およそ1000年に一度という未曾有の「東北地方太平洋沖地震」で命を落とされた方々が何と「万人規模」に達する予想だという。
その寸前まで平穏無事な生活を営まれていたのに、何と運命は”かくも”無慈悲で残酷なのだろうか。
一挙に失われた幾多の「同胞の死」という厳粛な事実の前に、とても「オーディオ」に身が入るどころではないし、音楽に浸る気にもなれないが、こと「レクイエム」に限っては別だろう。
「葬送曲」「死者を悼む」曲とされる「レクイエム」を、せめて亡くなられた方々に捧げ、「命のはかなさ」に思いを馳せながら14日〔月)はずっと自分なりに喪に服してみた。
「レクイエム」と称する曲はいくつもあるが、手元にあるのは次のCD。日頃滅多に聴かない曲目だが今日だけは別。
モーツァルト 「レクイエム」(ベーム指揮)
モーツァルト 「レクイエム」(コルボ指揮)
フォーレ 「レクイエム」(コルボ指揮)
ヴェルディ 「レクイエム」(ムーティ指揮:2枚組)
まずモーツァルトの「レクイエム」(K.626)から。
「死は最良の友だちです」と父親あての手紙の中で書いたモーツァルトが亡くなる寸前に作曲した未完の曲だが、さすがに純度が高い。
ベーム指揮の「レクイエム」は、巷間ではベストとされる名盤である。
世界最高峰のオーケストラ、ウィーン・フィルハーモニーと大好きなエディット・マティス(ソプラノ)の組み合わせとくればもう文句なし。やはり完成度の高い「レクイエム」である。
コルボ指揮のも捨てがたい。小編成なので小じんまり感は否めないが宗教的な色彩という面からいえばこちらのほうが上かもしれない。ソプラノのエリー・アメリンクもいい。
それに「ラウダーテ・ドミヌム」「アヴェ・ヴェルム・コルプス」という名曲がカップリングされているのもありがたい。
自分なら大勢の人の死を悼むときはベーム盤、身近で親しかった人をそっと見送るときはコルボ盤を択ぶ。
次にフォーレの「レクイエム」。
これまた有名な曲目で幾多の指揮者の名盤があるが、コルボ指揮の盤はレコード時代(エラート原盤)から大好きで、CDが発売されたときは”いの一番”に購入した。
モーツァルトの「レクイエム」が「死後の魂の安息」を描いたのとは違って、フォーレのはちょっと趣が異なる。
この盤のライナー・ノートにはフォーレの言がこう引用されている。
「この曲を死の子守唄と呼んだ人がいるが、私には死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというよりもむしろ永遠の至福と喜びに満ちた解放感にほかならない」
従来からこの曲は「死を賛美する歌」としての印象を強く受けていたので納得だが、実に清らかで美しい調べが随所に散りばめられていて、やはりこれは名曲中の名曲だとつくづく思った。
久しぶりに感動したが、モーツァルトの「レクイエム」と並んで宗教音楽史上の二大傑作と呼ばれるだけのことはある。
最後にヴェルディの「レクイエム」。
この曲に限ってはこれまでにも数回聴いたが、その都度”いまいち”良さが分からない曲。そもそも指揮者のムーティが好みではないせいかもしれない。
「なぜ嫌いな指揮者のCDがお前の手元にあるんだ?」と詰められると返答に困るが、手に入れた”いきさつ”をもう忘れてしまった。
このレクイエムはロッシーニの死を悼んで作曲された経緯があるが、宗教曲というよりは何だかイタリア・オペラのような印象がして仕方がない。
ワグネリアンでずっと昔のベルリン・フィルの常任指揮者だったハンス・フォン・ビューローは「聖職者の衣服をまとったヴェルディの最新のオペラ」と酷評したそうだが分かるような気がする。
とにかく、この「レクイエム」だと今回の大地震で亡くなられた方々の「魂の安息」にどうも結びつける気にならない。
派手すぎるというか大げさな気がして、これは死に対するイタリアと日本の国民性の違いかなあ。
今日はほかにも、モーツァルトの「ハ短調ミサ曲」(K.427、カラヤン指揮)や「グレゴリオ聖歌」などを聴いて過ごしたが、宗教曲というのはなぜか年を重ねるほどに心にじっくりと沁みてくる・・・。