ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(7・続き)~(10)

2015-02-17 20:58:48 | 四方山話

大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。

(07)矢田山-2

 

「矢田の大石」 アジサイで有名な矢田寺の北西、境内から矢田山へ向かって町石道を登っていくと高さ約8mほどの花崗岩の丸い石が、今にも転げ落ちそうに斜面から突き出しています。王石とも足形石ともいいます。壬申の乱(672年)の時、大海人皇子(のちの天武天皇)が戦勝を祈願して矢田山の上から馬にまたがったまま飛び降りたとき、馬の足形がついたためと伝えられています。またこの石を割ろうとすると血が流れ、その跡が根元に見られるとも言われています。駒井保夫「郷土の伝説」(昭和55年)によると、負け戦で矢田の地に逃れた皇子が矢田山の頂上に瑞光を見て登ると、一つの石が光を発していた。『現在もこの石は御祈念石とか、きつね石とか呼ばれ残っています。』皇子はこの石の前で戦勝を祈って白馬に乗って飛び降りたと書かれています。私は御祈念石を探してみましたが、それらしい岩はまだ見つけられません。また肝心の馬の足跡も、血の筋も見ることは出来ませんでした。

(07) 矢田山-3

「地獄を見てきた上人」矢田山中腹にはアジサイの寺で知られる矢田寺が建っています。このお寺は「矢田の地蔵さん」として知られ、味噌舐め地蔵はじめ様々な伝説を持つ地蔵さんが安置されています。建立当時の本尊は十一面観音でしたが、平安時代に矢田寺に入った小野篁(おののたかむら)の師匠・満慶上人が、身体は朝廷に仕えながら魂は閻魔王宮にあったという篁に乞われて、地獄に行って閻魔王に菩薩戒を授けます。このとき人々に代わって数々の地獄の責め苦にあう地蔵菩薩に、娑婆に帰って人々に仏縁を結ばせることを誓い、仏師に地蔵さんを作らせて安置したのが「矢田の地蔵」の始まりとされています。

また閻魔王から、うるし塗りの箱を一つ受けとりました。帰って開けてみると箱には白米が入っていて、いくら使っても、すぐまた一杯になります。それ以後、満米上人と呼ばれるようになりました。今は「矢田へんろ道」の最高所で私たちを見守っておられます。

(08)松尾山

「中腹に日本最古の厄除け寺、山頂にはTV中継所」山名は尾根に松の木が多いことに由来したという説がありますが、確かにアカマツ林が目立ちます。30数年前まではマツタケも採れました。東山腹に建つ松尾寺は718年、日本書紀編纂者の一人・舎人親王(天武天皇皇子)の発願。書記の編纂が始まった時の年齢が42の厄歳だったため、日本書記の完成と厄除けを祈願して建立されました。「日本最古の厄除け観音」として特に二月の初午の日には多くの参詣者で賑わいます。

また春のバラ、初夏のユリなどの花園も解放され、夏には小学生の「一休さん」修行体験も行われます。山頂(315m)は寺の10分ほど上で、NHKと民放TVの無人放送局と電波塔が立っています。

山頂北側の松尾湿原は、ハッチョウトンボやモウセンゴケなど貴重な動植物の生育地でしたが、今は絶滅の危機に瀕しています。ここだけでなく矢田丘陵の動植物は、近年になって急激に種類も数も減少しています。普通に目にしたキジやウサギも滅多に見かけなくなり、代わりにイノシシやアライグマが出没しています。豊かな里山の自然が消えて行くのは本当に淋しく思います。

(09)神野山(こうのさん)

「天狗の喧嘩でできた奇景」 昔から「神の山」として崇められた大和高原の奥にあるなだらかな山容の山、619m。一等三角点の山頂(展望台があります)からの展望は素晴らしく、5月に山頂付近を彩るツツジの群生も見事です。この山の中腹にある鍋倉渓は大小の真っ黒な石(角閃斑れい岩)が 600 mにわたって谷を埋め、その下を伏流水が流れている奇観で、天然記念物になっています。

昔、神野山の天狗と伊賀・青葉山の天狗が喧嘩をして、伊賀の天狗が投げた石が鍋倉渓になったという伝説があります。神野山の天狗はわざと負けたので、伊賀の山は石がなくなったとか。また「ナベクラの水を見た者は百万長者になれる」「正直ものが岩の間を覗くと死んだ親の顔が見られる」と言われたそうです。

(10)城 山

「山頂を削って城に?」 名古屋に向かう名阪国道(25号線)は天理から東へ五ヶ谷インターを過ぎたところで鋭くカーブします。その頂点の北側にあるのが城山で、頂上部分は小さな台形をしています。これは元の山頂を削り取って城塞にしたものと考えられています。戦国時代には筒井順慶の一族であった椿尾氏の山城があったところで、別名「椿尾塁(つばおるい)」と呼ばれています。南椿尾の集落から荒れた林道、さらに草深い道を探り行くと、赤い鳥居が並ぶ奥に神号を彫った石碑が五つ。真ん中に大宮姫大神、横に光吉、光姫、高城、高宮の名が見えました。

529mの三角点はすぐ左上、数mのところにありました。現在、山頂付近はかなり荒れている様子です。