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ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

葛城古道のヒガンバナ(2013.09.20)

2013-09-23 20:09:26 | 旅日記

金剛山の帰りに葛城古道沿いの「いちごんさん」へ参拝しました。
葛木座一言主神社の祭神は一言主神。雄略天皇が金剛山(昔は葛城山と区別しなかった)で、天皇と同じような美々しい行列に出会い、見とがめて「誰か」と訊ねたところ、
「吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離(はな)つ神」と答え、天皇を恐れ入れさせた神です(古事記、日本書紀)。ここから「願いを一言だけ叶えてくれる」として信仰を集めています。

長い参道の突き当りの高い石段を登ると東向きの本殿があります。一言主神とともに雄略天皇も併祀されています。


境内のご神木「乳銀杏」。本殿の南側にある樹齢1200年というイチョウの古木です。たくさんの気根が垂れ下る様子を乳房と見立てて、「お乳がよく出ますように…」という母親の祈りを叶えてくれるとか…。「母」にかかる枕詞「たらちね」には「垂乳根」の他に「足(満ちたりる)乳根」の意味があると考えると、子育てに苦労した母の有難さが偲ばれます。


石段の下からお祓い所への途中にある「亀石」。明日香の亀石より、目鼻立ち?がはっきりしています。役行者が災いをもたらす黒蛇を調伏してその上にこの石を置いたという伝説もあります。


石段の下の道を北へ行くと九品寺へ、参道を東に引きかえして鳥居を南に折れると極楽寺を経て「郵便道」入口のある高天彦神社へ続く葛城古道です。


古道に沿った田圃の土手は何処もヒガンバナの花盛り。


色付き始めた稲穂とヒガンバナが美しいコントラストを見せています。


真っ青な空を背にした葛城山。古来から変わらぬ日本の秋の風景です。
「歩きつづける 彼岸花 咲きつづける」 種田山頭火

 

「つきぬけて 天上の紺 曼珠沙華」 山口誓子

 


出雲大社参拝(2013.06.14)

2013-06-26 10:48:50 | 旅日記

朝から小雨が降る6月24日(月)。CT社の日帰りツァーで出雲大社へ参拝しました。平成の大造営を終えて正式参拝できるのがウリですので、トイレ休憩の他はずっと走りっぱなしで食事もバスの中。ショッピングに興味がない私たちには、むしろ嬉しかったです。蒜山高原を過ぎる頃から小雨になり、大山は雲に覆われていましたが、山陰道を終点の出雲で降りる頃から青空が見え始めました。駐車場を出るとすぐに、鳥居の奥に大注連縄を張った社殿が見えました。大社へ参拝するのは三度目ですが、前に親子4人で訪れたのは1984年、30年も前の下関からの遠路ドライブの途中です。それでも♀ペンは拝殿までは長い松並木を通り抜けたことを覚えていました。ン?と首をひねっていると、これは神楽殿で後で参拝するとの地元ガイドの説明があり納得。


何ヶ所かある駐車場のうち一番近い大駐車場から境内へは、西側からこの門を潜って入ります。


社務所の前で60年ごとに行われる遷宮の説明をガイドさんから聞きました。伊勢神宮と違って建て替えるのではなく、仮殿(拝殿)に神霊を移して修築が行われます。今年は昭和28年以来の「平成の遷宮」の年で、先月5月10日に五か月前から仮殿に祀っていた神霊を本殿に還す本殿遷座祭が催行されました。写真は社務所前に張ってあったもので、修築前の桧皮葺きの大屋根や千木の様子が分かります。


新しくなった本殿の屋根。緑色が鮮やかな破風には、松脂やエゴマなどを材料とする「チャン塗り」という塗法が用いられています。


社務所横の手水舎(右に写っている建物)で手と口を清めました。ここから南への松並木の道が、本来の正面大鳥居からの参道です。


手水舎の向い側にある「ムスビの御神像」と言われる大国主命像。「古事記」では出雲大社が「オオクニヌシノミコトがアマテラスオオミカミに国を譲った功績によって造営された」と伝えられています。


