ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

16年前の今日(1998.07.14)

2014-07-14 08:29:34 | 過去の今日

カナダの旅も5日目。昨夜はジャスパーのゲストハウスで泊まりました。

ジャスパーの町からアイスフィールドパーク・ウェイを南へ35キロほど走ると、ミネラル・リック・ビューポイントに着く。ここからはサスカチュワン川を挟んで、すぐ目の前に白亜のロッキーの山々を仰ぐことが出来る。

車は更に南へ。昨日のラフティングのスタート地点、アサバスカ滝を過ぎた頃、道路を渡るマウンティン・シープの大群と遭遇。車を止めてお通りを待つ。この辺りも先のミネラル・リック同様、塩分を含んだ土が露出しているので、それを舐めに来る動物が多いそうだ。
 
ここから正面に純白のアサバスカ(3493m)、コロンビア大氷原、アンドロメダ(3450m)を間近に望むことができた。コロンビア大氷原への入り口を過ぎ、道端のスペースに停車。

ここからパーカーズ・リッジのハイキング。わずか往復5キロだが、カナディアン・ロッキーのハイキングコースとしては非常に人気が高いところだ。帰りに空港で求めた「Canasian Rockies -An Alutitude Superguide 」でも2ページを割いて「もしアイスフィールドパーク・ウェイ沿いで車を離れて歩くなら、ここがベスト」と絶賛している。道標に従ってジグザグに登る。直登する細い道には「ショートカット禁止」の標識が必ず付いている。しばらく登ると眺望が開け、アサバスカ、ブラッセスを反対側から見ながらの快適な尾根歩きとなる。大きな岩に蘚苔類の朱色の斑点が浮き出している。道の両側は百花繚乱のお花畑である。

稜線に出て500mも行くと9キロもの長さを持つ大氷河・サスカチュウワンが見えてくる。この辺りで氷河の痕跡を残した石と、サンゴの化石を見つけた。



がらがらの岩の上を行くと正面に↑純白のアサバスカ(3493m)、コロンビア大氷原、アンドロメダ(3450m)を間近に望むことができた。カンカン照りだが空気は乾燥して、風も爽やかで心地よい。

下りは元の道をナイジェルを見ながらのんびり下る。アランの話ではこの尾根はテレマーク・スキーでも有名なところという 。展望と高嶺の花に酔うような山歩きだった。

遅めの昼食は湖の色を七色に変えるというペイト・レイクの畔で摂った。地リスやclark's nutcrackerという嘴の鋭い鳥が餌をねだりに来る。今夜の泊まり、フィールドへ行く車中から白いマウンティン・ゴートを見る。いったんツーリストホームへ荷物を下ろし、シャトー・レイク・ルイーズへ夕食に行く。

レイク・ルイーズは正面にビクトリア(3464m)を仰ぐ有名な観光地で、綺麗ではあるが絵葉書的で、感動は山から見る山には遥か及ばない。ホームに帰る頃日が暮れ、早や22時前。


9月の山~剣岳の想い出(1998.09.07)

2013-09-07 07:49:17 | 過去の今日

♀ペンと行くのは始めての剣岳。1998年9月6日。雷鳥沢の登りは案の定きつく感じました。初めて来たときより年齢は37プラスだが、8㎏のザックは20kgマイナスだと自分に言い聞かせて、一歩一歩踏みしめて登りました。草原帯からハイマツ帯に入って乗越が近くなる頃、すぐ傍に雷鳥を見ました。

 

雷鳥平から途中で一度の休憩を含めて95分かかって別山乗越に着きました。見下ろす剣沢・三田平に小屋の屋根が見えます。小屋はすべて個室でシャワー室まであり、夕食にはなんと、下ろし大根添えのビフテキと湯豆腐がでて感激。他にコンニャクのオランダ煮、素麺カボチャの中華風、ナメコ汁と豪華でした。美しい夕焼けを見てぐっすり休みました。

 

7日。午前5時半出発。1時間で一服剣に登ると、曇り空ですが素晴らしい展望が拡がりました。ここから頭上に見上げる前剣へ岩礫の急登。ここから岩の痩せ尾根を下ると、いよいよ核心部・「門」のトラバースです。

