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世界史の復習をサポートするブログです

仏陀と菩薩

2015年06月26日 | 高2用 授業内容をもう一度
悟り(さとり)を開いた人をブッダ (仏陀)といい、仏教の教義では釈迦(シャカ)を指すが、大乗仏教では弥勒陀仏や廬舎那仏なども加わる。仏陀になる前の段階まで達しているにもかかわらず衆生を救うためにあえて仏陀とならない者を菩薩とよぶ。弥勒菩薩や観世音菩薩、文殊、普賢菩薩など。大乗仏教ではこの菩薩を信仰することでその力にすがれば救済されるとした。

ヴェーダ

2015年06月26日 | 高2用 授業内容をもう一度
ヴェーダとは「知識」を意味する。そのヴェーダは古い順に、サンヒスター(本集)、ブラーフマナ(祭儀書)、アーラニヤカ(森林書)、ウパニシャッド(奥義書)からなるが、狭義ではサンヒスターのみをヴェーダという。このうち、サンヒスターは『リグ・ヴェーダ』(賛歌)、『サーマ・ヴェーダ』(歌詠)、『ヤジュル・ヴェーダ』(祭詞)、『アタルヴァ・ヴェーダ』(呪詞)の4つから構成されている。
 ヴェーダ文献中もっとも古い『リグ・ヴェーダ』には神々に捧げられた約1000の歌が納められており、これは前1200年頃にパンジャーブ地方で成立した。さらに前1000年頃にインダス河流域からガンジス川流域に移動した後、後期ヴェーダ時代が始まる。この時期に多くのヴェーダが作られたが、それに伴ってバラモン教が成立し、4ヴァルナが形成された。なお、『ウパニシャッド』が成立するのはガンジス河中流域で前800年頃であった。

ジャイナ教と仏教

2015年06月26日 | 高2用 授業内容をもう一度
 前6~5世紀のガンジス川中流域は、【16王国】時代を迎えていました。この頃には、インドでも【鉄器時代】が本格化し、さらに【貨幣経済】が発展していました。一方、ガンジス川中流域には16の王国が乱立し、互いに争っていました。とくに有力だったのは【コーサラ国】と【マガダ国】でした。戦争が続いていた時代ですから、王族や武人階級である【クシャトリア】が台頭し、また、経済が発展していたため【ヴァイシャ】も社会的発言力を高めていました。
 
 思想界は【62見】というさまざまな思想家が登場した時代でした。なかでも【ジャイナ教】を始めた【ヴァルダマーナ】は、【マハヴィーラ】(尊者)とも呼ばれ、【徹底した不殺生】を説いたほか、バラモン教が重視する【ヴァルナ】を否定しました。
 
 また、【ゴウタマ=シッタールタ】は【ネパール南部】の【カピラ】城で生まれ、【シャカ】族の王子として何不自由ない生活を送っていましたが、29歳で出家しました。彼は厳しい断食などの苦行を行ないましたが、スジャータという少女からミルクを貰ってから苦行を止めて菩提樹の下で思索にふけったといいます。そして悟りを開き【ブッダ】となりました。 彼は、ベナレスの北方の【サルナート】で最初の説法を行ない、1000人を越す弟子を持ったそうです。しかし【クシナガヤ】のサーラ樹(沙羅双樹)の下で入滅したとされます。

 ブッダの教えは【八正道】、【四諦】、【中道】で示されます。【反ヴァルナ】の思想で、【バラモン教を批判】する立場をとっていました。仏教はマウリヤ朝のアショーカ王やクシャーナ朝のかにしか王などに保護され、【クシャトリア】に広まっていきました。
 ブッタの時代の仏教にはまだ仏像を拝むという習慣はありません。初期の仏教では【ストゥーパ】という仏典を保管する場所を信仰の対象とし、ブッタの教えである【ダルマ】(法)を日輪でシンボル化していました。