直径52㎝、高さ6mの銅製の大鳥居を潜り、正面の拝殿に進みます。


拝殿は1959年に再築された戦後最大の木造建築物で、正面の大注連縄は長さ6.5m、重さ1tあります。


拝殿右手にある八足門。ここからは撮影禁止です。門の前で発掘された鎌倉時代の本殿の柱跡。「宇豆柱」と呼ばれ、大木3本をくくり合わせて現代の二倍も高い48mの本殿を支えていたといわれています。これまで建築学的に疑問視されていましたが、2000年の発掘調査で実証されました。正月5日間以外は八足門までしか入れないのですが、今年は遷宮の年で本殿との間にある楼門まで入って参拝することができました。普通の神社と違ってここでは二礼、四拍手、一礼です。


参拝を終えて西側に回りました。本殿のご神体(大国主命)は西の稲佐ノ浜の方を向いておられるので、こちらからお顔を拝むことになります。本殿は高さ24mの大社造りで国宝。屋根は桧皮葺きで、棟の上で組み合わされた千木の長さは7.9mあり、空けてある小さな穴は人が通り抜けられるとか…。「雲太、和二(大仏殿)、京三(御所)」と言われた日本三大建築物の第一に挙げられただけに、ともかく巨大な神殿です。縁結びを願う御神籤が傍らの木を白く染めています。


時間が来たので神楽殿に向かいました。破風の下にステンドグラスが張ってある明治の建築ですが、ここにも大国主命が祀っています。正面の注連縄は太さ8m、長さ13.5m、重さ4.5tの日本最大のものです。


「浄掛」と呼ぶ和紙の襷をかけて昇殿して、神官の祝詞や巫女さんの舞の奉納を見てお祓いを受けました。厳粛な気持ちになって頭を垂れて参拝。お神酒とお授けものを頂きました。


浄掛には本殿大屋根の桧皮古材が混ぜ抄(す)かれています。また縁結びの糸には、恋人同士になること、夫婦になることだけでなく、人と出会う、親子になる、家を建てる、仕事に就く、物を買う、旅をする、食べる、遊ぶ…生きることすべてが「縁結び」と記されていました。


心地よい風に吹かれながら出雲大社を後にしました。国旗掲揚塔の高さは47m(伝えられる神殿の高さより1m低くしてある)、翻る日の丸の大きさは畳75枚分、重さ25㎏(今は化繊ですが前の木綿の時は50㎏!)…大国主命様は何でも日本一がお好きなようです。稲佐ノ浜(アマテラスの使者がオオクニヌシと国譲りの談判をしたところ)を車窓から眺めて、元の道をバスに揺られて帰りました。


雪の大谷ウォーク(2013.05.23)

2013-05-27 08:58:13 | 旅日記

富山のホテルで一泊した次の日は「雪の大谷ウォーク」です。朝、曇っていた空も次第に晴れ上がり、バスが芦峅寺を過ぎる頃には雲一つない快晴になりました。

立山有料道路を美女平、弥陀ヶ原と登っていくうちに、車窓から見える辺りの景色は新緑のブナ林から純白の世界に変わり、車内のあちこちで歓声が上がります。


薬師岳、大日岳、奥大日岳…思い出の山々を目で追いながら高度を上げていくうちに、道路横の雪の壁はどんどん高くなって行きます。


天狗平を過ぎると間もなく大谷です。バスはいったん通過して室堂へ。


立山連峰を背にした室堂バスターミナル。ここで下車して約2時間の自由行動になりました。


除雪に活躍した「熊太郎」が停まっています。


ここが「雪の大谷」のスタート地点。10年前に黒部ダム側からケーブルやバスを乗り継いできましたが、残念ながら凄い風雨で外に出られませんでした。今日は照り返しで暑いほどの良いお天気です。


アルプス広場に設けられた雪の迷路に入ってみました。


少し先で両側に雪の壁の続く大谷ロードに出ます。


この辺りは「雪壁に刻むメッセージエリア」思い思いのメッセージ(名前だけが多い)が書いてありました。


雪の壁の縞模様の説明です。「しまり(雪)」は寒い日に降った真っ白で細かい雪。「ざらめ」は暖かい日に降った大粒の丸い雪。「氷の層」は暖かくて溶けて水になり再び固まって氷になった雪、しもざらめは寒暖の差が激しい日にがさがさして角ばった雪が降ったことを示しています。黄砂は、あの国からの観光客への配慮からか「ユーラシア大陸から」という表現になっていました。


