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グローバル社会と教育について

2015年08月13日 | 何かの足しになれば
東アジアにおける偏狭なナショナリズムの台頭に対して教育が果たす役割とは

東アジアにおいて、中国という国家と日本という国家との関係を考えるとき、国家権力が低下している1970年以降では、国家権力を維持強化する目的でナショナリズムを高揚させる傾向が強まっている。
文化大革命前後の中国を除き、冷戦期は日中の政権はそれぞれ米ソの強い影響力の下に置かれていたために国家権力を強化することはなく、またその必要ななかった。つまり東アジア各国にとって冷戦が国家権力の強化によるナショナリズムの拡大の歯止めとなっていた。しかし1990年以降はその歯止めすらなくなり、国家権力低下の傾向の中で、権力維持を求める東アジア各国はナショナリズムに依存する度合いを増している。それでも日本の場合、国家権力の強化に対し、敗戦の経験や憲法がそれを抑止していたが、911によりテロ対策という形で、抑止力が減退している。さらに311が国家権力から離れた形ではあるが「絆」という言葉で結果的にナショナリズムへの抵抗感を押し下げた。
一方、中国ではこの間に国内の格差が拡大した。そのため「汎漢族」とでも言うようなナショナリズムが国家権力によって意図的に強化され、格差を潜在化させることに注力するあまりにウイグル族やチベット族などの比較的規模の大きい少数民族との対立を顕在化させている。そのため一層、国家権力の強化が必要になっているという循環におちいっている。

偏狭なナショナリズムを煽り国家権力の維持強化が図られる中で、これを乗り越えて東アジアの平和を維持する必要がある。
そのためには、教育によって国家から自立した「市民」を育成する必要がある。ここでいう「市民」とは1920年代に出現しナチズムや日本の国粋主義の出現を許した「大衆」とは異なる人々である。彼らは国家から自立している。国家から自立するとは、「日本人」として判断し行動できることを意味する。そのような人々を「市民」と呼びたい。民主主義に基づく「市民」と呼ぶこともできる。
この「市民」は日本という単位から独立して存在する。日本人としてのアイデンティティーはグローバル社会に発信するためのものであって、国家権力が示す偏狭なナショナリズムを補完するものではない。
1920年代から30年代の状況と現在の状況と大きく異なる点は、このような「市民」が同様に「中国人」として判断し行動できる人々とインターネットなどを通じて直接に結びつき繋がることができる点にある。すなわち1970年代から始まったグローバル化の中で、各国の「市民」が直接知的に繋がることが可能になっている。グローバル化社会の下だからこそ、東アジアは1920年代に許した偏狭なナショナリズムの再現を防ぐことが可能なのだ。
したがって、グローバル化した社会を受け入れ、促進する努力を続けることこそが東アジアの平和に貢献することにつながるだろう。
とくに知的活動の分野において、現代の人々はグローバル化に対して、無関心や無関係ではいられない。しかしその一方で、その弊害が強調されることも多い。グローバル化した社会だからこそ日本人としてのアイデンティティーを確立するべきだという立場がそれである。その立場は認めるが、それが偏狭なナショナリズムの構築に利用されないように教育が導くことが重要である。

古代ギリシアのアリストテレスによれば、ポリスがあってはじめて市民が存在した。しかしアレクサンドロス大王の東方遠征を契機に出現したヘレニズム世界は、世界市民主義すなわちコスモポリタニズムという思考を生み出すことになる。その時ギリシア市民はポリスへの帰属意識を捨て去り、各地のエリートと結びついてコイネーという言語やギリシア文化をアジア各地に広め、ある意味共通した要素を持つヘレニズム世界を構築していった。しかしここでも、現在のグローバル社会と大きく異なる点は、古代ギリシア人は、存在としてポリスを離れて拡散した結果、ヘレニズム世界を築きそれに参加したのに対して、現在は居ながらにしてグローバル社会に参加できる。

したがって、国内に居ながらにして行われている教育は国家権力が示す価値から独立する人間、すなわち「市民」を育成することができる。日本という単位から独立した「日本人」を育てていくことが、グローバル化した社会における教育の役割となる。

このように教育された人々が実際に国外に出て他のアイデンティティーを持った他の「市民」と直接つながることは大きな意味がある。多様性を許容する場に身を置くことで自らのアイデンティティーを深化させ、それによって偏狭なナショナリズムの台頭を抑止するためである。