ウパニシャッド哲学

2015年06月26日 | 高2用 授業内容をもう一度
 祭式をもっとも重視したバラモン教に対して、「心の平安」を求めるために思考したのが【ウパニシャッド哲学】です。彼は【前8世紀】に登場した、人類最初の哲学です。そのころ、生活の中のバラモン教の儀式が、あまりに生活の隅々でも行なわれていたため、これを否定する思想が生まれたと考えられます。
 ウパニシャッド哲学の人々は、「宇宙の根源」である【ブラフマン】と「人間の本性」である【アーリマン】とがひとつになった時、宇宙がもっている大きな力を自分の中に取り込むことができると考えました。ブラフマンを漢訳して「【梵】」、アーリマンを漢訳して「【我】」といいます。
 また、そのように自然と自己がいったいとなったときに心の平安を手にすることができる、と考えました。これを漢訳して「【梵我一如】」といいます。
 このことは、ヨガで「気」を取り込むとか、坐禅のときに、静寂の中に入り込むと自分の肉体と周囲の自然との境がなくなったような感覚、そんな世界を考えていたようです。
 また、ウパニシャッド哲学は「宇宙の根源」とは何か、を考えました。そのため、「宇宙の始まり」を考えた結果、始まる前の「無」の世界を想定したわけです。「無」すなわち「ゼロ」の発見です。

 

インド=ヨーロッパ語族の移動

2015年06月26日 | 高2用 授業内容をもう一度
人類史上、最初の民族の大移動を行ったインド=ヨーロッパ語族の復習です。

 彼らは、前20世紀よりも以前に【中央アジア】から出発しました。その人たちがなぜ長い旅に出たのかはわかりません。南に向かった人たちは、インダス川という大河の周りに入り、もともとその地に住んで【インダス】文明を営んでいた【ドラヴィダ】人を追い払い、奴隷にして、定住しました。インド西北部に進入した人々を【アーリア】人と呼びます。
 
 さらに西に向かった人々もいました。もちろん彼らはいっぺんに中央アジアを出発したわけではありません。言ってみれば、「波のように」移動を始めたのです。さて、西に向かった人たちは、【ティグリス・ユーフラテス】川に達すると、この地で繁栄していた【アムル】人の【古バビロニア】王国を滅ぼしてしまいます。【前18】世紀に【ハンムラビ】王が活躍した、あの王国をです。しかし、彼らはメソポタミアでは建国しませんでした。もうすこし西に行って、【小アジア】で建国しました。【前17】世紀のことです。彼らを【ヒッタイト】人と呼びます。王国を失ったメソポタミアには、少し遅れてやってきた人々が、その北部に【ミタンニ】王国を、その南部に【カッシート】王国を立てています。すなわち、前17世紀からおよそ前13世紀まで、メソポタミアと小アジアでは、インド=ヨーロッパ語族の世界が展開したと言ってよいでしょう。
 
 少し遅れて移動をはじめた人々は、もうすこし西まで進みました。バルカン半島に入ったのは【ドーリア】人です。彼らは【エーゲ】文明を破壊し、ギリシア世界を混乱に陥れたようです。また、バルカン半島の西のとなりにある【イタリア】半島まで移動を続けたのは【ラテン】人です。ドーリア人は【スパルタ】というポリスを作り、ラテン人は後に【ローマ帝国】を建設した人々です。
 
 ここで小さな疑問が起こります。なぜインド=ヨーロッパ語族の人々は、先住の文明を破壊して、その土地を奪うだけの「強さ」を持っていたのでしょうか?それは彼らとともに移動した【馬】に【戦車】をひかせて、戦闘の際に【馬と戦車】を前面に出して戦ったからと、考えられています。先住の人々はそれまで馬を見たことがなかったので、大いに驚き、混乱を招いたことでしょう。
 

