高水寺城の帯郭・・(紫波町)

ひとつひとつの平場、帯郭は私が探訪する遠野郷内の館跡に残されるものとは桁違いの大きさ、また遠野の主城クラスの鍋倉城や横田城の比でなく、紫波郡一円と岩手郡の南部地方を領し、斯波御所と呼ばれた斯波氏の隆盛をみることができます。
○紫波、斯波氏の系譜
斯波御所と呼ばれた斯波氏の祖は、源姓足利一族、足利家氏とされている。
鎌倉期、紫波郡の何処かに尾張守の領地があったと伝えられ、家氏も含み歴代は尾張守であったので、おそらくそれであろう。
時代は下り、建武親政が崩壊、武家方棟梁、足利尊氏により斯波家長が陸奥守、管領となって宮方、北畠顕家に対抗の図式として斯波郡へ派遣されたといわれる。
顕家18歳、家長15歳、ミーハー的南北朝ファンにはなんともいえない組み合わせであるが、先にも記したように家長が奥州へ入っていたという痕跡は皆無であり、関東に居て盛んに南朝方の撹乱工作やら有力武家を北朝方に誘うといった工作をしていたものと思われる。
斯波家長は北畠顕家に率いられた西上軍との戦いで若い命を散らしたといわれ、この時、家長は17歳の青年武将、子がいた形跡はなく、おそらく斯波一族の誰かが家長の跡を継承し、後に斯波郡へ下向したものと考えたいが別説も存在し、家長を名乗る一族の誰かがいたのではないのか?という説も存在している。
さて、斯波御所の直接の系譜は、南北朝時代の初頭に足利尊氏によって任命された奥州探題、斯波家兼から始まる説が有力でもある。
今の宮城県北部、大崎市(古川辺り)を本拠としていた大崎氏がそれである。
大崎氏の歴代は北の鎮台という意味合いで奥州に威を示し、室町幕府の奥州での権威でもあったが、後に西に最上氏を分族、そして斯波に斯波御所と呼ばれる一族を配したのである。
斯波御所の斯波氏は河東の河村氏を圧迫し、その傘下に治め、岩手郡南部地域を勢力下に置き、さらに西北の雫石地方も制圧して一族を配して、隆盛を極めたと伝えられている。
北方、旧都南方面・・盛岡市

現在の盛岡市、雫石方面を勢力下に置いた斯波氏、室町時代の後期になると津軽地方をほぼ勢力下に治めた三戸南部氏が岩手郡へ南下してくる。
天文年間といわれるが、おそらくは盛岡近郊で両勢力は激突、いよいよ岩手郡をめぐって南部、斯波の両雄が対決といった時代となる。
天文9年(1540)三戸南部の南部高信(石川高信)が南部勢を率いて岩手郡の地勢力を帰順させ、さらに雫石を攻略、これは斯波氏にとっては大きな脅威で、すかさず反撃に転じ、岩手郡の一部を回復したと伝えられる。
一進一退の攻防の中でも斯波氏が優勢であったことも語られますが、徐々に守勢となる場面も多かったのではないのかと思われます。
矢巾方面

