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私大小論述対策の本 授業の復習用にも

2018年06月16日 | 論述問題

私大の小論述(1行論述)用に使えそうな問題集です。授業の復習(覚えるのではなく、授業の内容を確認する)するのにも利用可能。1900円という価格だが、その価値はあるかもしれません。


東京大学の問題を解いていると

2018年06月16日 | 論述問題

東京大学に入試問題を見ていると、問題が求める視点・歴史観の存在に気づかされます。1970年代の問題に比べて、ここ10年間の問題は洗練されていることがわかります。
 高校の教育現場では、考えるためのツール(用語・術語)を覚えさせることに労力と多大な時間を払うため、もうひとつの大切なツールがないがしろにされてしまいます。考えるためのツールとして大切なことは、「論理の道筋」を知る、ということでしょう。自分が何かを考えるとき、どのように転がしていけば、面白い視点に気づき、世界史ならば、面白い歴史観に気づけるのか?これの方法論が、考えるためのツールです。
 これはあくまでツールに過ぎないので、身に着けることができるように思います。まさに訓練を受けることで、自分なりの「論の展開」をもつことができます。東京大学の入試問題を解くことも、よい訓練方法です。その問題で東京大学は何を求めているのか?問題の前提にある視点はなにか?
 このような訓練を受けていると、「頭がよくなった気がする」と言う生徒がいることもうなずけます


東京大学の入試問題から考えたこと

2018年06月16日 | 論述問題

ベテラン教師など「熟達者」が問題文を見て「見る」部分と、「初級者」が「見る」部分には違いがあるようです。「熟達者」は問題の解き方を考えるのではなく、その問題が求めている「本質」は何かを考えます。

チェスの世界チャンピオンを「チェスマスター」といいます。なぜ「チェスマスター」が強いのか?どのようにして彼らは良い手を見つけるのか?このことを調べた実験があります。チェスの試合途中の1盤面を5秒間だけチェスマスターに見せるという実験です。チェスマスターにその盤面を再現させると、ほぼ完全に再現できるそうです。一方、初級者は数個の駒の位置しか再現できないそうです。

これらは何を意味しているのでしょうか?初級者は盤面の駒を1つ1つ記憶してその位置を再現しているが、チェスマスターはその盤面に至るまでの手中を想像して、その帰結としての盤面を再現すると考えられています。このことを証明するように、適当に駒を意味なく置いた盤面をチェスマスターに5秒間見せて再現させても、初心者とほとんど変わらない数しか駒の位置を再現できないそうです。チェスマスターは盤面を意味ある文脈の一部分として考えるため、個々の駒が孤立していないのでしょう。

このことは問題を解くときの「熟達者」と「初級者」とのあいだにある「見えている」部分の違いを考えるヒントになりそうです。「熟達者」は問題を解く時に必要である重要な原理・原則(一般に基本ともいわれる部分)をまず考えます。つまり出題者が求める問題の本質・テーマを「見る」わけです。さらにその原理・原則をなぜ、どこに適用するのか、どのように適応するのかを考えます。簡単に言えば、この問題は「〇〇を問うている問題でしょ」をいう部分が何かを考えているということです。問題にこれとこれが書いてあるから、つまりこういうことでしょう!といった感じで考えを進めているわけです。また「熟達者」は問題を解くときに図やイメージメモを書いていることも多いでしょう。その図やメモは問題を解いていくときに重要なヒントになるわけです。「熟達者」は問題を大きく見ているのです。

一方、「初級者」は問題を解くのにどのような公式を使えばよいか?さらにそこからどのように式を変形していけばよいか?といった一局面だけに注目しがちです。自分が知っている一つ一つの知識を並べて問題に対応しがちなわけです。その問題を解くの必要な「やり方」や「解き方」または「知識」に注目し、問題が求めている原理・原則・本質・テーマを考えようとはしません。

「熟達者」が問題が求める原理原則・本質テーマを考えるのは、そこからアプローチするほうが楽だからです。


東京大学の入試問題と算数

2018年06月16日 | 論述問題

東大の入試問題を解く上で非常に大事なポイントは「問題文にヒントが書かれているから、問題文が抽象的に言っている部分を具体化する」など、問題文の隅々まですべて解答に使ったかをチェックシロ!というのがあります。また、別のポイントとして、「わかったことを表を作れ」すると「わからなかったことが見えてくる」というのもあります。


