往年の名ピアニストであるエドウィン・フィッシャーの著作「音楽観相」(1999.5.31、みすず書房)という本の巻末に指揮者ブルーノ・ワルターが1935年にウィーンの文化協会で「音楽の道徳的なちからについて」と題して行った講演の原稿が収録されている。
絶えて久しい「道徳」なんて言葉を聞くといかにも”かた苦しそう”だが中身の方は意外にも音楽に対するワルターの気取らない率直な思いが綴られたもので、約75年前の講演にもかかわらず現代においても少しも色褪せていない内容ではないかと思える。
以下、中身を自分なりに噛み砕いてみたが、興味のある方はどうか原典を読んでいただきたい。
はじめに「はたして人間は音楽の影響によってより善い存在になれるものだろうか?もしそうであれば毎日絶え間ない音楽の影響のもとに生きている音楽家はすべてが人類の道徳的模範になっているはずだが」とズバリ問題提起されているところがたいへん面白い。
ワルターの分析はこうだ。
1 恥ずかしいことながら音楽家は概して他の職業に従事している人々に比べ、べつに少しも善くも悪くもない。
2 音楽に内在する倫理的呼びかけ(心の高揚、感動、恍惚)はほんのつかの間の瞬間的な効果を狙っているにすぎない、それは電流の通じている間は大きな力を持っているが、スイッチを切ってしまえば死んだ一片の鉄にすぎない「電磁石」のようなものだ。
3 人間の性質にとって音楽が特別に役立つとも思えず、過大な期待を寄せるべきではない。なぜなら、人間の道徳的性質は非常にこみいっており、我々すべてのものの内部には善と悪とが分離しがたく混合して存在しているからだ。
以上、随分と率直な語りっぷりで「音楽を愛する人間はすべて善人である」などと「我田引水」していないところがとてもいい(笑)。「音楽の何たるか」を熟知しているワルターだからこその説得力ある言葉だろう。
あの音楽の美に溢れた素晴らしい作品を生み出し、演奏したりする音楽家が「どうしてこんな恥ずべきことを」なんていう例は過去において枚挙にいとまがないくらい。たとえば清らかな美と透明感に包まれた最晩年の傑作「魔笛」の作曲中に酒池肉林に耽ったモーツァルト、お金の勘定にとてもうるさかったベートーヴェン、親友の妻を寝取ったワーグナーなどぞろぞろ出てくる。
音楽家でさえそうなのだから、指揮者や演奏家、そして音楽を聴くだけの愛好家に至っては推して知るべし。自分の例を引き合いに出すまでもなく、音楽に人格の涵養を期待するのはとても無理な相談である(笑)。
したがって、ワルターが言うところの「音楽=電磁石」説にはまったく共感を覚える。
と、ここで終わってしまうとまったく味も素っ気も無い話になってしまうが、これからの展開がワルターさんの偉いところであり感じ入るところである。
「それでも音楽はたぶん我々をいくらかでもより善くしてくれるものだと考えるべきだ」とのご高説。音楽が人間の倫理に訴える”ちから”、つまり「音楽を聴くことで少しでも正しく生きようという気持ちにさせる」効果を信じるべきだというわけ。
ワルターは自分の希望的見解とわざわざ断ったうえで音楽の倫理的力を次のように語っている。
「<音楽とは何であるか>という問いに答えることは不可能だが、音楽は常に<不協和音>から<協和音>へと流れている、つまり目指すところは融和、満足、安らかなハーモニーへと志向しており、聴く者が音楽によって味わう幸福感情の主たる原因はここにある。」
音楽の本質がハーモニーならその召使いにあたるオーディオだって当然、右へ倣えだろう。
以前、とあるオーディオマニアから聞かされた言葉「オーディオは周波数レンジを追いかけるとキリがありませんよ。」は、今となっては思い当たることが多い。
やれ低音がどうとか、高音がどうとか、一日も早く周波数レンジの呪縛から解放されたいものだが、ヤレヤレ(笑)。