「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

駒木しし出陣・08笠揃え

2008-09-13 21:22:43 | 福泉寺・伝承等
 いよいよ遠野祭り、郷社遠野八幡宮例大祭のはじまりであ~る。
 遠野で一番賑やかで活気溢れる二日間、その前段で各地域の郷土芸能団体は地域の方々へのお披露目、そして出陣式の意味合いで笠揃いを行いますが、小生の地元でも遠野郷しし踊り元祖「駒木鹿踊」の笠揃いが地区コミュニティセンターで行われました。










 長男はしし頭、二女は太刀振り(刀かけ)で祭りに参加いたします。







 19時集合、余裕こいてたわけでもありませんが、それでも40分前から自宅で着付け等の支度に入るも、襷の掛け方は結び方は、ししのカンナガラが横に偏っているとか、色々と不都合が発生、結局現地にて知っている方々のお世話になりながらなんとか着付けることができました。
 何年やってもなかなか身につかないものですね・・・汗


 空は満月に近いながらも雨が途中からポツポツと・・・祭りは天気に恵まれればと祈るのみです。


 精霊もお出ましか・・・?


 何か白いものが・・・雨が降り出す前なのですが、フラッシュに何か反射したものか?・・・今回は外部フラッシュを導入しております。


 雨が強く降り出す前に笠揃えも滞りなく終了、後は本番を待つのみです。




 おまけ・・・

 オイラもかでてけろニャー・・・笑

 小生は14日は当直、ネネは両日共にお留守番となります。

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伝・八戸上総 弐

2008-09-11 19:47:41 | 歴史関連コラム?
 前回の続きでのエントリー・・・・

 八戸上総の本領地である附馬牛町の一部、本日の模様・・・。

早池峰山・・・松崎町駒木から


火渡石碑群



 〇伝・田名部献上と御誓文呑込み事件・八戸上総 弐

 南部藩主、南部利雄公の嫡子、利謹公は幕閣要人と親交があり、その中で幕府に対して功績ある行い等があれば外様から譜代となり、さらに幕政に参画することも夢ではない・・・というニュアンスの内容を聞き及び、藩領である田名部(現青森県むつ市・下北半島)の献上、さらに南部10万石から20万石への格上げ、そして若年寄、老中に将来は任じられて幕府の政務に参画したいという御誓文を幕閣の一人に託したとされます。

 このことを知った家臣達は上へ下への大騒ぎとなり、連日の重臣達の協議もまとまらない有様、結局は事態を重くみた藩主利雄公の裁量で、嫡子利謹公は江戸から盛岡に送られ、しかも幽閉されるという局面となった。


 公文書ではないものの、御誓文という形で幕閣要人に差し出された文書、当然ながら他の幕閣達にもその内容は伝えられたものと思われますが、盛岡南部家の嫡子が国許へ送られ、廃嫡になろうとも田名部献上の事は予てから企図するところでもあり、ましてや諸侯の嫡子で官位まで持つ者が約束した事実には相違なく、早速ながら盛岡へ然るべき藩老の江戸表への出向を命じる内容が届けられたといいます。

 論議の結果、八戸上総が選任され江戸へ出向くことになりました。

 八戸上総は遠野南部家(八戸家)の分家、附馬牛八戸家の当主でありましたが、兄の八戸義顔は分家から本家である遠野を継承した殿様でもあり、これにより附馬牛八戸家の当主となっておりました。
 ちなみに遠野南部家(八戸氏)を大八戸氏、附馬牛八戸家を小八戸氏と称する場合もあります。


 八戸上総が江戸に着くと間もなく老中より登城の命が下り、居並ぶ幕閣からは、「主人、信濃守よりの願いにより田名部献上の願いのこと許す・・・早速御受書を差出し、引き渡しの手配とするよう・・・」と申し渡された。

 八戸上総は、ある程度の申し開きを行い、食い下がったと伝えられます。
 幕閣は、利謹からの御誓文を取り出して、上総へ見せたといいますが、上総は確かめたいということで、手に取ると、何を思ったか、誓書を手で丸めて呑み込んでしまったという・・・・。

