○宮崎市定『中国史の名君と宰相』(中公文庫) 中央公論新社 2011.11
宮崎市定先生の著作は大好きなのだが、シロウトが気軽に読めるものが少ない。『科挙』『隋の煬帝』『雍正帝』など、文庫や新書で手に入るものは読みつくしてしまったかな、と思っていたら、未読の本書を見つけたので、読んでみることにした。
古いものは、1941年の『東洋史研究』に発表した「南宋末の宰相賈似道」から、1960~70年代に書かれた多くの人物評伝が収録されている。第1章「大帝と名君」は、秦の始皇帝、漢の武帝、隋の煬帝、清の康熙帝、清の雍正帝が綺羅星のごとく並び、タイトルどおり。第2章「乱世の宰相」冒頭、李斯(秦の宰相)は分かったが、次の馮道(ふうどう、882-954)は知らなかった。古来無節操、恥知らずの代表のように言われて、歴史上評判が悪い一人だという。しかし著者は「宋代のように君臣の分が定まった時代から顧みて、五代のような乱世を同じ筆法で批評するのは妥当ではない」という。いや全くそのとおり。
さらに著者の弁明は面白くて、五代のような乱世では、単数の君主よりも複数の人民のほうが大事であり、馮道は人民のためによく尽くした。後晋の代、侵略してきた契丹軍と凄惨な民族戦争が繰り広げられるに及び、馮道は契丹の太宗に謁して、百姓を殺さないでほしいと取りなしに努めたのだそうだ。ここから著者は、前の戦争における汪兆銘のことに思い及び、「何人が彼につぶてを投げることができるだろうか」と記す。1960年の著作である。
「五代」という時代の特殊性と重要性は、著者の別の著作によって気づかされた記憶がある。本書収録の「五代史上の軍閥資本家―特に晋陽李氏の場合」も面白かった。五代初期は、地方に割拠する武将の下に軍隊と資本が密接に結びついているが、私財を配下の将士たちでなく、己が子孫に伝えたいと思った武将が、財を中央に献じて庇護を求めることにより、資本が中央に集中し、中央権力は資力によって地方の軍隊を動かすに至る。日本の中世にも、一部似た動きがあるように思えて、興味深い。あと、農民にとっては、軍閥割拠の戦乱時代なら地方税の納付だけで済むのに、天下一統の平和時代になると、上供の物資が増えて負担が大きくなるというのは、気づかなかった視角である。
本書後半は、清の雍正時代の地方政治家・藍鼎元(1680-1733)、明末の郷紳・張溥(1602-1641)など、私の知らなかった人物について書かれた文章が続く。それでも退屈しなかったのは、ある程度、時代背景は理解できたし、読んでいると、思わぬ旧知の名前に出会うことができたからだ。張溥の一篇で、文人・書家として名高い倪元璐(げいげんろ 元[王路])の名前を見たときはびっくりしたが、びっくりする必要は何もなくて、当時の文学結社=>科挙受験のための政治家予備校=>政治的党派という等式が成り立つのだ。
余談(?)だが、明清両国の交渉において、和平に熱心だったのはいつも清国側だったという新知識も書きとめておこう。満州国皇帝と明国皇帝が対等の立場で国交を行うことに難色を示した明側に対し、満州国側は帝号を去って汗と称してもよい、とまで妥協したが、ついに明側は取り合わなかった。外交下手の元首を戴く災いは大きい。
巻末の一篇は「石濤小伝」。私の大好きな画家の石涛である。著者は石涛の生年を崇禎14年(1641)と考察する。別に崇禎3年生まれという所伝もあり、後者であれば、父(明の王族)を失ったときは16歳の少年であり、王家の一族として優雅な生活の記憶を十分に持っていたと考えられる。しかし崇禎末期の生まれであれば、彼はむしろ「戦後派」というべきだ。日本でも中国でも、石涛を民族主義者、抗清復明を唱えた抵抗画家に仕立てようとする観念的期待があるが、それは違うのではないか、というのが著者の趣旨である。面白いな。1976年の時点で、こんな小伝が書かれていたとは知らなかった。石涛について書かれた最近の文献(展覧会図録の解説など)をあらためて読み直してみようと思った。
