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アフリカ史(2)アフリカ諸国の独立

2012年12月13日 | トリオDE世界史

(1)アフリカ独立の主な指導者 �ガーナ�ギアナ�アルジェリア
�エンクルマ
�セク=トゥーレ
�ベン=ベラ
(2)ガーナ独立 �指導者�意義�旧宗主国
�エンクルマ
�ブラックアフリカ初の独立(1960年以前)
�イギリス
(3)ギニア独立 �指導者�独立の時期�旧宗主国
�セク=トゥーレ
�1960年のアフリカの年以前
�フランス
(4)アフリカの年 �年�独立した国の数�代表的な独立国
�1960年
�17カ国
�コンゴ
(5)コンゴ独立 �指導者�独立年�旧宗主国
�ムンバサ
�1960年(アフリカの年)
�ベルギー
(6)コンゴ動乱 �年�原因�国連の対応
�1960年から
�ベルギーが地下資源の保持を目的に独立を認めない
�国連軍が組織
(7)アルジェリア �19世紀の反仏運動指導者�独立の主役�反仏組織
�アヅデュール=カーディル
�コロン
�FLN(アルジェリア民族解放戦線)
(8)アルジェリア独立へのフランスの対応 �政体の変化�その特徴�フランス大統領
�第5共和制
�大統領権限の強化
�ド=ゴール
(9)アルジェリア独立戦争 �期間�独立戦争の組織�独立承認
�1954~62年
�FLN(アルジェリア民族解放戦線)
�エヴィアン協定
(10)エヴィアン協定 �年�フランス大統領�アルジェリア大統領
�1962年
�ド=ゴール大統領
�ベン=ベラ大統領
(11)アフリカの組織 �アルジェリア独立�アフリカ統一機構�南アフリカの反アパルトヘイト
�FLN(アルジェリア民族解放戦線)
�OAU
�ANC(アフリカ民族会議)
(12)アフリカ統一機構 �略称�指導者�目的
�OAU
�エンクルマとセク=トゥーレ
�アフリカ新独立国の団結
(13)アパルトヘイト基幹3法
�先住民土地法
�人口登録法(パス法)
�集団地域法
(14)反アパルトヘイト �組織�その略称�指導者
�自由の憲章
�ANC
�ネルソン=マンデラ
(15)アパルトヘイト廃止 �政権�年�黒人発の大統領
�デクラーク大統領
�1991年
�ネルソン=マンデラ


冷戦 慶應義塾大学 商 2008

2012年12月09日 | 復習用入試問題

 次の文章を読み,以下の設問に答えなさい。

  第二次世界大戦後の国際金融・経済協力体制はアメリカ合衆国を軸に構築が進められた。1944年7月,連合国代表が世界経済建て直しのためにアメリカ合衆国の (79)(80) に集まり,世界銀行と (81)(82) の設立を決定した。また,貿易障壁を撤廃して自由貿易をうながす体制は,1947年10月, (83)(84) として成立した。これらの諸制度は,(a)アメリカ合衆国が圧倒的な経済力をもっていたため,いずれもドルを基軸通貨とした。

 1947年3月,アメリカ合衆国はソ連を中心とする社会主義圏の拡大の動きに対抗して (85)(86) を宣言し,同年6月には国務長官の提案による (87)(88) を発表した。ソ連・東欧諸国はこの動きに対抗して,1947年9月各国共産党の連絡機関として (89)(90) を結成する。1949年1月には,ソ連は (91)(92) を創設し,東欧社会主義諸国の結束強化をはかった。

 西ヨーロッパでは,二度の世界大戦の反省から恒久的な平和を実現するために,まず資源や市場を共同で管理しようとする構想があらわれた。フランス外相の提案である (93)(94) にもとづき,フランス・西ドイツ・ (95)(96) ・イタリアは1952年に (97)(98) を発足させた。さらに1958年に (99)(100) 条約にもとづき (101)(102) とヨーロッパ原子力共同体が設立され,関税の相互引き下げなどが実施された。1967年には3共同体は合併して (103)(104) となり,1970年代,80年代を通じて巨大な統一市場へと発展した。さらに,1992年には (105)(106) 条約に調印し,域内の統合を強めた (107)(108) となった。

 アメリカ合衆国では,ベトナム戦争への介入後,財政が悪化し,1971年には貿易収支も赤字に転落した。同年,(b)ニクソン大統領が発表した政策は世界に衝撃を与え,ドル=ショックと呼ばれた。アメリカ合衆国1国がささえてきた戦後の国際経済体制はアメリカ合衆国・西ヨーロッパ・日本の三極構造に向かい始めた。ドル=ショック後,1973年には先進工業国は (109)(110) に移行した。同年10月に第4次中東戦争がおこると (111)(112) はイスラエルの友好国に対して原油輸出を制限する措置をとった。同時に (113)(114) によって決定された原油価格の大幅引き上げは先進工業国に深刻な打撃をあたえた。その後,先進工業国間ではエネルギー問題や環境問題など相互に共通する問題や1国では解決できない問題に対応するため,1975年以降毎年 (115)(116) がひらかれるようになった。

 一方,中国の経済発展が世界経済に大きな影響を及ぼすようになってきた。1977年, (117)(118) 首相は文化大革命の終了を告げ,(c)「四つの現代化」を推進した。その後,小平によって進められた開放経済政策により急速な経済発展をとげ,現在では三極に肩をならべるほどの経済力を誇るようになっている。

 

問1 文中の空欄 (79)(80) ~ (117)(118) にあてはまる最も適当な語句の番号を以下の選択肢から選び,解答欄 (79) ~ (118) にマークしなさい。