昔、ここで雷雨に遭い雷光に怯えて鎖から手を離す女の子がいて、サブリーダーの私はその方が恐ろしかったことを思い出しました。今日もガイド役の男性に連れられた女性4人組が通過に時間がかかっていて、しばらく待たされました。岩場に取り付くと♀ペンはあっという間に渡ってしまいました。


先行のパーティに先を譲って貰って平蔵のコルを過ぎ、「カニのタテ這い」もスイスイ登り終えました。昨日まで「登れるかなあ?」と心配していたのに、「本に書いてあるのは大げさなんヤ」と自信をもった様子です。

早月尾根からのルートと合うと、後はガラガラの岩屑を踏んで祠のある頂上です。♀ペンは念願の頂きに感激の面もち。私も5度目とはいうものの26年振りで、感慨深く祠に手をあわせました。先ほどまで見えていた槍・穂高は雲に隠れましたが、白馬から唐松、五龍、鹿島鑓、針ノ木と後立山連峰がくっきり。立山三山から薬師に続く山並み。室堂平から地獄谷の眺め。奥大日から大日への稜線。早月尾根の稜線と毛勝三山…360度の展望を楽しみました。


下りの難関「カニの横這い」では先行の若い男性二人組が手間取っていました。ここは私が先に降りてスタンスを確認。♀ペンも殆ど鎖を頼らずにクライミングダウンしました。一番傾斜が急で、かって電柱のアングルがあったところは、立派なハシゴが架けられていました。

後はのんびりと来た道を下り、正午に余分な荷物を預けてあった剣沢小屋に帰りました。この日はこれからが長く、しばらく小屋の女主人と話した後、別山乗越へ登り雷鳥沢を下り、地獄谷を周回して室堂をパスして天狗平まで。バスがなかった頃、重荷にあえぎながら登った懐かしい道を、冷たいビールを楽しみに高原ホテルまで歩きました。到着は16時15分、休憩を含めて11時間近い行動の長い一日でした。

*画像加工.com さんのフリーソフトを使わせて頂きました*


お盆の山の想い出

2013-08-12 10:03:06 | 過去の今日

去年の8月11日は前年のイタリア旅行で知り合った仲間たち7人と大台ケ原にいました。前夜、入之波温泉・山鳩湯で鴨鍋やアマゴの塩焼きでうまい酒を飲み、この日はドライブウェイを山頂駐車場へ。

日出ヶ岳に登頂したあと正木ヶ原、牛石ヶ原と周遊。心配していた空模様は大蛇クラに着く頃から怪しくなり、シオカラ谷への下りでは激しい雨足に道は滝のようになりました。しかし、全員元気に東大台周回を終えて山の空気を満喫できた山歩きでした。

この時期、道路は渋滞、山は満員の事が多いので、リタイヤ後は出来るだけ遠出の山行を避けています。しかし若い頃は長い休暇の取れるお盆休みは絶好の夏山シーズンでした。少し変愚院の「お盆の山」を振り返ってみます。

1959年、変愚院25歳。8月10日に新穂高から入山して小池新道を大ノマ乗越に登って(今は殆ど鏡平経由でしょう)弓折岳から双六岳へ。ここから槍へ西鎌尾根を辿るうちに台風が接近。危険な稜線歩きを避けて横尾廻りで涸沢へ。ここで台風に直撃されて小屋で二泊したあと、ザイテングラードを登って奥穂へ。その日(14日)のうちに奥穂、前穂を経て上高地に下山しましたが、帰りのバス道も寸断されて散々な山行でした。(写真は前穂頂上から槍ヶ岳)

1960年のお盆は9歳下の弟と南アルプスに行きました。戸台から入山しましたが、3日間降り続いた雨の後で高捲きや渡渉を重ねて、更に八丁坂の急坂を登って北沢峠へ。翌日は仙丈岳を往復。3日目は仙水峠から甲斐駒に登り、黒戸尾根を下り七丈小屋泊。翌日下山して松本から夜行で帰りました。当時の記録を読み返してみると、小屋泊りとはいえ装備・服装とも周到な準備で、真剣に山に取り組んでいたことが思い出されます。(甲斐駒頂上にて。富士山が頭を出しています)

 