 さて、次の問題を解いてください。小数点の位置を1つ右に書いてしまったために、正しい答えと誤った答えとの差が112.5になりました。正しい答えはいくつでしょうか。

 これは小学5年生の算数の問題です。この問題を解く際に、①10倍してしまった、②差が112.5である、ということをうまく作図していけば簡単に解けます。中学受験ではこのような問題を見ることができますが、この解答方法こそが東大の問題を解く手法です。東大の問題は中学受験で使われている解法で解けてしまう。両者は解法という点に関してまったく一緒のレベルです。


東京大学の問題構成

2018年06月16日 | 論述問題

 東京大学の世界史は大問3題から構成されています。とくに第1問は一般に大論述と呼ばれ、450字から540字の論述問題になっています。この問題は難問が多く、受験生の大きな負担になっているようです。
 しかし、東大の問題には大きな特徴があります。それも明確に。その特徴とは、東大の問題には作問者の歴史観、歴史的視点が1本の「メインストーリー」を作っていること。そして、論述に使用するすべての歴史用語は、その「メインストーリー」に合致した形で使用されるという事です。たとえば「ヘレニズム」という歴史用語を説明するとき、それぞれの人がいくつかの方法で説明する事ができます。しかし、東大の場合いくつもある説明のしかたの中から、「メインストーリー」に合致したものを探し出して使用しなければならないのです。
 このような問題は、一見、解いていて面白そうではありません。しかし、同じ「メインストーリー」の方から別の用語を見てみると、今まで気がつかなかったような視点でその歴史用語を捉えることできる場合に出くわすことがあります。東大の問題を解いていて、なるほど!と感じさせられる瞬間です。歴史用語や歴史的事件、歴史的事象を「複眼的にとらえる」。この感性を磨く事を東京大学の世界史出題者が求めているのでしょう。


東大第1問大論述のとき方 3 表を作る

2018年06月16日 | 論述問題

 実は一つ目の事例が分かった段階で、「作表」の作業に入るのが大論述のとき方です。この「作表」の作業は字数配分・時間配分をする上で重要なばかりでなく、わからない部分を考えるヒントにもなります。

 2011年の問題で「作表」すると、

         受容     発展     影響

哲学

代数学

医学

地理学

暦法

のようになります。このマトリクスは3×5の15マスですから、510÷5で各事例ごとに100時程度書けばよい事になります。さらにいえば、1マス30文字程度でよいわけです。そう考えれば、510字の大論述も、1テーマ30字の論述、むしろほとんどか書けないくらい簡単な問題に変わります。これで2011年の東大世界史は合格です。

 

 


東大大論述の解き方 2 文脈を見つけたら・・・

2018年06月16日 | 論述問題

 「文脈」を見つけることができたら、次はその「文脈」にあった事例を考えます。2011年の問題で考えてみましょう。アラブ・イスラム世界に組み込まれた地域にあった文化が、イスラム世界に「受容」され、そこで「発展」して、さらに、アラブ・イスラム世界の外に伝わって「影響」を与えたような事例です。ヒントになるのは「指定語句」。ちょうどよく、文化に含まれるような語句があります。「アリストテレス」で考えてみます。アリストテレス哲学はギリシア語文献でしたから、それがバグダッドのバイト・アル・ヒクマでアラビア語に翻訳され、イベリア半島のコルドバで活躍したイブン=ルシュドが「アリストテレス哲学」を研究した。以上の知識は教科書の基礎知識でしょう。きっと誰もが知っているはずです。そしてイブン=ルシュドにアヴェロエスというラテン名があるように、かれの研究は外の世界である西欧に伝わり、13世紀にトマス=アクィナスが神学を集大成をしたことに大きな「影響」を与えています。まさに東大が言っている「文脈」通りの事例が見つかりました。これでOKです。

