ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

春爛漫(4.6)

2008-04-06 18:43:51 | 矢田だより


朝ご飯を食べた後、ひとりで矢田山へ歩きに行きました。
矢田寺は桜が満開で、味噌舐め地蔵さんのお顔も華やいで見えます。



本堂前のシダレ桜



大和郡山の桜は郡山城跡が有名で日本さくら百選にも入っていますが、この矢田寺の桜も隠れた名所です。



お参りしたあと矢田山三角点へ登りました。ショウジョウバカマの花に出会えました。



見送り地蔵さんをあとに、うっすら汗をかいて家に帰りました。
往復2時間半のいいトレーニングになりました。

新龍アルプス(3)

2008-04-05 09:36:51 | 山日記


後は下り一方で楽勝だと思っていたが、地図の点線路ではなく南の尾根を下る道は予想外に厳しかった。かなり急な傾斜に小岩が階段状に連なって、朝からの長丁場に疲れた足が悲鳴を上げる。ときどきコバノミツバツツジのピンクの花が目を慰めてくれるが、眼下に見える街の屋根がなかなか近くならない。



ようやく野見宿弥神社(地形図では墓)にきて思わず階段に腰をおろした。宿弥と関わりのある出雲大社千家氏の家紋が入った大きな石の扉の奥に石の祠があり、横綱常陸山を始めとする力士の寄進した玉垣で囲まれている。

たつの市のパンフレットによると、宿弥が大和から出雲に帰る途中、この地で病死し、出雲からきた大勢の人が川からリレー式に石を運んで墓を建てた。「野に立つ人」→「立つ野」→「龍野」となったという地名伝説である。



石段を下ると松平定信が眺望を絶賛したという聚遠亭の一角で、見上げると桜の花越しに的場山が高かった。



花見客で賑わう竜野公園の「さくら路」前のテーブルに陣取って、缶ビールとSさんが運んできてくれた地酒で乾杯し今日の山行を終えた。

全行程約16km、低山とはいえ起伏に富んで結構しんどい、しかし充実した6時間の歩きでした。

新龍アルプス(続き)

2008-04-05 09:15:40 | 山日記


午後は数分の急な登りで展望東屋(建物はない)にでると、あとは稜線上のなだらかな登りが亀山(きのやま)へ続いいています。
道はかっての山陽自然歩道で、現在の地形図では近畿自然歩道と表記されています。


4等三角点458mのある亀山山頂は樹林に囲まれて展望は今一つ。
この山は古代と中世に山城が築かれたので「城山」の別名を持っています。
奈良時代の遺構である「門の礎石」を見るため、ザックを置いて西側へ5分ほど枯葉を踏んで下ると、10mほどの間を置いて四角い穴のあいた大石が二個横たわっていました。しばし、古い歴史に思いを馳せて山頂に帰りました。



ゆるく下ると山間の窪みのような平地があり、鬱蒼とした樹林に囲まれて陰気な雰囲気が漂います。
1441年、赤松満祐が室町幕府との戦いに敗れ、落城したときの山城跡です。
嘉吉の乱で倒れた人の供養塔が建っています。



杉の植林帯を抜け出して明るい尾根道になります。
「越部古道」の地図に「つつじ尾根コース」と記された気持のよい稜線です。
朝の薄曇りの空が次第に晴れてきて、暖かい春の日差しが降り注いでいます。
行く手に無線中継塔の立つ的場山が見えますが、その間に何度かアップダウンがありそうです。まだ予定の行程の半ばだと気を引き締めます。


389mのピークを越して急勾配のがらがらに風化した岩屑道を下ります。
次の382.79mピーク(点名・佐野)に登ると、東側に佐野に下りる道を分けます。縦走路はもう一度鞍部に下って登り返します。先ほどから見えていた舗装道路に出ました。無線塔建設や点検に使われる道路のようです。
的場山への最後の登りは丸太の階段道で、あと一息と頑張って登りつきました。



三等三角点394.2m的場山(点名・龍野)の山頂には、3基の無線中継塔がやや目障りですが、緑の原生林に覆われた鶏籠山や揖保川を挟んで竜野市街の眺めが美しく眼下に展開します。



Sさんにトンガリ山や遠くの書写山などを指さして貰い、しばらく最後の山頂からの眺めをほしいままにしました。(まだ続きます)

新龍アルプス(4.2)

2008-04-04 10:08:12 | 山日記
新龍アルプスは兵庫県たつの市新宮町と龍野町を結んで揖保川の西岸に300~400mほどの低山が連なる丘陵です。
播磨の山に詳しく、著書も多いSさんの案内でJACの有志と歩きました。



姫新線の終点は新見ですが、殆どの列車は播磨新宮どまりで、たつの市の中心駅となっています。駅を降りると「赤とんぼ」の記念像があり、正面に祇園岳が美しい姿を見せています。(09:55)



揖保川にかかる旭橋を渡り、しばらく国道を歩きます。この辺りは「播磨国風土記」に「越部里」と呼ばれたところで、国道脇に石碑がたっていました。

「越部里 旧名・皇子代里 上、中、中 所以号皇子代者、匂宮天皇之世、寵人但馬君小津、蒙寵賜姓、為皇子代君而造三宅於此村、令仕奉之、故曰皇子代村、後至上野大夫結三十戸時、改号越部里、一伝、自但馬国三宅越来、故号越部村」



のどかな佇まいの民家の間から山に向かいます。越部八幡神社、淡島神社が並んで立つところから次第に雑木林の中の林道になります。

上堰堤休憩所から薄暗い谷沿いの道に入ります。
滑滝のような一枚岩に流れる水を見ながら、倒木を潜ったり、虎ロープの張られた急坂を登ったりして十字路になった峠にくると、反対側から水布弥コースが登ってきています。



ここから数分の急登で祇園岳に着きました。三角点の先の岩頭から眼下に新宮の町が見下ろせ、すばらしい眺めでした。
写真は元の道を十字路に下るときに見た、この辺りで最も高い山です。



十字路峠に帰り、雑木林の急坂を足もとのシダやササを漕ぐように登ります。30分ほどで東側から大手道コースが合流します。
ほとんど読めなくなるほど「南無阿弥陀仏」の文字が薄れた石があり、続いてあまり形の似ていない蛙石が現れ、間もなくこの亀石に出会います。



稜線を離れて西へ数分の亀ノ池(きのいけ)に下ります。
かなり古くから灌漑用に利用されてきた大きな池の畔で、腰を下ろし昼食をとりました。(12:15~12:50)