約500mの大谷ロードの終点近くの最高地点にきました。今日の壁の高さは16m。


室堂バスターミナルへ引き返し、北側の雪原へでました。後ろは大日岳(左)と奥大日岳。1972年夏にこの稜線を縦走したことがあります。称名谷を腰までつかって渡渉して稜線に登り、そのまま重いザックを担いでルンゼを直登。やっと稜線にでて七福園の幕営地に着くと「幕営禁止」で岩小屋には先客あり。止む無く引き返して大日小屋で素泊まりしました。翌日は中大日、奥大日を通過して室堂乗越から剣沢で幕営しました。


別山から延びる尾根の上に覗く剣岳をズームで撮ってみました。雪も寄せ付けない急峻な岩峰です。大日を縦走した時も含め5度、頂上に立ちましたが、♀ペンと登った98年秋が最後になりました。


雪面からの反射が強くてカメラのファインダーもよく見えません。肉眼では雄山(3,003m)頂上の社務所も、その右のコルに建つ一ノ越山荘もくっきり見えました。右の浄土山に登るパーティの人影がアリの行列のように続いていました。7月に久しぶりで一ノ越から雄山、大汝山、別山と回る予定ですが、あの浄土へのきつい登りは思い出すだに敬遠したいところです。


ぐるりを取り巻く山々の様々な思い出を胸に、帰りのバスの時間になりました。今度来る時も、こんないい天気と展望に恵まれますように…。


青嵐・黒部渓谷トロッコ列車(続)

2013-05-26 09:45:43 | 旅日記

豊かな原生林の中を走り抜けるトロッコ列車は、右に黒部の流れを見ながら笹平から出平へ進みます。左手の山側にはコンクリート製の大きな箱が連なったような光景が続きます。


これは冬季歩道といい、鉄道が運休になる冬の間も線路や施設の保全のための作業をされる人たちのための通路です。



出平駅を通過すると右手に「ねずみ返しの岩壁」が仰がれます。猫に追われた鼠も登れなくて引き返したほどの、切り立った高さ200mの岩肌がそそり立っています。


猫又駅を通過します。「猫又」は山の中に住む猫の妖怪(飼い猫が年老いて化けたのとは別)で、近くの猫又山では人を喰い殺した化け物がいたと言われています。駅の横にある黒部第二発電所の案内板が見えます。

黒部第二発電所。猫又駅から赤い橋を渡って引き込み線が発電所に通じています。


東鐘釣山が見えてきました。標高759m、釣鐘の形をした美しい岩山です。鐘釣橋で黒部川を左岸に渡ると間もなく下車駅の鐘釣です。


帰りの列車まで約1時間の自由散策時間になりました。駅を出て3分ほど上流に歩くと万年雪展望台があり、対岸の雪渓の万年雪が眺められます。しかし今の時期は落ち葉などでどす黒く汚れています。真っ白い雪は明日、立山で存分に見ることにしてさらに上流へ歩きます。


10分ほど歩くと急な階段の下に露天風呂が見えます。河原を掘ると湯が出てくるので足だけでも浸かりに行く人もいましたが、長い階段を上下するのと靴を脱ぐのが面倒なので見下ろしただけで引き返しました。


鐘釣温泉の守り本尊を祀る薬師堂に手を合わせて駅に帰り、最後のみどころ釣鐘三尊像を探しました。何んと駅のフォームの宇奈月側の端っこから石段を登った上にありました。宇奈月町出身の老女に「黒四ダムの建設工事による下流の災害を守るため」この地に三尊を祀るようにという神様のお告げがあり、安置されました。この神告は何んと建設の始まる20年前の昭和11年!この人は昭和初年から戦争、原爆による敗戦を予言して刑務所に収監されたり、生地の大火から大阪万博まで予言し、善光寺へは250回参詣して狂女扱いされていました。その娘さん二人が、お母さんへの孝養のためにと記した「三尊仏の由来」でした。


17時24分発の上り宇奈月行トロッコに乗りました。


元来た道を帰っていきます。


柳橋駅を通過するとき線路のすぐそばにお猿さんが列車を見ているのを発見。


あっという間でしっかり撮れませんでしたが数匹いて、赤ちゃんを抱いたお母さん猿もいたそうです。


お猿さんたちに見送られて夕暮れ迫る山彦橋を渡り、宇奈月に帰りました。今宵は富山のホテルに泊まり、明日は雪の立山室堂へ向かいます。


青嵐・黒部渓谷トロッコ列車(2013.05.22)