 以上のように考えると、「文脈」が正しいことが証明され、次の事例を考えていくことになります。次に「代数学」で考えてみます。ヒントはアラブ・イスラム世界が征服した地域。つまりエジプトでしょう。ヘレニズム時代アレクサンドリアのムセイオンにあったエウクレイデス(ユークリット)の幾何学や、さまざまな天文学を思い出せます。また、問題文には征服した地域や「その周辺」から、とあるので、そちらも考える必要があります。つまり、インドの天文学やゼロの概念などです。これらの文化をアラブ・イスラム世界が受容して、発展させたわけですから、イスラム文化史の知識でこれに関するものを考えていきます。するとアラブ・イスラム世界のなかで9世紀アッバース朝のフワリズミーが代数学を研究したことは教科書レベルの基本知識です。また11世紀セルジューク朝の詩人オマル=ハイヤームも、数学者として知られています。これらのアラビア数学は13世紀に西欧で紹介され、イスラム世界での数学が衰退した後に発展しました。

 このように、「文脈」を見つけると、その文脈に沿って解答が見つけられるのが東大の大論述です。2011年の問題は510字ですから、まだ、具体例を考える必要がありそうです。次に指定用語から「医学」について考えてみると、古代ギリシアのヒポクラテスの医学を研究したサーマーン朝末期のイブン=シーナー(ラテン名アヴィケンナ)は『医学典範』を著し、これが西洋医学の基礎になった。

 また、イスラム科学(文化)が他の地域に与えた影響として見逃せないのが、イドリーシーの世界地図。いわゆる『ルッジェーロの書』です。この地図はヘレニズム時代のプトレマイオスの「世界地図」にムスリム商人たちが蓄積した世界の情報を加えて発展させたもので、12世紀のシチリア島でルッジェーロ2世の命によって作成されました。この時期のシチリア島は宗教的な寛容が保たれており、イスラム文化の窓口でした。使用語句の「シチリア島」の使い方で受験生は悩んだかもしれません。しかし、『ルッジェーロの書』がコロンブスの新大陸発見に影響した事実を見逃すわけにはいかないでしょう。この地理学(地図)についても、「文脈」に沿った解答が書けそうです。ただし、予備校各社の模範解答には示されていません。

 予備校各社が示していないが重要なのではないかと考えられるのが、「錬金術」です。アレクサンドリアで始まった錬金術をイスラム世界が受容し化学の域にまで発展させたことは有名です。古代ギリシア世界が「万物の根源は何か」を考えていった中で錬金術が始まったとされています。アリストテレスは「4元素説」を示し、「火・土・空気・水」がアルケーとして万物を構成する根源だと考えていました。イスラム世界で発展した錬金術はスーフィーによって担われました。その錬金術が西欧に伝わって13世紀以降さかんになり、最後の錬金術師といわれるニュートンに至るわけです。このへんは受験レベルではないでしょうが、少なくとも、イスラム世界の錬金術は西欧世界で発展した化学を生み出したといえます。その影響の大きさは無視できないでしょう。

 そのほか「暦法」も影響の大きさや広まった範囲の広さを考えると無視しづらい。11世紀のセルジューク朝マリク=シャーの解きオマル=ハイヤームがジェラリー暦を作成したことは教科書レベル。その元になったペルシア暦とユリウス暦であり、ジェラリー歴は元に伝わって郭守敬によって編纂された授時暦に影響を与えた。この授時暦はさらに日本の貞享暦に影響している。

 以上のように「文脈」にそった事例をピックアップしていく。


東大第1問大論述の解き方

2018年06月16日 | 論述問題

 2011年の第1問はイスラム世界の広がりとともに、文化が継承され他の地域に新たな文化活動を引き起こした、という視点に立った問題でした。

 ところで、「大論述」には解き方があります。それを知ったうえで、もう一度問題文を見てください。イスラム史は既習分野です。したがって、この問題は高校2年生の知識でも解けなければなりませんが、それはあくまでも知識レベルのこと。東大が求める「文脈」の中で自分が知っている用語を使えることと、その用語をたんに知っていることとは違う。そこらへんは、論理力を身に付けていくことで解決できる問題です。論理力とは、自分の知識を、文脈に沿って、さまざまな角度から使いこなすことができる力をさします。

 さて、その解き方をこの2011年の第1問を使って簡単に説明します。まず、問題文をよく読みます。何に注目して読むべきか。それはこの問題がどのような「文脈」で解答を導こうとしているかです。東大は模範解答の公開を視野に入れて作問をしています。言い換えれば、採点基準だけでなく文章としても正解を示すことができることになります。実際、2011年の第1問は予備校各社の模範解答はほぼ似通っています。