 驚く幕閣達・・・ほとんどは怒ったと思えば呆れ返ったり、話にならないという雰囲気、それでも公の場での論議中のお墨付きを呑み込むという出来事で、最後は、一同怒りが込み上げ、いかなる処罰でも飽き足らない・・・という態度となるも、上総はしからばこの場で腹を切り、御誓文を取り出してお返ししましょうと・・・今まさに切腹もしかねない状況となり、ここは一同で上総をなだめて後日の処分とする旨が言い渡されたようです。

 さてその結果は・・・・「八戸上総なるもの、その行儀いささか不調法であるも、その志に免じてお咎めなし」


 伝えられる内容では、田名部は遠野南部家領で盛岡本家が勝手に献上を約束して、今度はその対処は遠野で行えという理不尽さ、上総は家臣とはいえ同列の家の所領を勝手に献上するといったこと、本家盛岡とて勝手はできない旨を幕閣に訴えたのだろうとしている。

 いずれ、八戸上総は江戸で評判になり、各大名家からは何かの行事に頻繁に招かれ、人気者となったと伝えられ、そのまま江戸勤めのまま彼の地で逝去したといわれます。


 附馬牛八戸氏本貫地・・・附馬牛町片岸



 

附馬牛小学校付近に屋敷と家臣団の家屋が居並んであったと伝えられます。



 ○ 真相は・・・

 今まで記した内容は、物語風といいますか、八戸家と田名部という結びつきが長らく尾をひく流れの中で成立という雰囲気でもあります。
 
 八戸時代の八戸領田名部、清心尼公が田名部を叔父である太守南部利直公に譲り渡したのは史実であるも、遠野の人々は近年まで盛岡南部へ貸していたと思っていた内容も語られます。
 現に私が参考とする「遠野南部家物語」吉田政吉 著 の中でも随所にその内容を伝える伝承が登場しております。
 本家盛岡といえども本来の遠野八戸家の所領に関して、ことに田名部に関しては根強くその考えが根底にあったものと推測され、このような物語風の言い伝えとなったものではないでしょうか。

 他に「太平東国堅秘録」という書物では、江戸城にて南部利敬と二本松藩主、丹羽左京大夫(10万石)と煙草盆のことから争いとなり、利敬は恥辱を受ける。
 依って丹羽と同部屋であることを嫌い、 回避の方策は15万石への格上げと位階昇進であるの思いを募らせ、若年寄堀田摂津守が、松前視察の帰り盛岡へ立ち寄った折、その宿に訪ね、田名部五千石を条件に願の趣旨を申し出る・・・・・ここでも八戸美濃という遠野南部家分家に関わる人物が登場し、結果は書付を呑み込むという所業に至り、最後は忠臣として称賛される。

 これも田名部献上に関係し、さらに南部藩の格上げ問題へと発展する内容であるが、読物の世界と歴史家の間では定説であるといわれる。

 いずれ、記録よれば八戸美濃はこの事件が語られる時代に家老という職には任じられていないという見解もあって、またこのことに関する研究成果もある程度行われ、遠野で語られる言い伝えは、物語という範疇であろうという結論付となると思います。


 史実として田名部献上は立ち消えとなりましたが、盛岡南部藩の20万石格上げは南部利敬時代に行われ、これに関しても実は藩全体で望んでのことという見解もあるようです。

 近世関連は資料も割と残され、素人史家でもある程度閲覧できる環境はありますが、その分、妄想や推測が入り込めない雰囲気もあって、私的にはポロが出そうであまり手を出したくないが本音です・・・汗

 よく意味が伝わらない内容となりましたが、これに懲りずに今後もお付き合い願います。


 附馬牛町片岸集落の傍らを流れる猿ヶ石川

 
 まさに清流


 そして・・・

 某ウラワンの青年が自ブログで萌えるという・・・ばぁさま

 少し附馬牛の「ばぁさま」にしては上品かな・・・謝・・・汗


 花輪にて





 祭り近し・・・

 昨夜、しし踊りでの「かんながら」が配布された。
 早速点検を兼ねて新しいものを装着する。




 付け替え完了



 しし頭・・・駒木鹿踊


 長男が被るしし頭・・・
 しし二年目、まだまだ踊りの方は初級レベルですが、14日、15日は画像のしし頭に青色の垂幕は「元祖角助・遠州掛川」中央は九曜紋が染め抜かれた装束ですので、見かけたら「虎猫の息子がんばれ」とでもお声がけください。・・・笑
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伝・田名部献上と八戸上総 壱