宮崎市定先生の著作は大好きなのだが、シロウトが気軽に読めるものが少ない。『科挙』『隋の煬帝』『雍正帝』など、文庫や新書で手に入るものは読みつくしてしまったかな、と思っていたら、未読の本書を見つけたので、読んでみることにした。
古いものは、1941年の『東洋史研究』に発表した「南宋末の宰相賈似道」から、1960~70年代に書かれた多くの人物評伝が収録されている。第1章「大帝と名君」は、秦の始皇帝、漢の武帝、隋の煬帝、清の康熙帝、清の雍正帝が綺羅星のごとく並び、タイトルどおり。第2章「乱世の宰相」冒頭、李斯(秦の宰相)は分かったが、次の馮道(ふうどう、882-954)は知らなかった。古来無節操、恥知らずの代表のように言われて、歴史上評判が悪い一人だという。しかし著者は「宋代のように君臣の分が定まった時代から顧みて、五代のような乱世を同じ筆法で批評するのは妥当ではない」という。いや全くそのとおり。
さらに著者の弁明は面白くて、五代のような乱世では、単数の君主よりも複数の人民のほうが大事であり、馮道は人民のためによく尽くした。後晋の代、侵略してきた契丹軍と凄惨な民族戦争が繰り広げられるに及び、馮道は契丹の太宗に謁して、百姓を殺さないでほしいと取りなしに努めたのだそうだ。ここから著者は、前の戦争における汪兆銘のことに思い及び、「何人が彼につぶてを投げることができるだろうか」と記す。1960年の著作である。
「五代」という時代の特殊性と重要性は、著者の別の著作によって気づかされた記憶がある。本書収録の「五代史上の軍閥資本家―特に晋陽李氏の場合」も面白かった。五代初期は、地方に割拠する武将の下に軍隊と資本が密接に結びついているが、私財を配下の将士たちでなく、己が子孫に伝えたいと思った武将が、財を中央に献じて庇護を求めることにより、資本が中央に集中し、中央権力は資力によって地方の軍隊を動かすに至る。日本の中世にも、一部似た動きがあるように思えて、興味深い。あと、農民にとっては、軍閥割拠の戦乱時代なら地方税の納付だけで済むのに、天下一統の平和時代になると、上供の物資が増えて負担が大きくなるというのは、気づかなかった視角である。
本書後半は、清の雍正時代の地方政治家・藍鼎元(1680-1733)、明末の郷紳・張溥(1602-1641)など、私の知らなかった人物について書かれた文章が続く。それでも退屈しなかったのは、ある程度、時代背景は理解できたし、読んでいると、思わぬ旧知の名前に出会うことができたからだ。張溥の一篇で、文人・書家として名高い倪元璐(げいげんろ 元[王路])の名前を見たときはびっくりしたが、びっくりする必要は何もなくて、当時の文学結社=>科挙受験のための政治家予備校=>政治的党派という等式が成り立つのだ。
余談(?)だが、明清両国の交渉において、和平に熱心だったのはいつも清国側だったという新知識も書きとめておこう。満州国皇帝と明国皇帝が対等の立場で国交を行うことに難色を示した明側に対し、満州国側は帝号を去って汗と称してもよい、とまで妥協したが、ついに明側は取り合わなかった。外交下手の元首を戴く災いは大きい。
巻末の一篇は「石濤小伝」。私の大好きな画家の石涛である。著者は石涛の生年を崇禎14年(1641)と考察する。別に崇禎3年生まれという所伝もあり、後者であれば、父(明の王族)を失ったときは16歳の少年であり、王家の一族として優雅な生活の記憶を十分に持っていたと考えられる。しかし崇禎末期の生まれであれば、彼はむしろ「戦後派」というべきだ。日本でも中国でも、石涛を民族主義者、抗清復明を唱えた抵抗画家に仕立てようとする観念的期待があるが、それは違うのではないか、というのが著者の趣旨である。面白いな。1976年の時点で、こんな小伝が書かれていたとは知らなかった。石涛について書かれた最近の文献(展覧会図録の解説など)をあらためて読み直してみようと思った。