ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

追分梅林と民博梅林(3.15)

2008-03-15 21:46:25 | 矢田だより
お水取りも終わり、奈良に本格的な春が来ました。
季節も梅から桜に移っていきます。今日は追分梅林へ行きました。



矢田(北村)の集落を抜ける途中にある古い道標とお地蔵様。



家から早足で歩いて1時間ほどで追分梅林に着きました。
ちょうど満開で大勢の人で賑わっていました。



驚いたのは梅林の一角にダチョウが4羽、飼われていたことです。



鳥と言えば片隅の池で静かにサギが佇んでいました。



北側の梅林は特老ホームが建築中で変貌しつつあります。
今までは南側同様、素人カメラマンやお弁当を食べる人が多かったのですが、下半分が工事中のためか、まったく人影がありません。
でも美しい梅林の景色は変わらず、たくさんのメジロたちが飛び交っていました。



出発するときは曇っていた空が、午後には真っ青に変わりました。
子どもの森から矢田山へ行こうか迷ったのですが、今日はあまり時間がないので東明寺にお参りして下りました。
草餅をお土産に帰る道は、大和民俗公園を抜けていきます。
こちらの梅林も満開で、かぐわしい香りがあたり一面に漂っていました。

高取・町家の雛めぐり(続き)

2008-03-14 22:25:37 | 旅日記
だんだん季節からずれますが、綺麗なお雛様を見てください。



「夢想館」手作りのお雛様。細かい部分にまでこだわった、その
精密さに驚きます。



旧JAの「ひなの里親館」
徳島県勝浦町から預かった大勢のお雛様の一部です。



いかにも奈良らしい一刀彫りのお雛様。(お家の名は忘れました)



かなり年代物のお雛様。(同上、すみません)



ちょっとこの写真では分り難いですが、髪飾りをした三人官女が特徴です。



「衣料の店まつむら」さんの、木目込みのお雛様。

まだまだ紹介しきれないお雛様が、それぞれのお家でたくさん展示されています。
期間は今月いっぱい。奈良へ来られる機会があれば、ぜひお訪ねください。

高取・土佐まちの雛めぐり

2008-03-12 17:56:06 | 旅の想い出
遅くなりましたが、美しいお雛様の写真を見ていただきます。



お雛様を見せてくださるお家には、外にこの飾りが出ています。



新聞にも紹介された、手作りのお雛様教室を開いておられる方のお雛様です。



ちょっと中心から離れた処に建つ増本家の豪華なお雛様。



両脇に美しい手作りの匂い袋が吊られています。



これも手創りの可愛いネズミのお雛様。
「遠いところまで見に来てくださって…」と若奥様からお礼を言われて恐縮しました。



珍しい竹で作ったお雛様。(続きます)


高取町・土佐まち界隈

2008-03-09 10:10:23 | 旅日記
先週、高取山に登った帰りに立ち寄った土佐町は古い歴史をもっています。
奈良時代に土佐の国から労役にきた役夫たちが帰国できず、この地に住み着いて故郷の名を残したことが始まりとされています。



中世、植村氏が入部してからは産業でも栄え、道筋にはこの伊勢屋のほか、観音寺や、さつまや、池田屋などの商家がたち並んでいました。



高取山に向かう細長い街道。現在は歩きやすく整備され、薬草の絵タイルも埋め込まれています。



今でも昔の面影を残す薬屋さん。



大和特有の建築様式を残すおうち。



沢市お里の菩提所がありました。



この土佐町では昨(平成19)年から、住民たちの手で「高取土佐町なみ・町家のひなめぐり」が行われ、60軒以上の町屋がそれぞれのお家のお雛様を展示されています。
このおうちにも「お雛様展示中」の目印がでています。

小楠公をご存知?(3.8)

2008-03-08 21:35:55 | Weblog
何十年振りかに母校を訪ねました。
駅から学校への途中にある商店街はすっかり様変わりしていましたが、突き当りにある「小楠公墓地」は昔の静かな佇まいをそのまま残しています。



「吉野を出でてうち向う、飯盛山の松風に…」と唱歌「四条畷」にあるように、小楠公・楠正行(クスノキマサツラ)は父、正成(マサシゲ)が湊川の戦いで戦死したあと、父の遺志をついで足利軍と戦いをつづけ、ここ四条畷で若い命を散らしました。