バラモン教

2015年06月26日 | 高2用 授業内容をもう一度
 後期ヴェーダ時代の【ガンジス】川中流域で発達したのが【バラモン】教です。この宗教は、キリスト教とは大きく異なっています。それは、生活のなかの「節目」にある儀式と深く関連している宗教ということです。バラモン教は、生活に密着した宗教である、といえます。
 また、別の見方をすれば、生活の節目節目の儀式なしには、人々は生活を送ることができません。したがって、その儀式をとりおこなう司祭(バラモン)が、社会層においてもっとも上位に位置づけられたといえます。
 

後期ヴェーダ時代 4ヴァルナ制

2015年06月26日 | 高2用 授業内容をもう一度
 アーリア人は【前1000】年頃になると、インダス川流域から【ガンジス】川流域に移動しました。移動後のガンジス川流域で、彼らは先住民族を奴隷すなわち【シュードラ】として身分を固定しました。
 また、さまざまな生活上の儀式でも宗教的要素をおおく用いて、厳格な雰囲気を出していったため、宗教的儀式に関する知識を持っている一定の一部の人々が、社会的に尊敬を受けるようになり、やがて特別扱いをされていった。この人々が「【バラモン】」とよばれる人々でした。
 たとえば、生活の中の儀式といえば、たとえば成人として仲間から認められる儀式などが考えられます。その成人式のような式典で、神に対する感謝とか、これからの人生を神に捧げるとか、そういった宗教色が大きかったということです。日本でも、七五三のときに神社でお祝いをします。そのような生活の節々にある儀式がいつも「神」を意識するものであったということです。したがって、バラモン階級すなわち司祭なしには何もできない、といった感じでしょう。
 【ヴァルナ】は身分や職業を固定しました。ヴァルナトは親から受け継がれるだけで、生まれた後に自分のヴァルナを変えることはできません。ただし、現在の自分の人生の結果によって、次に生まれてきたときの「生」で高いヴァルナに上がることができるとされていました。つまり、現在のヴァルナは過去の生の結果であるから、受け入れて、自分の今の人生をしっかり生きることが求められたのです。
 バラモン階級に続いて「【クシャトリア】階級」が位置づけられます。かれらは【王族や武人】の階級です。その下位に位置するのは、「【ヴァイシャ】階級」です。ヴァイシャは【一般の庶民】で、商工業者や農民などでした。

アーリア人の侵入と前期ヴェーダ時代

2015年06月26日 | 高2用 授業内容をもう一度
 【前1500】年ころ、【カイバル】峠からインダス川流域に、【アーリア】人が部族ごとに侵入し、先住のインダス文明を破壊しました。彼らは【インド=ヨーロッパ】語族の人々で、西アジアに侵入して古バビロニア王国を滅ぼした【ヒッタイト】やミタンニ・カッシート、バルカン半島に侵入して暗黒時代を招いたドーリア人(その後、彼らはスパルタを建設しました)、イタリア半島に侵入してローマを建設したラテン人と、同じ語族に属しています。
 インダス川流域に広がったアーリア人達は、部族同士で戦争を繰り広げていました。そのうち【バーラタ】戦争が有名で、その様子は「【マハーバーラタ】」という叙事詩として【6世紀】に【グプタ】朝でまとめられています。また、ラーマ王子の活躍を扱った「【ラーマーヤナ】」の物語も同時期の作品です。
 住みやすい土地を奪い合う部族間の抗争が続く中、【前1200】年ころに「【リグ=ヴェーダ】」が作られました。「リグ=ヴェーダ」は【神々への讃歌】を歌ったもので、【最古のヴェーダ】とされます。ヴェーダとは【サンスクリット】語で書かれた宗教文献で、祭式の方法や神々を讃える詩などが書かれているものです。「リグ=ヴェーダ」以外にもたくさん残されています。
 前1500年~前1000年までの間、アーリア人の活動は【インダス】川流域に広がり、部族間抗争が繰り広げられる一方、ヴェーダの編纂が行なわれていました。この500年間を「【前期ヴェーダ時代】」とよびます。

