先日のブログで触れた日銀総裁の「黒田東彦」氏だが、学生時代からその物凄い秀才ぶりには唖然とさせられるものの、財務省で出世街道の本流とされる「主計コース」を歩めなかった主な原因は「可愛げのなさ」にあったと書いておいた。
もちろん、憶測にすぎないが、我が過去の経験に照らし合わせて「当たらずと言えども遠からず」ではあるまいかと思っている。
そこで「可愛げ」って、いったい何だろうということで、少し分け入ってみよう。
まず、我が愛するオーディオのフィールドで「可愛げが無い」といえばすぐに思い浮かぶのがSPユニット「AXIOM80」だ。
その理由は「あまりにもいい音が出過ぎる」というのが真相。
これには「お前、いったい何のためにオーディオやってんだ」というツッコミが入りそうだし、何ともはや贅沢な悩みだがこればかりは心情的に如何ともしがたい。
「いい音を出したい、しかし、いい音が出てしまうと逆に張り合いが無くなって面白くない。」このパラドックス、もしかして思い当たる方がいるのではあるまいか(笑)。
「出来が悪くて手のかかる子供ほど可愛い」とは巷間よく聞くところだが、その気持ちわかるような気もする。
ま、ありていに言えば「AXIOM80」は可愛げが無いともいえるが、この「可愛げ」という代物は世の中を上手に渡っていくうえで仇やおろそかに出来ないのである。
ずっと以前のブログに「可愛げのある人、ない人」と題して投稿したことがあるが、すでに忘却の彼方にある方が大半だろうからちょっと加工して以下、再掲させてもらおう。
その昔、高校時代の同級生から次のような連絡があった。
「ところで先日のブログに書いてたけど谷沢永一の”可愛気が一番”という話は実によく分かるんだよね。」
「へェー、どんな風に?」
「実は以前、自分が部長をしていたときに他所の部門から異動してきた部員がいてね、適齢期なのに課長になり損ねて回されてきたんだ。」
「ほぉ~」
「元の部門の部長とはざっくばらんの仲だったけど、『○○君を課長に出来なかったけど、お前のところで是非、課長にしてやってくれよな』なんて虫のいいことを言うから、思わず『そんなことを言うくらいなら、なぜお前のときに強力に推さなかったんだ?』と言ってやったんだ。」
「ウン、ウン、そのとおり」
「すると、そのときの彼の弁がふるっていて『だって、彼、可愛くないもんな~』だって」
「その○○君、学歴もいいし、真面目で仕事もそこそこできるんだけどねえ。人間には可愛さが大切だって改めて思ったよ」
「なるほど!」
因みに、このブログに登載した谷沢永一氏の"可愛げ"云々をご参考のため次に再掲。
※「才能も知恵も努力も業績も身持ちも忠誠も、すべてを引っくるめたところで、ただ可愛げがあるという奴には叶わない。」~谷沢永一「人間通」(新潮選書)~
以上の話、組織に従属して働いた経験のある方なら体感的に納得されると思うが、どんなに”きれいごと”を言ってみたところで所詮、人間は感情の動物であることを物語っている。つまり、「好きとか嫌い」とかいういかにも人間臭い尺度ですな(笑)。
ちなみに、国家の最高権力組織である自民党の総裁選にしても、おおかたは「好き嫌い」で決まっている。実力、識見ともに「菅」さんに優るとも劣らない「石破」さんがなぜ総裁になれないのか・・。
さて、問題はこの「可愛げ」ってモノが先天的なものなのか、あるいは後天的に身に付けられるものかどうか、そこがポイントなのだが、谷沢氏の書きっぷりによるとどうも先天的な資質の方に比重を置いているようだ。
そして、これを我が身に置き換えてみると、まず典型的な「可愛げのないタイプ」のようである(笑)。
客観的な視点からこの「可愛げのなさ」を分析してみると、第一に「何といっても気が利かない」こと、二番目にはどうも他人行儀というのか「遠慮し過ぎる」ようなところがあったような気がする。言い換えると身構えるところがある?
いい意味で、人にある程度の手間とか負担をかけさせる、ひいては気軽に接して「寄りかかる」ことも大切なことではなかったかと年甲斐もなく反省している今日この頃。
以上、愛用のスピーカーから人生の教訓を学んだ一幕だが、つべこべ言ってみても、もうはるかに「手遅れ」なのは言うまでもない。
ま、今が良ければすべて良しとしなくちゃね~(笑)。
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