FORZA世界史inBLOG

世界史の復習をサポートするブログです

明・清の社会経済 

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

明・清時代には,【長江下流域】を中心とする社会・経済の発達がますます著しくなった。とくに16世紀頃からその傾向が強まり,18世紀には頂点に達した。
 人口が密集した長江下流域は,農・工・商業活動をはじめ文化活動の中心地となった。蘇州・【杭州】などの都市が栄え,16世紀頃から【綿織物】や絹織物に代表される家内手工業が盛んになり,その原料となる【綿花】や,養蚕に必要な【桑】の栽培などが普及した。このため,明末には【長江中流域】の【湖北・湖南】省が新たな穀倉地帯となった。
 穀物・塩・木綿・絹織物など,長江流域の先進地に集まる物資は,【山西商人】や【新安商人】らの手で全国の需要を満たした。商業はいっそう発達し,同郷者や同業者のつくる互助機関が各地の都市にできた。こうした商工活動により,松江木綿や蘇州・湖州・杭州の絹製品,【景徳鎮】の【陶磁器】など,外国にまで知られる特産品がうまれた。これにともない大地主や大商人など地方社会の指導勢力が成長した。また経済の成長につれ,彼らの活動の地盤は都市に移り,都市文化はいっそう繁栄したが,手工業者や農民の地位はあまり改善されず,根深い社会問題をうみだしていった。【広東・福建】方面の農民の中には,禁をおかして東南アジアなどに移住するものも多く,のちの南洋【華僑】のもとになった。
 一方,東アジアの海上貿易がさかんになると,【ポルトガル】人・スペイン人・オランダ人・イギリス人らが東方貿易を求めて進出した。中国では明の半ばから貨幣経済が発達し,経済の需要にこたえて銀が求められていた,16世紀頃から【メキシコ銀】が,ついで【日本銀】が大量に流れ込み,中国経済に大きな影響を与えた。16世紀半ばから,【両税法】にかわり税や徭役を銀に換算して一括して納税する制度が【江南】で始まり,やがて全国に普及した。清はこの制度を受けて,課税の柱として地銀と丁銀を民に課したが,18世紀前半に丁銀額が固定したため,丁銀を地銀にくりいれる【地丁銀】制がうまれた。ここに,土地税一本となり,税制は発達した貨幣経済に応じて簡略化された。また,ヨーロッパ人との貿易は,乾隆帝が1757年に交易港を【広州】1港に限定し,翌年実施した後も,特許商人の組合が交易を独占して活発におこなった。当時,中国貿易を独占する勢いを示していたのは,【茶】の貿易を中心とする【イギリス東インド会社】であった。


夢と希望

2014年07月25日 | 何かの足しになれば
夢と希望という言葉を3月にはたくさん聞きます。小さな夢は幸せをもたらします。小さな夢を実現していくと、きっと幸せになれます。大きな夢を追い求める人は、人生を豊かにできるでしょう。大きな夢を実現すると、人生が切り開いていく。大きな夢を目指すことで人生を作る。新しい人生が始まります。一方で小さな夢を積み重ねれば幸せをつかみことができる。
希望はどうでしょう?小さな希望は安寧をあたえてくれそうです。安寧とは満足とか安心とか充足感
といっても良い。でも大きな希望は.チャレンジする強い心を育ててくれます。何かを手にしたいと思う気持ちを与えてくれるでしょう。

三省六部の変遷

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

【隋】の【文帝】が創始した【三省六部】は、【中書省】・【門下省】・【尚書省】からなりっていました。隋唐の政治や社会を支配していた【貴族】階級が、【門下省】を支配していたことは、門下省の官僚たちが、中書省が【立案】した政策を【審議】することからも解ります。
 しかし、唐が衰退し滅亡すると、貴族階級に代わって【新興地主層が】台頭し、彼らは【科挙】制度によって、中央官庁に採用されていきました。貴族階級が消滅したために、【門下省】は廃止され、政策は中書省から尚書省を通じて六部に送られていくことになりました。これが【宋】の時代の官制です。
 さらに、【元】が中国を支配すると、政策は中書省で立案され、直接、六部に送られました。すなわち【尚書省】が廃止され、六部が【中書省】に直結されたわけです。この段階で、中国王朝の官制は大きく簡素化されたことになります。
 1368年に成立した【明】で【皇帝独裁体制】が完成しました。皇帝の命令(勅令)が直接【六部】に送られ、官僚や役所が皇帝の命令が実行されるまでの間に関与することがなくなったわけです。【中書省】は明の時代に廃止されました。六部が【皇帝に直属】したのです。もちろん皇帝一人で全ての法令を立案することは不可能です。そこで内閣(【内閣大学士】)がおかれ、そのブレーンたちが皇帝を補佐したのです。
 これは明を滅ぼして中国を支配した【清】にも受け継がれました。


