前146年は,古代地中海世界の歴史の中でも注目すべき年である。この年に,地中海の西部と東部において,それぞれ数百年間にわたって繁栄を誇っていた2つの有力な都市国家,カルタゴとコリントが破壊され,地上から姿を消したのである。この両市を破壊したローマは,当時,事実上、地中海世界の支配者であった。
一方,勝利したローマでもその社会の歪みが目立ちはじめていた。ローマ市民層の中核となる中小自営農民の一部が,打ち続く海外戦争の負担で没落しはじめていたのである。このローマ社会の危機に対処するために,前133年からグラックス兄弟の改革が始まった。彼らは,護民官に就任して、没落市民たちの救済に努めたが,反対派の抵抗で改革は挫折した。その後,ローマでは閥族派と民衆派との対立が激化し,社会の混乱が著しくなった。閥族派のスラと民衆派のマリウスは,小アジアのポントスのミトリダテス王との戦争の指揮権をめぐって激しく対立し,内乱が勃発した。この戦いはスラが勝利し,スラが独裁官(ディクタトル)となった。この時期は,地中海世界各地で反ローマの抵抗連動が活発化した時代でもあった。ミトリダテス王は,地中海東部でローマ軍と長期にわたる戦争を続けていた。また小アジア南部を本拠地とする海賊たちも地中海の海上交通路を脅かしてローマに大損害を与えていた。ローマの本拠地であるイタリアでも,剣闘士奴隷であったスパルタクスを指導者とする大規模な奴隷蜂起が勃発した。
スラの勝利後,ローマでは閥族派優位の元老院が政治を指導する時期がしばらく続いていた。前60年,この体制に不満を持つ3人の有力政治家が手を結んで第1回三頭政治をはじめ,政治の実権を握った。三頭政治の一員であったカエサルは,ガリア遠征の功績で勢力を伸ばし,独裁官となった。彼はしばしば共和政の伝統を無視する政策を実施したため,前44年に共和政擁護派のブルートゥス等に暗殺された。その後,カエサルの養子オクタヴィアヌスと旧部下のアントニウスとレビドゥスの3人が第2回三頭政治を結成し,反対派を打倒してローマの政治を支配した。
第2回三頭政治を構成した3人の政治家の中で,レヒドゥスは一早くに失脚し,残りの2人が政治権力を分け合うこととなった。オクタヴィアヌスは地中海西部およびガリア方面を、アントニウスはヘレニズム文化の影響が強い地中海東部およびエジプトを支配した。アントニウスは,マケドニアのアレクサンドロス大王の部将プトレマイオスの子孫であるエジプト女王クレオパトラと親密となった。オクタヴィアヌスはアントニウスとクレオパトラヘのローマ市民たちの反感を煽って,エジプトに対して宣戦を布告し,前31年アクティウムの海戦で勝利をおさめた。ローマと地中海世界の支配者となったオクタヴィアヌスは,前27年に元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられ,事実上の帝政をはじめた。この体制は,アウグストゥスが「市民の第1人者」を,意味するプリンケプスの呼称を採用したことから,プリンキパトゥス(元首制)と呼ばれる。
一方,勝利したローマでもその社会の歪みが目立ちはじめていた。ローマ市民層の中核となる中小自営農民の一部が,打ち続く海外戦争の負担で没落しはじめていたのである。このローマ社会の危機に対処するために,前133年からグラックス兄弟の改革が始まった。彼らは,護民官に就任して、没落市民たちの救済に努めたが,反対派の抵抗で改革は挫折した。その後,ローマでは閥族派と民衆派との対立が激化し,社会の混乱が著しくなった。閥族派のスラと民衆派のマリウスは,小アジアのポントスのミトリダテス王との戦争の指揮権をめぐって激しく対立し,内乱が勃発した。この戦いはスラが勝利し,スラが独裁官(ディクタトル)となった。この時期は,地中海世界各地で反ローマの抵抗連動が活発化した時代でもあった。ミトリダテス王は,地中海東部でローマ軍と長期にわたる戦争を続けていた。また小アジア南部を本拠地とする海賊たちも地中海の海上交通路を脅かしてローマに大損害を与えていた。ローマの本拠地であるイタリアでも,剣闘士奴隷であったスパルタクスを指導者とする大規模な奴隷蜂起が勃発した。
スラの勝利後,ローマでは閥族派優位の元老院が政治を指導する時期がしばらく続いていた。前60年,この体制に不満を持つ3人の有力政治家が手を結んで第1回三頭政治をはじめ,政治の実権を握った。三頭政治の一員であったカエサルは,ガリア遠征の功績で勢力を伸ばし,独裁官となった。彼はしばしば共和政の伝統を無視する政策を実施したため,前44年に共和政擁護派のブルートゥス等に暗殺された。その後,カエサルの養子オクタヴィアヌスと旧部下のアントニウスとレビドゥスの3人が第2回三頭政治を結成し,反対派を打倒してローマの政治を支配した。
第2回三頭政治を構成した3人の政治家の中で,レヒドゥスは一早くに失脚し,残りの2人が政治権力を分け合うこととなった。オクタヴィアヌスは地中海西部およびガリア方面を、アントニウスはヘレニズム文化の影響が強い地中海東部およびエジプトを支配した。アントニウスは,マケドニアのアレクサンドロス大王の部将プトレマイオスの子孫であるエジプト女王クレオパトラと親密となった。オクタヴィアヌスはアントニウスとクレオパトラヘのローマ市民たちの反感を煽って,エジプトに対して宣戦を布告し,前31年アクティウムの海戦で勝利をおさめた。ローマと地中海世界の支配者となったオクタヴィアヌスは,前27年に元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられ,事実上の帝政をはじめた。この体制は,アウグストゥスが「市民の第1人者」を,意味するプリンケプスの呼称を採用したことから,プリンキパトゥス(元首制)と呼ばれる。