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ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

甲子園は歓喜の渦(2011.06.15)

2011-06-16 10:40:23 | Weblog


弟夫婦からアイビーシートのチケットを貰って4人で応援に。タイガースグッヅをバッグに
入れていざ出陣。



今日は年にそう何日もないTシャツのプレゼントがありました。



こんなメニューを横目に席に着き、早めにビールと酎ハイで景気を付けて…



声援を送る変愚院夫婦。
しかし、相手は日本ハム、いや日本のエース、無失点記録更新中のダルビッシュ有。
「そうそう打てんやろ」「何とか1点でも先に取らんと」。と言ってると1回裏、鳥谷、新井
連続ヒットで1,3塁。「こら、ひょっとすると…」と言ってるとブラちゃん三振。



3回。復調著しいマートンを3塁において打席に鳥谷の場面。しかし、敬はあえなく三振。
「あ~~あ」「やっぱりアカンか」はては「まあ、きのう武田に勝ったし負けてもしゃあない」
と早や諦めムード。しかし、しかしこの後新井が打席に入ったとき、ダルがまさかのワイルド
ピッチ。労せずして1点が転がり込んだ…もう写真なんか撮っておれん。



関本の再三のファインプレーもむなしく同点にされて迎えた7回。ラッキーセブン。
タイガースの攻撃を前に風船上げの準備をする変愚院です。
ここでついにマートンが決勝打!「わ~~~」「打った~~」「バンザ~~イ」



そして榎田、小林、最後は当然、球児の必勝リレーで。ついに2-1の勝利。
その瞬間…より数秒あと。ようやくカメラを思い出して…



熱闘を物語るスコアボード



選手の皆さん、お疲れさん。ありがとう。ホンマにええ試合を見せてくれてオオキニ!!
一夜空けても興奮冷めやらぬ変愚院夫婦でした。

ササユリを尋ねて交野山へ(2011.06.14)

2011-06-15 13:58:50 | 山日記
ちょうどササユリが見ごろと知って交野山へ行きました。生駒山脈の最北端部にある標高
341mの低山です。山を始めた頃は岩登りの練習によく通ったところですが、この前に訪れ
たのはもう13年前になります。
 暑くならないうちにと早めに家を出たので、郡南街道(府道枚方大和郡山線)沿いの駐
車場はまだ閉まっていました。大阪側に少し下って駐車場所を探しにUターンしてくると、
ちょうど管理をする人が来られたところで「早いですね」と言われました。聞けば開門は
9時で、たまたま早めに来たということでした。まだ1時間も早いのに駐車できて幸いで
した。(7時50分)



「こげらの小路」の標識からスタート。以前来た時に比べると、要所に道標や標識が設け
られて道幅も広く、整備されて歩きやすくなっています。登り切って支尾根に出ると「せみ
しぐれの小路」に名前が変わり少し進んでから右手の谷に急降下して登り返します。
(1998年の山日記では、尾根のブッシュを漕ぎながら直進して山頂にでています。)
ちょっと汗ばむ頃、ゴルフ場の方からくる「やまかぜの道」と合流。右に下る「白旗池近道」
の標識がありました。



「石仏の道」分岐には立派な休憩所があります。



赤い鳥居をくぐったところで今朝初めて降りてくる女性に出会いました。右手に太いパイプ
が見えます。このパイプは消防施設でこの先、山頂を越えて白旗池の方に続いていました。
大きな岩が散在するようになり、三宝荒神の祠が置かれた岩もあります。短い梯子を登って
進むと交野山頂の「観音岩」の前にでました。(8時10分)



観音岩は太い鎖に囲まれて「交野山古代岩座跡」と彫られた石柱が立っています。岩の上に
登ると大阪市街のかなたに遠く六甲や北摂の山々が望めるのですが、今日はまだ昨日までの
湿気が残るせいかぼんやりしています。眼下に走る第二京阪道路が初めて見る眺めでした。
10分足らず遊んでササユリを探しに「源氏の滝」の方に下ります。