洪武帝が明清の基礎を作った

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

【紅巾の乱】の指導者の一人で貧しい農民出身の【朱元璋】は、【1368】年に都を【南京】において【明】を建国しました。それまで中国を支配していたモンゴル人は、その軍事力を残したまま、モンゴル高原に退いています。重要な点は、「軍事力を残したまま」という点。だからこそ、明はあのような立派な万里の長城を作らなければならなかったのです。
 朱元璋は即位して【洪武帝】になります。彼の時代から一人の皇帝に一つの元号を用いることにしたので、それ以後の皇帝の名前をその皇帝が使っていた元号で呼ぶようになりました。このような方法は日本では明治天皇から使われています。明治天皇以前の天皇はいくつかの元号を使っていますが、明治天皇からは一つだけです。元号というのは「明治」とか「昭和」といもの。このような制度を「【一世一元】の制」といいます。
 洪武帝は内政を充実させました。まず、農民(自作農や地主)を【里甲制】に組み込みました。10戸の地主と100戸の自作農からなる110戸のグループを作ってこれを
「里」としました。10戸の地主が交代で「【里長戸】」になり、100戸の自作農を管理する。ただし、100戸だと多すぎるので、これを10戸(この単位を「甲」と呼ぶ)ずつ10グループに分け、各甲から代表を1戸ずつ出させて責任者(【甲首戸】)にすることで、里長戸は10戸の甲首戸を管理すればよくしたわけです。里長は戸籍台帳である「【賦役黄冊】」と「【魚鱗図冊】」という土地台帳を作成する義務がありました。ちなみに、中国では土地を書くとき魚の鱗のように適当に丸く書いたのでこのような名前がついています。
 洪武帝は中央政府の制度でも重要な変革をしました。【中書省】を廃止して【六部】を皇帝直属にしたことです。つまり、皇帝の言葉がそのまま行政の担当官にとどくことで、皇帝の言葉がそのまま法律になったことを意味します。【皇帝独裁体制】の完成です。ただし、それでは皇帝が大変すぎるので、それまであった【宰相】は廃止して、【殿閣大学士】という皇帝を補佐する部署も作られました。この殿閣大学士は3代皇帝永楽帝のときに【内閣大学士】になり、現在の「内閣」の語源になりました。
 洪武帝は北に逃げたモンゴル人が立てた【北元】と対抗するために、自分の子供などを王として軍隊を与えて北方に配備しました。その中で精鋭部隊を与えられたのが大都(北京)を守護していた【燕王】朱棣でした。


中国史における「税」の基本

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

税には大きく分けると2種類あります。成年男子にかかる「【丁税】」と「【地税】」です。丁税は【人頭税】とも言いますが、現在の日本では廃止されており、その名残として「住民税」などがあります。丁税は成年男子に対して年間20日間とか40日間とか、期間を定めて公共事業などの労働や兵役に就かせる税です。無理やり働かせるのですから労働に当たる人々にはやる気はなかったでしょう。このような労働は現在では別に集めた税を使って企業にやらせているわけです。
 一方、「地税」とは「土地税」のことです。つまり農民が所有している農地の広さや、そこで取れる収穫物に対して課税されます。これはケースバイケースです。ときには、商人の儲けに対して課税する場合もありますが、これも広い意味で地税といってよいでしょう。
 税を集めることは歴代の王朝にとって大変重要なテーマでした。税を払わなければならない人にすれば、何とか税逃れをしたいわけですから、当然でしょう。したがって、税を確実に集めるために、税制度は時代が下がるにしたがって単純になっていきました。