11 APEC首脳会議                12 ASEAN首脳会議

13 GATT                        14 NIRA

15 UNCTAD                     16 アラブ諸国連盟

17 アラブ石油輸出国機構         18 華国鋒

19 国際開発協会                 20 国際金融公社

21 国際石油資本                 22 国際通貨基金

23 固定相場制                   24 コミューン

25 コミンテルン                 26 コミンフォルム

27 コメコン                     28 サミット

29 シューマン=プラン           30 朱鎔基

31 シュリーフェン=プラン       32 スミソニアン

33 石油輸出国機構               34 趙紫陽

35 通貨バスケット制             36 ドッジ=プラン

37 ドル=ベッグ制               38 トルーマン=ドクトリン

39 パリ                         40 ハルシュタイン=ドクトリン

41 バルト3国                   42 ブッシュ=ドクトリン

43 ブレトン=ウッズ             44 ベネルクス3国

45 変動相場制                   46 北欧3国

47 マーシャル=プラン           48 マーストリヒト

49 マドリード                   50 マルセイユ

51 モネ=プラン                 52 ユトレヒト

53 ヨーロッパ共同体             54 ヨーロッパ経済共同体

55 ヨーロッパ経済協力機構       56 ヨーロッパ自由貿易連合

57 ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体     58 ヨーロッパ連合

59 李鵬                         60 ローマ

61 ロンドン

 

問2 下線部(a)について,アメリカ合衆国が世界経済の中で優位に立ったのは第一次世界大戦が契機であった。第一次世界大戦を通じて,アメリカ合衆国が経済的優位に立つことができた理由を40字以内で述べなさい。答は所定の欄に記しなさい。

 

問3 下線部(b)について,ニクソン大統領が発表した主要な政策2つを答えなさい。答は所定の欄に記しなさい。

 

問4 下線部(c)について以下の設問に答えなさい。答は所定の欄に記しなさい。

 

(ア) 「四つの現代化」を最初に提唱した人物の名前を書きなさい。

 

(イ) 「四つの現代化」が指しているものは農業,工業の他になにか。残り2つを答えなさい。

 

 

【解答3】 

問1   (79)(80) 43                 (81)(82) 22

       (83)(84) 13                 (85)(86) 38

       (87)(88) 47                 (89)(90) 26

       (91)(92) 27                 (93)(94) 29

       (95)(96) 44                 (97)(98) 57

       (99)(100) 60                (101)(102) 54

       (103)(104) 53               (105)(106) 48

       (107)(108) 58               (109)(110) 45

       (111)(112) 17               (113)(114) 33

       (115)(116) 28               (117)(118) 18

問2 (省略)

問3 金とドルの交換停止,10%の輸入課徴金導入

問4   (ア) 周恩来                  (イ) 国防,科学技術

 


不安と自信

2012年12月07日 | 何かの足しになれば

不安がないまま受験の日を迎えられた受験生が何人いただろうか。

多くの受験生は大きな不安と少しの自信とを持ってその場所にいるに違いない。

野球イチロウ選手は不安な自分を振り払うために、バッターボックスに入る前の儀式をしているのかもしれない。

成功する者とは、不安に襲われたときにも、いつものように振舞える人間ではないだろうか。

受験生諸君!あと数日です。大きな不安と少しの自信とともに、笑っていつも通りにやりぬきましょう。


チベット史

2012年12月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【乾隆帝】が行った1720年のチベット遠征以来、チベットは中国支配に組み込まれた。現在、チベットは中国の四川省・青海省・西蔵(チベット)自治区に分割されている。世界史にチベットが最初に登場するのは五胡十六国時代の【テイ】・【羌】である。
 その後、7世紀初頭に【ソンツェン=ガンポ】がチベットに統一王朝を建設し、中国(【唐】)はこれを【吐蕃】と呼んだ。この国は唐との関係が深いが、【漢字】を基にして【チベット文字】を作るなどもしている。9世紀中頃に吐蕃は滅亡するが、これによりチベットは分裂時代に入り、14世紀になって再統一される。

 チベットはインド・中国から文化的影響を受けたが、とくに8世紀後半から【ラマ教】(【チベット仏教】)を国教とした。ラマ教は5世紀頃から衰退したインド【大乗仏教】を継承している。14世紀末~15世紀前半に登場した【ツォンカパ】は戒律主義を説いてラマ教を改革し、【黄帽派】を創始した。これに対して旧来のラマ教を【紅帽派】と呼ぶ。【タタール】部の【ダヤン=ハン】が信仰し保護したのが【黄帽派】であり、現在では黄帽派が圧倒的多数を占めており、ツォンカパの弟子から【ダライ=ラマ】の転生が確立した。

 中華人民共和国建国後、人民解放軍はチベットに侵入し、1951年の【中国・チベット協定】でチベットの【自治】が約束された。しかし、共産党のラマ教への干渉を嫌ったラマ僧が反発し、【1959】年には【チベット反乱】に発展した。この反乱は鎮圧されたが、【14】第代ダライ=ラマはインドに亡命し。このためダライ=ラマの扱いに対して中印国境紛争が発生している。