インダス文明

2015年06月26日 | 高2用 授業内容をもう一度
 古代のインドには【メソポタミア文明の影響】を受けた文明が成立しました。インダス川流域などに成立したので、「インダス文明」といいます。インダス川流域は、上流を【パンジャブ】地方、下流を【シンド】地方といい、パンジャブ地方で発見された遺跡は【ハラッパ】、シンド地方の遺跡を【モヘンジョダロ】といいます。おそらく、インダス川上流に位置する【カイバル】峠から、農耕文明が伝わってきたと思われます。
 インダス文明の特徴は、【都市計画】が充実していることにあります。彼らは今から約4000年前の【前2000】年ころに、【2階建ての焼きレンガつくり】家屋を建て、【排水溝】をつくり、【舗装した道】を歩いていました。さらに【沐浴】のための公衆浴場をもち、【貯水池】も完備しています。
 しかし、残念なことに彼らのことを詳しく知る手がかりになるはずのインダス文字は解読できていません。インダス文字は【印章】(所有を示すハンコ)にのみ残され、文字数が6~8文字くらいのまとまりしかないため、解読が難しいようです。
 【ドーラビーラ】の遺跡はインダス川から少し離れた地域で発見されています。この遺跡には巨大な貯水池があり、雨季のときに川からあふれた洪水の水を、この貯水池にため、乾季のときに使用するというものです。
 インダス文明は、【前1500】年ころに【カイバル】峠から侵入してきた【アーリア】人によって滅ぼされました。そのとき、インダス文明の担い手たちは、南に逃れ、現在の南インドにいる【ドラヴィダ】人になったと考えられています。彼らの言語である【タミル】語には、インダス文明の人々が使っていた言語の影響があると考えられます。
 

高校生はなぜ勉強をするのか

2015年06月22日 | ワークシート
ドイツの哲学者カントの思考を使って、高校生はなぜ勉強するのかを考えたい。
カントの哲学には「仮言命法」と「定言命法」というものがあります。「仮言命法」とは、その行為には条件があるというもの。例えば、人に親切にするという行為をするとき、その行為をする理由として、自分が良い人だと思われたいとします。このような親切な行為には「よく思われたい」という条件が含まれる。このような行為を「仮言命法」といいます。一方、「定言命法」は無条件の行為です。そのような行為が良い行為であるからという理由のみでその良い行為をする。そのような無条件の行為を「定言命法」とカントは言い、カントは「定言命法」こそ求められる行為であると考えます。

このカントの言葉を高校生の勉強を考えるのに利用してみましょう。

高校生はなぜ勉強するべきなのでしょうか?受験勉強は本来の高校生の勉強とは違うのでしょうか?学校の勉強は受験のテクニックなどに惑わされるべきではないと考える人もいます。そのような意見に対して、受験勉強はテクニックだけで成り立っているのではないという考えを支持する人もいるでしょう。

より良い大学に合格するために勉強をする、という人に対してカントは良しとはしないでしょう。合格するという条件があるため、この勉強は「仮言命法」にあたります。このような感覚が受験勉強を否定的に考える根拠にもまります。一方、大学受験だって学校教科書から出題されるのだという考えはどうでしょう。そのような考えを支持する人は「学校の勉強をしっかりやりなさい」といいます。しかしこのような勉強にもカントは否定的です。学校の勉強も評定によって評価されます。その評定を良くしようという条件がそこにも存在するでしょう。

では「定言命法」に従って勉強をするためにはどのように考えるべきか?そのキーワードは「知的好奇心」。もっと知りたい、その次を考えたい、因果関係はどうなのか、このような好奇心を「知的好奇心」と呼びます。その「知的好奇心」を満たすには本を読み、次の言葉を覚え、関係を考える必要があるでしょう。こんな姿勢を「勉強」と呼びたいものです。