 2011年の文脈とは、イスラム文化は征服した文化や支配領域の周辺の文化を「受容」し、それをアラブ・イスラム世界が「発展」させ、その文化がやがて他の地域に伝わって、その地域に「影響」を与えたのだ、というものです。この「受容」⇒「発展」⇒「影響」のパターンが存在したのだというイスラム世界に対する評価・歴史観・問題意識を東大の作問者が持っているわけです。この「文脈」に気が付くことから解答が始まります。

 

 


東京大学の問題を解いていると

2018年06月16日 | 論述問題

東京大学に入試問題を見ていると、問題が求める視点・歴史観の存在に気づかされます。1970年代の問題に比べて、ここ10年間の問題は洗練されていることがわかります。
 高校の教育現場では、考えるためのツール(用語・術語)を覚えさせることに労力と多大な時間を払うため、もうひとつの大切なツールがないがしろにされてしまいます。考えるためのツールとして大切なことは、「論理の道筋」を知る、ということでしょう。自分が何かを考えるとき、どのように転がしていけば、面白い視点に気づき、世界史ならば、面白い歴史観に気づけるのか?これの方法論が、考えるためのツールです。
 これはあくまでツールに過ぎないので、身に着けることができるように思います。まさに訓練を受けることで、自分なりの「論の展開」をもつことができます。東京大学の入試問題を解くことも、よい訓練方法です。その問題で東京大学は何を求めているのか?問題の前提にある視点はなにか?
 このような訓練を受けていると、「頭がよくなった気がする」と言う生徒がいることもうなずけます。
 


2016年東大世界史 解説1 1979年

2018年06月16日 | 論述問題
2016年の東大世界史の問題は1970年代を扱う現代史

今年の問題文を読み取る時の最大のポイントは中米と南米の間に・があったことでしょう。つまり、書くべき配分は、中国と中東と中南米で、200字ずつになります。中米と南米とを区別するのは厄介だったでしょう。

また 問題文が冷戦の終結から始まっていることも解答する上でポイントになります。この点は後述します。

さて、問題の難易度を上げているのは中米と南米です。受験会場の現場では中国と中東で得点して中米と南米では失点を防ぐという方針が立てられると良かったでしょう。

1970年代の中米と南米は軍政から民政に移行したという変化がありました。ただし、問題文で出題者が「中南米」としなかったのには訳があります。中米と南米ではちょっと違う。

ここで問題文の「新冷戦」がヒントになります。新冷戦の開始つまりソ連がアフガニスタンに侵攻したように、アメリカも自分の庭ともいえる中米に軍事介入します。グレナダ侵攻です。

解答のポイント
アメリカは新冷戦の時代に反米政権を軍事介入で崩壊させた。新冷戦が中米に影響した。これを50字で

さらに、冷戦後の世界でアメリカがイラクやアフガニスタンなどに軍事介入していったという歴史的文脈で中米は書きたいところです。
なぜなら、問題文に「90年代につながる変化」とあるからです。

グレナダ侵攻はアメリカにとってベトナム戦争後初めての本格的軍事介入でした。
ベトナム戦争の失敗からアメリカの軍事介入の方向性が「変化」した訳です。大量の地上軍を派遣しない。反政府組織と結んで反米政権を倒すという手法の始まりです。
まさに1990年代以降の冷戦後の世界におけるアメリカによる世界秩序の始まりだと言えます。

解答のポイント
グレナダ侵攻はそれまでのアメリカの軍事介入とは異なり、反米政権に対し反政府組織と結んで戦った。これは90年代を予兆している。これを50字で

さて、南米ではフォークランド紛争がありました。
アルゼンチンの軍政が行き詰まりをみせたために打開策として強硬な政策をとった訳です。しかしこれは失敗して、軍政は崩壊しました。以降、南米各地で民政が成立します。

解答のポイント
フォークランド紛争に敗れたアルゼンチンの軍政は崩壊し、軍政から民政に移行した。このような動きは南米各地でも起こり、現在も南米では民政が維持されている。これを100字

