見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

画家も文人も/中国史の名君と宰相(宮崎市定)

2013-07-14 23:58:01 | 読んだもの(書籍)
○宮崎市定『中国史の名君と宰相』(中公文庫) 中央公論新社 2011.11

 宮崎市定先生の著作は大好きなのだが、シロウトが気軽に読めるものが少ない。『科挙』『隋の煬帝』『雍正帝』など、文庫や新書で手に入るものは読みつくしてしまったかな、と思っていたら、未読の本書を見つけたので、読んでみることにした。

 古いものは、1941年の『東洋史研究』に発表した「南宋末の宰相賈似道」から、1960~70年代に書かれた多くの人物評伝が収録されている。第1章「大帝と名君」は、秦の始皇帝、漢の武帝、隋の煬帝、清の康熙帝、清の雍正帝が綺羅星のごとく並び、タイトルどおり。第2章「乱世の宰相」冒頭、李斯(秦の宰相)は分かったが、次の馮道(ふうどう、882-954)は知らなかった。古来無節操、恥知らずの代表のように言われて、歴史上評判が悪い一人だという。しかし著者は「宋代のように君臣の分が定まった時代から顧みて、五代のような乱世を同じ筆法で批評するのは妥当ではない」という。いや全くそのとおり。

 さらに著者の弁明は面白くて、五代のような乱世では、単数の君主よりも複数の人民のほうが大事であり、馮道は人民のためによく尽くした。後晋の代、侵略してきた契丹軍と凄惨な民族戦争が繰り広げられるに及び、馮道は契丹の太宗に謁して、百姓を殺さないでほしいと取りなしに努めたのだそうだ。ここから著者は、前の戦争における汪兆銘のことに思い及び、「何人が彼につぶてを投げることができるだろうか」と記す。1960年の著作である。

 「五代」という時代の特殊性と重要性は、著者の別の著作によって気づかされた記憶がある。本書収録の「五代史上の軍閥資本家―特に晋陽李氏の場合」も面白かった。五代初期は、地方に割拠する武将の下に軍隊と資本が密接に結びついているが、私財を配下の将士たちでなく、己が子孫に伝えたいと思った武将が、財を中央に献じて庇護を求めることにより、資本が中央に集中し、中央権力は資力によって地方の軍隊を動かすに至る。日本の中世にも、一部似た動きがあるように思えて、興味深い。あと、農民にとっては、軍閥割拠の戦乱時代なら地方税の納付だけで済むのに、天下一統の平和時代になると、上供の物資が増えて負担が大きくなるというのは、気づかなかった視角である。

 本書後半は、清の雍正時代の地方政治家・藍鼎元(1680-1733)、明末の郷紳・張溥(1602-1641)など、私の知らなかった人物について書かれた文章が続く。それでも退屈しなかったのは、ある程度、時代背景は理解できたし、読んでいると、思わぬ旧知の名前に出会うことができたからだ。張溥の一篇で、文人・書家として名高い倪元璐(げいげんろ 元[王路])の名前を見たときはびっくりしたが、びっくりする必要は何もなくて、当時の文学結社=>科挙受験のための政治家予備校=>政治的党派という等式が成り立つのだ。

 余談(?)だが、明清両国の交渉において、和平に熱心だったのはいつも清国側だったという新知識も書きとめておこう。満州国皇帝と明国皇帝が対等の立場で国交を行うことに難色を示した明側に対し、満州国側は帝号を去って汗と称してもよい、とまで妥協したが、ついに明側は取り合わなかった。外交下手の元首を戴く災いは大きい。

 巻末の一篇は「石濤小伝」。私の大好きな画家の石涛である。著者は石涛の生年を崇禎14年(1641)と考察する。別に崇禎3年生まれという所伝もあり、後者であれば、父(明の王族)を失ったときは16歳の少年であり、王家の一族として優雅な生活の記憶を十分に持っていたと考えられる。しかし崇禎末期の生まれであれば、彼はむしろ「戦後派」というべきだ。日本でも中国でも、石涛を民族主義者、抗清復明を唱えた抵抗画家に仕立てようとする観念的期待があるが、それは違うのではないか、というのが著者の趣旨である。面白いな。1976年の時点で、こんな小伝が書かれていたとは知らなかった。石涛について書かれた最近の文献(展覧会図録の解説など)をあらためて読み直してみようと思った。
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古代から近代まで/京都の歴史を足元からさぐる・北野・紫野・洛中の巻(森浩一)