急な階段道を下り始めてすぐ緑の笹原の中に淡い色が見えました。道の両脇に美しいササ
ユリが咲いています。毎日登っているという方に出会い、この先でも咲いていると場所を
教えて頂きました。



この下り道は「おにやんまの小路」というそうですが、T字路で「やすらぎの道」を分ける
と水たまりのようなトンボ池があり、すぐにゴルフ場専用自動車道路に出ました。
道を横切るとトイレがあり遊歩道が白旗池に続いていますが、道路沿いにしばらく下って
みました。細い流れに出会うと左へ「源氏の滝」を示す標識がありましたが、今日はササユリ
が目的なので右へ遡ります。



予想通り、白旗池の土手を仰ぐ笹原に咲くササユリを見つけました。



8時55分、白旗池着。「源氏の滝」の源の「白旗池」、何やら歴史的な所縁がありそう
ですがちょっと調べてみると灌漑用の人工池で、そもそも「源氏の滝」の語源も昔あった
「開元寺」から来ているようでした。しかし池の畔には「いきものふれあいセンター」が
建ち、季節にはオシドリが泳ぐ姿が見られる「交野いきものふれあいの里」のシンボル的
な池です。



このまま帰るのは物足りないので国見山へ足を延ばすことにします。池の畔を東に歩くと
両側にフェンス、行く手にはトンネル。ここは交野カントリー倶楽部ゴルフ場の中を通る
道なのです。トンネルを抜けてしばらく行ったところでもササユリが咲いていました。

林の中の静かな道を行くと三叉路に出て、右は枚方野外活動センターへの道。国見山は
左に折れ北に向かいます。しばらくゆるく上ると左手にガレたところにロープが下がって
いるので登ると、小さな尾根にでました。左の無展望の小ピークへ往復して踏み跡を右に
行くと先ほどの道に合流。標識があり、国見山から下りてきたときにこの尾根に入り込ま
ないよう手書きの文字が注意していました。峠のような場所で「左へ2分」の標識。



木の階段道を登ると左手に交野山が見え、正面が大きく開ける国見山山頂(284m)でした。
しばらく(9時40分~9時50分)枚方市街の建物や霞む北摂の景色を眺めて同じ道を引き
返します。



三叉路までの広い道の両脇にも、あちこちで保護されたササユリがちらほら見られます。
次第に行き交う人が多くなった白旗池に帰りました(10時20分)。「いきものふれあい
センター」で動物の標本を眺めて、前の自然観察路を少し歩いて見ました。ここでも
ササユリが咲いています。帰りは池の畔の「いたどりの小路」を南へ。トイレのある
ところで並行してきたゴルフ場道路へ合流。渡って直進すると山頂への道ですが、来た
時の「白旗池近道」と出会う筈と専用道を少し登ってみます。案の定、草地の中に道が
あり少し登ると見覚えのある朝の道標にでました。

「せみしぐれの道」はセミの活躍するには時期が早く、代わりにホトトギスの鳴き声が
ずっと追いかけてきました。10時55分、駐車場帰着。ササユリの香りがまだ鼻腔に残って
いるよう…と♀ペンがいいます。低山ながら適度なアップダウンもあっていいトレーニング
になり、収穫の多い幸せな半日の山歩きでした。

BLOG衣替えしました(2011.06.11)

2011-06-11 11:08:16 | パソコン日記
3日前からTwitterとFaceBookを始め、今日このページにTwitterのパーツを貼ってみました。

それに伴って少々、ブログの衣替えをしています。
1.TOP記事の数を10から5に変更しました。
2.モジュールの配置を前の左サイドから左右両サイドバーにしました。
3.Twitter「変愚院のつぶやき」は左サイトにあります。

これからも、どうぞよろしくお願いします。

梅雨の晴れ間に大台ケ原へ(2011.06.09)

2011-06-10 09:40:38 | 山日記
いいお天気の筈だったのに、薄墨を流したような空。それでも予報を信じて5時40分、家を出ま
した。吉野では青空が見えて喜んだのも束の間、大台スカイラインに入ると濃いガスの中に突入。
早いので車が少ないのが幸いですが、慎重に運転してちょうど2時間でまだガラガラの駐車場着。