2013-05-25 15:38:26 | 旅日記
CT社の一泊バスツァーで黒部に来ました。ここのトロッコ列車に乗るのは♀ペンは初めて。変愚院は51年ぶりです。その時は剣岳に登ったあと仙人池でテントを張り、翌日、阿曽原に下りました。今なら欅平まで5時間の長い道を歩かなければなりませんが、1961年の当時は関西電力専用軌道に乗せて貰えました。「事故があった際に一切責任は負わない」旨の一札を取られた上で、エレベーターで地下に降りて荷物と一緒に有蓋貨車に押し込まれて真っ暗な「高熱隧道」を走り抜けた時の恐ろしさだけを鮮明に覚えていて、そのあと欅平から宇奈月までの記憶は殆ど残っていないので、いわば初めての乗車と同じことです。
閑話休題。朝8時40分に奈良・西大寺を出発して宇奈月に着いたのはすでに15時でした。

 
今回は宇奈月から終点・欅平への手前にある鐘釣までの往復乗車です。駅前でお決まりの集合記念写真を撮ったあと、いよいよトロッコに乗り込みます。



温泉街を抜けると「山彦橋」を渡ります。橋を通る列車の音が山彦となって聞こえるという橋。向こうに見えるのは歩行者用の新山彦橋です。




山彦橋を渡って黒部川の右岸沿いに上流へ向かうと、間もなく宇奈月ダムにさし掛かります。2001年完成の黒部渓谷で一番新しい冶水ダムです。




新柳河原発電所はこのダムを発電に利用するために建築されました。まるでヨーロッパかどこかのお城みたいです。



沢には豊富に雪が残りダム湖に流れ込んでいます。




渓谷にはたくさんの吊橋が架かっていますが、これはお猿さん専用の橋。ダムができたあともお猿さんが対岸と行き来できるように作られました。





緑の中に真っ赤な着物の人が座っているような仏石。天然の造形ですが、昔は近くに茶店があり旅人が道中の安全を祈願したとか。




黒部川と支流・仏石谷の合流点です。




目も眩むような絶壁を縫って、いくつものトンネルを抜けて行きます。耳がおかしくなりそうな轟音に、地元富山出身の室井滋さんによる沿線ガイドの声もよく聞こえない程です。




森石駅からは中部山岳国立公園区域に入ります。次の黒薙駅は黒部峡谷で最も古い露天風呂があるので有名なところ。その黒薙川の下流にかかる後曳橋を渡ります。




橋の高さは60m、長さは64m。昔の人がその峻険な谷に架かる橋に足が竦み、思わず後ずさりしたことから付いた名だそうです。



橋の上から上流を見ると切り立った絶壁にこんな橋が架かっています。古い建築の水路橋です。




笹平駅を過ぎると出し平ダムが見えてきます。大分上流まで来ましたが、
トロッコ列車の旅はまだ続きます。

花の寺・岡寺(続)

2013-04-27 21:35:45 | 旅日記

奥ノ院から本堂南側の斜面に続く道を西に引き返すように進みます。両側はシャクナゲのトンネル。♀ペンはこの白い花が好きです。


こちらの山側は日当たりが少ないのでまだ蕾の色が鮮やかです。


ちょうど本堂の真向い辺りの高台に義淵僧正の廟所がありました。


更に進むとオオデマリの花に出会いました。


少し下ると美しい三重宝塔の前に出ます。旧寺域にあった塔が文明4年(1472)7月に大風で倒れ、昭和59年(1986)に現在の場所に再建されたものです。


軒下の風鐸の横に、なぜか木製の琴が下げられていました。


塔の後は格好の展望台で、ツツジやキリ、フジの花の向こうに金剛・葛城から二上山に続く山並みが望めました。


シャクナゲの花越しに本堂を見ながら、大師堂を左に見て下ります。


左から楼門、開山堂、本堂。道を隔てて鐘楼。


この辺りでも色とりどりのシャクナゲの花が満開です。


先ほど辿った道を見上げると、斜面一面のシャガの花でした。


仁王門を出て駐車場への道と参道との分岐には、真っ赤な八重のツバキが咲いています。


参道を少し下ると昔ながらの佇まいの「坂の茶屋」があります。店の前まで行って覗くと、有名人の色紙がたくさん貼ってありました。
「花の寺」の名の通り、さまざまな春の花をたっぷり見せて頂いて岡寺を後にしました。