以下は「説明板」を写しました。



『この墓地は南北朝の南朝忠臣楠正成の長子正行公が足利尊氏の武将高師直(コウノモロナオ)の大軍と戦い、戦死し葬られた所である。正平三年一月、以下から六三三年前で、その後、ここに小さな石碑が建てられていた。その後一〇〇年あまりして何人かが碑の近くに楠を植えたが、これがその二本合し、石碑をはさみこみ、このような大木、樹齢約五五〇年)となった。今も正行たちの忠誠を永遠に称えている。わが会は この意義ある楠を保存する。    
 昭和四六年三月三十一日  大阪府天然記念樹に指定されている
畷古文化研究保存会』                 

母校の校章には楠があしらわれ、校歌にも飯盛山や楠が歌われています。
振り返ると中腹にある四条畷神社への道がまっすぐに続き、日夜仰いだ懐かしい飯盛山の姿がありました。

高取山へ(3.6)

2008-03-07 11:40:57 | 山日記
高取山は高市郡高取町、西国三十三カ所第六番札所・壺坂寺の東方にある、標高584mの山です。



10時10分、壺阪寺の駐車場に車を置いて出発。



境内を抜けて、しばらく車道を歩くと五百羅漢への分岐があります。



この石仏群のある場所は、かって壺坂寺奥の院・香高山(こうこうざん)のあった場所です。
今は新しい石仏群と山中の石仏を巡る遊歩道が付けられています。遊歩道とは名ばかりで、下りで使った道よりもきついくらいでした。
石仏は羅漢様だけでなく、十一面観音などの菩薩・如来、大黒天などの神様までさまざまです。
お顔のはっきり残っているもの、ほとんど薄れてしまっているもの…さまざまな長い年月を過ごしてこられたことが分かります。(10時30分)



登山道はゆっくりと高度を上げていきます。伐採された木をぶら下げたヘリコプターが何度も頭上を往復し、ローターの音が騒がしかくて困りました。
一度車道にでて、すぐまた山腹の道に入ります。
切り倒されてワイヤーをかけられた杉の木が何本も斜面に横たわり、数人の山仕事の人たちが焚火を囲んでいました。
二度目に車道に出て、次に山道に入るところに「発掘調査中のため立ち入り禁止」の標識がありました。




しかたなく車道終点まで歩き、「七つ井戸」の標識から資材運搬用のモノレールに沿って急登します。



この山の天嶮を利用して、南北朝時代に越智氏(南朝方)が城を築きました。
のち戦国時代の本多氏を経て、江戸時代寛永年間に植村氏が大改修を行い、明治の廃藩置県まで高取藩二万五千石の居城でした。(この植村家のお殿様の子孫が、今の高取町長さんです)
いくつかの櫓跡の石垣が残っています。



本丸の跡には大きな展望盤があり、山名板も落ちていました。
女性5人のグループがいてカメラのシャッターを切るように頼まれました。
ここからは高見山や台高、大峰の山々が見晴らせました。



三角点は天守閣あとのもう一段高い所にありました。
頂上滞在10分(11時25分~35分)。
お弁当を広げたグループに声をかけて、お先に下山しました。
12時30分、壺阪寺に帰りました。

久しぶりの大阪城

2008-03-07 10:53:27 | 旅日記


4日、大阪城に行った時の写真です。まず太閤さんを祀る豊国神社へ。



大阪と言えばトラ…じゃなかった大阪城。
この金の虎は天守閣の四面に2頭づつ計8頭。
東西南北でそれぞれトラの種類が違うことを初めて知りました。



近頃は松本城へ行くことの方が多くなって、すっかりご無沙汰の大阪城。
ましてや天守閣に登るのは何十年ぶりでしょう?
変愚院は大学受験のとき、隣席だった他府県の受験生を案内して以来。
♀ペンもあまり昔のことで、忘れてしまったそうです。



天守閣で内部の展示をじっくり見たあと、梅林へ行きました。



梅林のウメは1,250本。さまざまな品種の木が植えられています。



ちょうど夕刊の梅便りで「満開」となった日で、梅の香りを満喫することができました。



一日たっぷり遊びました(3.6)

2008-03-06 23:01:34 | 旅日記
9時に家を出て、10時10分壺阪寺に車を置いて高取城址のある高取山へ。



五百羅漢を見ながら登ります(10時45分)
山中の岩に様々な神仏が彫られています。



本丸跡(11時30分)。高見山や台高の山並みが見えました。
三角点は右に見える天守閣跡の上にありました。



壺阪寺に降りて拝観と昼食(12時30分~13時45分)
御本尊にお参りしたあと、広い境内をゆっくり見学。



高取町土佐街なみ「町屋の雛めぐり」(14時~15時45分)。
60軒以上のお家で、それぞれの思い出がいっぱい詰まった大事なお雛様が展示されています。



今日のお土産。
牛乳で作ったお酒「乳華」と「だんご庄」のおだんご。

詳しくは後ほど…