1963年は顧問をしていた大阪市立YS高校山岳部の夏山合宿。13日.折立~薬師峠。この年はリーダーをしていた社会人の会で♀ペンと一緒に前月に同じ道を登っています。14日.薬師岳往復~カベッケ原。頂上で差し入れの西瓜を切りました。15日.黒部源流を徒渉して雲の平へ。16日.雲の平~三俣蓮華~双六。快晴。17日.雨で沈殿。18日.予定の槍はあきらめて小池新道を下山しました。この時の教え子たちが、もう68歳。経過した年月を思うと感無量です。(後の大きな山容が薬師岳)

 

翌、1964年も同じ山岳部合宿。この年は白馬から唐松~五竜~鹿島槍~爺岳と後立山連峰を縦走しました。写真は八峰キレットの通過。

 

山岳部顧問は、他のクラブ顧問と違って生徒達と全く同じように行動しなければなりません。荷物はやや軽めですが、生徒の命を預かる責任は重大。本当に好きでないとやってられません。しかし、教師と生徒を越えた人間としての絆はいつまでも強く、お互いの心に残っています。

1970年は蝶ヶ岳にいました。社会人山岳会で5パーティに分かれた槍ヶ岳集中登山のチーフ・リーダーでした。この年も台風に遭遇、結局、槍に登ったのは、なんと最難関の北鎌パーティだけでした。今と違って通じにくいトランシーバーだけが唯一の連絡手段で、各パーティの安否確認が大変でしたが、全員無事に下山できてほっとしました。

 

1978年8月14日。東鎌尾根にて。
赤い帽子の♀ペンの後に息子10歳、娘13歳、この頃は家族でよくキャンプや登山をしました。この年は燕~東天井~常念~蝶と縦走。その子供たちも40歳を過ぎ、今は孫たちが「ジイジと富士山に登りたい」と言って喜ばせてくれます。


今日は何の日(2012.11.22)

2012-11-22 00:00:01 | 過去の今日

今日11月22日は「小雪」。
平清盛を演じる松山ケンイチ君の奥さんとは関係なく、「二十四節気の一」僅かながら雪が降り始める頃です。

また「いい夫婦の日」。語呂合わせではありますが、れっきとした通産省制定の日です。
アメリカ合衆国では「感謝祭」Thanksgiving Day。これは11月22日ではなく、毎年11月第4木曜日が祭日です。
 
 
そして日本では1934年のこの日、大阪で変愚院が産声を上げました。(写真は生後一ヶ月、12月21日のお宮参り)
 
 
 
それを記念して(ではなく、これも毎年、感謝祭の朝にTurkey Pardonという恒例行事として)アメリカ・ワシントンのホワイトハウスでは、大統領によって二羽の七面鳥がされる運命から赦免されます。

プロ野球の話をします。1950年11月22日、初めての日本シリーズが行われました。セが毎日オリオンズ、パが松竹ロビンズ。松竹が勝ちましたがMVPは別当薫でした。
 

1978年の11月22日、阪神タイガースはドラフト会議で、今年同様4球団による競合の末に江川卓を指名しました。あの「江川の耳はロバの耳」と甲子園の虎ファンに野次らせた、あの江川スグルであります。前日、読売巨人軍はアメリカ留学を切り上げて急遽帰国した江川と入団契約。「ドラフト会議の前日は自由の身分だから、ドラフト外で自由に契約できる」という、真に自分勝手な屁理屈によるものです。いわゆる「空白の一日」の翌日のドラフト会議です。この抜け穴に対してセ・リーグ鈴木会長は契約無効を宣言、ジャイアンツはこれに抗議してドラフト会議を欠席します。翌年の江川ー小林繁の電撃トレード、男の意地を見せた小林は巨人戦負けなしの8連勝!…そして♀ペンは小林繁の大ファンとなりました。(おしまい)

半世紀前の北アルプス(8月3日)

2010-08-03 11:03:59 | 過去の今日
BLOGがネタ切れになったときの定番、「過去の今日」の想い出です。

ちょうど50年前の1960年8月3日は長い一日でした。
昨夜の宿・奥穂小屋(現穂高岳山荘)で4時半起床、7時前に小屋を出て濃いガスと
小雨の中を奥穂高岳へ。
頂上に着く頃には快晴になり、富士山まで見えました。快適に吊尾根を辿り前穂へ。



