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古代オリエント史(6)重要年代

2016年04月15日 | FORZA世界史 復習編
1. サルゴン2世によるイスラエル王国征服の年。
2. アッサルハドン王によるティルス市破壊の年。
3. アッシュールバニパル王によるエジプト征服(オリエント 統一)の年。
4. ネブカドネザル2世によるユダ王国征服の年。
5. キュロス2世によるメディアからの独立の年。
6. カンビセス王によるエジプト征服(オリエント 統一)の年。

正解
①前722 ②前672 ③前667 ④前586 ⑤前550 ⑥前525

メソポタミア史の重要人名

2016年04月15日 | FORZA世界史 復習編
1. メソポタミア最初の統一者。
サルゴン1世
2. 前18Cに登場した古バビロニア のメソポタミア統一者。
ハンムラビ王
3. 下エジプトから出て上下エジプトを統一した最初の王。
メネス王
4. 前27Cの第4王朝の時、最大のピラミッド を建造した王。
クフ王
5. 新王国第18王朝の時、シリア ・ヌビア を征服した王。
トトメス3世
6. エジプトで唯一神アトン を崇拝してアマルナに遷都した第18王朝の王。
アメンフォテップ4世(イクナートン)
7. 第18王朝の王でテーベ に復都した王。
ツタンカーメン(ツタンク=アモン)
8. 新王国第19王朝の王。前1286年にヒッタイト と抗戦し講和。
ラムセス(ラムス)2世
9. 前13世紀に出エジプトを実施したヘブライの指導者。
モーセ
10. 前1000年頃イェルサレムを都としたヘブライ王国の王。
ダビデ王
11. 前10C後半のヘブライ王国の王。死後に王国は南北に分裂した。
ソロモン王

04法政(社会)オリエント史

2016年04月15日 | 復習用入試問題
04法政(社会)オリエント史

 つぎの文を読み,問いに答えよ。
 セム系遊牧民であった【1】人が,メソポタミアに古バビロニア王国(バビロン第一王朝)を建設した頃,この地では同じセム系のカナーン人が定住し,カナーンと呼ばれるようになった。やがてこの地は,古バビロニア王国を滅ぼしたインド=ヨーロッパ系の【2】が,中王国を滅ぼした【3】を追放して成立したエジプトの新王国と覇権を争う場となった。東地中海一帯へのいわゆる「海の民」の侵入がこのバランスを崩し,この地にさまざまの勢力が独自の発展をとげるきっかけとなった。この地には,「海の民」の一派ペリシテ(フィリスティア)人と呼ばれる人々が入植し,製鉄技術や果樹栽培を伝え,パレスティナの地名の由来となった。やがてこの地域の山地方面から海岸平野部に,【4】人と呼ばれる人々(【10】人と自称した)が進出するようになり,ペリシテ人やカナーン人と衝突するようになった。【4】人はやがて王国を成立させ,第2代の王【5】のもとで,ペリシテ人やカナーン人,東方のアンモン人,モアブ人,エドム人,さらに北方のダマスクスの【6】人を征服して版図を拡大し,【7】を首都と定めた。第3代の王【8】は,首都に【9】を奉る(1)神殿を建てた。けれども,第3代の王の死後,王国は,北の【10】王国と,南の【11】王国とに分裂した。
やがて東方の諸勢力が帝国を形成して強力になるとともに,この地は再び大帝国の抗争の地となった。まずメソポタミアを統一して侵攻してきた【12】が,北の【10】王国を滅ぼした。ついでイラン高原の【13】と同盟を組んで,【12】を滅ぼしてメソポタミアを支配した【14】が,エジプトと組んで対抗していた南の【11】王国を滅ぼした。このとき,首都も神殿も破壊され,王や上層市民は侵略国の首都に連れ去られた。けれども,それから50年足らずの後に,この侵略国は,【13】を滅ぼして勃興してきた新しい帝国【15】によって滅ぼされた。この帝国の支配のもとで,連れ去られた上層市民の帰還が許され,神殿の再建や一定の自治が認められた。【16】の主要部分が編纂され,選民思想やメシア信仰を特色とする【17】教が形成されていったのはこの時期以降のことであろうといわれている。

問1.空欄【1】~【17】にもつとも適当な語を,つぎのa~zのなかから選び,その記号を答えよ。
a.アッシリアb.アケメネス朝ペルシアc.アムル(アモリ)d.アラムe.イェルサレムf.イスラエル9.イスラームh.エジプトi.旧約聖書j.キリストk.コーラン(クルアーン)l.ササン朝ペルシアm.新バビロニア(カルデア)n.新約聖書0.ゾロアスターP.ソロモンq.ダヴィデr.パウロS.ヒクソスt.ヒッタイトu.ヘブライv.メディアw.リディアx.ヤハウェy.ユダz.ユダヤ