大型バスから降りてきた団体が歩き出した後から少し離れてスタート(7時45分)。時計回りで
日出ヶ岳へ先に登るか、逆にシオカラ谷から回るか、ちょっと迷いましたが結局、今日の一番の
目的、大杉谷への下り道にあるシャクナゲ平へ先に行くことにしました。

しっとりと霧に濡れた足元の笹原と苔の緑を楽しみながら行くと、梢からときおり水滴が落ちて
きます。大台の自然を紹介しているカラーの説明版が新しくなっているので、美しい野鳥の図版
を撮ろうとして唖然。何とカメラは持ってきたのにSDカードが入っていません。昨日、PCに入れ
たままだったことを思い出しましたが後の祭り。今日の写真はケイタイで撮る他ありません。



稜線に出たところで記念写真を撮っている大パーティを尻目に休まずに山頂へ。快調に木の階段道
を登り、8時30分、日出ヶ岳山頂に着きました。濃いガスの中で辺りの景色は何も見えません。



5分ほどすると大パーティが登ってきたので、大杉谷の方へ下りました。何度も下った道ですが、
見違えるように整備されています。10分足らずでシャクナゲ平。花期には少し遅いかと心配して
いましたが、何とか間に合ったようです。



この時期では1995年に義父母と来て以来です。思えばこのとき、義父84歳、義母80歳。私たちも
まだまだ負けておれません。



待望の花に出会え満足して山頂に帰りました。水分を補給して周回コースへ(08:35~09:00)



いままで正木嶺と呼んでいたピークには「正木峠」と書いた標識がありました。
振り返ると時々霧が流れて日出ヶ岳が現れます。ここまで、ずっと満開のシロヤシオの中に続く
木の階段道を歩いて来ました。鞍部から正木嶺に続くこの階段道ができたときは、嫌気がさして
二人とも「もう大台ヶ原に来るのは止めよう」と言っていたのに、それからまた毎年のように訪
れるのは、この山に手軽に高山の気分が味わえる魅力が時期を問わずにあるからでしょう。



白骨林の正木嶺を下ると、ようやく土の道になります。イトザサの美しい正木ヶ原に今日はシカ
の姿が見えません。尾鷲辻を過ぎてゴロゴロの石の道を登り、本ナゴヤ嶺(1593mピーク)を
下って再びイトザサの広い台地、牛石ヶ原にでると、♀ペンが数頭のシカの群れを発見!
きょとんとした顔で見送ってくれました。ここで初めて反対側からきた男性に出会いました。



シオカラ谷への分岐から大蛇に向かうとアケボノツツジの花が美しく咲き、道の上にも散り
敷いています。木の枝越しに微かに見える蒸篭の岸壁の縁も、ぼんやりピンク色に染まって
いましたが、すぐに流れる霧に隠れてしまいました。



シャクナゲ平往復のアルバイトを思い出して、いつもの「ヒルメシ岩」(注.私たちがいつも
食事をするので勝手に付けた大岩。「ここは大蛇ではありません…」の標識あり)の下に
ザックを降ろし身軽になって大蛇へ…。



しかし濃い霧の中で向かい側の竜口尾根はおろか、すぐ前の蒸篭すら見えません(10時30分)。
岩頭には男性が独り座り込んで、じっと霧の晴れるのを待つ構えです。(写真では♀ペンの
後ろに隠しています)



私たちはすぐに見切りをつけてヒルメシ岩に帰り、食事をしながら岩の上で晴れるのを待つ
ことにしました。周囲はアケボノツツジとシロヤシオの競演です。30分近く過ごしましたが
霧は一向に晴れる気配がなく、かえって濃くなってきたようなので分岐からシオカラ谷へ
下ります。



この下り道はシャクナゲ林の中ですが、残念ながら殆どの花は終わり褐色に変わっています。
やはり先にシャクナゲ平で花を見ておいて正解でした。



ガラガラの急な道を下りシオカラ谷へ。いつもは河原でコーヒータイムなどでゆっくりする
のですが、今日は休憩なしで吊り橋を渡ります。(11時50分)