三省六部の変遷 

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

歴代の中国王朝は,その広大な領土と多数の人口を統治するシステムとして,皇帝を頂点とする中央集権的官僚支配体制を採用してきた。秦の始皇帝以来,最後の清の【宣統帝溥儀】にいたるまで一見すると同じような政治体制が繰り返し出現したかにみえるが,仔細に観察すればその内実はかなり異なる。

 唐の皇帝は,中央政府組織のうち詔勅の起草をつかさどる【中書省】とだけ直接の関係をもち,詔勅は拒否権をもつ【門下省】の審議をへて,【尚書省】に降され実施される。【門下省】はいわゆる【貴族の牙城】であったから,皇帝は貴族の同意を得なければ政策を実行できない仕組みであった。
 
 宋になると三省六部は崩れ,皇帝は複数置かれた【宰相】や【禁軍】(近衛軍)を直接指揮するようになり,多くの権限は皇帝に集中した。宋代になって【門下省】が廃止されが、これは、【唐末五代】の混乱期に貴族階級が没落したことが原因している。

 【1271】年に建国した元では、【尚書省】が廃止され、皇帝から中書省を経由して六部がその下に配属された。 

 【1368】年に建国した明での変化も見落とせない。太祖【朱元璋】は,自らの独裁権力を無事に子や孫へと伝えるため,建国の功臣を次々と粛清し,あらかじめその危険を取り除いた。その結果、【六部】を皇帝の直属下に置き,【中書省】と【宰相】を廃止した。しかし皇帝補佐の職なくして政治は不可能であり,洪武帝は【殿閣大学士】を配置し、第3代皇帝に即位した【永楽帝】は内閣を置き,【内閣大学士】が事実上の宰相となった。

 次の清では【雍正帝】のときに設置された【軍機処】が,皇帝の諮問機関であり、内閣大学士は廃止されて、軍機処が政治の最高機関となった。


明とモンゴルの対立

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

1398年,明の太祖【洪武帝】が71年の波乱に満ちた生涯を閉じると,皇太孫が16歳で即位した。2代目皇帝の【建文帝】である。建文帝は側近の進言に従って削藩,つまり、北方の防衛にあたっていた諸王とりつぶす政策を実施しはじめた。この動きに不安を感じ,反乱を起こしたのが,当時北平(燕京=北京)にあって北辺の守りについていた【燕王】朱棣であった。

 【1399】年,燕王朱棣は北平で兵を挙げた。当初必ずしも華北や淮水流域における戦局は燕王側に有利ではなかったが,かれの軍は北方のモンゴル勢力との実戦で鍛えられた強力な軍団であったこともあって,攻勢に転じ,【1402】年には,首都【金陵】(今日の南京)を陥落させることができた。この叔父と甥との間で戦われた内戦である【靖難の変】に勝利をおさめて燕王は即位した。3代目皇帝の成祖【永楽帝】である。

 父太祖が内政の整備に力を注いだのに対し,成祖永楽帝は積極的対外政策を展開した。即位するとすぐにヴェトナムに使者を送り,内紛に介入して出兵し,交趾布政司を置き,中国領土として支配した。
 また,黒龍江(アムール川)河口に奴児干都司を設置し,女真族に対する間接統治を進めた。さらに,1405年には【イスラム教徒】の宦官であった【鄭和】を指揮官に任じて大艦隊を派遣し【南海遠征】を行わせた。その結果,明と東南アジア諸国との往来が盛んになった。

 一方,モンゴリアは,東の北元,西北のジュンガリア地方にあったオイラート部の2大勢力に分かれていた。まず【北元】が力をのばして明と対立し,1409年に明の使者が殺害される事件が起きた。これに対し明の永楽帝は,10余万の大軍を派遣したが,大敗北を喫してしまった。そこで翌年,成祖永楽帝はは自ら大軍を率いて出陣し,北元に大きな打撃を与えた。

 この戦いで衰えた北元に代わって,今度は西方のオイラート部が台頭し,モンゴル高原の本拠地【カラコルム】を占領し,明と対立するに至った。1414年,成祖永楽帝は50万の大軍を率いてふたたび親征し,オイラート部に大打撃を与えることができたが,明軍の損害も少なくなかった。かれはその後もモンゴルに軍を進めたが,1424年,【5】回目のモンゴリア親征の帰り,楡木川の幕営で65歳の生涯を終えた。以後,明軍が大規模に長城を越えて遠征することは無かったので,対外積極策はかれの死をもって終わりを告げたといえる。

