売人である黄巣(コウソウ)の乱が発生した。この【 】(コウソウ)の乱により唐はいっきに衰退し、多くの藩鎮が軍閥として乱立した。そしてついに【 】年に起きた黄巣の乱を鎮圧した朱全忠が唐を滅ぼした。唐の滅亡は907年で、唐を滅ぼした【 】は後梁(コウリョウ)を建国した。朱全忠が【 】を建国した後、後梁も含め5つの王朝が成立したのでこの時代を五代十国という。この【 】という時代は軍閥が乱立する乱世で、武人による武断政治が行われた。
このうち960年に石敬瑭(セキケイトウ)は後晋を建国した。【 】(セキケイトウ)が後晋を建国するとき北方遊牧民族の契丹(キッタン)族の遼の力を借りた。【 】族の遼はその代償として万里の長城より南側に位置する燕雲(エンウン)十六州を獲得した。【 】を獲得した遼は、モンゴル高原を支配しながら中国の一部を支配する征服王朝と呼ばれる。【 】は歴史上最初の【 】王朝である。
ワンフレーズ・チェック
(1) 玄宗ははじめ「【 】」という善政を行ったが、愛妃【 】に溺れて政治が乱れた。
(2) 節度使の【 】は755年に【 】の乱を起こした。その結果、唐は大きく変質した。
(3) 安史の乱以前の税制は【 】制であったが、乱後の【 】年に宰相【 】が【 】法を開始した。
(4) 安史の乱以前、節度使は地方に設置されたが、乱後は【 】が中心地域にも置かれた。
(5) 両税法の特徴は年に【 】回【 】で納税し、税は【 】で納めた点である。
(6) 安史の乱後に出現した【 】は新興地主層で、【 】制による大土地所有を行った。
(7) 【 】年に発生した【 】の乱を鎮圧した朱全忠は、【 】年に唐を滅ぼして【 】を建国した。
(8) 後梁から始まる【 】という時代には軍閥が乱立し、武人による【 】政治が行われた。
(9) 【 】年【 】を建国した石敬瑭は建国の代償として遼に【 】を譲った。
(10) 出身地方を維持しながら中国の一部または全部を支配した王朝を【 】王朝という。