2013-07-10 22:29:02 | 読んだもの(書籍)
○森浩一『京都の歴史を足元からさぐる・北野・紫野・洛中の巻』 学生社 2008.10

 夏休みを控えて、久しぶりに京都の本。以前「洛東の巻」を読んだので、次はどの巻にしようか、少し迷ったが「洛中」を含むこの巻にした。しかし、話題は平安京域の北方に広がる北野・紫野など「野」のつく地名から始まり、なかなか洛中に至らない。

 平安京は机上で設計された都市であったから、人々が実際に暮らしてみると、不便で無駄な箇所が多く、いわば都市の「自壊作用」によって、北野が生まれた。そして、北野、紫野、平野、蓮台野などは、みやこ(平安京域)の生活を補足する重要な土地となり、最終的に秀吉による近世都市の京都に取り込まれていった。この説明には、単に「平安京の右京は衰退した」という事実認識以上の面白さがある。都市は都市だけで自立することはできなくて、葬送とか遊猟とか遊興とか耕作とか、さまざまな目的で「野」を必要としたのである。

 それにしても江戸期の俳諧手引書に、京都の産物として「大宮通 蒲萄」「嵯峨 葡萄」という記載があることや、西陣には渤海家があって、所蔵の古文書にブドウの栽培の文書があるというのは知らなかった。本書には、こんな調子で、いろいろびっくりする小話がちりばめられている。

 京都駅が、大正天皇の即位大典にそなえて、もとからあった七条駅を南に移動させたものであり、このとき、秀吉が築いた「お土居」を利用することで、むやみに長い現在の1番線ホームができたというのも知らなかった。JR東海道線・新幹線の位置に平家一門の屋敷が並んでいたことも最近知ったばかりだが、京都の土地の歴史はかように重層的である。

 北山殿と足利義満、北野天満宮と菅原道真、南蛮寺と織田信長など、さまざまな時代を自在に行き来する本書だが、特に面白かったのは、平安京の造営にかかわった古代氏族についての考察。葛野の豪族秦氏による経済的支援があったと考えたのは喜田貞吉だという。私も好きな国史学者だ。ここで都と渡来氏族の関係について「おさらいをしておこう」と言って、宣化天皇や継体天皇の宮都に話題が及ぶのは、なんだか得をした気分である。

 何にでも闊達な好奇心を示し、文書や発掘資料だけでなく、現在に残る地名や口伝や祭礼からも、古代の姿に迫ろうと試みる著者の後をついていくのは楽しい。その一方、著者は、コンピューターによる平安京の鳥瞰的な復元図や、それに基づく精密な立体模型に疑問を呈している。平安京の造営にかかわった貴族たちは、確かに「規則正しい都市計画によって完成した都城」を目指したかもしれない。しかし、それは、いつの時点でどの程度実現していたのだろうか。

 それから、あっと思ったのは、平安京には朱雀大路の左右対称の位置に、東堀川(現在の堀川)と西堀川(紙屋川)があって、造営の初期から運河として使われていたのではないかという指摘。これは弥生時代にさかのぼる日本の大集落の伝統なのだそうだ。しかし、平安京の復元図の多くが、整然とした道路網からなる中国風の都城という知識に惑わされて、運河の存在を忘れているという。ネットで調べてみたら、そのとおりだった。歴史を「足元から探る」という意味の深さを、あらためて感じた。

 また、新来の北海道民である私にとって興味深かったのは、松浦武四郎の奉納した大銅鏡が北野天満宮にあるということ。日本列島の地図を文様にしている。加藤清正奉納の地図鏡に蝦夷地(北海道)が描かれていないことを残念に思って、明治8年、北辺の地図鏡を奉納したのだそうだ。加藤清正も北方地誌に関係の深い武将のはず(伝承では)。開拓使を批判して官を辞した武四郎は、不遇な道真に共感するところが深かったのではないか、とか、北辺だけでなく竹島についての著作(多気甚麼雑誌)を残していることなど、面白かった。