登り返しの急登はさすがにこたえました。何度か立休みをしながら、ゆっくり歩いて12時35分、
駐車場に帰りました。半日殆ど霧の中で展望こそありませんでしたが、美しい花を愛でながら
静かな自然の中を歩き、シカさんにまで出会えて大満足で帰途につきました。

早朝の矢田歩き(2011.06/07)

2011-06-07 10:10:29 | 矢田だより


今にも降り出しそうな、どんよりした空模様です。雨に会わないうちにと5時過ぎに家を出ました。
5時20分、お地蔵さんの前をスタート。



5時30分矢田寺。
いつもの大石への道を見送ってアジサイの開花状況を見に矢田寺へ行きました。まだ、色づき始めた
ばかりです。



後ろの木はマキバブラシノキ(槇葉ブラシの木)



明治初年に渡来したオーストラリア原産の植物で、葉はマキの葉に似て、花は鮮やかな真紅のブラシ
の形です。



北僧坊前のお地蔵様の後ろに柏葉アジサイが見えます。



葉は柏の葉に似ていて、白い花は円錐形に盛り上がって他のアジサイとはちょっと変わっています。



参拝を済ませて矢田山最高所に登りました。まだ6時10分なのに気温18℃。湿度が高くムシムシして
います。かすかに東の山並みが見えました。



稜線を歩いて子供の森入口から東明寺へ下りました(6時45分)。
山の中のあちこちでウツキの花が満開でした。(写真、奥。手前はユキノシタの大群落)
ポツリポツリと雨が落ちだしたので急いで車に帰りました。(7時ジャスト)
誰にも出会わない薄暗くて気味悪いほどのうっとうしい山歩きでしたが、なんとか雨に会わずに
済んだのが儲けものでした。

今日の大和民俗公園 (11.06.06)

2011-06-06 16:51:36 | 矢田之花暦(やたのはなごよみ)
あまりにも不甲斐ないわが阪神タイガース。また昔のダメトラに逆戻りかと、ファンには眠れない
夜が続きます。明け方、遠くでホトトギスの鳴く声が聞こえ、とうとう♀ペンを起こして5時半頃
から歩き出しました。



公園への途中で見たチガヤです。あまりにも身近にあり過ぎて、これまで名前も知りませんでした
が、たぬきさんのブログで教えて頂きました。



さて大和民俗公園の花菖蒲園の様子です。早朝から熱心なカメラマンが写真を撮っていますが、
例年に比べるとまだ花の数は少ないようです。



これは同じ6月6日ですが、2009年の写真です。





里山東の池の土手に咲いていた黄色の花。キンケイギク(金鶏菊)だと思いますが…



キンロバイ(金露梅)が咲き始めました。菊と梅、どちらも鮮やかな黄金色です。



梅林の端の方で突っ立っている大木。真っ白な花をびっしりつけています。



標識には「キササゲ」とありました。
葉はキリに似ていますが秋には緑褐色のササゲに似た実をつけるそうです。
ただネットで調べた限りでは花の色は類縁のアメリカキササゲの方に似ていると思います。



さわやかな朝の空気を吸って爽快な気分で帰りました。これは我が家に咲いているノイバラ。
すぐ虫がつくし、狭いところではびこってトゲで刺されるので、もうすぐ根元から切られる運命です。

「矢田」地名の由来を歩く

2011-06-05 15:20:33 | 四方山話


このBLOGにも再三登場した矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社。
祭神は櫛玉饒速日命 (くしたま にぎはやひの みこと)と妃姫の御炊屋姫命 (みかしきやひめの
みこと)の二神です。
 神社の正面にプロペラが掲げられているのは、この神社が航空祖神とされていて「空の神」の信仰
から戦争中に奉納されたものです。

 ここの宮司、加藤 善孝さんは誰からも親しまれる温厚なお人柄で、変愚院も何かとお世話に
なっています。この方から以前「今、こんなものを書いています」と一枚のCD-ROMを頂きました。
『矢田坐久志玉比古神社から、大和の国を「そらみつ」』と題された、この神社をはじめ周辺の
神社仏閣、史跡、伝説等、膨大な古文書などの資料を網羅した、未完ですが精力的な大論文です。