○斯波氏と遠野阿曾沼氏
実質の本題はここからとなりますが、前置きがかなり長くなってしまいました。
三戸南部氏の南下攻勢に対し、斯波氏は和賀氏、稗貫氏、そして遠野阿曾沼氏に武力援助の申し入れを行い、これら諸氏が斯波氏に加勢していたという見解が示されている。
特に後の斯波氏の家臣団の構成をみれば、和賀氏一族やら稗貫一族、さらに遠野阿曾沼氏一族と思われる名が散見されている。
これら諸氏の武力援助によって三戸南部氏へ対抗できたともいえる内容も考えられますが、紫波町史や滝沢村史に記述される内容、すなわち遠野阿曾沼氏と紫波の関係等は遠野ではほとんど伝えられておらず、僅かに阿曾沼一族である鱒沢広勝の妻が斯波氏出であるといった内容で、多くは語られていない。
遠野は南で接する葛西氏との関わりが多く語られるも、北の威、斯波氏とも何らかの関係もあったことは推測できますし、有力一族やら家臣同士の婚姻等の結びつきもあったのだろうと想像もできます。
○遠野綾織一族
斯波氏へ派遣された武将に綾織広行という名が登場する。
阿曾沼支族とも記されているが、遠野側では見られない武将である。
南部氏との合戦で目覚しい功績を挙げ、斯波氏から賞賛され乞われた一族、綾織氏、広行の子とされる綾織越前広信が軍事顧問的な立場で斯波氏に仕え、雫石城の改修、さらに越前堰といわれる滝沢村地域の農業用水をもたらした工事で名を残し顕彰される人物として今も語り継がれている。
おそらくは遠野の綾織地方を領していたかつての遠野西方盟主、宇夫方一族であろうと想像できる。
弘治年間、宇夫方氏主筋の西風館氏が葛西勢といわれる一団に夜襲を受け、壊滅的な打撃を受けて遠野の歴史からひとまず消え去る事件が発生したといわれ、没落した宇夫方一族は斯波氏への加勢に活路を見出したのではないのかと私は考えている。
他に阿曾沼支族とされる太田民部秀武の名も散見されますが、北の権威、斯波御所をめぐっての関係は遠野にも大いにあって、無関係ではなかったということ、これだけははっきり言えると思っております。
いずれ、この方面もしっかりと紐解くこと、これも懸案事項として取り組んでみたいと思ってます。
◆遠野桜情報


ボケていてすみません。
早咲の桜、遠野でも早めに開花する桜はほころび始めております。
本日(19日)は雨降で肌寒い天候でしたが、天気が回復し、陽気が戻れば一気に咲き誇る場面かと思います。
福泉寺の桜も天候の回復で一気に開花となりそうです。
画像は伝承園付近の桜
●おまけ
朗報・・・・
長男は、中学時代は剣道をしておりましたが、高校生になってからは弓道をしております。
本日、岩手県下の高校生を集めての弓道大会が盛岡市の岩手県武道館でありましたが、160名余の選手が参加した個人の部、見事4位に入賞したとのこと・・・涙
本日は家族で見学に隠れて行くつもりでしたが、息子からは恥しいので来るなと再三釘を刺されてまして、結局行かないでしまいました。
情けない親なんですが、なんの大会なのか、それも知らされておりませんし、今までも大会等の応援へ行った事がありませんでしたが、好成績を収めて帰宅したこと、まずは家族で喜びあっております。
将来は乗馬も覚えて、遠野南部流鏑馬保存会にでも入れていただいて、遠野郷八幡宮神事、遠野南部流鏑馬の射手奉行でもと密かに望んだりして・・・・汗
賞状は学校預かり・・・とのこと。

ひとつひとつの平場、帯郭は私が探訪する遠野郷内の館跡に残されるものとは桁違いの大きさ、また遠野の主城クラスの鍋倉城や横田城の比でなく、紫波郡一円と岩手郡の南部地方を領し、斯波御所と呼ばれた斯波氏の隆盛をみることができます。
○紫波、斯波氏の系譜
斯波御所と呼ばれた斯波氏の祖は、源姓足利一族、足利家氏とされている。
鎌倉期、紫波郡の何処かに尾張守の領地があったと伝えられ、家氏も含み歴代は尾張守であったので、おそらくそれであろう。
時代は下り、建武親政が崩壊、武家方棟梁、足利尊氏により斯波家長が陸奥守、管領となって宮方、北畠顕家に対抗の図式として斯波郡へ派遣されたといわれる。
顕家18歳、家長15歳、ミーハー的南北朝ファンにはなんともいえない組み合わせであるが、先にも記したように家長が奥州へ入っていたという痕跡は皆無であり、関東に居て盛んに南朝方の撹乱工作やら有力武家を北朝方に誘うといった工作をしていたものと思われる。
斯波家長は北畠顕家に率いられた西上軍との戦いで若い命を散らしたといわれ、この時、家長は17歳の青年武将、子がいた形跡はなく、おそらく斯波一族の誰かが家長の跡を継承し、後に斯波郡へ下向したものと考えたいが別説も存在し、家長を名乗る一族の誰かがいたのではないのか?という説も存在している。
さて、斯波御所の直接の系譜は、南北朝時代の初頭に足利尊氏によって任命された奥州探題、斯波家兼から始まる説が有力でもある。
今の宮城県北部、大崎市(古川辺り)を本拠としていた大崎氏がそれである。
大崎氏の歴代は北の鎮台という意味合いで奥州に威を示し、室町幕府の奥州での権威でもあったが、後に西に最上氏を分族、そして斯波に斯波御所と呼ばれる一族を配したのである。
斯波御所の斯波氏は河東の河村氏を圧迫し、その傘下に治め、岩手郡南部地域を勢力下に置き、さらに西北の雫石地方も制圧して一族を配して、隆盛を極めたと伝えられている。
北方、旧都南方面・・盛岡市