たしかに現在の国際社会を見ると、中東では独裁政権が崩壊した後、民政が成立したが各国は混迷の中にあります。2016年の上智大学TEAPの問題も南米を扱ったものでした。アラブ世界の混迷について考えるヒントは南米の成功にあるかもしれません。
もちろん、なぜ南米は成功してアラブ世界は混迷しているか?について問われていません。考える価値はありそうです。

さて、東大の世界史はシンメトリーが好きですから、考えるヒントになることが多い。



つづく

2016東大世界史 解説2 1979年

2018年06月16日 | 論述問題
さて、東大の世界史はシンメトリーが好きですから、考えるヒントになることが多い。

そこで、中東でも1970年代からの変化を二つ考えると、
まず、指定語句からイラン、イラク、中東和平をどう扱うか?になりそうです。

イランイスラム革命はシーア派勢力による政権掌握です。スンナ派のサダムフセイン政権が国内シーア派勢力が刺激されるのを嫌いイランを攻撃。
イランイラク戦争が開始しました。これに中東の現状維持を意図するアメリカがイラクを支援します。
しかし、この戦争で疲弊したイラクのサダムフセインは石油価格の維持に協力的でなかったクゥエートに侵攻。どうように現状維持を求めるアメリカがこれを許さなかったために湾岸戦争からイラク戦争に発展していったわけです。

こうしてみると、イランとイラクは長い目で見て、反米、現状打破勢力と考えることができます。その契機となった出来事が70年代末に起こったといえます。

現状打破を目指す勢力が現状を維持しているアメリカに対抗して反米を打ち出している、と考えることができるでしょう。

まさに70年代の政治的変化が90年代に影響していることがわかります。

解答のポイント
70年代の末期にイランイスラム革命が成功。反米、現状打破を目指すシーア派のイランはアメリカ大使館占拠事件で、その姿勢を鮮明にし、90年代以降もこれを継続している。
一方、イラクでも70年代末にサダムフセインが政権を掌握。イランイスラム革命の波及を嫌ってイランイラク戦争が勃発。しかし、戦争。に疲弊したためにイラクは90年代にクゥエートに侵攻して反米、現状打破を鮮明にした。これを100字で

次は中東和平です。
79年のエジプトイスラエル和平条約の締結です。中東戦争を終結させたこの条約を契機に93年のオスロ合意が成立したと見ることが可能でしょう。この文脈で100字で解答します

2016東大世界史解答解説3 1979年

2018年06月16日 | 論述問題
東大がこの問題でなぜ冷戦から書き始めたのでしょうか?おそらく、一般的に世界史で戦後史を扱うとき、やはり1989年を一つの節目にします。これには、欧米中心史観が潜在的に関係している。そうではなく、グローバルヒストリーの立場に立てば歴史の見方が変わってくる、ということです。つまり、冷戦終結に匹敵する変化が1990年代に各地で起こっていて、それらは1970~80年代の政治状況の変化が引き起こしたものだ、ということです。
もちろん、解答は90年代に触れる必要はありませんが、90年代の変化に結びつく政治状況の変化を書くべきでしょう。

さて、そのような視点で東アジアを考えると、90年代の中国は「世界の工場」になり、やがて世界第2位の工業国に成長していきます。まさに冷戦終結に匹敵する変化といえます。したがって小平による改革開放路線への転換を経済成長に焦点を当てて書いていくことになります。


もちろん79年の米中国交正常化によって国際社会への復帰も必要です。文革の時代には孤立外交でした。


解答のポイント
77年まで続いた文化大革命に変わって小平を中心に社会主義市場経済が始まった。深圳など各地に経済特区が置かれ、共産党一党独裁体制の下で急速に経済成長を遂げた。
この文脈で100字

指定語句から東アジアは韓国を書くことになります。
90年代の韓国は軍人大統領から文民大統領に変わりました。この民政への転換は成功します。この転換は79年の朴正煕大統領暗殺事件を契機とする80年の光州事件に至る民主化運動の激化に起因するた考えることができます。

朴正煕大統領時代は「漢江の奇跡」を実現した開発独裁の典型です。そしてアジアニーズの一国になったわけです。この時期に発展したサムスンなどの財閥系企業が現在の韓国経済を牽引しています。
このような経済状況下で成長した中間層が政治に関心を持つようになり、民主化運動をになっていきます。指定語句アジアニーズの使使い方はこれが正解でしょう。