花の寺・岡寺(2013.04.26)

2013-04-27 10:30:06 | 旅日記

新聞でシャクナゲが見頃と知って、久しぶりに岡寺へお詣りしました。


岡寺は明日香村・岡の東方山腹にあります。創建当時の伽藍は現在の仁王門の西、冶田神社境内にあったと思われ、昭和57年に橿原考古学研究所によって遺構が発掘されています。この史跡・岡寺跡は岡寺門前駐車場(民営)から急な石段を登り切った処の右手にあります。


左に坂を下ると右手から登ってくる参道と合って、すぐ仁王門の前に出ます。拝観受付所横のお地蔵さんの上に、シャガ、ツツジ、シャクナゲ、ムラサキハナナなどの花が咲き乱れています。「日本最初厄除観音」の石碑が見えます。


仁王門。岡寺は西国三十三ヶ所観音霊場第七番札所として有名です。草壁皇子(天武天皇の皇子で27歳で早世した)の住んでいた岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされています。


大きな草鞋が下がる仁王門を潜ります。


手水舎で口をゆすぎシャクナゲの咲く石段を登ります。


美しい庭園に色とりどりのボタンが植えられています。後の建物は奈良県指定文化財の楼門です。


その右手の開山堂。


本堂へお詣りして般若心経を唱えました。このご本尊・如意輪観音坐像は(寺伝によると)弘法大師空海がインド・中国・日本の土を使い造ったと言われ、高さ4.85mあって塑像としては日本最古最大のものです。


本堂前の龍蓋池(リュウガイチ)
このお寺には地名から来た「岡寺」の他に、もう一つ「龍蓋寺」という寺号があります。


義淵僧正は優れた法力の持ち主で「寺の付近の農地を荒らす悪龍をこの池に閉じ込めて石で蓋をした」という伝説があり、これが「龍蓋寺」の由来ということです。大石というには、ちょっと小さい気もしますが…。


龍蓋池の前から奥ノ院への道を進みます。正面に見える小さな建物は閼伽井です。


右手の「修行大師像」。一面のシャクナゲの花に囲まれて立っておられます。


奥ノ院は寺域奥の石段の上、この石窟です。低い入口を潜ると中は広く…


奥には56億7000万年後に人類救済に現れるという弥勒菩薩像が鎮座されていました(続く)。


春らんまん美濃路(2013.04.08)

2013-04-09 19:48:38 | 旅日記

二日間続いた春の嵐が吹き過ぎて、ようやく青空が拡がった週明けです。娘、孫と4人でH社の日帰りバスツァーに参加して美濃路の花の名所を訪ねました。

11時前、最初の観光地・国営木曽三川公園に着きました。「木曽三川」とは揖斐川、木曽川、長良川のことで、愛知、岐阜、三重の3県にまたがる日本一広い国営公園ですが、そのうちの岐阜県海津市にある木曽三川公園センターです。ここへは1987年の開園前に娘と三人で来たことがありますが、20数年前のことですっかり様子が変わっています。園内では四季さまざまな花が楽しめますが、この時期の主役はチューリップです。


先週末から「チューリップ祭り」が行われています。
少し風があり肌寒い感じが残る中、ベンチでお花見弁当を食べたあと、大花壇を歩きました。


初めて見る珍しいチューリップもたくさん…。


これがチューリップかと目を疑うような品種もあります。


ムスカリも妍を競う中、緩やかに斜面を登っていきます。


ここには13万球のチューリップが植えられています。約1時間、たっぷりと艶やかな花の饗宴を楽しんで次の目的地へ。
バスは揖斐川沿いに北上、上流で分かれると根尾川に沿って行きます。緑の堤防は菜の花の花盛り、残雪の伊吹山を見ながら川を離れて大谷トンネルを越えて揖斐川町へ。
午後は次第に気温が上がり、春真っ盛りのうららかなお天気になりました。ここでは川の堤にずらりと植えられたハナモモに目を奪われました。