現在の盛岡市、雫石方面を勢力下に置いた斯波氏、室町時代の後期になると津軽地方をほぼ勢力下に治めた三戸南部氏が岩手郡へ南下してくる。
天文年間といわれるが、おそらくは盛岡近郊で両勢力は激突、いよいよ岩手郡をめぐって南部、斯波の両雄が対決といった時代となる。
天文9年(1540)三戸南部の南部高信(石川高信)が南部勢を率いて岩手郡の地勢力を帰順させ、さらに雫石を攻略、これは斯波氏にとっては大きな脅威で、すかさず反撃に転じ、岩手郡の一部を回復したと伝えられる。
一進一退の攻防の中でも斯波氏が優勢であったことも語られますが、徐々に守勢となる場面も多かったのではないのかと思われます。
矢巾方面

○斯波氏と遠野阿曾沼氏
実質の本題はここからとなりますが、前置きがかなり長くなってしまいました。
三戸南部氏の南下攻勢に対し、斯波氏は和賀氏、稗貫氏、そして遠野阿曾沼氏に武力援助の申し入れを行い、これら諸氏が斯波氏に加勢していたという見解が示されている。
特に後の斯波氏の家臣団の構成をみれば、和賀氏一族やら稗貫一族、さらに遠野阿曾沼氏一族と思われる名が散見されている。
これら諸氏の武力援助によって三戸南部氏へ対抗できたともいえる内容も考えられますが、紫波町史や滝沢村史に記述される内容、すなわち遠野阿曾沼氏と紫波の関係等は遠野ではほとんど伝えられておらず、僅かに阿曾沼一族である鱒沢広勝の妻が斯波氏出であるといった内容で、多くは語られていない。
遠野は南で接する葛西氏との関わりが多く語られるも、北の威、斯波氏とも何らかの関係もあったことは推測できますし、有力一族やら家臣同士の婚姻等の結びつきもあったのだろうと想像もできます。
○遠野綾織一族
斯波氏へ派遣された武将に綾織広行という名が登場する。
阿曾沼支族とも記されているが、遠野側では見られない武将である。
南部氏との合戦で目覚しい功績を挙げ、斯波氏から賞賛され乞われた一族、綾織氏、広行の子とされる綾織越前広信が軍事顧問的な立場で斯波氏に仕え、雫石城の改修、さらに越前堰といわれる滝沢村地域の農業用水をもたらした工事で名を残し顕彰される人物として今も語り継がれている。
おそらくは遠野の綾織地方を領していたかつての遠野西方盟主、宇夫方一族であろうと想像できる。
弘治年間、宇夫方氏主筋の西風館氏が葛西勢といわれる一団に夜襲を受け、壊滅的な打撃を受けて遠野の歴史からひとまず消え去る事件が発生したといわれ、没落した宇夫方一族は斯波氏への加勢に活路を見出したのではないのかと私は考えている。
他に阿曾沼支族とされる太田民部秀武の名も散見されますが、北の権威、斯波御所をめぐっての関係は遠野にも大いにあって、無関係ではなかったということ、これだけははっきり言えると思っております。
いずれ、この方面もしっかりと紐解くこと、これも懸案事項として取り組んでみたいと思ってます。
◆遠野桜情報