 成祖永楽帝のあとをついだ仁宗洪熙帝はわずか在位8か月で病没し,長子瞻基が即位した。宣宗宣徳帝である。宣宗はモンゴリア遠征にも祖父成祖に従い,また即位後まもなく起こった漢王の反乱も自ら軍を率いて制圧するなど,軍事面にも能力を備えていたが,交趾布政司を放棄し,対モンゴリア防衛線を長城の内側に後退させるなど,かれ以降の明朝の政治は守勢に転じたといわれている。

 1435年,宣宗が崩ずると,太子祁鎮が9歳の若さで即位した。英宗【正統帝】である。その治世の初期は賢臣が幼帝を補佐して何事もなかったが,のちに国内外で問題が続出した。当時モンゴリアでは【オイラート部】の勢力が大きくなり,部族長の【エセン=ハン】は武力を背景にしきりに明に通商を求めていたが,【1449】年,中国への進撃を開始した。これに対し,英宗は側近の勧めに従って50万の兵を率いて大同まで進撃した。しかし戦況は一向に好転せず,帰還の途中,エセン=ハン指揮下のモンゴル騎兵の急襲をうけ,英宗は捕虜になってしまった。この事件を【土木の変】という。その後の明王朝の行く末を暗示するかのような象徴的なできごとであった。

 エセン=ハンは明に勝利したものの部下に暗殺され、オイラート部は分裂した。その後、モンゴル高原の【タタール部】が【ダヤン=ハン】の活躍により台頭し、さらに【アルタン=ハン】は明に圧力を欠け【1550】年には【北京】を包囲した。これに対し、大航海時代の開始によって好景気を迎えていた明は、アルタン=ハンに対して懐柔政策をとり、【アルタン=ハン】を【順義王】として【馬市】という【国境貿易】を行った。


朱元璋により明の建国から永楽帝の治世

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

元朝は14世紀中頃に至って,うち続く権力争いによる統治力の緩み,国庫の窮乏を切り抜けるために【交鈔】という紙幣を乱発,専売制度の強化による物価の騰貴,王室が【ラマ教(チベット仏教)】に狂信したこと、それに天災や飢饉が加わって社会不安が増大し,各地で農民暴動が起こったが,1351年になってついに宗教秘密結社【白蓮教徒】による【紅巾の乱】が勃発した。指導者であった【韓山童・韓林児】の父子は殺された。

 濠州の貧農の子【朱元璋】は、反乱軍の一兵卒から身を起こし,他の群雄を倒して揚子江の中下流域を勢力下に収め,【1368】年に応天府(【南京】)で帝位に即き,明朝を建国した。彼はその年の内に元朝をモンゴル高原に追い払い,さらに各地に兵を進めて中国を統一した。彼が明朝の初代皇帝【洪武帝】である。

 モンゴル高原に逃げたモンゴル人は【北元】を建国し、中国の支配者となった明に軍事的圧力をかけ続けていた。洪武帝は自分の子などを北方に王として配置し、これに対抗した。とくに大都(北京)に置かれた【燕王】朱棣は最大の軍事力を与えられた。また、朱元璋は1人の皇帝は1つの元号のみを用いることを定めたが、これを【一世一元制】という。

 彼は荒廃した華北の農村の復興に努めるとともに,農民と土地とを把握するために農地を測量して土地台帳を作成させ,戸口調査によって戸籍を造らせ,1381年には戸籍兼租税台帳である【賦役黄冊】を作成させた。そして以後の【魚鱗図冊】の編集や地税・丁税の徴収のため,村落行政組織とし【里甲制】を実施し,国家の財政基盤を固めた。

 また君主独裁による中央集権体制をめざし,皇帝権力の強化を図るため,最高の行政機関【宰相】を廃止して,【殿閣大学士】を設置した。さらに【六部】などの機関を皇帝に直属させた。これにより皇帝独裁体制が確立したといえる。また、軍制では軍戸による【衛所制】を施行した。