西国三十三国霊場満願の寺・谷汲山華厳寺。ここでは「さくらまつり」の最中でした。バス駐車場を降りて参道に入ると、かって名鉄谷汲線が走っていた頃の車両を模した、パンタグラフを付けたバスが置いてありました。


九丁、約1キロの緩やかな登りの参道両側には50軒と言われる茶店や土産物屋などが並び、約300本のソメイヨシノの並木が続きます(サクラとカエデが交互に植えられいて、秋も楽しむことができます)。
残念ながら昨日の春の嵐のせいか、葉桜になったサクラも多かったです。


仁王門を潜り、境内に入ります。幾つもの塔頭や観音像などを見ながら参道を進むと…


最後はきつい勾配の石段を登り、本堂にお参りして般若心経を唱えました。その後、孫と本堂内の「戒壇巡り」。帰ってから聞くと、孫にはこの真っ暗な中を手探りで歩いたことが今日一番楽しかったそうです。うっかりしていましたが、この日はお釈迦様のお生れになった日で塔頭の一つで「仏生会」の行事があり、誕生仏様に甘茶を掛けご接待の甘茶を頂きました。
40代に夫婦で西国と新西国の札所巡礼をそれぞれ二度づつ終えています(ただしマイカーでの車巡礼)ので、ここ「谷汲さん」も久しぶりの参拝でした。


バスは正面に真っ白な能郷白山(これも懐かしい山です)の姿を見ながら本巣市根尾谷へ。
今日の観光のメイン、いよいよ♀ペン待望の「薄墨桜」とのご対面です。
この碑には大正11年に国の天然記念物指定を受けたことが記されています。


周辺は薄墨公園として整備され、大勢の人で賑わってました。薄墨桜は宇野千代さんの保護活動で有名ですが、継体天皇が都へ即位のために隠遁のこの地を離れるときに植えたものと伝えられています。樹齢1500年を超す老樹で、ご覧のように何本もの柱で支えられています。
保護柵の周りを逆時計回りに歩きました。右手、幟の並んでいる道の上には観音堂、更に上の斜面には不動堂が建っています。


上の画像の反対側から見たところ。左は二代目のサクラですが、それでもこんなに大きく育っています。
薄墨桜の品種はエドヒガン(彼岸桜)。




大分日が陰ってきました。正面、管理棟前から見た薄墨桜です。
「蕾の時はピンク色、満開に至ると白色、散りぎわには特異の薄い墨を引いた色になる」とパンフレットにありましたが、その意味ではちょうど見頃だったようです。いずれにせよ、一本の樹でこれだけ人を集めるのですから大したものです。

たっぷりと季節の花を愛でることができて大満足の一日でした。


台湾周遊の旅・余禄

2013-03-22 09:02:43 | 旅日記

これまでにお伝えできなかった「こぼれ話」をお聞きください。


台湾の観光バスは兎も角ド派手です。私たちのバスはまだおとなしいほどでした。


台中のビルの上にデンと座って睥睨している神様。他にも、あちこちで屋根の上に鎮座している神様や仏様がおられました。


台南市内のロータリーで見た「自由の女神」。なぜここにあるのでしょう?もっとも日本でもパチンコ屋の屋根に立っている女神を見たことがありますが…。


さすが台湾、3月の初めにサクラが…と思いましたが、早とちりで紅花羊蹄甲という花でした。
 帰宅後調べると、日本では紫蘇芯花 ( ムラサキ・ソシンカ ) というそうです。


これは「榕樹」です。ガジュマル。沖縄でも見られますね。台湾では貴重な木陰を作るので公園や並木道によく見られます。


台中で見かけた郵便ポスト。緑は普通郵便、赤は速達と色分けされています。


三仙台で♀ペンの見つけたサンゴ


その近くで咲いていた草花(名称不明)


台湾の都市部はどこもバイクの洪水です。昔の日本で見たスクーターも多く、中にはこんな車も。道路標識にもご注目ください。


花蓮駅前の樟。ランの花を接ぎ木風にしています。


断崖の山越えの後、乗り換えたバス。こちらはかなり控え目です。


台北・中正記念堂の周囲は大きな公園になっています。珍しい植物が多く、それぞれ標識がついていました。これは「台湾山蘇花」。和名はオオタニワタリ。若い葉はニンニクなどと炒めて食用になります。


