7世紀に成立したイスラム教は正統カリフ時代に(1)東ローマ帝国からシリアとエジプトを奪い、続いて651年にはイランを支配下に入れた。ウマイヤ朝が成立すると、イベリア半島にあった西ゴート王国を711年に滅ぼした。ついで北アフリカのモロッコで成立したムラービト朝はガーナ王国と塩金貿易を行っていたが、やがてガーナ王国を滅ぼしたことでサハラ以南の(2)ニジェール川流域はイスラム教を受容していった。その地域に成立したマリ王国では都トンプクトゥを中心にイスラム教文化が栄えている。東方では中央アジアで10世紀ころからイスラム教が定着したが、中国でイスラム教徒を回教徒というのもウイグル人が改宗したためといわれている。北インドでは13世紀からデリーを都としたイスラム教5王朝が成立した。これらはスルタンを首長とするイスラム王権であった。彼らによる支配は300年間に及び、インドの伝統的な社会や文化に大きな影響を与えただけでなく、16世紀に成立したムガル帝国にそれは受け継がれていった。さらに15世紀になると東南アジアでも最初のイスラム王国である(3)マラッカ王国が成立した。
このようにイスラム教が拡大していった地域には、古くからの先進文明が繁栄を続けていた地域であった。したがってイスラム文明は、征服者であるムスリムがもたらしたイスラム教文化と、征服地にあって先住の諸民族が綿々とうけついできた文化との融合文明といえる。もちろんその中核にはイスラム教文化が位置しているものの、各地域の伝統文化は消滅することはなく、イスラム教文化そのものに地域性・民族性をあたえながら存続していった。そのことはイスラム教文化を変質させたという側面をも持つ。
このようにイスラム教が各地の伝統文化と接点を持て、融合していくうえでスーフィズムが果たした役割は大きかった。スーフィーとは羊毛の衣をまとって禁欲と苦行を行い、修行を通じ自我を消滅させることで神との神秘的合一を求めようとする人々である。彼らは霊的な場所を求めて各地を旅することが多く、そのような霊的な修行の場所は、多くの場合伝統的な土着の宗教の霊場や陵墓、遺跡であったために、そのような役割を果たしたと考えられている。14世紀モロッコに生まれ、メッカ巡礼7回を含む行程10万キロを記録した『三大陸周遊記』を著した(4)イブン=バトゥータもスーフィーであった。一方、イスラム教そのものも10世紀頃からスーフィズムの影響を受けるようになった。その背景にはイスラム教神学者がアリストテレス哲学の用語や思考の方法論を研究し、合理的で客観的なスンナ派の神学体系を確立していったからである。11世紀に登場しニザーミア学院の教授経験を経てスーフィーになった(5)ガザーリーはこのような神学者の代表である。
このような過程を経て、イスラム教文化は地域性・民族性を示すようになり、14世紀イル・ハン国ではイラン・イスラム文化が成立した。これはペルシア文化とイスラム文化の融合を指すが、サファヴィー朝の全盛期を現出したアッバース1世が遷都したイスファハーンで建設した(6)イマーム・モスクには、ササン朝ペルシア時代の建築様式であるイーワーンがモスクの入り口屋根に取り入れられている。この時期イスファハーンは「世界の半分」と呼ばれるような栄華を極めた。アッバース1世は17世紀になるとホルムズ島から(7)ポルトガルを駆逐し、イギリスとも友好関係を築いた。しかし、彼の死後はオスマン帝国にイラクを奪われサファヴィー朝は衰退していった。また、17世紀には愛妃ムムターズ=マハルの霊廟として(8)シャー=ジャハーンが建設したタージ・マハルはインド・イスラム文化の最高傑作と称される。そのドームは二重構造の蓮の形をしており、ミナレットの上には小塔がある。イスラム教のスーフィズムとヒンドゥー教の(9)バクティ信仰の影響を受けてナーナクは(エ)シク教を創始したが、唯一神信仰や偶像崇拝の禁止などを定めている。
イスラム教世界で最初に発達した学問は『コーラン』の解釈を主とする神学とイスラム法学であった。さらにこれらの学問を補完する意味で歴史学が発達し、『預言者と諸王の歴史』を編纂したタバリーや、都市と遊牧民との交渉を論じ、王朝興亡の歴史に存在する法則性を示した『世界史序説』の著者(10)イブン=ハルドゥーンが登場した。これら神学・法学・歴史学を「固有の学問」と呼ぶのに対して、ギリシアのアリストテレス哲学やユークリッド幾何学、(オ)医学などは「外来の学問」と呼ばれる。またインド・イラン・アラビア・ギリシアなどを起源とする説話を集大成したアラブ文学の代表作とされる『千夜一夜物語』は、諸文化とイスラム教文化の融合を示すよい実例といえよう。
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