<変愚院の孫に飼育されているメダカを見せて下さっている加藤宮司>

 その中に「矢田の地名」についての非常に興味深い話が記されています。
『饒速日命は天の神に命じられて「 天の岩船」に乗って河内国河上の哮峯(タケルノミネ)に天
降った。 その後、大倭国鳥身の白庭山に遷坐した。 空見津(枕詞)日本国というのは、このよう
に天の岩船で大空を翔け巡りながら、この国を見て天降られことからきている(旧事本記)』

 興味深いのは、この旧事本記にはニギハヤヒノミコトの降臨に従った防衛(ふせぎまもり)神々
32柱が、この摂社「舟人神」 に祀られていて、
その各々が後世の氏族の祖先となっていることが記されていることです。その名前が

1.天香語山命 アメノカゴヤマノミコト 尾張連等祖
2.天細賣命 アメノウズメノミコト 猿女君等祖
3.天太玉命 アメノフトダマノミコト 忌部首等祖……
32,月神命 ツキミタマノミコト 壹岐縣主等祖

というように列記してあり、近くは河内、山城から遠くは安曇、壱岐・対馬までのオビトの祖先の
名前がでてきます。



現在、氏子の中で宮座を務める方々は、毎年、境内の「二の矢塚」に縄を巻きつけてこれら神々の
子孫である出自を確かめ合って結束を固めておられるといいます。

また、これらの神々に従った 5人の部人(以下の名にはミコトがついていません)、
5人の部造、25人の天物部、さらには船長・ 天津羽原アマツハハラはじめ 、梶(舵)取<航海長> 、
舟子<水夫>の名前まで列挙してあります。
 
天孫降臨といえば変愚院の子供の頃は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が日向の高千穂峰に天下ったと
学校でも教えられたものですが、どうもこれとは別の系列の神話が存在していたようです。

加藤宮司の論文には古い口碑として『矢田は往古より白土の産地にして全山到る所白土を出す故に
白庭山と云ふ。
 饒速日命 天降ります時、天神より天乃羽羽矢、天乃羽羽弓を賜り、祝て三本の矢を射放ちて其矢の落
ちし所に宮居らんと、 即ち此矢田に落ちたり。今に一の矢二の矢三の矢と云ふ字あり。
 神社より南方約五丁に一の矢あり。二の矢は当境内地にして、三の矢は北方約五丁にして塚の如き
ものあり。 御社号を一名矢落明神又村名矢田と云ふも之がためなり。』と記されています。

 現在、一の矢以下の名のついた「字」は残っていませんが、上に記された場所(現在は畑の中の
木立の中)に「一の矢塚」、



また「三の矢塚」には前市長の筆になる「邪馬台国伝承地」の碑が立っています。
『物部氏の祖神神饒速日命を祭神とする矢田明神社を中心に南方はるか三輪山、大和三山などを一望
できるこの要害の地こそ、物部王朝邪馬台国説による、女王卑弥呼の宮居した伝承地にふさわしいと
考えられる』
 これは鳥越健三郎・大阪教育大名誉教授が「大いなる邪馬台国」という著書の中で述べているもので、
ニギハヤヒノミコト降臨神話は物部氏の部族移動の神話的表現とします。その根拠として「物部氏の
大和入りは邪馬台国建国の時期に重なる」ということですが…



ともあれ大和郡山市では毎年「卑弥呼コンテスト」まで開かれ観光キャンペーンに利用されています。

ところで物部氏といえば古代軍事氏族で、のち石上神社の祭祀を司っています。この石上神社は加藤
論文によれば、
『当神社の「里宮」にあたり、当神社は石上神宮の「奥宮」となります。また、八坂神社→矢田坐久志
玉比古神社→主人神社の三社(共に綱掛祭を行なう)を結ぶ線の延長上に、石上神宮が鎮座しています。
石上神宮から見て矢田坐久志玉比古神社は、乾の方角にあたり゛主人゛の意味を持ち、夏至のときの
太陽の沈む方位でもあります。古代人は、夏至の太陽の沈む方向には「神の世界」「祖先の世界」がある
と信じていました。』