車窓から見た寺院の屋根瓦。獅子が並び先頭に騎乗の人物が見えます。獅子の数が多いほど位が高いとか…。


民芸品店で買った自分用のお土産。今年の元宵節限定ということでした。


故宮博物館のお土産。ケイタイストラップ


主にバラマキ用お菓子のお土産。パイナップルケーキは値段に大きな差があり、このなかでは上の写真左下(シンプルな模様の箱)が手作りで最も高価でした。


台湾周遊の旅(終)

2013-03-19 15:03:04 | 旅日記

3月7日、5日間の台湾の旅も最終日を迎えました。ホテルでゆっくり朝ご飯を食べて、フロントのお姉さんに近くの地図を貰って散歩にでました。

数分歩くと、お姉さんに聞いた朝市がありました。昔の大阪にあった公設市場に似ていて、地元の人が食材を求めて訪れる店や、屋台などが迷路のような狭い通路の両側に並んでいました。


迪化街(テイーホァチエ
19世紀中頃の清代に貿易商人が形成し始めたというだけに、100年を超す老舗がずらりと並ぶ問屋街です。
日本統治時代には乾物、漢方薬、お茶、布などを扱う商店が集まり、台湾有数の商店街になりました。今もそのような品物を扱う店が多いようです。
この古い建物は永楽市場。二階には布のお店、三階はそれを裁縫してチャイナドレスなどに仕立ててくれるお店が並んでいます。


向かい側の乾物店で、ドライマンゴーや、お兄さんお奨めの黒金剛(殻を割ると黒色の煎りピーナッツ)などを買いました。


こんなメトロなバロック建築の店が…


ず~~っと並んでいます。


その一画にこんなお廟がありました。本来は城隍という神様(城=城壁、隍=堀、つまり都市の守り神)のお廟なのですが、一緒に祀られている「月下老人」が若い女性に人気があるようです。


月下老人は縁結びの神様。入口で頂いたパンフレットには「白く長い髭に赤い頬で始終、微笑んでいる。右手には杖、左手には誰とたれが結婚するか書いてある婚姻簿を持つ。未婚の男女には赤い糸を授け、良き伴侶が得られるよう手助けしてくれる。2011年には、良縁に恵まれた7871組のカップルがお礼参りに訪れた。」とあります。既婚者にもちゃんと「夫婦・家庭円満、人間関係がさらによくなる」ご利益がある、霊験あらたかな神様なのです。
 
ついでですが、バレンタインデーは「西洋情人節」といい、「台湾伝統情人節」は農歴(旧暦)7月7日<七夕だ!>と知りました。情人は日本でいう愛人ではなく、恋人なんですね。


日本人観光客にも人気スポットのようで、若い女性が熱心に拝んでいました。ただし、この参拝作法はとても複雑で、お供えセットを買ってから天公、城隍、城隍夫人、観世音菩薩、月下老人の5人の神様に、それぞれ違った礼拝をしなければなりません。しかし、よくしたもので日本語のできる専属スタッフが常駐して教えている様子でした。


さて、ホテルに帰って昨日行けなかった中正記念堂へ行きました。


「中正」とは蒋介石の名前で介石は字(あざな)です。2階に上がると巨大な彼の像が鎮座しています。後の壁には彼の政治思想、倫理・民主・科学の文字が見えます。
 日本の高田砲兵学校で学び、日本に亡命したこともあった日本通の蒋介石ですが、その評価はさまざまで独裁者的な面を持っていたとも言われます。私達、古い人間には日中戦争の相手だっただけに複雑な思いです。(台湾でも好きな人も嫌いな人もいるというガイドの話でした)


肖像の両側にいる衛兵は、人形のようにビクとも動きません。1時間ごとに衛兵の交代が見られるそうです。


(左上)は蒋介石の肖像上の天井、1階には蒋介石ゆかりの品が展示されています。(右上)愛用の乗用車、(左下)夫人の宋美齢と一緒に外出した時の駕籠、(右下)復元された執務室


ランタンの吊るされた1階フロア。右手では「テレサテン特別展」が催されていました。


中正記念堂を後にして、

 

最後のスケジュールで免税店に寄り(縁の薄い私達には退屈な時間でした)、台北を後に桃園国際空港に向かいます。
「台湾周遊5日間の旅」もこれで終わりです。長い間ご覧くださいまして、ありがとうございました。