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第2次世界大戦後の西欧

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 フランスとドイツは2回の世界大戦で交戦したが、第1次世界大戦では「【西部戦線異状なし】」に見られるように、独仏国境線は、ほぼ膠着していた。しかし、第2次世界大戦では、ヒトラーはスターリンと【独ソ不可侵条約】を締結し、両国はまず、【】ポーランドに侵攻。その後8ヶ月たってからドイツはフランスを攻撃した。占領されたフランスには3つの状態が存在した。北部はドイツが【直接占領】、南部の【ヴィシー】に【ペタン】を首班とする傀儡政権が樹立された。また【】ロンドンには徹底抗戦をフランス軍部に拒否された【ド=ゴール】が「自由フランス」で【レジスタンス】運動を指導した。
 この違いは戦後の西欧世界に決定的な違いをもたらした。第2次世界大戦後はフランスも戦火にまみれ、イギリスも激しい空襲を受けた。もちろんドイツも同様に破壊された。【ヤルタ会談】の結果、冷戦が決定的になり【46】年には「【鉄のカーテン】」が東西を分断した。当時、労働者階級など貧困層の拡大によって共産主義が拡大すると考えられていたため、第1次世界大戦の比較にならない被害を受けた西欧諸国で共産主義が拡大する可能性が非常に高かった。
 【トルーマン】大統領は「【マーシャル・プラン】」で西欧への積極的な介入を図った。共産主義を「鉄のカーテン」の向こう側に封じ込めることを目的としたのである。


シューマン

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

フランスの【シューマン】によれば、西欧世界は鉄鉱石、石炭といった資源をめぐって長い間紛争を繰り返してきた。西欧世界にこれらの鉱物資源を管理する機関を創設すれば、平和をもたらすことができるという。彼は「EC生みの親」と言われる。
★ECSCのチェック・ポイント
�正式名称            
=ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体  
�創設の年は?
=1952年         
�その目的は?
=石炭鉄鋼資源の共同管理
�参加国は?
=仏・西独・ベネルクス3国


アトリー内閣

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 第2次世界大戦の戦時下では【チャーチル】の挙国一致内閣を必要としたイギリス国民も、45年5月のドイツ降伏後は、【アトリー】【労働党】政権を選択した。この政権の下、航空などを含む【主要産業の国有化】、47年には【インド】の独立・さらに【ビルマ】独立が認められている。一方、主要産業の国有化という政策はイギリス戦後経済を停滞させてしまい、後に【イギリス病】とよばれるような停滞期を迎える原因にもなった。アトリー労働党政権の政策のスローガンを「【ゆりかごから墓場まで】」というが、これは徹底した福祉政策を示している。

★アトリー内閣のチェック・ポイント
�アトリー内閣の政党は?
=労働党(期間は1945~51)
�アトリー政権成立の状況は?
=チャーチル内閣に代わって大戦末期に成立。ポツダム会談に途中から出席した。
�アトリー内閣によって独立した植民地は?
=インド独立承認(47年。分離独立)
=パキスタン独立承認(47年)
�アトリー内閣の経済政策は?
=重要産業国有化(石炭・電気・鉄鋼・航空・英国銀行を国有化)
�アトリー内閣の標語は?
=ゆりかごから墓場まで
�その他の業績は?
=1950年に労働党として中華人民共和国を承認


戦後史(5)西欧の情勢�イギリスとEU

2012年12月19日 | トリオDE世界史

(1)アトリー首相が承認した独立 ��独立承認2カ国�完全独立承認
�インドとパキスタン
�ビルマ(ミャンマー)
�アイルランド共和国
(2)重要産業国有化 �首相�スローガン�産業1つ
�アトリー
�ゆりかごから墓場まで
�航空
(3)アトリー �政党�植民地政策�内政
�労働党
�独立を承認
�重要産業国有化
(4)保守党政権の首相3人 �核保有�スエズ動乱�EFTA結成
�チャーチル
�イーデン
�マクミラン
(5)戦後イギリス経済の変遷 �アトリー首相�ウィルソン首相�サッチャー首相
�重要産業国有化
�イギリス病
�自由主義経済の再建
(6)サッチャー首相 �年代�アルゼンチンとの戦争�対中国政策
�1980年代
�フォークランド紛争
�香港返還協定締結
(7)イギリス首相とEU �マクミラン首相�ヒース首相�メージャー首相
�EFTA結成
�EC加盟(拡大EC)
�マーストリヒト条約承認
(8)イギリスとEUの年代 �EFTA結成�EC加盟�EU参加 
�1960年
�1973年
�1992年