インド史(6)独立運動の展開とインド独立

2012年12月07日 | トリオDE世界史

(1)インド独立運動の主役3人 ��ヒンズーの指導者2人�ムスリムの指導者
�ガンディ
�ネルー
�ジンナー
(2)インド国民会議派初期の指導者3人
�ナオロジー
�バネルジー
�ティラク
(3)インド国民会議設立 �宗教�特徴�指導者2人
�ヒンズー教徒
�親英的諮問機関
�ナオロジーとバネルジー
(4)独立運動の転換期 �1905年日露戦争の日本の勝利�1919年第1次世界大戦の終結�1929年
�カルカッタ大会
�第1次サティーアグラハ運動
�ラフォール大会
(5)日露戦争の影響 �インド�イラン�トルコ
�カルカッタ大会
�タバコ・ボイコット運動
�青年トルコ党の革命
(6)カルカッタ大会 �年�組織�原因
�1905年
�インド国民会議派
�ベンガル分割令に反発
(7)ベンガル分割令 �年�内容�影響
�1905年
�ムスリム地区とヒンズー教徒居住地区とにベンガル地方を分割する
�国民会議派が反発してカルカッタ大会を開く
(8)カルカッタ大会の4つのスローガン
�英貨排斥
�民族教育
�国産品愛用(スワデーシ)
�自治要求(スワラージ)
(9)ムスリムの行動 �組織�指導者�基本方針
�全インドムスリム連盟
�ジンナー
�親英協調路線
(10)第1次世界大戦中 �インド兵の戦場�インド兵�イギリスの約束
�メソポタミア戦線
�グルカ兵
�モンタギュー宣言(戦争協力の代償に戦後の自治を認める)
(11)第1次世界大戦後のイギリス �支配強化�地方自治容認�シク教徒弾圧
�ローラット法
�インド統治法
�アムリットサル事件
(12)1919年ガンディ �反英運動�その手法�方針
�第1次サティーアグラハ運動
�サルタール
�非暴力不服従
(13)WW1直後のガンディ �糸車�不可触�真理の把握
�チャルカ
�ハリジャン
�サティーアグラハ
(14)WW1直後のジンナー �反英運動�原因�ガンディとの関係
�キラーファット運動
�イギリスによるオスマン=トルコの分割に反対
�連携した
(15)ラフォール大会 �年�指導者�スローガン
�1929年
�ネルー
�完全独立(プールナ・スワラジ)
(16)イギリスの統治方針 �1919年�1928年�1930年
�インド統治法
�サイモン委員会
�英印円卓会議
(17)イギリスの統治方針 �インド統治法�サイモン委員会�英印円卓会議
�地方自治を容認
�インドの行政改革
�ロンドンで自治を検討
(18)第2次サティーアグラハ運動 �指導者�行動�年
�ガンディ
�塩の行進
�1930年
(19)インド独立 �年�承認した英政権�独立の状況
�1947年
�アトリー労働党政権
�インド分離独立
(20)インド独立 �ヒンズーの国�ムスリムの国�ガンディ
�インド連邦(英連邦内自治国)
�パキスタン(英連邦内)
�1948年に暗殺された


インドの独立運動の展開

2012年12月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 ヒンズー教徒は【ナオロジー】と【バネルジー】の二人を中心に【インド国民会議派】を結成したが、これは親英【】的組織であった。しかし、【1905】年日本が【日露戦争】でロシアに勝利したことを背景に、【1905】年イギリスが制定した【ベンガル分割令】に反発した国民会議派は、【ティラク】を中心に【1905】年【カルカッタ大会】を開き、【スワデシ】(国産品愛用)と【スワラジ】(自治)をスローガンに反英闘争を展開した。このベンガル分割令は、ベンガル地方にいるムスリムとヒンズー教徒とを分けて居住させるという政策である。
 一方、【ムスリム】(イスラム教徒)はこのとき【ジンナー】を中心に【親英】的な【全インドムスリム連盟】を結成している。その後、第1次世界大戦では、イギリス政府が戦後の自治を約束したため、国民会議派は戦争協力をヒンズー教徒に指示し、インド兵は【オスマン=トルコ帝国】との戦い(【メソポタミア戦線】)に出兵していった。
 しかし、第1次世界大戦後、イギリス政府は自治の約束を破ったばかりか、【1919】年に【ローラット法】を制定した。このローラット法とは、逮捕状なしに逮捕拘束ができるというもので、自治権または独立要求運動に参加するインド人を抑圧するための法律であった。さらにイギリスは、イギリスに有利な条件を提示して国民会議派を分裂させる目的で、【1919】年【インド統治法】を制定している。
 インドのムスリム(イスラム教徒)を代表するジンナーは、基本的には親英的な態度をとってきたが、オスマン=トルコ帝国皇帝(スルタン=カリフ)に対して、英仏が1919年に抑圧的な【セーブル条約】を押し付けたため、イスラム教徒としてスルタン=カリフを支援する意味で、この時期に限って【】反英闘争を展開している。ジンナーのこのときの反英運動を【キラーファット運動】という。
 【】1919年の【ローラット法】とインド統治法に反発した国民会議派の指導者は【ガンディ】であった。彼はイギリスで弁護士資格をとった後、【南アフリカ】に渡ったが、そこでアパルトヘイトに苦しむ人々を目撃してインドに戻り、独立運動の指導者になった人物である。ガンディは1919年【第1次サティーアグラハ運動】(【非暴力・不服従運動】)を展開した。その手法は【サルタール】(全面罷業すなわち大規模なストライキ)であり、【チャルカ】という「糸車」を用いて、インド人の洋服をインド人の手で作ることを呼びかけ、インド中に大きな影響を与えた。
 ガンディを中心とした国民会議派の独立運動に対し、イギリス政府は【1928】年【サイモン委員会】を開いて、インドの自治に対する検討に入った。しかし、サイモン委員会にはインド人の代表が参加を認められなかったために、ガンディの弟子である【ネルー】を中心とした国民会議派は【1929】年【ラフォール大会】を開き、【プールナ・スワラジ】(完全独立)を決議して反英闘争を強めた。一方、ガンディは【第2次サティーアグラハ運動】を展開した。これは有名な「【塩の行進】」に象徴される反英闘争である。塩の行進とは、ガンディが海岸まで徒歩で行き、当時イギリス政府が独占的に製造権・販売権を持っていた塩を製造しようというものであった。ガンディの行動を知った多数のインド人がガンディとともに海岸まで行進しただけでなく、インド中の海岸線で無数の人々が塩の製造を行った。
 イギリス政府は運動の規模の大きさに有効な手を打つことができず、妥協を余儀なくされ、【1930】年にロンドンでインド人代表を含む形で、【英印円卓会議】を開催した。インドの自治を検討する英印円卓会議は3回開催されたが、第【2】回にはガンディも参加している。ガンディの考えはヒンズー教徒とムスリムとが分裂することなくインドが独立することであった。しかし、親英的態度に終始するムスリムの指導者【ジンナー】に対して、ヒンズー教徒の国民会議派【ネルーは】不信感を持ち、ムスリムとヒンズーとの対立は深まる一方であった。
 第2次世界大戦が終結する直前、イギリスでは【アトリー労働党】政権が成立した。アトリーはインドの独立を容認し【1947】年【インド】の独立が達成された。しかし、ムスリム達は同じ1947年【パキスタン】の独立を宣言し、インドとパキスタンはヒンズーとムスリムとに分離した状態での独立になった。また、パキスタンはインダス川流域の西パキスタンと、ガンジス川流域(ベンガル地方)の東パキスタンとの2地域に離れた形での独立となり、後に問題を残す結果となった。
 両教徒の統一を呼びかけ続けたガンディは、【1948】年に狂信的な【ヒンズー教徒】の手で暗殺された。

