「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

駒木鹿子踊・亡父の遺品

2008-09-24 20:29:41 | その他
 遠野郷八幡宮例大祭と間もなく本格的となる稲刈時期との間に、当地方でも有名処の神社等の秋祭りが数多く開催されております。
 秋祭りでは各地に伝わる郷土芸能が見られるお祭りもあって、昨日(23日)は青笹町の六神石神社のお祭り見物・・・(2008、9,23エントリー)・・・といったところで、郷土芸能遠野郷しし踊関連のエントリーが続くことをお許しください。


松崎町駒木・・・小字名・中野

 法門山福泉寺五重塔・・・中野(海上)から


 何故にこの場所へ(上記画像)・・・実は駒木しし踊関連での新発見といいますか、駒木しし踊の創始者と伝えられる角助さんの墓前にて感謝も含めて報告することがあって、手を合わせて参りました。

 
 元祖角助の墓・・・松崎町駒木(海上・中野)






 
 遠野郷駒木しし踊・角助について


 駒木しし踊の由来等については、過去に何度か当ブログでも記述しておりますので過去ログをご参照願います。




 駒木しし踊のその年の踊りはじめやら遠野郷八幡宮例大祭に向かう前に此処角助の墓前で踊りを奉納することが、決まりとなっていたと聞いたことがありますが、踊りに参加する我長男や末娘が行って踊ったということは聞いたことがないので、既に廃れた習わしか?・・・・と思っていましたが・・・・。



 墓前の地面にカンナガラがひとつ落ちていた・・・おそらく踊り終わった後に掃除したのだろうと思いますが、こちらの習わしが今でも大切に続いていたこと、うれしく思いました。



 さて前置きが長くなりましたが、本題に入ります。

 駒木しし踊での大夫(太鼓)をしていた亡き親父、この世を去ってから我家と駒木しし踊との直接的な関係は無くなっておりましたが、長男が中学生となると、駒木しし踊に参加するようになり、末娘も小学高学年となるや参加するようになりました。

 それでもしし踊保存会と私との深い関りは無きに等しいことながら、しし踊の練習や遠野祭り等の付き添い、特にお祭り後の反省会等の懇親の場で、亡き親父より一回り近く年下で現在、保存会の重鎮、師匠格となっている方々から、よく聞かれることがありました。

 それは、親父が残した駒木しし踊の全歌詞を収めた書の在りか・・・について。

 幼い頃、ザラ紙みたいなもので綴られた書物があって、紐で綴じられていた書物、確かにみた記憶があり、触ろうとして強く親父に何度か叱られた記憶もある・・・・しかし、家を建て替えしてから、何処へ仕舞ったものなのか、親父自身も長らく探していたような?・・・その存在は否定しないまでも、私自身は興味がなかったので、空返事をしておりました。

 そんなことが数年、毎年聞かれるものですから、頭の片隅には今年も聞かれるかな?なんて思ってますとやはり・・・なんでもその方は若い頃に一度親父から借り受け必要なページのみ書き写したとか、コピーがある時代でもなく、書き写すだけでもたいへんで、途中で返してしまったとか?・・・・あったら貸してほしいとは言いませんでしたが、もしあるのなら大変貴重な資料でもあるので、大切にした方が良いとの助言・・・この言葉を受け母親も巻き込んで、とにかく暇を見つけて家中を探しました。
 そして遂に・・・・。



 昭和34年に書かれた書・・・

 昭和34年といいますと親父と母親が結婚した年であり、親父はまだ20代中盤の青年ということになりますが、聞くことによりますと、当時の大師匠が江戸期(文化年間?)に書かれた駒木しし踊の演目、歌詞の巻物を持っていたとかで、それを借り受け、裏紙やノートに書き写したとのこと。
 それを今度は我家と親戚のある方にお願いして清書していただいたものが、画像の書物ということになります。(清書した親戚は当時20歳前の青年)
 無論、読めない字、意味が難解な内容もあって、途中で原物を何度か借りたりして、一冊にまとめ上げたものなようです。

 さらに後で親父が太鼓の調子やら、太夫の動き等も書き足している。


 その一部中身は・・・・






















 全頁67頁、これを発見した時は、身震いと共に中身をまだ良く見てはいないが、亡き親父への尊敬の念が込み上げてきたのは事実でもありました。
 それ同時に、我歴代が駒木しし踊での大夫としての家柄であったこと(祖父の名は無い、小国(川井)から婿養子と入り間もなく太平洋戦争に出征、戦死)をみれば、長男たる私の代でしし踊との関わりを断ってしまっていること、何処か肩身が狭いという思いも頭をもたげてくる。

 しかし、幸いにも地域で絶えることなく伝承されていること、孫である我長男がしし踊をしていることで、何処か救われる思いもございます。

 私にできることは、この親父が残した貴重な書物を後世に伝える、そして画像や活字としてさらに複製して資料として残すこと、場合によっては保存会へ複製したもの等の寄贈も視野にいれなければと思うところです。

 遠野市内のしし踊り、全演目が今に伝えられてるのだろうか?、そして全てを踊ることができているのだろうか?また笛太鼓も・・・・亡き親父は全ての演目をマスターしていたと聞く、晩年はだらしのないただの酒好き親父であったが、それでも今となっては尊敬する場面も多く見出している、単純ながら今になって尊敬という二文字が覆いかぶさっている、そんな現状でもある。


コメント (8)
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