アトリー内閣

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 第2次世界大戦の戦時下では【チャーチル】の挙国一致内閣を必要としたイギリス国民も、45年5月のドイツ降伏後は、【アトリー】【労働】党政権を選択した。この政権の下、主要産業の国有化、47年【インド】独立がなされた。

アトリー内閣のチェック・ポイント
�アトリー内閣の政党は?
=労働党(期間は1945~51)
�アトリー政権成立の状況は?
=チャーチル内閣に代わって大戦末期に成立。ポツダム会談に途中から出席した。
�アトリー内閣によって独立した植民地は?
=インド独立承認(47年。分離独立)
=パキスタン独立承認(47年)
�アトリー内閣の経済政策は?
=重要産業国有化(石炭・電気・鉄鋼・航空・英国銀行を国有化)
�アトリー内閣の標語は?
=ゆりかごから墓場まで
�その他の業績は?
=1950年に労働党として中華人民共和国を承認


シューマン・プランとEC

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 近世以降のヨーロッパの戦争は鉱業地帯の争奪戟でもあった。とくに【アルザス・ロレーヌ】地方は30年戦争・普仏戦争・第1次世界大戦でドイツ(プロイセン)とフランスの争奪の的となり、【シュレジェン】地方はオーストリア継承戦争とそれに続く7年戦争でオーストリアとプロイセンの争奪の地となり、【シュレスヴィヒ・ホルシュタイン】は普墺戦争で争奪合戦が行われた。
 フランス外相【シューマン】はこのような戦争をなくすために、工業原料の共有化を提案したのである。彼の構想の下で、1952年に【ECSC】(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)が結成され、さらに58年には【EURATOM】(ヨーロッパ原子力共同体)が、59年には【EEC】(ヨーロッパ経済共同体)が結成された。これら3つの組織が発展的に統合され【EC】が【1967】年に成立するが、シューマンはECの生みの親ともいえる存在である。


EU(ヨーロッパ統合まで)