解答のポイント
70年代の韓国は朴正煕大統領による開発独裁が奏功してアジアニーズの一角を占める経済発展を遂げていた。しかし、79年朴正煕大統領暗殺を契機とする民主化運動が激化。ソウルの春に続いて80年には金大中の地盤である光州でも民主化運動が拡大した。しかしこのような動きは弾圧されて光州事件が発生。民主化の動きは経済発展の恩恵を受けた中間層によったが、以後も継承された。
この文脈で100字



2010年東京大学 第1問 ネーデルラントの歴史

2018年06月11日 | 論述問題

 ヨーロッパ大陸のライン川・マース川のデルタ地帯をふくむ低地地方は、中世から現代まで歴史的に重要な役割をはたしてきた。この地方では早くから都市と産業が発達し、内陸と海域をむすぶ交易が展開した。このうち16世紀末に連邦として成立したオランダ(ネーデルラント)は、ヨーロッパの経済や文化の中心となったので、多くの人材が集まり、また海外に進出した。近代のオランダは植民地主義の国でもあった。
 このようなオランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し、かならず以下の8つの語句を一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 グロティウス  コーヒー  太平洋戦争  長崎  ニューヨーク  ハプスブルク家  マーストリヒト条約  南アフリカ戦争

 

 この問題が求めている視点・本質(歴史観)は、中世・近代・現代におけるヨーロッパ世界の「国家の枠組み」の変化です。このことは問題文中「国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望」というなかで論述するように求められていることから気がつきます。このような国家・地域の枠組みの変化といった大き変化の中で、オランダ(ネーデルラント)はどのような役割を果たしてきたのか?を論述していくことになります。その際、さまざまのことが思い浮かびますが、問題文をもう一度チェックすると、経済的側面・文化的側面・人の動き・植民国家としての側面についてチェックしていけば良いはずです。

 中世ヨーロッパ世界の特徴は、国家の枠組みがまだできておらずハンザ同盟にみられるような都市同盟が形成されていました。都市同盟は都市と都市とが経済的・軍事的に結びついており、現在のようなフランスとかドイツとかいった国家の枠組みを超えて存在するものでした。ハンザ同盟に属する都市を100を数えましたが、世界史レベルではオランダ(ネ-デルラント)には在外商館が置かれたブリュージュが思い出されます。そのほかにもアントウェッペン(アントワープ)もフランドル地方の都市同盟を形成し、その中心都市として存在していました。このことは世界史レベルでは出てきません。ハンザ都市はバルト海沿岸の生活物資を運びましたし、フランドル地方の諸都市はイングランド・スペインと毛織物製品や羊毛の取引をしていました。主権国家成立前の中世では都市と都市とが連携しており、その中でブリュージュやアントワープといったオランダ諸都市はひとつの中心地域として、バルト海沿岸地域の経済圏を結びつけていました。この問題のテーマは「世界史における役割」です。このようなオランダが置かれた立場を正当化したのがグロティウスです。けれは1609年『海洋自由論』を著し、海は貿易のために自由に利用できることを主張しました。

近代にはいるとヨーロッパ内でオランダは金融業に従事することで大きな役割を果たして行きました。近代はイングランドやフランスといった主権国家が成立していった時期です。その両国が第2次100年戦争を戦ったとき、オランダのアムステルダムに代表される金融業はイングランドが発行する国債を買い支え、間接的にイングランドの勝利に貢献したと言えます。また、ヨーロッパ外においてはオランダ東インド会社が1652年にケープタウンを建設して以降、多くのオランダ人やユグノーが移住しました。さらに東インド会社が1658年にポルトガルからセイロンを奪い、18世紀末まで植民地としました。さらに1619年にジャワ島のジャカルタを建設、1624年台湾のぜーランディア城建設、1641年長崎の出島における対日貿易独占といったように、ヨーロッパからアフリカ南端周りで極東に日本に至るまでの貿易路を確立し、短期間であったものの南シナ海・東シナ海の商業圏に食い込むことに成功しています。世界史では扱いませんが、このころのオランダは地中海商業圏とバルト海商業圏を結ぶ役割を担っていましたから、オランダ商人が世界貿易に果たした役割すなわちバルト海から東シナ海までに至る広大な貿易路を確立した役割は大きいと言えます。しかしその広大な貿易圏はイギリスの進出によって分断され、インドネシアでは1830年コーヒーの強制栽培制度を開始します。しかし太平洋戦争で日本が占領すると、戦後、独立戦争を経てインドネシアの独立を容認しました。