インド独立運動のチェック・ポイント
�第1次世界大戦においてイギリスがインドにとった対応は?
=モンタギュー宣言で戦争協力と引き換えに戦後の自治を容認した。
�第1次世界大戦でガンディがとった対応は?
=戦争協力を呼びかけた(インド兵はおもにメソポタミア戦線でオスマン軍と戦っ た)
�第1次世界大戦後にイギリスが打ち出した抑圧策は?
=1919年ローラット法(礼状なしの逮捕や裁判抜きの投獄を容認したもの)
=1919年インド統治法(モンタギュー・チェルムスフォード改革の中で制定され  た。地方議会の設置を決めたが、藩王国に分断しているインドはさらに一体性を 失う危険があった)
�これらイギリスの政策に対するガンディの対応は?
=第1次サティーアグラハ運動(反英闘争の手法は全面罷業サルタール、反英闘争の 理念は心理の把握サティアグラハ、反英闘争の運動は非暴力不服従)
�ハリジャンとは?
=神の子(ガンディが不可触賎民を呼んだ呼び名)
�チャルカとは?
=国産品愛用を説くガンディが用いた糸車)
�反英闘争に押されて1928年にイギリスがとった政策は?
=サイモン委員会(インド人の参加は認められていない)
�サイモン委員会に反発した国民会議派の行動は?
=ラフォール大会(ネルーが中心。完全独立プールナ・スワラジを決議した)
�ガンディがとった対応は?
=1930年から第2次サティーアグラハ運動を展開した(塩の行進)
�これらの反英闘争の展開に対してイギリスがとった対応は?
=1930年英印円卓会議(ロンドンで3回開催。ガンディは第2回のみ参加)
�オスマントルコ帝国分割の危機に対してジンナーがとった対応は?
=キラーファット運動(ガンディと連携して反英闘争に転換)


中ソ論争

2012年12月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 1941年12月,日本が真珠湾を攻撃し,第二次大戦が世界的規模に拡大すると,【蒋介石】の率いる中国国民政府はただちに枢軸国側に宣戦を布告し,連合国側のアジア戦線の主力を担う中華民国の国際的地位は顕著に上昇することとなった。1943年11月,蒋介石は【カイロ】会談でアメリカ大統領ローズヴェルト,イギリス首相チャーチルと会談し,中国が戦後アジアの国際秩序の中心的な担い手となることを示した。
 1945年2月,クリミア半島南端の保養地【ヤルタ】でローズヴェルト・チャーチル・スターリンの米英ソ3巨頭会談が開催され,アジア・ヨーロッパの戦後政治秩序を最終的に決定づけることとなった。この過程でスターリンは,中国に関し,日露戦争でロシアが失った大連・旅順の【租借】権のソ連への返還日本の植民地鉄道であった【南満州鉄道】の中ソ共同経営,などの要求を提出し,【1932】年胃成立した「満州国」崩壊後に権力の空白が生じる中国東北への政治的進出の野心を明らかにしていた。
 日本の敗北後,中国では国共両党間の対立が激化し,内戦へと発展するにいたったが,その結果,【1949】年10月1日には【毛沢東】を主席とする中華人民共和国が成立し,アメリカの支援する【蒋介石】の国民政府は台湾へと逃げのびることとなった。
 翌1950年2月,モスクワで【中ソ友好同盟相互援助】条約が締結され,中ソは,日本に対する共同防衛と中国復興のための経済援助に合意した。その見返りとして中国はモンゴル人民共和国の独立を追認した。
 しかしこの中ソの団結は,決して長くは続かなかった。【1953】年3月に【スターリン】が死去したあと,【1956】年にはソ連共産党第【20】回大会で【フルシチョフ】が【スターリン】批判をおこなった。この動きは国際的にも大きな影響をもたらしたが,その過程で中国共産党はソ連の【平和共存路線】への批判を強め,やがてソ連を「現代【修正】主義」と非難するようになった。ソ連も1959年12月に【中ソ技術】協定を破棄し,翌1960年には中国から技術者を引きあげ,経済援助を停止したため,両国関係はいっそう悪化した。続く中ソのイデオロギー論争では,各国共産党の多くはソ連を支持し中国は国際丘産主義運動の内部でも孤立した。1969年3月,中ソはついに国境紛争をめぐって【ダマンスキー】島(中国名【珍宝島】)で大規模な武力衝突を起こすまでにいたった。
 その後も中ソ対立は続いたが,1980年代に入って中国では最高指導者【小平】の下で改革開放政策が推進され,またソ連でも【ゴルバチョフ】いわゆる【ペレストロイカ】(改革〕が進展する中で,【1989】年5月,ソ連共産党の【ゴルバチョフ】書記長が訪中し,中ソ両国はようやく過去の対立関係を清算することとなった。