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 ヨーロッパ統合の起源は,古く中世に遡ることができるが,統合が具体的な政治運動に発展したのは第一次大戦後クーデンホフ=カレルギーが「パン=ヨーロッパ運動」を呼びかけてからである。この運動は第二次大戦で頓挫するが,戦後イギリス元首相【チャーチル】がいち早く「ヨ一ロッパ合衆国」を提唱している。大戦による荒廃,東西対立の激化の中で米ソ二大勢力に対抗できるヨーロッパ再建の気運が高まった。ヨーロッパ諸国の協力の噛矢となったのは【マーシャル=プラン】(【ヨーロッパ経済復興援助計画】)受け入れのために,1948年西ヨーロッパ17カ国で結成した【OECD】である。さらに,1951年【シューマン】の提唱に基づいて【ECSC】(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)が発足したのに続いて【A】が6カ国の間で調印され,1958年EEC(ヨーロッパ経済共同体)とE【URATOM】(ヨーロッパ原子力共同体)が発足した。
 【EEC】はまず共通関税をもつ関税同盟を1968年に完成させ,翌年には共通農業市場も確立し,12年の過渡期を乗り切った。これと相前後として【1967】年には【EEC】,【ECSC】,【EURATOM】がブリュッセル機関融合条約によって結合され,全体が【EC】と総称されることとなった。1969年ハーグ首脳会議は完成(共同農業市場の融資方式の決定),拡大(イギリスなどの加盟),深化(経済・通貨同盟の結成)を掲げたが,このうち実現をみたのは【イギリス】,デンマーク,アイルランドの加盟のみである。イギリスは【EFTA】を結成してこれに対抗しようとしたが,【1973】年ついに加盟することになったのである。イギリスの加盟が【ド=ゴール】が率いた【フランス】によって二度にわたって拒否されたことは,有名である。これを第一次拡大と呼ぶが,1970年代に入ってドルの金交換を公式に停止した【ニクソン=ショック】にともなう国際通貨危機,【1973】年と【79】年に起きた二度の【オイルショック】などが発生すると,失業とインフレが共存する【スタグフレーション】に多くの加盟国が陥った。そのため,統合への動きも停滞してしまった。これをユーロペシミズムと呼ぶが,1980年代にいたってやっとペシミズムから脱することになる。
 ペシミズム脱出のきっかけになったのは,1979年のEMS(ヨーロッパ通貨制度)の発足である。その中核となる通貨は【ECU】であったが,実質的には西ドイツマルクが基軸通貨の役割を果たして,域内貿易の拡大と経済成長に寄与した。ただし,1993年には変動幅を拡大したため,EMSは共同変動制の実を失っている。
 つぎに,加盟国についてみると,第二次拡大(1981年),第三次拡大(1986年)ではそれぞれ1カ国,2カ国の加盟をえた。1990年のドイツ統一,旧ソ連の崩壊後1991年には,さらに東欧3カ国のちに合計6カ国と連合協定(ヨーロッパ協定)を結ぶとともに,EAFTとも翌年ヨーロッパ経済領域協定を締結したうえ,1995年には第四次拡大でこの中の3カ国の加盟を承認した。こうした加盟国の拡大や連合協定によって,その領域はヨーロッパの主要地域をカバーすることになった。
 大きな進展がみられたのは,市場統合の面である。1985年に理事会は【域内市場白書】を採択し,域内市場統合に向けて本格的取り組みをスタートさせた。これを受けてチェッキー二報告(1987年発効)は1992年末までに物,人,サービス,資本の自由市場を実現するとし,これに従って市場の統合が実現され,単一市場がスタートした,また,【1993】年までに批准され,発効した【マーストリスト条約】は,EMU(ヨーロッパ通貨同盟),共通外交・安全保障政策の樹立を目指すEPU(ヨーロッパ政治統合),司法・内務の分野における政府間協力を三本柱とする【EU】(ヨーロッパ連合)を創設するとしていた。このうち,EMUは1998年の段階で11カ国が参加を表明し,その中核となるヨーロッパ中央銀行(ECB)も同年6月に発足した。さらに,【1999】年には新しい単一通貨に全面的に移行することになっている。


ECからEUへ

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

アメリカは【1947】年にヨーロッパの復興を援助するために,【マーシャル・プラン】を提唱した。このマーシャル・プランを受け入れるための組織が【ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)】である。また軍事面では1948,イギリス,フランス,ベネルクス3国の間で,【ブリュッセル】条約が結ばれ,さらに【1949】年にはこれにアメリカ,カナダ,イタリアなどが加わって【北大西洋条約機構(NATO)】が結成された。
 また、ヨーロッパ諸国間の経済的協力もすすめられ,フランスの外務大臣【シューマン】の提案にしたがってフランス,イタリア,西ドイツ,ベネルクス3国の間に【1951】年【ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)】条約が結ばれた。これが本格的な欧州統合の始まりである。1950年代後半に入ると統合への動きはさらに進み,【1957】年ローマ条約によって【ヨーロッパ経済共同体(EEC)】と【ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)】が発足した。これに対してイギリスは大陸市場からの孤立を恐れ、1960年【ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)】を結成した。これには北欧3国・オーストリア・スイス・ポルトガルが加わり、のちにフィンランド・アイルランドも加わった。
一方、【1967】年にはEEC・ECSC・EURATOMが統合されて【ヨーロッパ共同体(EC)】が成立した。このことで,ヨーロッパの経済統合がさらにすすんだ。その後ヨーロッパ共同体(EC)は組織を拡大し,【1973】年には【イギリス】・【デンマーク】・【アイルランド】が新たに加盟したことで【拡大EC】と呼ばれた。さらに1981年には【ギリシア】,1986年には【スペイン】などもこれに加わった。
こうした流れの中で【1991】年12月には欧州共同体首脳会議が開かれ,翌【1992】年【マースとリヒト】条約が調印され,【1993】年には同条約が発効して【欧州連合(EU)が】成立し,ヨーロッパはさらに高度な統合の時代を迎えている。