問2.下線(1)についてのつぎの文章のうち誤っているものが一つある。その記号を答えよ。
a.このときに建てられた壁の一部が現在も残っているという伝説があり,多くの人々が聖地として,「嘆きの壁」と呼ばれるこの地への巡礼に訪れている。
b.その壁のある場所は,後にこの地域で優勢となった別の宗教の聖地となり,「ハラム・アッシャリーフ」と呼ばれる聖域の西の壁になっている。
c.イギリスがこの地域を委任統治領として支配したとき,フサイン(フセイン)=マクマホン協定に基づいて,欧米からのユダヤ人を受け入れたため,アラブ系住民との間での緊張が高まり,1929年にはこの聖域をめぐって「嘆きの壁」事件と呼ばれる流血事件が起こった。
d.「嘆きの壁」は,パレスティナ戦争(第1次中東戦争)以後,ヨルダン領とされた。
e.1967年の第3次中東戦争以後は,「嘆きの壁」を含むこの都市全体をイスラエルが占領した。
f.2000年9月,後にイスラエル首相になった政治家が,「嘆きの壁」の上部にある「ハラム・アッシャリーフ」の丘への訪問を強行したことをきっかけとして,第二次インティファーダとも呼ばれる反乱が再燃した。


正解
問1(1)c(2)t(3)s(4)u(5)q(6)d(7)e(8)P(9)x(10)f(11)y(12)a(13)v(14)m(15)b(16)r(17)z 問2c



オリエント史①

2016年04月15日 | 復習用入試問題
04北海学園 古代オリエント史

 次の文章を読み,空欄(1)~(10)に適切な語句0を入れよ。
 
 メソポタミア文明は最古の都市文明の1つであり,現在の(1)およびシリア東部に位置する。メソポタミアとは,「川の間」を意味するギリシア語であり,(2)川と(3)川に挟まれた地域を指す。メソポタミアの豊かさは貧しい隣人たちを常に引きつけ,外敵の攻撃を受けやすい地形のため,その歴史は他民族による侵入の連続であった。雨は少なかったが,それに備えた灌概設備の発達により,肥沃な土地は大豊作をもたらした。防衛と灌概の必要性は,防壁と運河の組織的造営につながる。行政の仕事が増えるにつれ,文字が発明される。その中でも,シュメール人が発展させた(4)文字が有名である。紀元前2330年頃に,この地域はセム系の(5)人に征服された。その後,一時的にシュメール王朝が復活したが,紀元前2000年頃,代表的なシュメールの都市国家ウルは最終的に破壊された。前18世紀にバビロニアの(6)王がこの地域を統一したが,前16世紀に現在のトルコ方面から(7)が進出してバビロニア王朝を滅ぼした。その後4世紀間,(8)が南メソポタミアを支配した。同じ頃,北メソポタミアは強力な(9)王国の支配下にあった。いくつかの有力な王国が並立する状況が続いたメソポタミアを含むオリエント地域は,前7世紀に,(10)によって統一された。

古代メソポタミア史(再録)

2016年04月15日 | トリオDE世界史
(1)地中海東岸の民族3つ
①フェニキア人
②アラム人
③ヘブライ人
(2)古代オリエント史の舞台3つ
①メソポタミア
②エジプト
③古典的シリア
(3)古代オリエント史の有名な言葉と意味3つ
①オリエント・・・東方(ドロイゼンの言葉)
②メソポタミア・・・大河にはさまれた土地
③肥沃な三日月地帯・・・農耕文明が生まれた地方(米人ブレステッドの言葉)
(4)オリエント世界の大河3つ
①ティグリス河
②ユーフラテス河
③ナイル河
(5)農耕文明遺跡①発生の時期②遺跡を2つ
①約1万年前
②ジャルモ遺跡(ティグリス河北岸)
③イェリコ遺跡(死海の北岸)
(6)古代メソポタミアの地方3つ
①シュメール
②アッカド
③バビロニア
(7)シュメール文明の都市国家3つ
①ラガシュ
②ウル
③ウルク
(8)シュメール文明の特徴①政治の仕組み②文字③発明
①神権政治
②楔形文字
③60進法、7日制