2008-09-10 20:54:00 | 歴史関連コラム?
 3日連続の秋晴れ、空の青も時間が経つに従って青さが増し、湿度も低くて過ごしやすい、いわば秋晴れといった一日となりました。

我家から



大きな洗濯物には絶好な日和



〇田名部献上と後誓文呑込み事件

 あくまでも遠野側からの口伝え・・・。

 江戸時代の安永年間(1772~1781)時の遠野南部家当主は、第7代八戸弥六郎義顔公、盛岡南部藩主は、第8代藩主南部利雄公の時代とされています。
 事の発端はよくはわかりませんが、この時代、蝦夷地ではアイヌの反抗やらロシア等の外国船の出没が頻繁となり、幕府にとっては北辺の警備といった事案が急浮上してきた時代ともいえます。
 とりあえずは蝦夷地の松前藩、海峡を挟んでの本州では津軽藩に応急的な対応を指示したようでもあります。
 それとともに蝦夷地に至近の本州、其処は下北半島に他ならないことでもありますが、この地を田名部と称していて、南部藩領でありました。
 幕府は蝦夷地への前線基地的意味合いで田名部の重要性を認識したとされ、幕府の直轄地とする目論見があったとも語られております。

 話は少し逸れますが、藩主利雄公(としかつ)は、温厚な太守であったと伝えられ、何事も藩老等重臣達の進言をよく聞いた殿様だったといわれます。
 利雄公には嫡子、利謹公(としつよ)がありましたが、利謹公は剛毅大胆それに才気にあふれた若殿で、家臣達からは利謹公の世となれば南部盛岡藩の国威が大きく発展するものと期待が大きかったともいわれます。
 幕府からも期待する何かがあったものなのか、成年に達すると父利雄公と同列の官位に叙され、藩政に加わることが許されるものでした。(従五位下信濃守)
 利謹公はこうした処遇に慢じたものなのか、みちのくの片田舎の太守を越え、幕政に関与したい、老中、若年寄となって参与したいという夢が芽生えたともいわれます。
 しかし、幕府要職は譜代大名に限られ、外様の南部家は論外という仕組みでもありました。

 幕府重役と親交があった利謹公は、その実情を懇願すると幕府に対して大きな功績があれば、外様といえども譜代に取り立てられ幕政参与は夢ではない旨を聞いたと伝えられ、その見返りは何かといえば、先に記述した田名部を幕府へ献上するといった事であり、利謹公は早速このことを実行と移さんとしたと伝えられる。

 取り交わされた約束事とは・・・あくまでも言い伝え、噂の範疇か?
・田名部3千石献上の事
・老中、若年寄の御役を承り天下の政務に参与する事
・南部10万石を20万石に加増する事

 この三つの内、第一の難題は、20万石への加増の事で、傍からみれば10万石を20万石に加増して、一気に大々名の仲間入りとなって国力が上がるのではないのか?そんな事を思うことでもありますが、その内情は10万石の国力はそのままで、幕府に対する義務等ばかりが倍になるといった内容で、むしろ国力の弱体化が懸念されることでもあり、家臣達の間では大騒動となったようです。
 すなわち家臣は20万石に相応しい倍の人数にしなければならず、名目だけの加増で家臣達の俸禄はむしろ減らされる公算が強いものでもある。
 (1万石当り250名の武士、10万石では2千5百人、20万石では5千人)

 そして幕府要職となれば、国替が普通で奥州の片田舎ではなく関東甲信越の江戸に割と近い封地が与えられる可能性が大きく、国替は長年蓄積された財産の放棄を意味し、江戸時代は国替となった大名家が弱体化するといった内情があって、これも大問題だったようです。