ECSC

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

フランスのシューマンによれば、西欧世界は鉄鉱石、石炭といった資源をめぐって長い間紛争を繰り返してきた。西欧世界にこれらの鉱物資源を管理する機関を創設すれば、平和をもたらすことができるという。

ECSCのチェック・ポイント
�正式名称            
=ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体  
�創設の年は?
=1952年         
�その目的は?
=石炭鉄鋼資源の共同管理
�参加国は?
=仏・西独・ベネルクス3国


西ドイツの戦後の政党と政治史

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1949】年に建国した西ドイツでは、冷戦の影響で【KPD】(ドイツ共産党)は復活を認められず、【SPD】(社会民主党)もマルクス主義を否定することを求まられた。そのため政権政党になったのは、キリスト教系の政党を合同させた【CDU】(【キリスト教民主同盟】)であった。これはカトリック系の中央党とプロテスタント系政党から成立した。「【奇跡の復興】」と呼ばれる経済復興を成し遂げた【アデナウアー】はこのCDUの首相。
 一方、【SPD】の【ブラント】首相は70年代に「【東方外交】」を展開し、ポーランドと東ドイツとの国境線である「【オーデル・ナイセ線】」を承認し、さらに【72】年に東ドイツを国家として承認する「【基本条約】」を結び、さらに、国連に【同時加盟】を果たした。圧倒的に経済力の優位があるものの、【ブラント】首相は「東方」に外交政策の目を向けたのである。
 【1989年11月9日】、【ヤルタ体制】を象徴した【ベルリンの壁】が崩壊した。この時の【コール】首相は「1年以内に東西ドイツを統一する」を宣言し、【ヴァイツゼカー】大統領は後世に残る演説を行い、ドイツ統一を世界に呼びかけた。事実、1年後の【】1990年にドイツは統一された。


社会主義政党史 ドイツ 2009津田塾大学

2012年12月19日 | 高3用 授業内容をもう一度

 世界に先がけてイギリスで始まった産業革命は,伝統的な生活様式や価値観に重大な変化をもたらした。都市では大規模工場で働く賃金労働者が急増し,貧困者の人口集中によるスラム化が起こった。労働者は,利潤の追求を優先する資本家によって,不衛生な環境のもとで長時間労働と低賃金を強いられることが多く,労働争議が多発した。団結する機会が増えた労働者は,一つの階級としての意識を高めて労働組合を結成し,自らの手で労働条件の改善をめざすようになった。こうした状況のなかで,団結禁止法を制定して労働運動を弾圧していたイギリス政府も,1824年には同法を廃止して労働者の団結や団体行動を認めるようになった。また,数度にわたって工場法が制定され,労働条件の改善が進んだ。

 

 こういった動きのなかから,資本主義そのものを批判し,富が公平に分配されるといった理想社会の実現をめざす社会主義思想が発展した。工場法の制定に尽力し,自らも理想的協同社会の建設を試みたイギリスの工場経営者ロバート=オーエンや,フランスの二月革命で活躍し,国立作業場の設置を推進したルイ=ブランなど,社会主義の考えを実践する者も現れた。また,ドイツのマルクスとエンゲルスは,資本主義体制の崩壊が歴史的必然であるとする学説を展開し,労働者階級による政権獲得と,労働者の国際的団結による社会主義の実現を訴えた。彼らの思想は後にマルクス主義と称され,以後の社会主義運動に大きな影響を与えた。

 

 労働運動や社会主義運動の高揚に直面したヨーロッパ各国政府は,ある程度の社会福祉政策を実施するようになった。たとえば,19世紀半ばごろから工業発展をとげたドイツでは,宰相ビスマルクが1878年に「社会主義者鎮圧法」を制定して労働運動に打撃を与える一方で,災害保険や疾病保険などの社会保険制度を実施した。こうした対応は労働運動の一つの成果だったが,一連の福祉立法の実現を背景に,社会民主党のベルンシュタインなど,革命ではなく議会を通じての社会改良によって社会主義の実現をめざす理論家も現れ,社会主義運動のあいだに分裂と対立をもたらした。さらに,こうした福祉政策は,労働者に国家への帰属を意識させる要因ともなり,労働者の国際的な連帯を弱めることになった。