前穂高岳頂上です。奥穂高の向こうに槍の鋭鋒が見えます。
重太郎新道を下り、岳沢を上高地へ。この年も暑い夏で、あてにしていた天狗沢出合
の水は涸れ、炎天下の行動で喉の渇きに苦しめられました。16時10分、上高地着。
ところが、本番はこれからです。バスで帰る人たちを見送り、18時40分、上高地発。
三人で徳沢へ。
明神館の前で軽食をとるころ日が暮れて、月明かりの梓川沿いに徳沢に着いたのは
20時40分でした。後輩たちがテントを張り、アルファ米のハヤシライスを炊いて待って
いてくれました。若いというのは有り難いことで、あまり疲れも感じませんでした。
翌4日はゆっくりテント場を出て、槍沢を遡り、殺生小屋近くで幕営。5日に槍ヶ岳
に登りました。



朝の槍ヶ岳です。左が変愚院、右はサポートしてくれた後輩のN君。
この後、キレットを越えて北穂高へ縦走。南稜を涸沢に降りる頃から雨になり、
涸沢で幕営。翌日は流石に、もう一度ザイテンを登る気にならず涸沢を下りました。

次の年の8月3日も長い一日でした。



写真は前日の1961年8月2日の剣岳頂上。黒サングラスにくわえタバコの変愚院。
このあと、下りの鎖場で豪雨に襲われ、雷まで鳴りだして、2時間半ノンストップ行動。
びしょ濡れの身体でを別山乗越の小屋に辿り着きました。

さて3日はガスと小雨の中を別山、真砂岳、大汝岳と縦走して雄山へ。一ノ越で他の
人たちを別れ、後輩たちと合流して12時45分、五色へ向けて出発。
浄土岳、鬼ヶ岳、獅子岳と上下して



ようやくザラ峠に着いたところです。(前列左端が変愚院)
あとは一ガンバで五色ヶ原に着き、テントを張りました。
この年は悪天続きで、三日間頑張った末、ザラ峠に引き返して松尾峠を越えて弥陀ヶ原
まで歩きました。

ひと夏に多いときは三度も、1週間ほど涼しい山の中で過ごせた、恵まれた青春時代
でした。ああ、あの頃に帰りたい!

今日は大暑

2010-07-23 09:02:33 | 過去の今日
昨日は多治見で今年の最高気温、39.4℃が記録されました。
奈良でも35℃近く、夜になっても気温は下がらず風はそよとも吹かず、変愚院家でも
今年始めて一晩中、エアコンをかけずには眠れませんでした。

「大暑」の今日も文字通り、大いに暑くなりそうです。
こんな日には涼しい山に行きたい!過去のこの日に立っていた山頂を振り返りました。



1963年7月23日 写真は北アルプス・祖父岳庭園です。薬師岳から黒部の源流を渡って
雲の平に来ました。この後、三俣蓮華岳に登り、湯俣に下ります。



1966年7月23日 一服剣からみた立山連峰。前日に剣岳に登り剣沢で幕営。この日は
立山を縦走して、更に薬師岳を目指し南下しました。



1982年7月23日 義父母、義弟と変愚院家族の7人で木曽駒ヶ岳に来ています。
これから宝剣岳に登り、天狗山荘泊まりです。



19947月23日 二人で瑞牆山に来ています。昨日登った金峰山を背にして…



1995年7月23日 湖南アルプス・堂山。さすがに384mの低山歩きは暑かった!
この3年前に二人で来たときは、秋の良い天気だったのですが…
それでも、山頂からは昨夜の豪雨で洗われたような360度の大展望でした。

やはり山は最高!ああ、山へ行きたい。


 

二度目のキナバル山 (2007年)

2010-01-21 16:33:34 | 過去の今日
*写真が中心です。詳しい登山レポートはこちらをご覧ください



2007年の今日、二度目のキナバル山の頂に立ちました。
今回は千日山歩渉会の仲間10人に義弟を含めたパーティのリーダーです。
19日、山麓のホテルで一泊し…
20日、登山手続きをしてIDカードを受け取って、いよいよ山へ。



登山道は固い木(IronWood)枠で土止めした階段や手すりで良く整備されているが、
私たち小柄な日本人には段差が大き過ぎるのが難点である。まるでハシゴを登るよう
な急勾配に、たちまち額から汗が滴り落ちてくる。