基本的に近代については以上のことが根幹だろうと思います。これに加えて使用語句の「ニューヨーク」をヒントに考えると、オランダ人が1619年北米大陸(ヴァージニア)への奴隷を持ち込んだことから、奴隷制プランテーションが拡大していったことを各必要がありそうです。

南アフリカ(ケープタウンなど)のブーア人(オランダ系白人)は、イギリスと南ア戦争を戦いました。この結果、イギリスによる中国への進出を遅らせました。

では現代社会におけるオランダの役割はどうでしょうか?1957年オランダとベルギーはルクセンブルク・フランス・ドイツ・イタリアとともにヨーロッパ経済共同体を成立させました。ベルギー(南ネーデルラント)の首都ブリュッセルはヨーロッパ連合の首都でもあります。つまり国家の枠組みを超えたEUの中心的役割を担っていると言えます。ブリュッセルは多国籍企業が多く集まる都市であり、マーストリヒト条約が結ばれたマーストリヒトはマース川沿いにあるベルギーの都市である。1992年に調印されたマーストリヒト条約により通貨統合と政治統合を決定。1993年欧州連合が発足しました。第1次世界大戦で永世中立国だったベルギーの中立を侵犯したドイツに対してイギリスが参戦したことは世界史の基礎知識。ドイツとフランスに挟まれる位置にあるオランダtpベルギーが第2次世界大戦後にヨーロッパの平和を希求する中で「ヨーロッパ連合」成立に大きな役割を果たしてきた。

長い説明になりましたが、2010年東大第1問が求めているのは「オランダ(ネーデルラント)通史」ではありません。「オランダが果たした役割」について、しかも「中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで」考えよ、ということです。主権国家成立以前の中世における都市連合の時代、近代における主権国家が南北アメリカやインドに植民地を拡大させる中で、オランダの地球規模での貿易圏を確立しやがてその多くをイギリスに引き継いでいく。その利益が英仏の運命をも左右する金融業を発達させたわけです。そして現代ではヨーロッパ連合の成立に大きく貢献し、「超国家」という意味で中世に回帰していくヨーロッパの中心的存在になっていく。こういった大きな文脈・視点がこの問題の本質と言えます。


2017年一橋大学第1問 価格革命 問題と解説

2018年06月06日 | 論述問題

2017年一橋大学第1問 16世紀半ばに書かれた次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 あらゆる商品の価格は、その必要性が非常に高く、かつ提供される量が少ないときには上昇する。貨幣もまた、それ自体で売買され、かつあらゆる契約取引の対象となる以上は一つの商品であり、価格は貨幣の需要が大きく供給が少なければ上昇する。また、貨幣が不足している国では、貨幣が豊富にある国よりもあらゆる商品や労働が安価に提供される。実際にフランスではスペインよりも貨幣の量が少なく、パン、布、労働力の値段がスペインよりもはるかに低い。またスペインでも、貨幣の量が少なかった時代には、インド[新大陸のこと]の発見によって国中に金銀があふれた時代よりはるかに安い値段で商品や労働が提供されていた。
(マルティン・デ・アスピルクエタ『徴利明解論』(1556年)より引用。但し、一部改変)
問い この文章中で述べられている現象が、スペインの盛衰、および16〜17世紀のヨーロッパ経済に与えた影響について論じなさい。(400字以内)