トルコ革命

2015年08月03日 | 高3用 授業内容をもう一度
 【タンジマート】が【1877】年に終焉すると、【日露戦争】で日本が勝利したことの影響により【1908】年に【青年トルコ党の革命】が成功。【ミドハト憲法】が復活し、青年トルコ党政権が樹立された。
 この時期【スルタン】は実権を失っている。青年トルコ党政権は【ドイツ】に接近。【パン=トルコ主義】を唱えて拡大政策に転じた。しかし、ドイツ側に立って参戦した第1次世界大戦では敗北したため、青年トルコ党政権は崩壊。これに代わって再びスルタンが政権を握った。
 このスルタン政府は戦勝国である英仏に対して、【セーブル】条約を結んで卑屈な外交政策を展開した。また対岸の【ギリシア】が小アジアの【イズミール】に上陸し、その地の占領を目論んだ。このような危機的状況の中、【ケマル=パシャ】が【アンカラ】で【トルコ大国民会議】を樹立して、【1922】年に【スルタン制】の廃止を宣言。【1299】年から続いたオスマン=トルコ帝国を滅亡させた。【1923】年にセーブル条約の破棄を認めさせ、英仏と【ローザンヌ】条約を結ぶ一方、ギリシアからイズミールを奪回することにも成功した。さらに【】1924年に【カリフ】制をも廃止して政教分離を完成させた。彼を「トルコの父」と呼ぶ。
 スルタン政府を【イスタンブル】政府、ケマルの政府を【アンカラ】政府をいう。

★チェック・ポイント
�イスタンブル政府が結んだ講和条約
=セーブル条約(1920年に締結。不平等条約)
�第1次世界大戦直後の外交的危機
=ギリシアによるイズミル上陸
�アンカラ政府の中心人物
=ケマル・パシャ(1934年にケマル=アタチュルク、すなわち「トルコの父」と称される)
�アンカラ政府の政治目標
=セーブル条約破棄
=イズミル奪回
�トルコ革命の成功した年
=1922年スルタン制廃止によりオスマン帝国が滅亡。トルコ共和国が成立。
�セーブル条約破棄の年
=1923年ローザンヌ条約成立。不平等条約は破棄された。
�ケマルの脱イスラム政策
=1924年カリフ制廃止
=ローマ字を採用。婦人開放政策。トルコ帽禁止。

ムガル帝国

2015年08月03日 | 高3用 授業内容をもう一度

 インドでは,10世紀末以降,【ガズナ朝】と【ゴール朝】という,いずれもアフガニスタンを拠点とするイスラム王朝による略奪のための遠征が繰り返された。13世紀初めには,ゴール朝の将軍【アイバク】が【デリー】で自立し,インド最初のイスラム王朝【奴隷王朝】を開いた。その後,ムガル帝国が登場するまで,3世紀にわたりデリーを首都として5つのイスラム王朝、すなわち【デリー=スルタン朝】が継続した。【1526】年,【ティムール】の子孫を名乗る人物がデリーに【ムガル帝国】というイスラム政権を樹立し,初代の皇帝となった。ムガル帝国第3代皇帝【アクバル】は,【ヒンドゥー】教徒である【ラージプート族】と和解し,晩年にはデカン高原と南部地方以外のインドと,アフガニスタンの東半とを支配するまでにいたった。この皇帝は首都を新たな都市【アグラ】に遷し,イスラム教徒とヒンドゥー教徒との融和をはかり,人頭税である【ジズヤ】を廃止したのみならず,ヒンドゥー教徒を第一大臣に任命したり,イスラム教とヒンドゥー教を統合した新しい宗教【ディーネ=イラ-ヒ】を創ろうとしたりした。ムガル帝国は,この皇帝のときに全盛期を迎えた。
17世紀なかばに即位した第6代皇帝【アウランゼブ】は,非妥協的な【スンナ派】で,人頭税を復活し,イスラム教シーア派やヒンドゥー教徒を弾圧した。この皇帝は外征に奔走し,帝国の版図を最大に拡大したが,ラージプート族,【ナーナク】を開祖とする宗教勢力【シク教】,【マラータ族】などの反乱を引き起こした。そのため財政は急速に悪化し,ムガル帝国はその後衰退する一方となった。
 デリーに展開した5つのイスラム王朝の時代に芽ばえた【インド=イスラム文明】は,ムガル帝国の時代に大きく開花した。とくに皇帝【シャー=ジャハーン】が愛妃【ムムターズ=マハル】の墓陵である【タージ=マハル】はそれを代表する建築物であり,また,イラン風の絵画の技法【細密画】すなわち【ミニアチュール】を取り入れたムガル絵画が大量につくられた。