この山ではガイドの雇用が義務づけられている。先頭を行くJAMOLは若年ながら
週に二度はこの山に登っているといい、経験は十分である。



午後も厳しい登りが続く。食事中から曇ってきた空から小雨が降り出し、雨具とザック
カバーをつけて登る。
15時15分、標高3,272mのラバンラタ・レストハウスに到着。部屋に落ちついてしばらく
すると激しい雨になった。



1月21日。2時30分、出発。外に出ると無風快晴で満天の星空だ。
ゆっくりゆっくり高度を上げて頂上部のプラトゥ(頂上高原)に来る。
登山口から8㎞地点、すでに高度は4000mである。東の空が明るんできた。



ロウズピーク頂上で義弟と。
会としても個人としても、この山に登るためにトレーニングを重ねてきただけに、
みんなの顔は大きな満足で輝いていた。



西に光る海面、目の前にセント・ジョンズ・ピーク、背後にロウズ・ガリーと、
ぐるり360度の大展望である。山頂滞在20分、ゆっくり景色を眺めて下山する。
山頂がもう、あんなに高くなった。



ラバンラタ小屋で荷物整理のために長めの休憩をとり、出発は11時前になる。
下りとはいえ、ここからが6㎞近くにわたる長丁場である。
15時過ぎ、無事、登山口に帰り、登山証明書を貰った。
この日は、コタキナバルのホテルに泊まり…



翌日、ホテルの船着き場から15分のSapi島へ高速のモーターボートで渡る。



大トカゲのいる無人島でシュノーケルをつけて熱帯魚の泳ぐ海に潜り、バーベキュー
を楽しみました。

この山行は現地ガイドに会うまで添乗員の役割もこなして、ちょっとハードワークでした。
しかし全員無事登頂でき、何とかリーダーの役割を果たせてホッとしました。
今になれば熱帯の山と海の楽しい思い出です。

かっては成人の日(1月15日)

2010-01-15 18:41:03 | 過去の今日
1月もはや半ばを過ぎましたが、今年はまだキンシン中で初歩きに行けていま
せん。しばらく前までの今日は「成人の日」で休日だったので、山に入ること
も多かったのですが…

子供たちが小さい頃は、葛城山や金剛山や六甲山などによく登っていました。
この頃は雪が多く、町では見られぬ銀世界に子供たちは大喜びしていました。

90年代に入り、子供たちもクラブなどで忙しく、付き合ってくれなくなりました。
この頃から「干支の山」に登るようになりました。



94年1月15日、泉南の犬鳴山に登りました。
犬鳴山は山号で、「大蛇の難から主人を救った」この「義犬伝説」に由来しま
す。現在の犬鳴山は七宝滝寺の周辺のいくつかの山の総称です。この日は、まず
犬鳴トンネルを抜けて、林道を登って高城山に向かい、木や岩や黒黄まだらの
ロープに縫っての急降下で…



最後に地獄岩という標識のある一枚岩を鎖を頼りに下り、行者の滝の落ち口に
でました。登り返して義犬伝説の発祥地の「蛇腹」を見てさらに登り、最後に
大きく右に捲くように登って燈明ヶ岳頂上に立ちました。



ここから稜線歩きで経塚ヶ岳、さらに東に小さなこぶをいくつか越えていく天狗
岳のピークに立ちました。低山ですがアップダウンの多い、登りでのある山歩き
でした。



翌、1995年1月15日には猪ノ背山に登りました。
この時の様子は、2007年(亥年)のこの BLOGでリポートしていますので、ご覧ください。

富士を見る山 (12月10日)

2009-12-10 09:33:50 | 過去の今日
私たち二人…特に♀ペンは富士山が大好きです。
ある時期、この季節になると毎年のように石割山、雁ヶ原摺山、浜石山、竜爪山
などの富士周辺の山や、箱根、伊豆などの観光地めぐりをしていました。



1993年12月12日 伊豆・万三郎岳



1994年12月10日 忍野

1995年12月10日は安倍川上流にある、安倍奥の青笹山(1,550m)に登りました。
案内して頂いたのは静岡県島田市のMさんです。
彼とは2年前に天城山の万三郎岳で知り合い、この山行の後も今度は私が藤原岳
へ案内したりして、今もお付き合いが続いています。