イギリス産業革命の過程

2015年06月22日 | 高3用 授業内容をもう一度

 18世紀後半のイギリスでは,「道具から機械へ」という技術革新をきっかけとして、繊維工業から産業革命が始まった。産業革命以前のイギリスでは、商業資本の担い手である織物商が手工業者や農民に原料や道具を前貸ししてその製品を独占的に買い上げるような【問屋制家内工業】から,産業資本家が賃金労働者を雇用して組織的に生産させるような工場制手工業すなわち【マニュファクチュア】へと発展がみられていた。このような生産形態は「【神の見えざる手】」を主張した【アダム=スミス】がその代表的著書の中でピン製造工場の例を用いて示したように,分業と協業による生産性向上をもたらし、また、それにともなう工程の専門化・単純化を通じて機械利用の下地を作った。そして産業革命を迎えると,実際に機械や動力が発明され、利用されることになる。
 最初に本格的な機械の発明や利用がみられたのは、産業革命以前に工場制手工業の主体だった【毛織物】工業ではなく、【綿織物】工業においてであった。【ジョン=ケイ】の【飛びヒ】は、もともと毛織物工業で発明されたものだったが、その後綿織物工業に転用されてから普及し、織布工程での大幅な生産性向上をもたらした。その結果、それより前の工程での生産性向上が求められ、原理的には今でも使われている、紡績工程での【クロンプトン】の発明などがみられ、普及した。さらに、今度は逆に、紡績工程での生産性向上に刺激されて、織布工程での【カートライト】の発明がもたらされることになる。
 このように、イギリスの産業革命は毛織物工業ではなく綿織物工業から始まった。その理由は、長い伝統をもつ毛織物工業では機械導入に対して既存労働者の抵抗が強かったこと、綿織物工業では原料をインドなどから安価に輸入できたこと、綿織物の方が扱いやすかったこと、などにあるといわれる。しかし、より根本的な理由は、綿織物工業では機械の発明や利用によって大きな利潤が見込まれたことにある。
 18世紀になって【インド産】の綿織物製品(【キャラコ】)がもたらされるようになると、丈夫で安くまた染色が容易な綿織物製品の需要が急増した。イギリス綿織物工業は、急増する需要に対応するためにも、また、インド産の安価な輸入織物へ対抗するためにも、積極的な機械導入によって大量生産体制を確立する必要があったのである。さらに、綿織物製品の需要増大に危機感を抱いた毛織物工業者の反対で輸入が制限されるようになると、市民革命によって経済活動の自由が保障されるようになっていたイギリスでは、原料を輸入して自国で綿織物製品を生産しようとする動きが活発化した。その結果、イギリス産の綿織物製品は国内のみならず世界市場にも大量に出回ることになり、もともとは輸出国であったインドも19世紀には輸入国に転じて「インド織匠の骨はインドの原野を白色に染めている」と描写されるほどであった。
 機械の導入に必要な資本は、毛織物工業の発展や重商主義的政策の積極的展開を通じて準備されていた。他方、労働力は、【第2次囲い込み運動】やイングランド東部【ノーフォーク】地方で始まった農法などを内容とする【農業革命】によってもたらされた。こうして、綿織物工業では機械を利用した資本主義的経営が一般化することになる。だが、その一方で、産業革命は、資本家階級と労働者階級との対立,長時間労働など労働条件の悪化,都市人口の急増にともなう生活環境の悪化など、様々な問題をもたらしたことも忘れてはならないであろう。


フランス革命~1793  2000年名城大学

2015年06月19日 | 復習用入試問題

次の文章を読み,下記の設問に答えよ。2000年名城大学

 1789年7月 46 日にパリの民衆は蜂起してバスティーユ牢獄を占領した。また,全国各地で農民が蜂起して領主の館をおそうにいたった。a議会は,事態をおさめるために,8月4日にb封建的・身分的特権の廃止を決議し, 47 日にはc人権宣言を発表した。国王ルイ16世はなおも抵抗したが,10月に民衆が 48 におしかけて国王と議会をパリに移したため,国王もそれまでの改革をしぶしぶ承認した。その国王も1791年には王妃 49 に動かされ,国外に逃亡を図って, 50 で発見されるという事件があった。これに対して王妃の兄のオーストリア皇帝が 51 国王と 52 宣言を発してルイ16世の救援を諸国の君主によびかけている。1792年に入ってフランス内外の情勢が緊迫するなかで実権をにぎった 53 派の政府は,事態打開のためにオーストリアに宣戦した。フランス軍はオーストリア・ 51 連合軍のまえに敗北を重ねたが, 54 の戦いではじめて連合軍を破ることができた。1793年春には攻勢に転じたフランス軍に対して, 55 が参戦し,対仏大同盟が結成された。