 洪武帝の死後,第2代皇帝には【建文帝】が即位したが、燕王朱棣は皇位をめぐり1399年に【靖難の変】を起こして建文帝を追放し、【1402】年帝位に即いた。彼が明朝第3代皇帝【永楽帝】である。彼は【北京】に遷都し,5度にわたってモンゴル高原に親征する一方,万里の長城の建設を開始した。また、現在の北ヴェトナムにあたる【安南】を征服してこの地を明の直接統治下においている。

さらに、イスラム教徒で宦官の【鄭和】に命じて,6度にわたって大艦隊を率いて南海遠征を行わせるなど,対外積極政策を採った。鄭和はマラッカ海峡に【マラッカ王国】を建て、南海遠征の拠点としたが、これは東南アジアで最初のイスラム教国となった。またアフリカ東海岸の【マリンディ】にまで艦隊を派遣し、さらにムスリムとして使者をメッカに巡礼させている。しかし、永楽帝が死去すると、北方のオイラート部が拡大したこともあって明の対外積極策は途絶え、日本の鎖国政策にあたる【海禁策】に転じた。


靖難の変

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

洪武帝のあとを継いだのは【建文帝】ですが、彼は【燕王】など諸王の力が強すぎるのを嫌って、諸王の権限を弱めようとしたため、燕王が反乱を起こしました。燕王は明の精鋭部隊を持っていましたから、建文帝は破れ、燕王が3代目皇帝【永楽帝】として即位しました。この燕王のクーデタを【靖建の変】といいます。
 【1402】年に即位した永楽帝は都を自分の本拠地である【北京】に移し、下克上を批判する儒学者を退けて【宦官】を採用しています。宦官は洪武帝の時代には諸悪の根源として政治の舞台から追放されてました。
 儒学者の批判を避けるため、永楽帝は儒学の研究を支援しています。【四書大全】・【五経大全】・【性理大全】の編纂がそれに当たります。永楽帝の編纂事業の成果には、○○大全というように「大全」がつくので注意しましょう。


永楽帝の2大事業は鄭和の南海遠征とモンゴル親征

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

【永楽帝】は【ムスリム】(イスラム教徒)の【鄭和】に命じて南海遠征を行いました。鄭和は現在のシンガポール付近の【マラッカ王国】を基地として建設し、遠く【アフリカ東海岸】の【マリンディ】にまで遠征部隊を送っています。また、鄭和はイスラム教徒として【メッカ】巡礼のために代理人を派遣しています。マラッカ王国は【1511】年【ポルトガル】に征服されましたが、約100年間【東南アジア最初のイスラム教国】として貿易で繁栄しました。
 全部で【7】回も行われた鄭和の南海遠征の特徴は、【朝貢貿易】を東南アジア諸国に要求するという方法です。この場合の朝貢貿易とは明を主君として臣下の礼をとることで豊かな明と貿易をするという貿易体制です。
 ヴェトナムでは、永楽帝がモンゴルを撃退した【陳朝】を滅ぼし、直接支配をしています。しかし、永楽帝が亡くなると、【黎利】が独立をはたして【黎朝大越】を建国しました。
 一方、永楽帝はモンゴル高原の【北元】を自ら軍勢を率いて【5】回も攻撃しています。皇帝自ら軍勢を率いて遠征することを親征といいます。モンゴル高原に親征した皇帝は長い中国の歴史の中でも永楽帝だけです。