 もうひとつ、東寺観智院の五大虚空菩薩像の由来も書きとめておきたい。9世紀、仏教排斥の嵐が吹き荒れる唐の長安から、江南の海鎮(鎮海か)、五島列島を経て、五体の菩薩像を運び出し、山科の安祥寺上寺に安置したのは恵運。その後、荒廃する上寺から五体を救い出して、観智院に運んだのは、14世紀の賢宝という僧侶である。正直なところ、美術品としては、いまいち魅力を感じなかった仏像だが、信仰に捧げた「男のロマン」の物語を聞いてしまうと、少し見る目が違ってくる。また見に行ってみることにしよう。客殿前方の石庭「五大の庭」は、空海の帰国の様子をあらわしたもので「昭和の作」という説明を聞いた覚えがある。しかし、著者のいうように、恵運の功績をたたえたものと思って眺めるのも一興かもしれない。
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復古に非ず、反動に非ず/「リベラル保守」宣言(中島岳志)

2013-07-07 23:58:57 | 読んだもの(書籍)
○中島岳志『「リベラル保守」宣言』 新潮社 2013.6

 6月11日の鈴木邦男シンポジウムに関連する本の3冊目。というか、あのシンポジウムで中島岳志さんが語られたことが、だいたい文章になっていると思った。あのときは「右翼とは何か」がテーマで、その対比として「保守」を出していらしたのに対し、本書は「保守とは何か」に重点が置かれていることが、若干違うと言えば違うけれど。

 本書の半分ほどを占める序章~第1章は、いわば「リベラル」保守総説。保守の立場に立つ者は「人間の理性によって理想社会を作ること」を根本から疑う。したがって、特定の人間によって構想された政治イデオロギーや「ポリティカル・エンジニアリング」の過信、そこから生まれる急進的な改革、設計主義、多数者の専制に与しない。それよりも経験知や暗黙知を尊重し、対話による合意形成と漸進的な改革を支持する。

 著者は、一見「保守」に似て非なるものを注意深く削ぎ落としていく。保守は「復古」でも「反動」でもない。人間は、過去においても、現在においても、未来においても不完全なのだから、過去の一点に帰ればうまくいくという「復古」の立場も、現在の制度を絶対に変えてはならないという「反動」の立場も取らない。ああ、その通りだ。そして「保守思想の神髄」として、アメリカの神学者ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉を引く。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を与えたまえ」で始まる、とても素敵な章句だ。私は、堀田善衛氏の『天上大風』で読んだ「凡て汝の手に堪(たふ)ることは力をつくしてこれを為せ」という旧約聖書の言葉を思い出した。

 あと著者の言葉では「多一論」と呼ぶらしいが、真理の唯一性とともに、真理に至る道の複数性を認める態度。「私の追究している真理とあなたの追究している真理は別」という相対主義からは、真の寛容は生まれない。多様な文化と文明の存在にもかかわらず、究極のメタレベルに万人が承諾する真理が存在する、というのが、真正のリベラリストの信条でなければならない。私は、C.S.ルイスの「ナルニア国物語」を思い出した。あの最終巻(中学生には難しかった)もそんなことをテーマにしていなかっただろうか。

 それから、ずいぶん前に読んだ本になるのだが、著者と姜尚中氏の対談『日本:根拠地からの問い』(2008)をあらためて思い出したので、ここに引いておこう。私が「保守?」ということを考え始めたのは、この頃から。

 本書は、総説の序章~第1章がけっこう長くて、第2章以下は「原発」「日本維新の会」「貧困」などの個別テーマを取り扱う。つねに重視されていることは、人間は、具体的なトポス(場所)において、父母や同僚などの関係性の中で生きる存在であるということだ。

 なお「あとがき」には、第3章「橋下徹・日本維新の会への懐疑」の章について、当初、出版を予定していたNTT出版の編集者から「手を入れてほしい」との要請を受け、さらには「第3章をすべて削除し、他の本文中の橋下批判も削除・書き換えの方向で検討してほしい」と要望されたこと、それを断ったことにより、出版社が変更になった経緯が述べられている。第3章は、別に誹謗でも揶揄でもなく、至極まっとうな「懐疑」の表明なのにね。どうしたんだ、NTT出版。
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出家者たち/終わらないオウム(上祐史浩、鈴木邦男、徐裕行)