問1  46 ・ 47 にあてはまる数字をそれぞれ解答欄に記入せよ。
問2  48 , 50 , 52 , 54 にあてはまる地名をそれぞれ解答欄に記入せよ。
問3  49 にあてはまる人名を解答欄に記入せよ。
問4  51 , 55 にあてはまる国名をそれぞれ解答欄に記入せよ。
問5  53 にあてはまる語句を解答欄に記入せよ。
問6 下線部aについて。フランス革命の過程で登場した議会の名称を3つあげて,解答欄に記入せよ。 56 
問7 下線部bについて。この決定で無償で廃止された,教会に納める税の名称を解答欄に記入せよ。 57 
問8 下線部cについて。下記の人権宣言の条文の 58 ~ 60 にあてはまる語句を解答欄に記入せよ。
 第1条 人間は 58 かつ権利において 59 なものとして生まれ,また,存在する。社会的な差別は,共同の利益にもとづいてのみ,設けることができる。
 第17条  60 は神聖かつ不可侵の権利であるから,何人も,適法に確認された公共の必要が明白にそれを要求する場合であって,また,事前の公正な補償の条件の下でなければ,それを奪われることはない。

【解答4】 
46 14 47 26
48 ヴェルサイユ 49 マリ=アントワネット
50 ヴァレンヌ 51 プロイセン
52 ピルニッツ 53 ジロンド
54 ヴァルミー 55 イギリス
56 国民議会・立法議会・国民公会 57 十分の一税
58 自由 59 平等
60 所有権


パクス=ロマーナ

2015年06月17日 | トリオDE世界史

(1)パクス=ロマーナ前半の皇帝3人
�オクタヴィアヌス
�ティベリウス
�ネロ

(2)五賢帝時代の皇帝5人
�ネルヴァ
�トラヤヌス
�ハドリアヌス
�ピウス
�マルクス=アウレリウス=アントニヌス

(3)オクタヴィアヌス �政治形態�皇帝の地位�敗北した戦い
�プリンキパトkゥス(元首政)
�プリンケプス(第1の市民)
�トイトブルクの森の戦い(後9年)

(4)トイトブルクの森の戦い �年代�皇帝�意義
�後9年
�オクタヴィアヌス
�ライン川とドナウ川をゲルマン人とローマ帝国との国境とした

(5)イエスの処刑 �ユダヤ総督�皇帝�弾圧した人々
�ピラトゥス
�ティベリウス
�パリサイ派ユダヤ教徒

(6)ネロ �業績�ネロの先生�処刑したキリスト教徒2人
�キリスト教弾圧(64年)
�セネカ(ストア派哲学者)
�ペテロとパウロ

(7)ペテロ �イエスとの関係�処刑した皇帝�処刑された理由
�12使徒の一人
�ネロ
�ローマの大火の責任をキリスト教徒に押し付けた

(8)パウロ �回心する前�身分�処刑された年
�パリサイ派ユダヤ教徒(異教徒だった)
�ローマ市民権を持つ
�65年

(9)トラヤヌス帝 �業績�征服した土地�その場所
�ローマ帝国最大版図を現出した
�ダキア
�ドナウ川北の現ルーマニア

(10)ハドリアヌス帝 �業績�その意義�出身
�ハドリアヌスの長城を建設した
�スコットランドのケルト人に対する防衛
�属州ヒスパニア出身

(11)マルクス=アウレリウス=アントニヌス �中国名�哲学�著書
�大秦王安敦
�ストア派哲学者(哲人皇帝と呼ばれる)
�自省録

(12)大秦王安敦 �年�中国の記録�使者が着いた場所
�166年
�後漢書
�日南郡(現ヴェトナム中部のユエ)