戦後史(14)インドシナ戦争とヴェトナム戦争

2012年12月07日 | トリオDE世界史

(1)20世紀初頭の近代化運動 �モデル�中心人物�運動
�日本
�ファン=ヴォイ=チャウ(潘佩珠)
�東風(トンズー)運動
(2)ヴェトナムの抗日運動 �中心人物�組織�正式名称
�ホー=チ=ミン
�ヴェトミン
�ヴェトナム独立同盟
(3)戦後の状況 �ホー=チ=ミンの国�フランスの傀儡国家�戦争
�ヴェトナム民主共和国
�ヴェトナム国
�インドシナ戦争
(4)ヴェトナム国 �国王�首都�特徴
�バオ=ダイ(阮大)
�サイゴン
�フランスの傀儡国家
(5)インドシナ戦争 �開始年�特徴�決戦
�1946年
�フランスが植民地支配の再建を狙った戦争
�ディエンヴィエンフーの戦い
(6)インドシナ戦争 �北ヴェトナムの指導者�北の将軍�ヴェトナム国王
�ホー=チ=ミン
�ボー=グェン=ザップ
�バオ=ダイ
(7)ジュネーブ協定 �年�アメリカの態度�ヴェトナム国の態度
�1954年
�調印せず
�不参加
(8)インドシナ戦争の終結 �年�休戦協定�南北の休戦ライン
�1954年
�ジュネーブ協定
�北緯17度
(9)アメリカの態度 �当時の反共思想�傀儡国家�南ヴェトナム大統領
�ドミノ理論
�ヴェトナム共和国
�ゴ=ディン=ジェム
(10)南ヴェトナムの反政府ゲリラ �組織�指導者�正式名称
�ヴェトコン
�グェン=フート
�南ヴェトナム解放民族戦線
(11)ヴェトナムの共産指導者 �北の国家元首�北の将軍�ヴェトコン
�ホー=チ=ミン
�ボー=グェン=ザップ
�グェン=フート
(12)ヴェトナム戦争 �米大統領�アメリカの口実�開始の年
�ジョンソン
�トンキン湾事件
�1965年
(13)ヴェトナム戦争と大統領 �北爆開始�ヴェトナム化�北爆再開
�ジョンソン
�ニクソン
�ニクソン
(14)ヴェトナム戦争の年代 �北爆開始�北爆再開�米軍完全撤退
�1965年
�1971年
�1973年
(15)ヴェトナム戦争の終結 �和平協定�南北統一�サイゴン陥落の年
�パリ和平協定
�サイゴン陥落
�1975年
(16)ヴェトナム戦争後 �対外戦争�隣国への侵攻�改革解放政策
�中越戦争(1979年)
�カンボジア侵攻(1979~89年)
�ドイモイ(刷新)



インドネシア現代史とアメリカの東南アジア政策

2012年12月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

第二次世界大戦中、1942年3月に日本軍はインドネシアに進攻し、オランダ軍は無条件降伏をしてオランダ領東インドはいったん消滅した。その後、1945年に戦争が終結すると、8月17日国民党の指導者スカルノが独立を宣言し、インドネシア共和国が誕生した。しかし、オランダは再植民地化をもくろみ、武力によってその独立を阻止しようとしたため、インドネシア共和国軍との間で戦闘が続いたが、194912月ハーグ協定によりインドネシアは名実ともに独立を獲得した。

 

 その後、1955年には、中国・インドをはじめとする史上初のアジア・アフリカ会議が29ケ国出席のもとにインドネシアのバンドンで開かれ、反植民地犠・平等互恵のなどの「平和10原則」が確認された。しかし、50年代の政治は不安定であり、経済建設をはじめとする数多くの課題が解決していないことが露呈されていった。その中でスカルノ大統領は軍と共産党の支持のもとに独裁権を強め、これ以後大統領内閣が組織された。しかしながら、スカルノ大統領も1965年9.30事件で失脚を余儀なくされたのである。

 1961年にマレーシアの独立をイギリスが承認したが、民族主義者であってかつ社会主義者でもあるスカルノは傀儡国家の誕生を意味しているとして批判した。1961年はケネディ大統領が南ベトナムに軍事顧問を大量に派遣した年でもあり、その意味でアメリカが本格的にベトナム戦争への介入を始めた年といえる。アメリカの東南アジア政策の基本はアイザンハウアー大統領時代からの「ドミノ理論」に支えられた「巻き返し政策」。これは積極的に共産主義化を防止するもの。この流れは1965年ジョンソン大統領の北爆開始(ベトナム戦争開始)でピークに達する。そのような時代背景の中でCIAが指導したという疑いもある9.30事件が発生し、スハルト親米政権がインドネシアに誕生したのである。


インドシナ戦争

2012年12月07日 | 高3用 授業内容をもう一度

 【1940】年日本の【仏印進駐】以後、抗日のための【ヴェトナム独立同盟】(【ヴェトミン】)で反日闘争を展開した【ホー・チ・ミン】(中国名【胡志明】)は、45年8月の日本敗戦とともに、アジア最初の共産党による民族解放を達成。ヴェトナム民主共和国をハノイに建国した。
 これに対し旧宗主国フランスは【46】年からヴェトナム支配を再開するために軍隊を派遣し、49年には阮朝国王【バオ=ダイ】(【阮大】)を擁立して傀儡国家【ヴェトナム国】を【サイゴン】に建国した。ホーのヴェトナム民主共和国対フランス・ヴェトナム国の戦争が【インドシナ戦争】である。したがってこの戦争は旧帝国主義国の植民地支配復活に対する民族闘争という性格のもので、南北問題ととらえることができる。
 【1946】年から始まったインドシナ戦争は【54】年【ディエン=ビエン=フーの戦い】でフランス空挺部隊が大敗して終結。【ジュネーブ協定】では56年の南北統一選挙実施と北緯17度線を暫定境界線と決定した。しかし、共産主義の拡大を恐れ、【ドミノ理論】を展開するアメリカはこれにジュネーブ協定に調印せず、統一選挙を待たずに55年北緯17度以にアメリカの傀儡国家【ヴェトナム共和国】を建設し、【ゴー=ディン=ジェム】政権を支援した。【1965】年から始まるヴェトナム戦争は北の共産党政権対南の反共親米政権という図式、すなわち冷戦の戦争と見ることができる。