〇 八戸上総
 田名部は本来、八戸時代の八戸家領でありましたが、清心尼公時代に太守南部利直公に返上?献上されたもので、その後しばらくは八戸から遠野に移った八戸家中では、盛岡に貸していたもので、いずれ返還して貰うものと思っていたようです。

 八戸上総は、遠野南部家(八戸家)分家の附馬牛八戸家第6代義覚公(よしさと)後に篤義公。
 附馬牛八戸家は遠野南部第2代義長公の弟、義也公を分家と成した家であるが、はじめ本家から附馬牛村、東禅寺村、平館村(現八幡平市)の2千石であったが、後に盛岡南部家、遠野南部家との知行地間のやり取りで1千石は本家預かり、徐々に加増を受け1千5百石余となる。
 遠野南部家分家ながらも、盛岡南部高知格に据えられ、歴代は加判役(家老)となり藩政に参与している。



 ということで、長くなりそうなので、続きはまたの機会に・・・・

 このことは記録等によるものではなく遠野で語られていただろう口伝での内容であることを申し添えます。
 真意はよく調べておりません、あくまでも「遠野南部家物語・吉田政吉氏 著」からの引用及び参考とし、私なりに少し資料等から付け加えた内容であることもさらに申し添えます。

 さて、続きはいかに・・・・笑


 我家から附馬牛方面





おまけ

またまた盛岡冷麺



 今回は、2番目に食べる機会が多い、や○な〇やの冷麺。
 スープはバッチグー、甘めのスープですが、しっかりとコクがあって好きな味です。
 ちょっと辛味で入れるキムチ類が酸っぱいかな・・・?・・・でも個人的には好きな盛岡冷麺です。

 で・・・


・・・・殲滅・・・笑



 もうひとつ・・・

 14日、15日遠野祭り、遠野郷八幡宮祭礼での駒木鹿踊への参加が危ぶまれていた長男が今週より練習に合流、両日共に参加できることになりました。

 小生は14日は勤務のため、祭りを観ることは叶いません・・・涙・・・パレードでの南部囃子、昼夜にわたってカメラ撮影をしたいがここ数年の願いですが、なかなか叶えることができません。

 八幡宮での馬場めぐりでは、地元しし踊りについて歩かなければならず、地元の出番が終わればそのまま移動ということで、こちらもなかなか上手くいきませんね。

 いずれ15日、八幡宮若しくは途中の沿道でお会いしましょう・・・駒木鹿踊の引率をしておりますので・・・・。


 
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南部火消

2008-09-08 13:59:39 | ファイヤー
 朝から青空が広がる遠野、それなりの暑さも感じられるが、吹きわたる風は秋風であ~る・・・宝飯爺方式・・・笑


伝承園で捕まえた青空・・・。







〇南部火消の祖

 江戸時代における大名火消といえば私的ながらも第一のイメージは加賀火消を思い出す、そして次にこれもなんの根拠もないのですが「南部火消」とくる・・・。

 しかし、消防に関わる仕事をしていると随所で南部火消の言葉、文字に遭遇しており、どこか南部火消の言葉と共にそのイメージに憧れを感じたりしております。


 さて、南部火消の根源は何か?当然ながら南部藩で組織した消防隊ということになりますが、少し資料を紐解けば・・・・。


 延宝4年(1676)10月、南部太守であった南部重信は幕府より江戸丸の内大手町一帯の火消し役を仰せつかったとある。
 しかし、南部重信公は老齢でその任に堪えないということで、一族一門の中からその代理役を検討し、遠野城主で遠野南部家第二代、八戸三五郎義長公(後の弥六郎義長)に白羽の矢を立てたと言い伝えられている。

 命を受けた義長公は遠野武士を以て消防隊を編成して江戸に上って火消しの任とあたったとされている。
 南部火消といわれるその元祖の名目は南部藩による大名火消ではあるが、その実情は遠野武士、すなわち遠野八戸家による消防隊であり、南部火消の元祖ということになると思います。(遠野古事記には、当時のその模様が掲載されている)
 遠野武士による江戸詰めは翌年の8月まで続いたと記録されている。

