おそらくこのブログをずっと続けて読んでおられる方ならお気づきのことだと思うが「お気に入りのわりには、日常的にAXIOM80を使っている様子がないけど、いったいどうして?」。
そうなんですよねえ。
たとえば同じ英国製でも「PL100」(モニター・オーディオ)と「AXIOM80」(グッドマン)のどちらが好きですかと問われたら「それはPL100です」と、答える用意がいつもある。
音の良しあしからすると「AXIOM80」に軍配が上がるのにいったいどうして?
ここがオーディオの面白いところで、物理的な側面と感情的な側面とが入り混じっていて、結局「いい音」と「好きな音」とは違う・・(笑)。
はてさてと、よ~く掘り下げてみると次の結論に至った。
「AXIOM80はたしかに音が良いし繊細な表現力にかけては右に出るユニットはない。しかし、完成度が高すぎて弄る楽しみがないのが唯一の難点~」
これには「お前、いったい何のためにオーディオをやってんだ!」というツッコミが入りそうだし、その一方では「いい音を出したいけど、そういう音が出てしまうと逆に面白くない。」ともいえる。
このパラドックス、もしかして思い当たる方がいるのではあるまいか(笑)。
「出来が悪くて手のかかる子供ほど可愛い」とは巷間よく聞くところだが、その気持ちわかるような気もする。
ま、ありていに言えば「AXIOM80」は「可愛げのないスピーカー」ともいえるわけだが、この「可愛げ」という言葉は世の中を上手に渡っていくうえで仇やおろそかに出来ない言葉のようである。
前置きが長くなったが、いよいよここから本論に入ろう(笑)。
ずっと以前に、高校の同級生と電話で次のような会話をしたことがある。
「先日のブログに書いてたけど谷沢永一の”可愛気が一番”という話は実によく分かるんだよね。」
「へェー、どんな風に?」
「実は以前、自分が部長をしていたときに他所の部門から異動してきた部員がいてね、適齢期なのに課長になり損ねて回されてきたんだ。」
「ほぉ~」
「元の部門の部長とはざっくばらんの仲だったけど、『○○君を課長に出来なかったけど、お前のところで是非、課長にしてやってくれよな』なんて虫のいいことを言うから、思わず『そんなことを言うくらいなら、なぜお前のときに強力に推さなかったんだ?』と言ってやったんだ。」
「ウン、ウン、そのとおりだよ」
「すると、そのときの彼の弁がふるっていて『だって、彼、可愛くないもんな~』だって」
「その○○君、学歴もいいし、真面目で仕事もそこそこできるんだけどねえ。人間には可愛さが大切だって改めて思ったよ」
「なるほど!」
因みに、このブログに登載した谷沢永一氏の"可愛げ"云々をご参考のため次に再掲。
※「才能も知恵も努力も業績も身持ちも忠誠も、すべてを引っくるめたところで、ただ可愛げがあるという奴には叶わない。」~谷沢永一「人間通」(新潮選書)~
以上の話、組織に従属して働いた経験のある方なら体感的に納得されると思うが、どんなに”きれいごと”を言ってみたところで所詮、人間は感情の動物であることを物語っている。
で、問題はこの「可愛げ」ってモノが先天的なものなのか、あるいは後天的に身に付けられるものかどうか、そこがポイントなのだが、谷沢氏の書きっぷりによるとどうも先天的な資質の方に比重を置いているようだ。
これを我が身に置き換えてみると、まず典型的な「可愛げのないタイプ」のようである(笑)。
まず世渡りが下手だったし、それほど偉くもならなかったのでだいたい分かる。
どうやら「可愛げ」の根底には先天的、後天的な資質のいずれにしろ、相互の信頼感や、リズム感、好き嫌い、などのさまざまな感情が織り交じっているようで、ほら、口には直接出さなくても「以心伝心」という言葉がある・・。
で、我が身を振り返ってみて「可愛げのなさ」を客観的に分析してみると、第一に「何といっても気が利かない」こと、二番目にはどうも他人行儀というのか「遠慮し過ぎる」ようなところがあった気がする。
いい意味で、人にある程度の手間とか負担をかけさせる、ひいては「寄りかかる」ことも大切なことではなかったかと年甲斐もなく反省している今日この頃。
以上のとおり、愛用のスピーカーから人生の教訓を学んだ一幕だったが、いくら“つべこべ”言ってみても、もはや「手遅れ」なのは言うまでもない(笑)。