(13)パクス=ロマーナ �経済�政治�時期
�ラティフンディウムの最盛期
�ローマ帝国の全盛期
�前27年から180年までの約200年間

(14)パクス=ロマーナ時代の問題点3つ
�属州がラティフンディウム経営の中心になった
�軍事力の拠点が辺境地域に移った
�帝国の空洞化が進んだ


4世紀のローマ

2015年06月17日 | トリオDE世界史

(1)4世紀のローマの皇帝4人
�ディオクレティアヌス
�コンスタンティヌイス
�ユリアヌス
�テオドシウス

(2)ディオクレティアヌス �即位年�業績�政治体制
�284年
�ローマ帝国を再統一
�ドミナートゥス制(専制君主政)に移行させた

(3)ディオクレティアヌスの政治 �統治体制�政治�キリスト教対策
�4分統治
�共和政の仕組みを終わらせて官僚制度を整備した
�皇帝崇拝を強要してキリスト教を大弾圧した

(4)ドミナートゥス制 �開始時期�開始した皇帝�特徴
�284年以降
�ディオクレティアヌス帝
�皇帝を神格化してオリエント風の皇帝崇拝を強要した

(5)コンスタンティヌス帝の年代3つ
�313年
�325年
�330年

(6)コンスタンティヌス帝の業績3つ
�ミラノ勅令でキリスト教公認
�ニケーア公会議を主催
�コンスタンティノープルに遷都

(7)ミラノ勅令 �年�皇帝�内容
�313年
�コンスタンティヌス帝
�キリスト教を公認

(8)ニケーア公会議 �年�正統�異端
�325年
�アタナシウス派
�アリウス派

(8)アタナシウス派 �イエス�正統とされた教説�現在
�神の子
�三位一体説
�カトリック

(9)コロナートゥス制 �拡大した時期�コロヌスの性格2つ
�3~4世紀
�移住の自由がない
�転職の自由がない

(10)コロヌスになった人々3つ
�解放奴隷
�没落した自由農民
�平和的に移住してきたゲルマン農民

(11)ユリアヌス帝 �キリスト教�信仰した宗教�呼び名
�最後の弾圧
�ミトラ教
�背教者

(12)テオドシウス帝 �公会議�キリスト教�政治
�コンスタンティノープル公会議
�国教化
�帝国の東西分裂

(13)テオドシウス帝の年代3つ
�381年
�392年
�395年

(14)4世紀のキリスト教の年代3つ
�313年公認
�325年
�392年国教化

(15)東西ローマの年代 �分裂�西ローマ帝国の滅亡�東ローマ帝国の滅亡
�395年
�476年
�1453年


軍人皇帝時代のキリスト教

2015年06月17日 | 高2用 授業内容をもう一度

2~4世紀は全般的に迫害期であり、「【カタコンベ】」 という【地下墓地兼集会礼拝所】でキリスト教徒たちは密かに信仰を守った。しかし、軍人皇帝時代の社会混乱はキリスト教布教には絶好の好機となり、キリスト教は急速に下層民に広まっていった。ローマ社会が内乱によって荒廃し、これまで受け継がれてきたローマの神々に対する宗教的儀式なども退廃してきたためである。
 またエジプトの砂漠地帯などを中心に【修道院】運動が広まっていったのも200年頃からであり、3世紀頃までに各地で教会が成立した。なお、修道院はキリスト教徒の修行を行う場、教会は教徒がミサを行うなどのキリスト講の儀式を行う場である。
 4世紀になると教父による教義(キリスト教の教え)の確立が始まる。「【三位一体説】」を主張した【アタナシウス】などもこの一人。最大の教父とされるのはヌミディア(現アルジェリア)出身の【】アウグスティヌスで、マニ教から改宗後、5世紀に『【告白】』や『【神の国】』を著した。