宮司の論文には、他にも「天磐船考」「矢田部氏と旧矢田村」「日本医療の祖神は饒速日命なり(第二
次大戦中?の参詣者書簡)など興味深いものが数々含まれていますが、このレポートでのご紹介はこの
辺りで終わります。

今日の大和民俗公園(2011.06.03)

2011-06-03 17:08:23 | 矢田之花暦(やたのはなごよみ)


梅雨の中休みですが、まだどんよりした薄曇りで気温だけが高い朝です。





タイサンボクが開きました。オオヤマレンゲと同じモクレン科ですが、大木で高いところに咲いて
いて、あまりいい写真が撮れませんでした。



ハコネウツギ。花の色が白から次第に薄紅色に変わっていきます。



アジサイが次第に色づいてきました。(5.31日に写したものと同じ花です)



花菖蒲園近くのアマリリス。真紅のこの花は「色がどぎつ過ぎる…」ので、♀ペンはあまりお好き
ではないようです。



で、その近くのフランス菊。「こんなん、どこにでもある花や…」。とことこ歩いて帰る途中、



歌ヶ崎御廟へ寄りました。高さ30mほどの丘の先端部に設けられています。鬱蒼とした林の中の石段
を登ります。



郡山藩主・本田忠常(1709年没)の墓所で、大きな亀の形をした石の台座の上に立つ墓碑には忠常
の経歴が刻まれていいます。
本田忠常は家康の四天王と言われた本田忠勝の孫・忠義の六男で郡山藩二代目の城主です。(初代
は兄の忠平)
以前はお墓の前まで行けたのですが、整備されてこの門の前までしか行けなくなりました。

こんな本を読みました(2011.06.02)

2011-06-02 11:09:57 | 読書日記

谷川 彰英著 KKベストセラーズ 「ベスト新書」2010年4月(初版)刊

数日前にレポートした「大阪地名の由来を歩く」と同じシリーズです。

ただし、著者は別人で表紙裏の紹介によると「筑波第教授、副学長からノンフィクション作家に転身」
「各種テレビ番組でも活躍。」している方で、本書「はじめに」によると「柳田國男の教育思想研究」
で学位を取り、「一連の作品はその延長上にある」。

内容は第1章「春日に隠された謎」に始まります。なぜハルヒと書いてカスガと読むのか、筆者の結論
は「霞んで見える山」つまり「カスミヤマ」ではなかったか。ということで、「太古の時代からこの山
一帯は春がすみの立つところで…その証拠ともいえる歌を発見した」と記されています。
 
ただ、この証拠は万葉集の中の一首で筆者自身「たぶん八世紀の後半に読まれたものであろう」と言わ
れていますので、先の「太古の時代から」の文章と矛盾します。これは一例ですが、どうも変愚院には
他の個所でも「こじつけ」とまでは言いませんが、自説へ少し強引に誘導されるように思えます。

第二章は「神武天皇の足跡を地名で追う」、つづいて「神社名から奈良の歴史を説き明かす」、「現代
に生きる奈良仏教」、「峠を越える」、「奈良の難読・おもしろ地名」、「奈良に集まる・奈良に消え
る」と続きます。

最後の思わせぶりな章は、簡単に言うと「明治30年まで今の奈良県は存在しなかった」「明治9年か
ら10年間近くは奈良は消えていた」という歴史上の事実に過ぎません。結びは「このような歴史を見
てくると、奈良県が何となく近代の流れに押されてきたという印象はぬぐえない。もっと反骨精神を
持って改革に取り組んでほしいという期待が湧いてくる」これで本書はおしまい。

読み終わっての感想は、この結論に象徴されるようにこの本は「どうも旅行者の目線、他者もんの観察
やなあ」ということです。前に紹介した「大阪の地名…」は、地名についてはもちろん、文章の端々に
「消え行く古きよき時代の大阪」への愛惜の念があふれていたように感じました。

この違いは何故でしょう。「奈良地名の…」の著者は長野県松本市生まれの方でした。