ボケていてすみません。
早咲の桜、遠野でも早めに開花する桜はほころび始めております。
本日(19日)は雨降で肌寒い天候でしたが、天気が回復し、陽気が戻れば一気に咲き誇る場面かと思います。
福泉寺の桜も天候の回復で一気に開花となりそうです。
画像は伝承園付近の桜
●おまけ
朗報・・・・

長男は、中学時代は剣道をしておりましたが、高校生になってからは弓道をしております。
本日、岩手県下の高校生を集めての弓道大会が盛岡市の岩手県武道館でありましたが、160名余の選手が参加した個人の部、見事4位に入賞したとのこと・・・涙
本日は家族で見学に隠れて行くつもりでしたが、息子からは恥しいので来るなと再三釘を刺されてまして、結局行かないでしまいました。
情けない親なんですが、なんの大会なのか、それも知らされておりませんし、今までも大会等の応援へ行った事がありませんでしたが、好成績を収めて帰宅したこと、まずは家族で喜びあっております。
将来は乗馬も覚えて、遠野南部流鏑馬保存会にでも入れていただいて、遠野郷八幡宮神事、遠野南部流鏑馬の射手奉行でもと密かに望んだりして・・・・汗
賞状は学校預かり・・・とのこと。
遠野高校弓道復活の兆しありか、ってところでしょうか。
オイラの知人のご子息も中学で剣道高校で弓道をしていました。
今は東京の大学へ
インターハイ出場が常連だった頃がなつかしいですね。
なんの大会であるかはわかりませんが、明日の日報朝刊県内のスポーツ欄にちょこっと小さく載るとのことで、見てみたいと思ってます。
今の遠高弓道部は女子の方が少し強いようですが、なんとか男子含み、県下の強豪の仲間入りを果してほしいものです。
なんだべが、…強いですね! 心震えました!…虎の子です!
我が家の長男が言っておりました彼は「天才的な感覚の持ち主だ」って。将来が楽しみです。駒木に貴公子二人ですね。
>隠れて行くつもりでしたが、
息子さんの大会は見に行ってあげましょうよ。
見に行ったことを告げなければ良いのですから。
しゃねっぷりしていればo.kっすよ!
矢は弓道場から校舎まで簡単に届く…なんて話しをしていませんでしたか?
自分の同級生がそう言っていたのを思い出したもので。
で読んだことがあった。本当かなあ?では大崎氏の
子孫は北陸でこんにゃく屋らしい。
駄目押し、大崎氏重臣氏家氏は元銀行役員。伊達さん
のお家の近所で現在の館に住んでる。みたらビック
りするお屋敷です。
で四戸三平で検索してでてきます。
綾織越前広信が作った堰は滝沢村のある地域の農業用水として未だに現役として活躍しております。
詳しくは以前小生が訪ねた内容を掲載しておりますので↓から・・・。
http://toraneko.cside.com/newpage258.htm
虎の子、いえいえ、猫の子・・・笑
正直、親としてはここまでやるとは思ってもいませんでしたのでうれしいです。
本人はさらに上に食い込むことができず、内心は悔しいかもしれませんが、まずは好成績ということで、満足かと思いますが、次回に期待です。
ゴンゲンさまも4位凄いですよね、遠野は剣道をはじめ武道が昔から盛んな土地柄、遠野南部氏のお膝元といったところで、武道の競技でのさらなる活躍を期待したいですね。
貴公子のひとりは青笹の住人になったようです。駒木野の貴公子は只今不在ですので、なんとか将来、貴公子と呼ばれるよう精進できればと思います・・・笑
お言葉ごもっともです。
もう少し配慮なり親としての行動も必要だったと痛感しております。
ただ、割と派手目の格好の親父がカメラぶら下げてチョロチョロ動き回るのもどうかな・・・なんて考えてもいましたもので・・・隠れるようにコッソリとまがってみるようにしたいと思います。