永楽帝が死ぬと北虜南倭の時代になった

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

南倭とは中国人海賊たちである【後期倭寇】を指します。一方、北虜とは北方の【モンゴル人たちの攻撃】を指します。時代は永楽帝がなくなった後の時代の【15世紀後半】から、スペインがメキシコ銀を中国に持ち込んでくる【16世紀中頃】もでの時代です。
 モンゴル高原では【紅巾の乱】で中国本土を失ったモンゴル人が【北元】を建国していました。やがて、モンゴル高原の西方の【ジュンガル】地方でモンゴル人の一部族である【オイラート部】が【エセン=ハン】に率いられて強大化し、ハンの位をフビライ=ハンの一族から奪い、モンゴル高原をも合わせて大帝国を作りました。さらに【1449】年には北京を攻撃し、皇帝英宗【正統帝】を捕虜にするという事件を起こしています。この事件を【土木の変】と呼びます。しかし、エセン=ハンはこのあとすぐに暗殺されてしまい、オイラート部はリーダーを失って急速に弱体化しました。
 オイラート部に代わって精力を拡大したのは、モンゴル高原にいたモンゴル人の一派【タタール部】です。【ダヤン=ハン】をリーダーに急速に精力を拡大したタタール部は、次の指導者【】アルタン=ハンの時【1550】年には【北京】を包囲するという【庚戌の変】を起こしています。なお、ダヤン=ハンは【ラマ教】の【黄帽派】を信仰したことで知られる人物です。
 この危機に対して明を救ったのが【メキシコ銀】の流入でした。16世紀後半に入って突然大量のメキシコ銀と日本銀が入ってきたことで明は財政的にも豊かになり、その結果、【アルタン=ハン】に【国境貿易】を呼びかけて侵入・攻撃をしないでもらうことができたのです。この国境貿易を【馬市】といいます。
 こうして、明は【メキシコ銀】と【日本銀】のおかげで北虜南倭を乗り切ることができました。


前期倭寇と後期倭寇

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

【倭寇】というのは【東シナ海】を舞台とする海賊のことです。そのうち【前期倭寇】は日本の鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて【14】世紀に出現した海賊です。当時の日本と中国・朝鮮との関係は最悪でした。元寇では元と日本は戦争をしましたし、元寇のあとも両国の国交は回復せず、事実上戦闘状態でした。また、室町幕府ができても、日本は南北朝時代の大混乱期に入りました。その結果、対馬や瀬戸内海の日本の貿易民は海賊化し、【朝鮮半島南部】の村を襲撃して穀物を奪い、女性などを拉致して奴隷として東南アジアなどに売りさばいていました。このような【日本人海賊】を倭寇(前期倭寇)といいます。これに対して朝鮮人の【李成桂】は倭寇撃退で名を上げ、朝鮮人にとっての英雄となっています。
 前期倭寇が収束したのは、南北朝時代の分裂を統一した【足利義満】が、【1402】年に明の【永楽帝】と勘合貿易(【日明貿易】ともいう)を行ったためです。足利義満は倭寇絶滅を条件に対明貿易を独占しました。日本人海賊たちも危険な海賊行為をやめ、正式な貿易船と閉め認めてもらったほうがいいと考えたのでしょう。
 一方、【後期倭寇】は【中国人】が中国【江南地方】の海岸で海賊行為を働いたことを言います。時代は永楽帝が亡くなったあとの【15世紀後半】です。当時、モンゴル高原西方の【ジュンガリア】地方で【オイラート部】の【エセン=ハン】が登場し、モンゴル高原全域を統一していました。エセン=ハンは【1449】年に【北京】を攻撃し、皇帝英宗【正統帝】が捕虜にされるという【土木の変】を起こすほどの勢いだったのです。明は永楽帝の時代に行っていた南海遠征などやっている場合ではなく、南海貿易から【海禁策】に切り替えて、全精力をモンゴル対策に振り向けるしかありませんでした。
 そのため、南海貿易で東南アジアに移住していて人々は中国に戻れず、東南アジアで永住しました。彼らが現在の【華僑】の始まりです。また、泉州や広州がある江南地方の貿易民たちの中には、失業や生活苦から海賊化するものも多く、海賊となって中国の【江南地方】を荒らしまわった彼ら【中国人海賊】を、後期倭寇と呼びます。
 後期倭寇は【15世紀後半から16世紀前半】まで続きました。彼らの海賊行為が収束したのは、【】16世紀後半から【スペイン人】が【メキシコ銀】(墨銀)を江南地方に持ち込んで来たからです。ものすごい遼のメキシコ銀や【日本銀】が入ってきたので、江南地方は非常な好景気となり、物を作れば売れるので仕事が増え、失業問題は解決、生活も豊かになりました。したがって、海賊行為などする必要がなくなった江南地方の中国人は、普通の生活に戻っていったのです。


