ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

古事記を口語文で…

2012-09-04 08:47:26 | 読書日記
 今年は712年に古事記が編纂されて(異論もあるが)1300年目にあたるので、奈良県や私の住む大和郡山市でもいろんな事業も行われているが、一昨年の「平城遷都1300年祭」に比べると今一つ盛り上がらないのが残念である。

大和郡山市では毎年「記憶力大会」が開かれている。これは古事記の編纂者の一人とされる稗田阿礼(ひえだのあれい)が大和郡山市稗田の出身とされていることに由来している。阿礼は非常に記憶力の良い人で、一度目や耳にしたことは決して忘れなかったといわれる。「古事記」序文によると、舎人として仕えていた天武天皇に命じられて「帝紀」(天皇の系譜、事績)「旧事」(昔の出来事)の誦習を命じられた。のちに元明天皇の代に詔勅によって阿礼が口誦し、太安万侶が筆録して古事記が成立した。現在、稗田町には稗田阿禮命を祭神とする賣太(めた)神社がある。

 古事記の内容については神話や昔話として知っていること、いや、私たち戦前の教育を受けた世代のものにはとっては「歴史的事実」として小学校で教えられたことも多い。しかし、いずれも断片的な知識で、この歳になるまで全文を読み通したことはない。原文は無理でも、せめて朧げにでも全体像を掴めたらとこんな本を読んでみた。
 

この本は語り部の古老が若者たちに「ふること」を語るというスタイルをとっている。古事記成立までは「歴史」は文章でなく「口で伝えられて」いたのだから、文章で読むより当時の聞き手に近い形で「受け取れる」ともいえる。古事記の原文には話が急に飛ぶところが何カ所もあるが、この本では、自称「老いぼれ」の語り部が、原文にはない独白を語ることで原文の繋がりにくいところを補っている。たとえばヤマタノオロチの話では、原文で怪物を退治した最後の場面で「蛇」という言葉がでてきて怪物の正体が分かるのだが、『ところでの、そのヤマタノオロチというのは、酔うて寝ておるところをよくよく見たれば、ただのクチナワの大きなやつだったというわけじゃ』と話す。もっとも時には『いや、どうにも、この老いぼれには分からんわい、神の代のことじゃでのう』と片づけることもあるが…。

もう一つ、この本の特徴は各章ごとの詳細な注釈である。活字の大きさを考えれば「本文」よりも多量になるかも知れないこの注釈が、読み応えがあり実に面白い。先ほどのオロチの場面では、他に化け物が正体を現す例として「さいちくりんのけい三足」や「四足八足二足横行左行眼天にあり」の昔話を引いている(答えは「西の竹林にいる鶏の足」と「カニ」)。さらに「天の浮橋」を宇宙ステーション、「天の御柱」をトーテムポールにたとえるなど、現代の読者に分かり易くする配慮が随所にみられる。
 

「神代編」はイザナキとイザナミ(作者は命や神を付けない)の国生み神話に始まり、天岩戸の物語、ヤマタノオロチ退治や大黒様と因幡の白兎などのエピソードを散りばめながら神武東征で終わる。次の「人代編」は神武以降の三十三代の天皇の事績であるが、皇位継承をめぐる骨肉の争いや陰謀、はたまた男女の葛藤など次第に人間味が臭くなる。しかし「ヤマトタケル」の英雄談、常世の国にトキジクノカグミを求めるタジマモリの話、雄略天皇が葛城山で一言主神に出会う話など、まだまだ神話世界の趣が濃厚である。逆に言えば、最後の推古天皇の時代で語り部の役割が終わり、確実な資料の残る「真の歴史」時代に入っていく。語り部も「これからは字と筆の世じゃ」と述懐している。
 この本は本文では「○○天皇」という後代のおくり名を使わず、すべて当時の呼び名のカタカナ表示である。たとえば推古はトヨミケカシキヤヒメであるが、これが却ってピンと来ない事が多い。やはり、私たち日本人は漢字という表意文字に慣らされた人間だった。
 

「口語訳」は洒脱な説明があったとはいえ大学教授の著書であるのに対し、この本の著者はエッセーを得意とする作家である。これまでにも「ギリシャ神話を知っていますか」「旧約聖書を知っていますか」などの著書を読んできたが、この本もその流れを汲む一種の啓蒙書?であるが、題名通り楽しく読ませる。
 何よりも面倒な天皇の名前(系図)だけが並ぶ箇所は「省略、省略」で面白いエピソードだけが並び、しかし、基礎となる原文を決してゆるがせにしない姿勢を貫いている。

表紙の絵はご存じ「天の岩戸」の場面。「岩戸のかげに一番の力持ちタジカラオの命が身を隠し、いよいよウズメの命の登場だ。(中略)着衣ははだけて乱れて、オッパイが飛び出す。下腹も見え隠れする。たいへんなはしゃぎよう。」こんな感じである。

しかも筆者は次々とこの古事記の舞台を訪ねるのである。これが実に面白い。上の場面では高千穂へ岩戸神楽を見学に行く。神武東征では「お船出餅」の話などなど。懐かしい文部唱歌もでてくる。「神々の恋」では「大きな袋を肩にかけ 大黒様が来かかると ここ因幡の白兎 皮をむかれて丸裸」の歌詞が四番まで。垂仁天皇のエピソードでは「香りも高いたちばなを 積んだお船が今帰る…」の忠臣タジマモリの歌。この歌は今でもアカペラで歌える。私は筆者と同世代(私が一歳上)で共有することも多いのである。実に人間的な古代の神様たちの姿が、生き生きと伝わってくる古事記の世界。この本を先に手にしていれば、きっと「口語訳」は途中で投げ出していただろう。