問われていることを考えます。(1)「現象」がスペインの盛衰に与えた影響(2)
「現象」が16~17世紀のヨーロッパ経済に与えた影響、の2点です。400字ですから、それぞれ200字ずつです。(1)に関しては時期を指定していません。(2)は16―17世紀と時期指定があります。
ところで、書かれている「現象」は、前半と後半にそれぞれあります。後半は価格革命です。前半は「価格革命」の影響とも考えられますが、「近代世界システムの形成」でしょう。中核と周辺の成立です。これをヨーロッパ経済に与えた影響として、とくに17世紀の経済に該当するでしょう。これを問題文中の「貨幣が不足している国では、貨幣が豊富にある国よりもあらゆる商品や労働が安価に提供される」から読み取っていきます。
 したがって、2つの「現象」が(1)(2)に関してそれぞれあるので100字ずつ書けば良いことになります。ただしヨーロッパ経済に与えた影響では(2)を独立して100字で書くよりも価格革命の影響で近代世界システムが形成されたという内容で書くことになります。
この問題で注意すべきポイントは、問われているのは経済的側面であることです。うっかりすると政治的動向を中心に書いてしまいそうです。

 ここまで来れば、あとは世界史の知識を確認できれば良いでしょう。ただしスペインの盛衰について記述するとき注意すべきは、価格革命を説明する必要はないという点です。
「盛」:スペインの16世紀を記述します。銀が流入したことでスペインが繁栄したことを記述します。
解答例:16世紀後半、ボリビアのポトシ銀山などを開発した結果、スペインは大量の銀を入手した。マニラ経由で中国の物産を扱うなどスペイン王室は富を獲得し、さらに1580年にポルトガルを併合して太陽の沈まない国となった。(103字)
「衰」:17世紀について記述します。スペインが衰退した理由は増大する戦費に耐えられず1609年ネーデルラント独立戦争を休戦したあと、30年戦争の負担が加わります。独立したオランダがアジアに進出したことでポルトガルが持っていたアジア貿易も遮断されます。マラッカを占領されたのは1619年、セイロンは1658年、対日貿易もオランダが独占しました。さらに悪いことに、キリスト教に改宗したムスリムであるモリスコはイベリア半島で毛織物業を担っていましたが、モリスコを迫害して自国内における産業を失っていきました。また、アフリカ西岸に拠点を持たなかったスペインは17世紀後半には奴隷貿易をオランダに依存しました。ポトシ銀山の利益やアカプルコ貿易の利益はスペイン王室の浪費で消え、国内産業を育成せず、奴隷貿易の利益も多くはオランダなどの外国商人の手に渡った。
以上のことを念頭に置いて、「現象」の「近代世界システム」の形成という問いに答えていきます。
解答例:ネーデルラント独立戦争や30年戦争の戦費負担、銀産出量の減少に加えて中核国オランダが奴隷貿易やアジア貿易を独占した結果、スペインは近代世界システムに組み込まれ、半周辺国として中核国に従属していった。(99字)

 価格革命がヨーロッパ経済に与えた影響について
16世紀後半、ボリビアのポトシ銀山やメキシコのアルサケス銀山が開発され大量の銀が流入した結果、ヨーロッパの物価が2~3倍に上昇する価格革命が生じました。そのため固定地代収入に頼る領主層は打撃を受けました。
また、銀が大量に流入したことで、西ヨーロッパの経済規模が拡大し
また、中核国オランダやイギリスで商工業が発展した一方、16世紀にはエルベ川以東は中核国に穀物を供給するために農民保有地を領主直営地に転じ集約化するグーツヘルシャフトが広まり、農奴への支配は強化されていきました。こうして17世紀には東西ヨーロッパにおける分業体制が成立し東欧は従属的地位に陥りました。これらの内容を踏まえて、影響を受けたヨーロッパの経済にフォーカスして200字以内で論述します。
経済にフォーカスすると、重要な用語は
価格革命  資本主義の成立  周辺国   分業体制  グーツヘルシャフト  領主層の没落  固定貨幣地代  貨幣価値の下落  銀の大量流入による経済規模の拡大
解答例:16世紀後半の価格革命で貨幣価値が著しく下落した。そのため固定貨幣地代に依存する領主層は没落。北イタリア緒都市やポルトガル、アウグスブルクは衰退した。またヨーロッパに銀が大量に流入した結果、経済規模が拡大。17世紀には資本主義経済を成立させたオランダやイギリスが中核国に成長した。一方、東欧では16世紀以降グーツヘルシャフトが拡拡大。穀物を生産して中核国に輸出する経済的分業体制が17世紀に成立した。(200字)