 なお、八戸義長公は三五郎と称していたが、父弥六郎直義公が名乗っていた弥六郎の襲名を太守南部重信公から許され、八戸氏(遠野南部家)については後の歴代公は弥六郎を名乗っている。


 次に遠野南部火消について伝えられる内容としては・・・・

 元禄9年1月、七戸外記(太守南部行信の弟、1千石)と共に八戸家第三代八戸義倫公(よしとき)は盛岡城下の火消役の任を仰せつけられる。
 相役の七戸氏は太守行信公の弟で名門であるが1千石余りの知行高に過ぎず、南部家中第一の家、八戸家は一万二千石を超える大身の家柄、人員もその費用のほとんどを遠野方で負担していたと語られる。

 この時代、火消役すなわち消防隊の編成は戦支度と同じで、その隊列、陣構えは戦時と同じであったという。
 盛岡城下での遠野武士による消防隊は100名以上がその任にあったと伝えられるが、交代要員も含めるとその倍の人員とも考えられ、当時1万石辺りの諸侯の兵員(武士階級)は250名といわれるので、一万石強の八戸家(遠野)の家臣のほとんどが盛岡城下の火消の任に何かしら携わったことになるかもしれません。

 この義倫時代、盛岡城下の火消の任と共に遠野城下での火消役を家臣の中から定め、これが遠野での組織的消防の創始と伝えられている。

 
 昭和30年代辺りまでの消防屯所のイメージ

 たかむろ水光園内、ふるさと消防館


 街場の消防屯所として当時の面影を残す旧下組町消防屯所



 現在の消防屯所・・・消防コミュニティセンター





 タイプ的には旧遠野市分は9割以上が画像のようなタイプとなっており、消防屯所と地域、集落集会場が併設されているものとなっている。






 八戸弥六郎義倫公が創始した武家火消に対し、町方の組織的火消の創始については詳しくは伝えられていないが、火災が発生した場合は各戸から1名の男子が出る決まりがあったとか、本格的な遠野での町方による火消は文久3年(1863)城下の床屋職人による町火消だったようです。
 これが今でいう義勇的消防組織、すなわち消防団の元祖といえます。

 その後の明治16年(1883)県令による公設消防組発足により、その伝統精神は消防団に受け継がれているものと思います。





 おまけ

 リンゴの季節到来ですね。





 下組町の大叔父宅前の無人販売所

 母方の大叔父は長らく消防団員として地域防災に活躍されていた。
 50数年の長きにわたる消防団活動、部長という階級でその役目を終えましたが、退団する頃、「オレの方が副団長だの団長より長く勤めている」と誇らしげに語っていたのが印象的でした。
 部長という階級ながらも叙勲の栄誉を受けている。
   
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準備着々

2008-09-05 18:40:51 | 遠野
 久しぶりの青空、それでも雲の方が多かったのかな?・・・青空をバックに何かを撮影する場合は、色々場所と被写体も選んだりして・・・まだまだ本格的な青空といったところではない・・・。



 夕方4時頃、福泉寺
 

 さて、本日は明番でしたが帰り際に大汗をかく・・・汗・・・大汗といっても身体を動かしての汗ではない、内面的、精神的なもので今月中に差し迫った事案に関してであるが、大汗を出した分、なんとか4割程度は達成、しかし精神的な負担は7割程の重みが汗と共に肩から降りた気分で、軽やかな足取りで帰宅することができました・・・一安心・・・。
 これで、今月中旬の遠野祭りに出かけられる、そんな思いでもありますが、我家では地元郷土芸能に長男と二女が参加してましたが、二女は今週から練習に合流、高校生の長男はクラブ活動等で帰りが遅く練習に参加できない日々が続き、今年は参加できない公算が強い・・・。







 市街地では各町内の郷土芸能別に幟が立てられている。
 画像は大工町ですが、大工町といえば「大神楽」・・・個人的には、大神楽のお囃子の音が遠野祭りの雰囲気を感じるといった印象が強いものとなっている。
 無論、しし踊りの太鼓や笛の音、南部ばやし・・・等も遠野祭りに欠かすことが出来ないものですが、やはり個人的には大神楽である・・・笑
 皆さんはどの芸能で一番遠野祭りが来たと実感しますか?




