見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

お盆旅行2010:なら燈花会と興福寺国宝館の夜間開館

2010-08-14 23:48:37 | 行ったもの(美術館・見仏)
 14日、高野山を下山し、南海電鉄→近鉄を乗り継いで、次の目的地・奈良へ。翌15日の夜に「春日大社万灯籠」「東大寺大仏殿万灯供養会」「大文字送り火」のハシゴを予定していたので、この日はホテルで休養のつもりだった。

 あ、でも「なら燈花会」は14日までで、こんなに足繁く奈良に来ていても一度も見たことないなあ、と思うと、ちょっとだけ訪ねてみることに。土曜の夜のせいか、浴衣姿の若い子が多い。万灯籠みたいな観光行事よりも、むしろ周辺に暮らす人たちの楽しみなのかも。猿沢の池をぶらつき、興福寺境内に入る。すると東金堂と国宝館で夜間拝観をやっていた。へえーめずらしい。何度も来ている興福寺だが、初めてのことなので、好奇心を起こして入ってみる。

■興福寺東金堂

 名宝の多い興福寺では目立たないお堂だけど、前回の参拝時(たぶん2008年11月か2009年3月)、若い男の子が熱心な解説係をつとめていて、ああ、ここのご本尊と脇侍もなかなかいいなあ、と思った記憶がある(文殊と維摩居士は別格で、むかしから好きだけど)。初めて夜間拝観の東金堂に入って、おやと思った。地味だと思っていたお堂が華やいで見えるのだ。薬師三尊の金色の光背が、暗い中で燃え上がるように美しい。維摩居士の台座にも金色が残っていることや、文殊菩薩の光背の彩色にも初めて気づいた。いつもより強い照明のおかげなのか、表情もはっきり見えた。

■興福寺国宝館

 国宝館は、2009年3月、爾後1年にわたる『国宝 阿修羅展』のため、阿修羅像が搬出される直前に拝観したのが最後。そういえば、今年3月1日にリニューアルしたんだったなあ、と思いながら、どれどれ、という軽い気持ちで、20数年来、通い慣れた入口に向かう(外観はあまり変わったように見えない)。白と臙脂色を基調とし、オシャレになった玄関にたじろぎ、中に入って唖然とした。なな、何、これ~。すっかり別天地に模様替えしていたのである。まず、滅多に出ることのなかった旧食堂遺構からの出土品(水晶玉など)が展示されている。これは嬉しい。それから旧山田寺の仏頭。この優品にふさわしい、広々した展示スペースで悠然と鑑賞できるようになった。

 国宝館の中央が巨大な千手観音像であるのは以前のとおり。その裏側の「回廊ギャラリー」は、以前は何もなくて、最近は金井杜道さんの撮影した写真パネルが飾られていたが、ここにもケースを設置して、小品(仏手など)が飾られるようになった。善哉。ちなみに、夜なのでよく分からなかったが、鉄扉を開け放った格子窓から冷気が入ってきていたのは、これまでの内装を維持しつつ、外に空調装置を取りつけたのかな。

 鎌倉肖像彫刻の優品で、非常に好きな法相六祖坐像の4体が出ていたのも嬉しかった。特に好きなのは善珠像。気難しさ丸出しで、国宝館リニューアルにも「ふん」と言いそうな顔をしている。天燈鬼、龍燈鬼も並んで、ケースなしの露出展示。小さな龍まで表情がよく分かるのは、これまでより照明が強いのかな。私は、龍燈鬼って自分の頭上に燈籠を載せているのだとずっと思っていたが、よく見ると、頭上に雲を生ぜしめ、その上に燈籠を載せているのね。龍燈鬼の頭と雲の間には、微妙な空間がある(つもり)なのである。新しい照明では、燈籠を支える白い雲がはっきりして、そのことが分かるようになった。

 千手観音像の向かって左側には、新しい展示空間が現出した。享保年間に被災した釈迦如来頭部の上部に、同じく焼け残りの化仏・飛天を配し、左右に帝釈天と梵天を配し、さらに外側が金剛力士像×2だったような気がする(記憶違いだったらご容赦)。2004年、芸大美術館の『興福寺国宝展』が同じような展示方法を試みていたと思うが、これは見事。で、帝釈天がどことなく「どや」顔に見える。

 ここまでの基本的な観客の導線は、旧国宝館とあまり変わらないが、少し窮屈になったような感じがする。それもそのはずで、最後に新たな展示空間(ステージと呼びたい!)を設け、なんと十大弟子立像(の6体)と、八部衆の全てが露出展示されているのだ(五部浄像だけはケース内展示)。えええ~『国宝 阿修羅展』の再現ではないか。この日の夜間開館は、ひっきりなしに人が出入りしていると言っても知れたもの。好きな仏像の前で、立ち止まり放題、見放題であった。あの東博の大混雑・大行列は何だったんだか。でも、阿修羅ファンの「お布施」が、新装国宝館にちゃんと還元されているようで嬉しい。