カヤトと緑の笹に囲まれた青笹山山頂は、360度の大展望台でした。
「東に大きく富士が裾野を伸ばし、その右に特徴ある愛鷹山、さらに右に伊豆
の山々が霞む。富士の左には金峰(双眼鏡で五丈岩も確認)、瑞墻など奥秩父
の山々、その左に八ケ岳、鳳凰三山、今越えてきた仏谷山の肩に真っ白な北岳
と続く。北から西にかけては大井川上流の井川高原が近く、その向うに大無間
など、さらに遠く荒川、赤石、聖、上河内、茶臼、光と雪を冠った南アルプス
南部の峰々が連なっている。富士の手前に毛無山、身延山など、さらに富士川
の流れ、右手に光る駿河湾といつまでも見飽きぬ景色が展開する。」
 下の写真、背にしているのは荒川三山です。



ところで、こんな句を見つけました。
「湯豆腐やつれ添うてほヾ五十年」岩木躑躅

私たちは今日が四十五回目の結婚記念日です。
「あつあつの湯豆腐に似た刻ありき」変愚院

カラパタール登頂

2009-11-24 09:00:53 | 過去の今日
ちょうど10年前の1999年の今日、ネパールのクーンブ地方にある
エベレストの展望台、カラパタール(5,545m)に登りました。



快晴。この高度にもかかわらず、幸いによく眠ることができた。
長時間の行動を予測して7時に出発する。カメラなどを入れた小さいザック
だけの殆ど空身で、一歩、一歩踏みしめるようにゆっくりと登る。



広く荒れた砂地を行き、山腹の急な道に取り付く。ガラガラの岩屑の道で
歩きにくい。横の斜面には、大きな霜柱がエビノシッポ状に地面から突き
上げていた。見下ろすと右手にクーンブ氷河が青白く光っている。
若い山仲間のイシとサッチャン、ラデュ(シェルパ)の3人は順調に高度を
上げ、次第に先行して岩陰に姿を消した。



何度も立ち止まり、大きく呼吸する。その間隔が次第に短くなる。
穂高のザイテン・グラードを登る感じだった道が、剣岳を思わせる岩場の
直登になった。和子も苦しいのか、私より更に下の方に見える。



ミン(サーダー)がぴったりサポートしている。私にはモハン(シェルパ)。
少しでもふらつくとサッと支えてくれるなど、非常に献身的だ。
彼らスタッフの力がなければ、頂きにたどり着くのはより困難だったろう。



10時過ぎ、イシらに30分ほど遅れて、やっと5545mの頂きに着いた。
しばらくして和子も頂上に立つ。ばたばたと五色の旗が風にはためいている。
青いというよりも黒みがかった空の下に、ぐるりと純白の神々の座が居並ん
でいる。すぐ近くにプモリ、クンブ、頂上付近に笠雲を冠とした世界最高峰
サガルマータ。そしてローチェ、アマダブラム、カンテガ、タムセルク、
タウチェ・ピーク、トゥナ・ピーク…。

ICレコーダーの録音。
イシ「あー、なんでもやればできるもんだと思いました」
サッチャン「やっとここまで来ました。誘って頂いて本当にありがとうございました」。
和子「あんまり苦しい登りで、まだ感動が沸いて来ません」



ミン「皆さん4人とも登れて本当に良かったです。私もうれしい」。
私のこの時の率直な感想は「あー、これでもう歩かなくていい」ということ
だけだった。この時、たどたどしい「雪山讃歌」の歌声が流れてきた。
一生懸命練習したラデュ君が歌っているのだ。思わず熱いものがこみ上げてくる。
「長い間の夢が叶いました。イシ、サッチャン、そしてスタッフのみなさん、
本当にありがとう」。

黒みがかった蒼空に聳えるのはプモリ。悠々とヒマラヤワシが舞っています。



正面に見えるサガルマータ(エベレスト)に雲がかかってきました。
頂上で至福の時間を過ごしたのは僅か30分ほど。
下りも、時にはふらつく身体を支えられながらゴラクシェプに帰りました。
しばらく休むと長居は無用。できるだけ早く高度を下げる必要があります。
どんどん下って17時、目的地のロブチェに着きましたが、テント地は満員。
さらに真っ暗な中を2時間歩いてトゥクラ(4,600m地点)へ。
この日の行動は12時間に及びました。