「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

カラスの一群は人生の縮図

2021年11月30日 | 独り言

昨日の11月29日(月)は娘の誕生日だった。年来の宝塚歌劇の大ファンで「熱中ぶり」からいえば、オヤジの「音楽&オーディオ」と、どっこいどっこいである。

「凝り性」の遺伝子は間違いなく受け継がれているようだ(笑)。


夜になって電話してみた。

「今日は誕生日だね、11と29は素数だから割り切れない貴重な数字なんだよ~。仕事の方はどう?」


「ハハ、11と29なんて変わり者の数字かもね(笑)」と一笑に付したあとで、四方山話に移って、何かのはずみで宝塚歌劇団で活躍していた「檀 れい」さんの話に及んだ。


ご覧の通り凄い美人だが、「檀 れい」さんの「首の短かさ」について言及があった。

人の身体の特長について詮索するのはあまり趣味のいい話ではないが、まあ親子なので。

「ちっとも短くないじゃない、ごく普通だよ」と言うと、「宝塚はいろんな歌劇をするので、ときには軍服などの”詰襟”姿になることもあり、そういうときに首がひときわ長くないと映えないのよね」と、言うので成る程そういうことかと納得。

また、こういうことも言う。

「檀さんは宝塚在籍当時のトップ娘役では、完全に”花総まり(はなふさまり:伝説の娘役)”さんの後塵を拝していたのに、今となっては映画や、テレビに引っ張りだこで男性たちからも超人気。

それに引き換え花総さんは現在、
宝塚時代の活躍に比べてあまり陽が当たらないみたい。

宝塚ではトップ役にスポットライトが当たるように周囲がお膳立てしてくれるけど、一般社会に出ると違うのよね。人生長い目で見ないとほんとうに分からないね~」

この話で、ふと似たような趣旨のことが昔読んだ東畑精一〔とうばたせいいち)氏の「私の履歴書」の一節にあったのを思い出した。

日本経済新聞社の「私の履歴書」といえば、周知のとおり「功成り、名を遂げられた」方々の公の卒業証書みたいなもの。

東畑さんといえば農業経済学の泰斗であり政府の税制調査会長などの要職も勤められ、「農業基本法」(1961年)の生みの親でもある。

早速、図書館に行って確認してみたところ「結び~老馬とカラス」と題したところに、記憶どおりその記述があった。

        

ちょっと長くなるが引用させてもらおう。

「昔から老馬知夜道と言われた。老馬は御者の案内がなくとも、夜道を知っており、行くべきところに無事に着くのである。その老練さを述べた言葉であろう。

駿馬と老馬とどこが異なるかと聞かれても困るが、ただ重要の一点の相違がある。駿馬は夜道をかけることができないのだ。

現代、ことに政治や国際関係には昼間もあるが夜もある。それにもかかわらずチャキチャキの駿馬ばかりいて、老馬が少ないように思う。~略~。

東洋の心は駿馬のみでは征せられない。


次に思い出すのはカラスのこと。

子供仲間が夕刻、遊びに疲れて屋敷のそばの石垣に腰をかけていると、カラスの一群が飛ぶのに飽いてねぐらに帰ってゆく。

それをながめながら、「後のカラス、先になれ、先のカラス、後になれ」と呼んでいると、ときどきその通りになり、われわれは快哉を叫んだものである。またいつでもはぐれカラスが一、二羽は後から飛んでいった。

この履歴書を書きつつ(※昭和54年)、過去を顧みると、どうもこのカラスの一群はわれわれの人生の一つの縮図のようにも思われる。

小学校から大学まで、幾多の同級生、同窓生があるし、また社会に出ても共に仕事をした多数の人々がある。長い間のそれらの人々を思うと、わたしはカラスの一群の動きを思わざるを得ない。

幼少時代に頑健なもの必ずしも長命せず、かえって弱々しい男が今も健在である。俊秀のもの、卒業後数十年の後には凡骨と化しているのもある。

鈍重なカラスが長年コツコツと仕事に励んでいて、見事な成果を挙げて真っ先のカラスとなっているのもある。

そうかといって、はぐれカラスがいつまでもそうではなくて、はぐれ仲間で立派なグループを作り、結構楽しんでいるのを見るのは愉快である。

どうしてこうなのか。

歳月は人間の生涯に対して黙々たる進行のあいだに猛烈な浄化や風化の作用や選択作用をなしているからだ。

こう思うと、ある瞬間、ある年代だけを捕えて、むやみに他人や事態を評価したり判定したりすることの皮相なのに気がつく。

他人の先頭に立っていると思っている間に落伍者となっておるとか、その逆とかは日常しばしば見られることである。

いそいではいけない。静かにじっと見つめる要がある。ことに怱々忙々何十年を経てきた自分自らを凝視するのが大切である。

人生はただ一度、繰り返すことが出来ない。美人ならぬ老馬を天の一角に描きながら、また人生のカラスの大群をじっと見つめながら、腰痛をかかえて座しているのが昨今の私である。」

こういう”ご大層”なことを自分のような”一介の市井の徒”が言ってみても何ら値打ちもないが、人間と学問の道を究められた重鎮の言だからこそ随分と重みがある。

とはいえ、自分にとって「冴えない人生」を挽回する時間がもはや燃え尽きようとしているのがほんとうに残念だ(笑)。



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