 長男が被る駒木鹿踊のしし頭
 近日中にカンナがらや衣裳の解れとか再点検の予定、祭り準備も着々といったところですが、しし頭の出番はいかに?


 さらに・・・・
 地元郷土芸能に私個人は深く関わっていないが、それでも15日は半纏を着せられて子供達の付き添いで共に遠野郷八幡宮へ・・・・。
 14日の昼夜、市街地での芸能パレードは当直の為、楽しむことはおろか観ることすら叶わない・・・涙・・・しかし、15日はカメラ小僧、いやっ、カメラオヤジとなって愛機を駆使して祭りを激写したいと思っております。

 腕もイマイチ、カメラの機能も未だに使いこなせずにおりますが、残りの時間でなんとかモノになるよう精進したいと思ってます。




 
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お疲れモード

2008-09-03 20:02:36 | 
 朝からどんよりとした遠野、そんな中、長期療養中の知人を見舞いに盛岡方面へ午前中から出かけていた。
 ラジオからは沿岸北部は青空が広がり快晴という、しかも気温が高く真夏日の予報、盛岡に近づくにしたがって雲の厚みが増してくる感じ・・・岩手は広いなあと思いながら、途中での野暮用とかをこなして知人の元へ・・・。

 昼近くであったので、面会時間の確認含め携帯電話をするも反応なし、ようやくつながったと思ったらお留守番センターへ・・・・。

 受付に行って面会の手続きをしてその病棟へ行くと外泊中とのこと・・・涙

 とんぼ帰りで彼の自宅にてお見舞いをすることにして盛岡を出ると・・・物凄い雨に見舞われ難儀する。

 帰ってきた遠野はまだ本格的な雨にはなっていなかったが、いつ降り出してもおかしくない空模様・・・・知人宅にお邪魔したが、思ったより元気そうで順調に回復しているとか・・・まずは一安心ということで帰宅すると・・・一気に疲れがドットきた感じ・・・ソファに崩れるように寝入ってしまった。

 一時間程寝たのだろうか?これはいけないということで起き出すと、隣では・・・・汗




 眩しいニャ~・・・・猫もお疲れモードらしい・・・笑



 ちょっと手抜き的なエントリーですみません。
 本来は遠野南部家歴代に関する記事をエントリー予定でしたが、誤操作の為、途中で書き上げた記事がオジャン・・・怒・・・

 再チャレンジの気力もなく、次回へお持ち越しとなります・・・
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関東・遠野ぶれんど

2008-09-02 17:47:44 | その他
 この日の野暮用を終えて都内から高崎線で現地入り、集合時間約40分前くらいか?・・・降り立った場所は・・・。



 都内で暮らす愚娘に説教のひとつも言いたいところでしたが、折角の機会、関東ぶれんどの皆様に予てよりご連絡しておりまして、ここ浦和にお集まりいただくという段取りを「ひろゆ」さんにお願いしておりまして、実現という運びになった次第です。

 まずは、ここ浦和に宿を事前に取っておりまして、西口界隈の宿にチェックイン、部屋に荷物を置くと直に浦和見学に出かけました。



 宿泊したホテル1階部分は飲食街となっており、その一角にラヂオ局が・・・そうここはサッカーの町「浦和」・・・浦和レッズの本拠地でもあります。


 田舎人の都会散策・・・といっても時間も時間、「どごだり、かごだり」歩きまわって迷子になってもたいへんということで駅西口近辺を少しだけ歩いただけ、この街で小さな遠野とか岩手の文字を探したが、1発目で・・・・。



 いわて平泉の文字が・・・2度の地震、そして世界遺産登録延期とトリプルアクシデントといった夏でしたが、地震による観光面の風評被害はかなりあるとか、もちろん遠野もその影響が大きいと聞きますし、岩手全体も・・・そんな中で首都圏の駅に「ド~ン」と岩手をアピールする文字が掲げられていること、ちょっとうれしくなりました。
 びゅうプラザには岩手を扱った旅行プランのパンフが並べられ、平泉と花巻、遠野というセットプランもあるようで、是非に遠野へ、そして岩手へお越しいただければと無責任ながらも思ったところです。