モスクワにいた二人の大統領

2012年12月01日 | 高2用 授業内容をもう一度

ゴルバチョフ書記長は1990年3月に共産党の一党独裁体制を放棄し、他の政党の結成を認めました。したがってこの段階で、ソ連邦共産党書記長=ソ連邦の最高責任者ではなくなったわけです。そこで、ゴルバチョフは初代ソ連邦大統領に就任し、ペレストロイカを継続しました。しかし、1991年8月にソ連共産党保守派によるクーデタが発生しました。クリミアに夏休みの保養に行っていたゴルバチョフ大統領をペレストロイカに反対する保守派が監禁した事件です。しかし、首都モスクワでは保守派のクーデタはモスクワにいたエリティン大統領に封じ込められました。このエリティン大統領とはソ連邦の最大共和国であるロシア共和国の大統領です。エリティン大統領も民主化政治家の指導者で、保守派クーデタに対する勝利をモスクワの戦車の上から叫びました。解放されたゴルバチョフ大統領はモスクワに戻ると、ソ連邦共産党の解散を決定しました。
 ソ連共産党が解散したことはソ連邦の存在そのものを否定することです。共産党解散と前後してソ連邦からバルト3国が離脱を宣言、さらにエリティン・ロシア大統領もソ連邦からの離脱を示唆したため、ゴルバチョフ・ソ連邦大統領は1991年12月25日ソ連邦の解体を宣言し、大統領を辞任しました。


イラン現代史

2012年12月01日 | 高3用 授業内容をもう一度

 中東とは,かつては近東と極東の間に位置する地域を漠然と指していたが,現在では西アジアおよびアフリカ北東部の総称として用いられている。それは古代オリエント文明が開花し,さまざまなイスラーム王朝の盛衰を経て,オスマン帝国の版図となった地である。その後,英仏の分割統治下に入り,今日の独立国となったのは第2次世界大戦前後のことであった。しかし,列強の思惑を反映した人為的な国境の画定は,民族や宗教の対立を増幅し,現在まで続く紛争の原因となっている。
 紛争の一つはパレスチナ問題である。この地域へのユダヤ人の入植がアラブ人との対立を引き起こし,さらに1948年イスラエルが独立を宣言すると,中東戦争が始まった。第1次中東戦争(パレスチナ戦争)はイスラエルの圧勝に終わり,敗北を喫したアラブ諸国では民族主義が高まった。エジプトでは1952年青年将校団のナギブとナセルを中心に革命が起こり、メフメト=アリーが建てたエジプト最後の王朝が滅亡した。さらに1956年ナセルによってスエズ運河の国有化が宣言されると,それが引き金となって,1956年英仏イスラエルとの間に第2次中東戦争(スエズ戦争)が勃発した。
 第3次中東戦争では,先制攻撃をかけたイスラエルがわずか6日間で大勝利を収め,新たにシナイ半島・ゴラン高原・ガザ地区・ヨルダン川西岸地区といった広大な占領地を得た。そのことがパレスチナ難民問題を深刻化させ,第4次中東戦争の火種にもなった。この第4次中東戦争ではアラブ諸国すなわちAPECが石油戦略を発動し,いわゆる第1次オイル・ショックをひきおこした、アラブ世界は国際社会にその影響力を見せつけた。
 このように中東戦争はイスラエルとエジプトを中心に戦われた。しかし両国間で1979年キャンプ・デーヴィット合意に基づきエジプト・イスラエル和平協定が締結されると,エジプトに代わってパレスチナ解放機構(PLO)が表舞台に登場し,イスラエルとの間で和平への道が探られることになった。
 中東では1908年代以降,もう一つの問題,すなわちイラク問題が浮上する。イラクが2度にわたり隣国へ侵攻し,国際社会をも巻き込む戦争へと発展したのである。イラン=イラク戦争の直接の契機は,イランにおいて革命が起こり,イラン=イスラーム共和国が成立したことであった。それに対して,イラクのサダム=フセインは1979年イラン革命の自国への波及を懸念するとともに,隣国の不安定化を覇権確立の好機ととらえ,侵攻したのである。続いてイラクはクウェートにも侵攻したが,国際社会はそれを非難し,対イラク軍事制裁に踏み切った。それが湾岸戦争である。結局イラクは敗北し,その後フセイン独裁政権も崩壊するが,いまだイラク国内の混乱は収まっていない。


エジプト現代史

2012年12月01日 | 高3用 授業内容をもう一度

 エジプトは1517年オスマン帝国の支配下に入る。1798-99年ナポレオンのエジプト遠征後、1831-33年1839-40年のエジプト事件でエジプト太守メフメト・アリーがシリアの領有には失敗したがエジプトの世襲権を獲得。メフメトアリー朝が成立した。1869年仏人レセップスがスエズ運河を建設。その後エジプト政府は財政難からその保有株式を1875年イギリス首相ディズレイリに売却した。1881年アラビ・パシャの乱を鎮圧したイギリスは翌82年エジプトを保護国化した。1920年代にワフド党のザクルールが反英活動を展開したが、やがてワフド党は親英に転じ、1936年ワフド党政権下に独立を達成した。