 阿修羅像の背景が、新装国宝館の基調である臙脂色なのもいい。肉身に残る赤い彩色を補うような効果をあげている。さりげなくいいポジションを占めていると思ったのが、十大弟子の羅睺羅像。ほかにも板彫十二神将とか銅造華原磬(銅製の鉦鼓を背中に載せた獅子)、銅造火袋扉など、ほとんどの名品が勢ぞろいしている印象。あれ?吉祥天は厨子だけだったか、お像もお出ましだったか、記憶がはっきりしないが…。興福寺のサイトを見ても、現在の展示が常設化するのか、ときどき展示替えをしていく予定なのかは、はっきりした情報がない。まあ、現在の構成が保たれているうちに、一度は見ておくことをおすすめする。

 以上、8/16記。お盆旅行は、まだ続きます。国宝館の夜間開館は8月14日で終了(よかった~)、東金堂は8月31日まで。

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お盆旅行2010:高野山宿坊の食事

2010-08-14 23:44:43 | 食べたもの(銘菓・名産)
初日の夕食。精進料理とはいえ、いつもの三食分くらいあった。食べすぎました。「何かお飲物をつけましょうか」と言われて「じゃ、ビールを」と条件反射してしまった。原料は麦だからいいのか。



2日目の朝食。ちゃんとお腹がすく不思議。がんもどきが美味。



ちなみに、お泊めいただいたのは蓮華院。旧名は大徳院。徳川家総菩提所として、将軍、大奥関係のほか、御三家(尾張・紀州・水戸)歴代の位牌をお守りしており、水戸家だけは神道ふうなのが興味深かった。そのため、蓮華院のご住職は神職を兼ねる伝統があったそうだ。

調べたら、近世の大徳院は、高野聖の元締めでもあった由。おおー鏡花ファンの私としては、こっちのほうが嬉しい(8/16記)。
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お盆旅行2010:高野山伽藍、金剛峯寺

2010-08-14 23:42:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
 ろうそく祭りから一夜明けて、8月14日は、宿坊で「朝のお勤め」に参加することから始まった。天井の低い、薄暗い本堂でご住職の読経(季節にあわせて盂蘭盆会経の由)を聴聞したあと、内陣に入り、ご本尊のお厨子の裏に並んだ徳川家や大名家のお位牌を見せていただいた。朝食後、高野山内の観光に出発。

 泊まった宿坊のすぐ隣りが、総本山金剛峯寺の寺域だった。この「金剛峯寺」という名称、Wikiによれば「元は高野山全体の称だが、現在金剛峯寺と呼ばれるのは明治2年(1869年)に2つの寺院が合併したもの。もと青巖寺(剃髪寺)と呼ばれた寺院」だそうだ。納得。朝から、大勢の団体さんが次々にやってくる。少ない個人観光客は、わりとほったらかし。自分で説明板を探して読まないと、見どころや沿革がよく分からない。そこで、ときどき、団体さんのガイドにすり寄って、一緒に説明を聞いてみる。日本最大の石庭「蟠龍庭」をはじめ、石組も伽藍も周囲の樹木も、気宇壮大で気持ちがいい。庫裏(台所)の広さにも感銘。でも、浄土真宗系の柄の大きさとは、どこかが違うように思った。

 続いて、いわゆる大伽藍(壇場)へ。広さとデカさが、常識的な日本人のスケールを完全に裏切っていて、むしろ韓国や中国の山岳寺院を思い出させる。さまざまな時代の建築が並んでいるが、一目で惹かれたのは不動堂。さすが国宝。大地に添うような、低く平たい屋根の作りが奥ゆかしくて美しい。不動明王と八大童子の住処だったお堂である。

 大門から引き返し、昨夜と同じ道をたどって、奥の院に向かう。やっぱり、もう一度、昼の光の中で風景を確かめておこうと思って。総本山金剛峯寺で購入した冊子(赤本 高野山)が威力を発揮。参道の見どころとなる墓碑や供養塔の写真が載っているので、これを頼りに、昨夜見逃したいくつかを探す。

 武田信玄・勝頼の墓碑は奥の院に向かう右側、参道のすぐ脇にあるのだが、昨夜は、ろうそく配布のテントの影になっていた様子。上杉謙信・景勝の霊屋は、参道の左側、ちょうど信玄の墓碑を見下ろす高台にある(川中島の布陣みたいだ、と思ってしまった)。あと、「高麗陣敵味方供養碑」も暗闇の中では分からなかった。異国風の多重石塔が目印。

 御廟橋を渡ったあとに、陸奥宗光の供養塔があるというので、これも見ていこうと思い、写真を頼りに探す。なんとか見つけることはできたが、案内板など一切なし。この山域では、陸奥なんて、まだまだ小物なんだな。

 宿で荷物を拾い、徳川家霊台を経て、女人堂まで歩いてバスに乗る。楽しかったな、高野山。「赤本」を見ると、まだ行き逃した見どころもあるみたいなので、また違う季節に来てみたい。

 この日の記事続く(8/15記)。
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