 さて、定刻にひろゆさんと無事に合流、本日の懇親の場へ移動・・・。
 




 週末はレッズサポーターで大賑わいのお店、この日は、ある程度静かに飲める場所ということで、道を挟んだ支店にご案内いただきました。

 まずは・・・



 生ともつ煮で乾杯

 間もなく「ゆーくん」も合流との連絡あり、山猫さんも早めに駆けつけていただけるとか、まさに遠野ぶれんど関東軍団幹部の揃い踏みということで、楽しみな一夜となる予感が・・・・


 浦和らしいネーミング・・・「レッズサワー」


 赤を基調としたスッキリとした味、皆さんこれ飲んでレッズを応援しているんでしょうね・・・笑


 ということで、ゆーくんも合流、花見時期の遠野で一度しかお目にかかってはいないけど、すぐにわかりましたし、彼も判ったようでもありました。
 まずは再会を祝して3人で乾杯!


 画像は3人での何度目かの乾杯風景・・・笑


 ほどなくして山猫さんも合流・・・思ったより早く予定の人員が揃ったということで、本当の乾杯


 これは画像用の乾杯風景です・・・汗




 海鮮系が苦手な小生の為に肉系でお気をつかわせてしまいましたが、でもかなり美味しかったです

 
 まだまだ宵の口、浦和で遠野話題にブログ話題、会話もスムーズになりテンションが上がってきたところで、次のお店へ移動。




 2次会の乾杯



 暑い時期のおでんもおつなもの・・・ということで・・・。


 
 ひろゆさん定番のトマト煮



 2次会ではテンションも高まり、さらに遠野、そしてブログ話題で盛り上がったと記憶しておりますが、ロックの芋焼酎は結構効きました・・・汗
 それでも記憶が飛ぶとか、大酔したわけでもなく、なんとか終電の時間は抑えていたつもりでしたが、山猫さん曰く、「電車は諦めました、3時間かけて歩いて帰ります」には流石、真冬の高清水を走破した兵、彼ならやりかねないと正直思いました・・・笑
 埼玉県から千葉県まで・・・汗・・・徒歩で県を跨ぐ・・・岩手の内陸部に住む人間には考えられないことでもあります・・・笑


 どうもすみません・・・山猫氏・・・笑 


 店を出たら雨模様、最後の電車が来るとかで、皆さん駆け足で駅へと滑り込みましたが、しっかりとお互い手を挙げてのサインは確認しております。
 楽しいひと時でした、ありがとうございました。



 遠野でつながるご縁、そしてブログで培った深いお付き合い、今回は関東ぶれんどの皆様の温かさ、柔らかさ、楽しさをもの凄く感じることができました。
 
 今年度、自分の中では首都圏で遠野ブログ画像展を、とひとり盛り上がってましたが、関東ぶれんどの方々が健在であることは強い励みになりますし、今年は無理ですがこれなら行ける・・・確信もしたところです。
 遠野の皆様、関東の皆さんがひとつになれば、いつかきっと実現できるのではないのか、そんな思いもいたしました。
 何よりも彼らとの絆、そしてブログを通じてお付き合いのある皆さんとのつながりがあればブログにプラス何かで遠野をアピールできるものと、こちらも思ったところです。(とらねこ親父独りの妄想)



 

 さてさて、翌日は二日酔いながらも都内に移動して愚娘に説教たれて、それでも夕方早くに二人で軽く飲みながら食事、その後、赤羽に行って同級生と飲んで(前回エントリー)懐かしさに浸り、その翌朝に帰途に着きました。

 新幹線3時間、大宮を過ぎた辺りから眠りにつき、新花巻のアナウンスを聴くまで寝入っていたようです。
 きっと大きな鼾をしたに違いない・・・・汗・・・お昼近くに帰宅しても疲れが取れずそのまま昼寝、夜も定時には床につきました。
 年々、遊び疲れながらも、疲れが残るようになってきたようだっ・・・汗

 
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