「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

紫波御所と遠野・壱

2008-04-17 20:48:33 | 歴史関連コラム?
 紫波高水寺城・・・紫波郡紫波町(城山公園)

 南側から


 北側から



 本丸





        ◆紫波の歴史◆

○斯波氏と紫波

 斯波氏は上の説明板に記述されるとおり、足利氏(源氏)の有力分族である。

 斯波郡(紫波郡)は奥州平泉時代は平泉藤原氏の一族、樋爪氏が統治していたが、鎌倉勢に平泉が滅ぼされると、斯波郡の河東(北上川東)は鎌倉御家人の河村氏(河村四郎秀清)に与えられ、河西は引き続き藤原一族の樋爪俊衡に安堵されたとある。

 河西の樋爪俊衡亡き後、樋爪氏がどうなったかは不明であるが、河西は大方の見解では足利一族である斯波氏に与えられたのではとのことである。
 鎌倉期と推測されますが「尾張弾正左衛門尉」の所領が郡内のどこかにあったものとの見解もあって、斯波氏と紫波郡との関係は割と古いものなようです。

 しかし、いつの時代から紫波郡が完全に斯波氏の領有することになったのか、さらに斯波氏の定住は、また河東から岩手郡内に勢力を持つ河村氏との関係は・・・まだまだ不鮮明な内容も多く、さらなる史実への紐解が必要かと思ってます。


 北上川東側(河東)


○河村氏 
 河東の大巻城を本拠に紫波郡東側から岩手郡内南部(盛岡、玉山)まで勢力下としていた河村氏は、建武親政下において、遠野南部氏の祖、南部師行と共に陸奥守北畠顕家の幕下として遠野南部家文書に名がみられる。(河村又次郎入道)

 後に宮方と武家方と国内を二分する争乱、南北朝時代の興国年間(1340前後)、八戸の南部政長(遠野南部氏先祖・師行実弟)が南軍を率いて岩手郡に南下、雫石川下流域(盛岡市厨川)で北軍と激突、この時、河村六郎なる人物が南軍側へ加担を申し入れている。
 南部政長による河村氏への勧誘が成功した内容とも考察され、以後河村氏は南朝方となっている。
 
 この合戦ではかつて共に北畠顕家の下にあった戸貫出羽前司(中条氏・稗貫氏)が北朝方となり紫波郡内の稗貫党を率いて出撃したが出羽前司は討死、南軍が盛岡近辺まで勢力を拡大することになる。


 大巻城(紫波町)


 中世山城といった雰囲気抜群の城跡(未踏)


 後に河村氏は、紫波郡に本格入部しただろう斯波氏に圧迫され、南北朝の争乱が北朝側に優勢に傾く中、各地の河村氏一族が徐々に斯波氏の家臣化の経過を辿り、斯波氏の配下となったものと解釈されている。


 しかし、不明な点も多いのは確かで、斯波氏がいつの時代に紫波に入ったものか、おそらくは当初は河村氏同様斯波氏も代官を以って本領から遠隔統治をしていたものと推測されます。

 南北朝期、北朝側の斯波氏といった印象はそのとおり大きいものですが、遠野南部家文書等の当時の史料には北軍の大将格、それも北奥羽方面での争乱に斯波氏の名は出てこない。

 北畠顕家と対峙する斯波家長が足利尊氏によって斯波郡へ派遣され奥州北朝側の総司令官といった位置付けに語られるも、家長が斯波郡はおろか奥州に下ったという痕跡は皆無である。
 斯波家長は関東方面で奥州への工作活動を行っていたものと考察され、奥州への工作活動責任者といった雰囲気が感じられます。
 家長は関東管領という職にあったとも語られますが、東北、関東方面の総大将は足利直義であるのは疑いのないことです。


 紫波の斯波氏は、南北朝後半或いは室町初期に本格下向した斯波一族で、斯波家長に繋がる一族が当初入り、大巻城の河村氏を圧迫しながら徐々に紫波郡全体に勢力を拡大していく過程があったものと私は推測しております。

 さらに1500年前後、奥州探題の大崎氏(斯波氏)による一族の分族化があり、その際に出羽の最上、さらに紫波に一族を派遣、このことが紫波御所と呼ばれる高水寺城の斯波氏の始まりであろうと考えていますが、この時にかつての斯波氏に何かしら後継が絶たれる問題等が発生したのではないのかと私は考えておりますが、さらなる研究やら調査も必要であり、識者の今後の研究成果に期待しつつ、小生も機会を捉えながらこちらも懸案として取り組めたらと思っております。

 
 参考資料等・・・紫波町史1・遠野南部家文書(八戸根城南部家文書)・北斗太平記全二巻、奥州南北朝秘史・岩手県史等・・・





 おまけ・・・桜

 紫波町は所によって7~8分咲き、城山公園は2分咲き

 城山公園



 国道396号、花巻市大迫某所

 8分咲きですかね。



 そして遠野では比較的早く開花する法務局の桜



 もう少し先ですかね・・・?

コメント (8)
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