★エジプト現代史のチェック・ポイント
�メフメト・アリー朝滅亡の年は?
=1952年エジプト革命で滅亡
�エジプト革命の指導者は?
=ナギブ大統領
�エジプト革命の主体と成った党派は?
=自由将校団
�ナギブにかわって実権を掌握した人物は?
=サダト大統領


朝鮮半島の対外関係

2012年12月01日 | 復習用入試問題

2007 東京学芸大学 教育

 次の文章を読んで,以下の問いに答えよ(固有名詞など,漢字で書くべきものは漢字で解答すること)。

 朝鮮半島は, (1) 年以来,李朝が支配していた。李朝の基本的な対外関係は,近隣国とは(a)事大と交隣という言葉で表される関係,そして欧米諸国に対しては (2) であった。しかしながら,19世紀にはいると,朝鮮近海にも外国船が来航するようになり,とりわけ (3) の結果,1860年,北京条約が結ばれると(b)外国船の来航はより一層活発となった。このような李朝の対外関係は,明治日本の新たなる対外関係の模索により,大きく変貌することになった。1869年,明治政府は (4) を設置し,(c)新たなる対朝鮮外交樹立に向けて出発した。ところが,対朝鮮外交は日本側の思惑どおりには展開しなかった。李朝との交渉を進めつつも,結果として,(d)日本はまず清朝と外交関係を樹立せざるを得なかった。やがて,朝鮮国王の父であった摂政 (5) の引退後,朝鮮政府の外交方針は変化した。彼の引退が内政外交に及ぼした影響は大きく,これを契機として日朝間の外交交渉が開始された。日本は,1875年, (6) 事件を引き起こして外交関係締結の突破口とし,翌年,日朝修好条規を締結した。この条約では朝鮮は「 (7) 」の国であるとされるとともに,外交使節を相互派遣しうること,朝鮮の三港の開港,そして批准書交換を待たずして条約の調印後の即時発効,などが盛り込まれたが,実質的には朝鮮にとっては(e)不平等な条約であった。
 同じころ朝鮮国内では, (5) 派と王妃の外戚であった (8) 一派との政治的対立が深まりつつあったが, (5) の引退後,改革派勢力は勢力を得て,日本にならった近代化を進めようとした。しかしながら,開国や改革によって生活をおびやかされた民衆や兵士等の不満は大きく,1882年にはついに兵変を口火とする暴動が発生した。日清両国は軍隊を派遣して暴動を鎮圧したが,その後,朝鮮国内では清朝の影響力が強まり,その影響下に (8) 政権が再建された。しかし,改革を目ざす動きは継続され,1884年12月,保守化した (8) 政権(事大党)に対して (9) 等を中心とする改革派( (10) 党)は,清仏戦争における清朝艦隊全滅の知らせを契機としてクーデターを決行した。クーデターは一時的に成功するもわずか数日にして弾圧され,これ以後,清朝の影響力はより一層強まることになった。

問1  (1) から (10) に入る適切な語句を解答欄に記せ。

問2 下線部(a)の内容を50字以内(句読点等を含む)で説明せよ。

問3 下線部(b)の理由を40字以内(句読点等を含む)で説明せよ。

問4 下線部(c)に関して,徳川政権期の日本の対朝鮮関係について,外交,貿易面から120字以内(句読点等を含む)で説明せよ。

問5 下線部(d)の理由を40字以内(句読点等を含む)で説明せよ。

問6 下線部(e)の内容を記せ。


【解答4】
問1 (1) 1392 (2) 鎖国
(3) アロー[第二次アヘン]戦争 (4) 外務省
(5) 大院君 (6) 江華島
(7) 自主 (8) 閔氏
(9) 金玉均 [朴泳孝] (10) 独立
問2 外交的には清の冊封をうけて宗主国と属国の関係で結ばれるが,内政的には李朝の自主性が保たれる関係。
問3 北京条約の結果,朝鮮に近い営ロ,天津,芝罘の三港が開港地とされたから。
問4 外交的には,豊臣秀吉の朝鮮出兵[侵略]によって日朝関係は一旦断絶したが,17世紀初頭,徳川政権により再度国交を回復し,朝鮮国王と徳川将軍とを対等とする外交関係を結び,朝鮮はたびたび通信使を派遣した。また貿易は対馬藩(宗氏)を通じて行われた。
問5 朝鮮は清の属国であり,清の許可無くして外交関係の締結ができなかったから。
問6 (朝鮮の開港地において)日本にのみ領事裁判権を認めたこと。