ホンタイジ

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度
清の第2代皇帝はホンタイジ。建国者ヌルハチは朝鮮人参や毛皮の交易によって利益を得ていたが,1616年後金建国以降,サルフの戦いで明を破ったものの明との関係が悪化したため,李氏朝鮮やモンゴル高原のチャハル部を通じて間接的に明との交易を行っていた。しかし,これも封じられたのでホンタイジは1627年丁卯胡乱で朝鮮を征服し,次いで1635年にチャハル部も征服した。この時モンゴルの玉璽(皇帝位を証明する印章)を手に入れ,1636年に皇帝に即位し,国号を大清(清)とした。

清の入関

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度
1644年清による入関を実現させた武将は呉三桂。李自成軍が北京に迫ると,明の武将呉三桂は軍勢を率いて北京に向かったが,途中で北京陥落を知り山海関に戻った。李自成軍の規律が乱れていたため,清の武将ドルゴンに山海関を明け渡し,呉三桂は北京の李自成軍を撃破した。万里の長城は完成以来,遊牧民の侵入を防いできたが,その守将の変心によってもろくも突破されたといえる。

中国社会経済史のまとめ

2014年07月25日 | 高3用 授業内容をもう一度

中国の商業と通貨には中国独特の歩みがあった。商業は周代にはそれほど盛んではなかったが,春秋時代には発展を示し,通貨はそれまでの貝やそれを模したものに代わって【金属貨幣】が広く用いられるようになった。【戦国時代】になると,農具型や【刀剣】型の貨幣が流通し,人口が数万に達する都市も出現した。
 前漢には,製鉄業の発展に基づく【鉄製農具】の普及により農業生産が拡大し,「都会」と呼ばれる経済都市が全国に10あまり出現していた。後漢では匈奴など周辺民族との間に「合市」と呼ばれる市場が開かれた。東晋の都建康,北魏の遷都後の都洛陽は,いずれも【商業都市】として栄えた。
 唐代には,農具の改良や広範な灌漑事業により,農業生産が急成長を遂げ,それに伴って商業も発展した。都市では【行】と称される商人組合が出現し,農村では【草市】と呼ばれる定期市が開かれた。
 唐代後期には,都市の中の住宅地区である【坊】と商業地区である【市】の区分がゆるみ,また夜でも市場を開くことが許された。さらに【飛銭】と称される一種の手形制度も出現した。
 宋代には人口百万と称された首【開(かい)封(ほう)】都をはじめとして,大きな都市が多数出現した。海外貿易を管理する機関である【市舶司】は,唐代には【広州】だけに置かれていたが,宋代には明州や【泉州】などにも置かれるようになった。
 宋代に【交子】と称される紙幣が流通を始め,南宋では【会子】と呼ばれる紙幣が流通した。元朝は金,銀,銅銭の流通を禁じて【交鈔】という紙幣を広く流通させた。この紙幣は金,銀と兌(だ)換(かん)できたために信用を得,商業の発展を促したが,王朝末期には濫発により物価騰貴などの混乱を招いた。元朝は穀物などを江南から首都【大都】へ運ぶために【大運河】を開き,これにより商人たちの商業活動も便利になった。
 明代には,海外から銀が大量に流入したことにより,銅銭や紙幣に代わって銀が主要な通貨となった。絹織物業の【蘇州】,陶磁器の【景徳鎮】など手工業都市が発展し,商業の一層の発達を促した。商人たちは同郷者,同業者の互助組織を作り,【会館】や公所を設けた。
 清代には,塩業の【安徽商人】,金融業の【山西商人】など大商人の集団が生まれた。広州では特許商人組合である【公行】を窓口として独占的な海外貿易が行われた。19世紀になると密貿易により【銀】が中国から流出する事態が出現し,人々の生活に打撃を与えた。同世紀中葉以降,【上海】などの開港場が新しい商業都市となった。
 清末から民国時期にかけては,中国では銀や地方発行の紙幣などさまざまな通貨が使われた。しかし1930年代半ばにいたって【幣制改革】が実施され,国民政府が主管する銀行が発行する紙幣が主要通貨の地位を獲得した。
 中華人民共和国では,毛沢東が率いる政権は建国前後に農民に土地を与えたが,彼らの自由な商業活動には消極的であった。しかし1980年代以降商業の自由化が進んだ。