今日の分は以上です。時間を見つけてカードをめくってください。これからドンドン増えます。




アッカド王国サルゴン1世とウル=ナンム王

2016年04月15日 | 高2用 授業内容をもう一度

 【シュメール】文明が衰退すると、代わって【アッカド】人(セム語族)の【サルゴン1世】がメソポタミアの南にある都市国家を征服しました。しかし、彼らもまもなく滅亡し、【シュメール】人の一部が【ウル】の町を復活させました。これが【ウル第3王朝】です。このウルの町で成立したウル第3王朝の王【ウルナンムは】、法律を残しています。われわれは彼が作った【ウルナンム法典】のうちのわずかしか目にすることはできませんが、今、発見された現存する人類【最古の法典】といえます。


楔形文字2

2016年04月15日 | 高2用 授業内容をもう一度

 【ペルセポリス】はアケメネス朝ペルシアの都。この町は当時パルーサと呼ばれていた。この町を破壊したのは【アレクサンドロス大王】です。彼がこの町を破壊したとき、保管されていた【粘土板】が焼かれ(粘土が焼かれると植木鉢のようになるでしょ)、その焼き固められた粘土板は2000年以上の歳月にも風化することなく保存されたわけです。まさに偶然。この【ペルセポリス碑文】から【楔形文字】の解読研究が始まったわけです。この【ドイツ】人【グロテフェント】の努力を受け継いだのが、【イギリス】人の【ローリンソン】でした。彼はグロテフェントの研究に加え、【ダレイオス1世】の業績を讃えた【ベヒストゥーン碑文】の解読を行い、約5000年前に使用されていた楔形文字の解読に成功したのです。
 楔形文字の解読により古代オリエント史研究は飛躍的に進歩しました。たまたま見つけたHPにペルセポリスの様子が写真入で紹介されています。コピー&ペーストで、見てください。

http://cuzco75.hp.infoseek.co.jp/iran/iran03_3.html


楔形文字

2016年04月15日 | 高2用 授業内容をもう一度

シュメール人が発明・発見したものはたくさんあります。現在のわれわれにも伝わっているものの多くあります。たとえば、
①60進法
②7日制
③ノアの方舟の伝説
④バベルの塔の伝説
⑤ギルガメシュ神話
⑥楔形文字
 最後の楔形文字(くさびがたもじ)の、「楔(くさび)」というのは、ドアストパーのこと。ドアストッパーの三角形の部分を、まだ固まっていない板状の粘土に押し付けて後を付けます。その三角形の後を組み合わせて「ひとつの文字」を表現したわけです。粘土板ですから乾けば固まります。紙はまだ発明されてないから、紙の代わりが粘土板だったわけです。
 

楔形文字は主に取引や納税の記録に使われました。

先史時代

2016年04月15日 | 高2用 授業内容をもう一度
(1)先史時代 
 人類はいつごろから「人間らしく」なったのだろうか。今の人間は明らかに動物とは違います。人類の進化の過程で、動物との違いがはっきりするのは、今から450万年前の【アウストラロピテクス】からとされています。南アフリカに出現した最初の「ヒト」を「ビック=マザー」と呼ぶことがあります。この【直立二足歩行】をした最初の人類の子孫が、現在、地球上に65億人にも増殖したわけです。
 ヨーロッパで生きていた【ネアンデルタール人】は「死」と「生」を区別した最初の人類と考えられています。まれに、死んだ我が子をいつまでも抱いたままでいたサルがいるそうですが、一般に動物は「死んだらどうなる?」をいう感情をもってはいないようです。なぜネアンデルタール人が死後の世界が、生きている世界と分けていた、といえるのでしょうか。それはネアンデルタール人が、【死者を埋葬する】文化を持っていたからです。まさに、「人間らしい」感情を確認することができるわけです。

 しかし、「死」という究極の「人間らしい感情」以外の感情を確認することは簡単ではありません。遺跡から発掘される骨や歯から、彼らがどのような感情を持っていたか、犬や猫のような感情表現ではない、「人間らしい感情表現」を持っていたこと確認することはできないからです。

 南フランスのラスコーの少年が、遊んでいる最中に洞窟に迷い込みました。1940年のことです。そこには牛・馬・トナカイなどの動物たちが生き生きと描かれていました。この壁画を描いたのは今から【3万年前】の人類で、【クロマニィヨン人】といいます。世界遺産に指定されているこの洞穴絵画を、彼らはなぜ描いたのでしょうか。また、どのような技術を使って描いたのでしょうか。描いた理由については想像するしかありませんが、狩猟の成功を願って描いたと考えられます。そこに「願い」とか「祈り」とか「喜び」といった「人間らしい感情」を見ることができるわけです。技法については現在研究が進んでおり、オーストラリアのアボリジニの絵画技法が参考になるとされています。口に染料を含んで壁面に拭きつけます。手や葉で隠された部分は白く残り、染料が吹き付けられた部分が絵になっていくわけです。