20世紀以降の朝鮮半島

2012年12月01日 | 復習用入試問題

 次の文を読んで各問に答えよ。01年中央大学

 日清・日露戦争後の日本は海外市場の獲得をめざして大陸侵略をはかり,民衆の激しい反日運動を容赦なく弾圧して1910年に韓国併合を強行した。その推進者であった伊藤博文が独立運動指導者の A によって暗殺されたことからも,反日運動の強さがわかる。日本に併合された朝鮮は日本の天皇に直属する B による激しい統制支配のもとにおかれたが,1919年には独立を強く求める(1)三・一運動が起きた。この運動は朝鮮民族運動の出発点として大きな影響をあたえることとなった。この三・一運動以降,日本政府は C を断行して一種の同化政策をとったが,その内実は日本の習慣だけでなく言語までも強制するというものだった。特に日中戦争が開始されると日本の支配は朝鮮民衆の日常生活の隅々まで及び,朝鮮名を日本名にあらためさせる D などが進められた。光州学生事件などの朝鮮民衆による抵抗運動は徹底的に弾圧されたが, E は1936年に祖国光復会を組織して朝鮮の独立のために粘り強く抵抗運動を続けた。
 1943年に開かれた(2)カイロ会談で大戦後の朝鮮の独立が承認されたが,1945年8月に第二次世界大戦が終結すると,暫定的に北緯38度線を境にして北をソ連軍が,南をアメリカ軍が占領することとなった。冷戦構造を反映し朝鮮の独立方法をめぐって米ソの対立が続く中で,1948年に F を大統領とする大韓民国と E を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立した。しかし,南北の激しい対立はほどなく朝鮮戦争を引き起こした。大韓民国側には(3)アメリカ軍を主力とする国連軍が出動して,朝鮮民主主義人民共和国軍を鴨緑江近くまで押し戻し,これに危機感を抱いた(4)中国は義勇軍を派遣し,アメリカ軍対中国軍の様相をおびて世界大戦の危機をはらみつつ38度線で戦局は膠着状態となった。結局,2年間の停戦期間を経てようやく休戦となったが,これ以降南北朝鮮の分断は固定化され,世界の冷戦構造の矛盾を国家レベルで端的にしめすこととなった。
 大韓民国は反共の砦としてアメリカの世界戦略に位置づけられた。成立してわずか1年の張勉内閣をクーデタによって打倒した G は,日韓基本条約を結んで日本との経済的結び付きを強めたが,1979年に暗殺された。翌年に実権を掌握した全斗換大統領はさらに日本及びアメリカとの軍事的及び経済的関係を強化して経済の発展をはかったが,強権的な政策に反対する反政府運動のために退陣した。その後,史上初めて直接選挙で選ばれた H 大統領は1991年に朝鮮民主主義人民共和国と同時に国際連合に加盟するなどの成果を果たした。

〔設問�〕「A」から「H」にはいる最も適当な語を,すべて漢字で記しなさい。
〔設問�〕下線部(1)から(4)に関する下記の設問に答えなさい。

問1 下線部(1)の「三・一運動」について,正しいものを選びなさい。ただし,正しいものがない場合は�を選びなさい。
� ロシア革命の影響を受けて1919年3月1日にソウルで独立を求めるデモが起き,たちまちのうちに全国にひろがったが,日本の軍隊と警察によって徹底的に弾圧され,わずか1週間で鎮圧された。
� アメリカ大統領ウィルソンの14カ条における民族自決などの影響を受けて,1919年3月1日に京城で独立を求めるデモがおき,たちまち全国にひろがった。朝鮮独立万歳を叫んだので,別名万歳事件ともよばれる。
� ウィーン講和会議の影響を受けて1919年3月1日ソウル市民が朝鮮独立万歳を叫んでおこなったデモに端を発し,たちまち全国に広がった独立運動で,日本軍による徹底的な弾圧を受け死者多数をだしながら朝鮮革命軍の成立に結実していった。
� 金九の指導のもとに京城市民が独立を求めて1919年3月1日におこなったデモを皮切りとして,全国にひろがった反日独立運動で,大韓民国臨時政府の樹立を勝ち取ったが,明確な独立の理念がなく他力本願的であったため,すぐに消滅した。
問2 下線部(2)の「カイロ会談」に出席した人物について,正しいものを選びなさい。ただし,正しいものがない場合は�を選びなさい。
� ルーズヴェルト・チャーチル・スターリン
� ド=ゴール・スターリン・�拔介石
� トルーマン・ド=ゴール・スターリン
� ルーズヴェルト・チャーチル・�拔介石
問3 下線部(3)の「アメリカ軍を主力とする国連軍」について,正しいものを選びなさい。ただし,正しいものがない場合は�を選びなさい。
� 国際連合は常任理事国のひとつであるソ連が欠席のまま,緊急安全保障理事会で朝鮮民主主義人民共和国を侵略者として決議し,ほとんどアメリカ軍から成る当時世界最強の陸・空・海軍を動員した。
� 国際連合は国際連盟の失敗の反省にたって,アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・ソ連の5大国が拒否権をもち常任理事国制をとっていたが,ソ連が欠席のまま,朝鮮民主主義人民共和国を侵略者と決議した。
� 国連軍最高司令官として総指揮をとったマッカーサーは,共産圏封じ込め政策をとっていたアイゼンハウアー大統領に中国本土に対する爆撃と核兵器の使用を強く求め,解任された。
� 当時世界最強を誇っていた第7艦隊を朝鮮半島付近に派遣して朝鮮民主主義人民共和国に対する進攻を積極的におこなうとともに,朝鮮半島と台湾と日本を結んだ軍事的反共ラインの結成を強く促すこととなった。
問4 下線部(4)の「中国は義勇軍を派遣し」について,正しいものを選びなさい。ただし,正しいものがない場合は�を選びなさい。
� 中華人民共和国は国際連合の常任理事国となってはいたが外交政策では国際連合を相手にせず,もっぱらアジア・アフリカ諸国との関係を独自に切り開いていたため,アメリカ軍の進攻に対し兄弟国の支持を背景に大規模な義勇軍を投入した。
� このときの義勇軍の派遣により朝鮮民主主義人民共和国との関係は兄弟国として密接なものとなったが,大韓民国とは正式な国交関係のないまま現在にいたっている。
� 中華人民共和国が成立して国家主席に毛沢東が就任し,第1次5カ年計画を実施したばかりの時期にあたり,もっぱら国内の建設に忙しかったが,中国人民は祖国防衛の呼びかけにこたえて立ち上がった。
� 国防・工業・農業・科学技術の四っの現代化実現のために国内建設に邁進していたが,国連軍が国境まじかまで迫るという非常事態を受けて,多くの人民が義勇軍として立ち上がった。

【解答】 
〔設問�〕
A 安重根 B 朝鮮総督府 C 文化政治 D 創氏改名
E 金日成 F 李承晩 G 朴正熙 H 盧泰愚
〔設問�〕
問1 � 問2 � 問3 � 問4 