2013-07-03 23:53:51 | 読んだもの(書籍)
○上祐史浩、鈴木邦男、徐裕行著『終わらないオウム』 鹿砦社 2013.6

 これも、6月11日の鈴木邦男シンポジウムで言及された本。鈴木氏が、元オウム真理教幹部の上祐史浩氏と、村井秀夫氏を刺殺した徐裕行氏とで鼎談したんですよ、と語り始めたときは、はあ?と自分の耳を疑った。それから、怒濤のように「あの頃」の記憶がよみがえってきた。

 1995年3月の地下鉄サリン事件。上九一色村の教団本部強制調査。麻原彰晃(松本智津夫)の発見と逮捕。ハルマゲドンとグルとかサティアンとか、およそ現実離れしたマンガかアニメのような単語がマスコミを飛び交い、テレビにはオウムの幹部たちと、教団の犯罪を追及する弁護士たちが連日連夜登場して、日本中が一種の「祭り(非日常)」状態だった。中でも最も注目を浴びたのが、「ああいえば上祐」と揶揄された教団のスポークスマン・上祐史浩氏だったことは、私の記憶にあたらしい。ちょっとイケメンだったし。

 徐裕行氏は、その「非日常」的な狂躁の裏側から(つまりあるべき「日常」の側から)突如現れて、南青山の教団総本部前で、オウム幹部の一人村井秀夫氏を刺殺し、その場で逮捕された。背後関係について、さまざまな憶測が乱れ飛んだが、結局、徐氏の単独犯行と定まると、マスコミも大衆も事件から興味を失ったように思う。その後、徐氏の裁判の行方について、私は聞いた記憶がない。旭川刑務所で12年間の服役生活を送り、2007年に満期出所したことを本書で初めて知った。

 徐氏は、殺害の対象について、上祐史浩、青山吉伸、村井秀夫の「誰でもよかった」と語っている。「でも本当に殺したかったのは上祐さんだった」とも。本書は「殺そうとした人間」と「殺されていたかもしれない人間」による奇蹟の対談である、と鈴木氏はいう。

 本書は、鈴木氏による解説のあと、2013年3月1日に行われた7時間にわたる鼎談が、2-3章に編集・採録されている。4-5章には、これに1ヶ月ほど先立って行われた鈴木邦男氏と上祐氏の対談、さらに上祐氏の寄稿と、田原総一朗氏の解説を加える。なお、鈴木邦男氏は、2010年頃から上祐氏とは何度か対談しており、2011年には『週刊金曜日』で徐氏とも対談したことが、第1章に記されている。私は、「殺そうとした人間」とも「殺されていたかもしれない人間」とも対話を成立させることのできる、鈴木邦男氏の包容力こそ奇蹟ではないかと思って唸った。

 鈴木氏は徐裕行氏のたたずまいについて、テロリストというより始皇帝を暗殺しようとした「刺客」荊軻のような気がした、と語っている。いいな。短い比喩で、全てが分かる気がする。18年前、全く個人的な正義感から、オウム真理教幹部の誰かを刺殺しようと決め、行動に及んだときから、この人は何も変わらず、一切ぶれていないのだろう。

 それに対して、私が何よりも衝撃を受けたのは、上祐史浩氏の変貌ぶりである(いい意味での)。駄々っ子のような詭弁と饒舌はどこかに消えた。現在は事件を真摯に反省し、その責任を最後まで負う覚悟を決めており、鈴木邦男氏も「まるで別人のよう」と語っている。しかし、オウムを完全脱却しても、宗教者として生きる新たな道を探し続けているのは、ある意味「ぶれない」姿勢と言える。そして、自分の未熟さを率直に認めつつ、「オウム事件」というショーに踊ったマスコミの「共犯」ぶりや、カルト宗教を否定して、社会全体がカルト化してしまった日本の危うさを語る分析は深く、冷静である。私は上祐氏と同世代であるだけに感銘深かった。どれだけ他人より遅れても、これだけ懐の深い、覚悟の座った大人になれるならいいじゃないかと思った。上祐氏については、引き続き、注目し続けたい。
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