98青山学院大(経営)ギリシア文化
紀元前399年,ソクラテスは死刑の判決を受け,刑死した。それは(a)ペルンア戦争の後〔①〕同盟の盟主として君臨したアテネが(b)ペロポネソス載争に敗れてから数年後のことであった。しかし,なぜソクラテスが訴えられるに至ったのか,その理由は必ずしも明らかではない。我々がソクラテスの裁判について知るための最も重要な資料は,「国家」の著者として有名な〔②〕による「ソクラテスの弁明」であるが,それによれば告発の理由として,ソクラテスカ伝統的な宗教を否定し,若者に悪影響を与えたことが挙げられている。
一般に,小アジアの〔③〕にある植民市を中心に発展した自然科学的探究は人々を無神論に導くものと考えられ,ソクラテスもまた,そのような探究に従事している(c)自然哲学者の一人と誤解されていたようである。他方,アテネの代表的喜劇作家〔④〕の作品「雲」においては,ソクラテスは自然研究のみならず,弁論術(レートリケー)の大家としても登場する。説得のテクニックとしての弁論術は民主主義の発展と共に普及し,その教授は(d)ソフィストたちの自負するところでもあった。
ソクラテスは,アポロンの神託で有名な〔⑤〕の神慶に刻まれた「汝自身を知れ」という格言を哲学的に深化したと言われるが,ギリシア悲劇の傑作と言われる「(e)オイディプス王」もまた,別の意味でその格言をドラマ化した作品と見ることができよう。紀元前5世記のアテネは,哲学や文学のみならず,文化全般の中心であり,例えば彫刻家の〔⑥〕なども有名である。そしてソクラテスの死は,そのような黄金時代の終わりを象徴するものであり,その後アテネは政治的にも文化的にも衰退して行くのである。
やがて紀元前4世花後半にギリシアにおける一桁を確屯したのは,338年に行われた〔⑦〕の戦いでアテネ・テーベ連合軍を破った〔⑧〕王国であった。その王子アレクサンドロスの家庭教師をつとめたとも言われる哲学者〔9〕は,アテネのリュケイオンに学校を開き,多方面にわたる研究を行い,後年,「万学の祖」と呼ばれるに至った。しかし彼の思想が,ペルシアの首都〔l0〕を占領した後もなお東方に兵を進め,東西を激合する大帝国の建設を図ったアレクサンドロスの政策にどれだけ影響を与えたのかは定かでない。
問1〔①〕~〔⑩〕に適当な人名,地名,国名を記入せよ。
問2下線(a)の歴史を記した歴史家の名を記せ。
問3下編(b)の歴史を記した歴史家の名を記せ。
問4下線(c)の一人で,「万物の根源は水である」と述べたとされる哲学者の名を記せ。
問5下線(d)の一人で,「万物の尺度は人間である」と述べたとされる哲学者の名を記せ。
問6下線(e)の作者の名を記せ。
正解
デロス プラトン イオニア アリストファネス デルフィ フィディアス カイロネイア マケドニア アリストテレス ペルセポリス ヘロドトス トゥキディデス タレス プロタゴラス ソフィスト