経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

地方の時代の構図

2006年10月12日 | Weblog
ITが高じてくると行き着くところ、ITから得る情報は格差が無くなります。となればその後はは、画一化されない情報という方向へ、大きく欲求が転換することは間違いありません。つまり人がどこで「群れる」か、というところで、情報の量と質が問われることになります。
このことを首都圏対地方に置き換えて、情報を例にしてみてみますと、都市にはIT的格差のない均質的な情報が集まり、地方には後者の個性的情報が、より集まることになります。

 明治維新以降地方から首都圏に集まった人は、次第に画一化され、画一化され、それが固定化して東京人というふるさとのない人になった。共通語、という言葉は、没個性、脱土地色の典型的象徴事例のひとつです。

対して地方には様々な人たちが入れ替わり立ち替わり、集まり、群れ、常に流れている。自然に対応して生きていかざるを得ないわけですから当然です。

 極端にいえば自然環境面から見たら、東京には四季はない。人の動きから見れば、地方は流れていますが、首都圏はよどんでいる。

 こうした押さえ方をしていくと、「情報は東京にあり」と思っている人が多いようですが、それはあやまり。あるのではなく「集まっている」だけ。(この点は後述)地方は、情報の量、質、両面でで、最初から首都圏を上回っている、と、私は思っています。

 ですから私にとって、都市と地方の格差とは、地方高位の意味です。

 だが残念なことに、その情報の二次加工と販売を首都圏に依存している。そのため鮮度の高い豊富な情報が、首都圏に集約され、加工品化されて、再販売されている。その対価も首都圏に入る。ここ。ここが経済的側面から都市と地方の格差を生んでいる。今後の地方の課題担っているわけです。

 これまでは、この課題。やむを得なし。逆転は夢物語と断念せざるを得ないぐらい現実からかけ離れた難課題だったのですが、ITの台頭で、この難問が解決するのです。

 ですが馴らされた羊たちは、羊飼いに押されなくても彼の意向の方向へ歩を向けます。

 IT時代になった、と実感している人ですら、これまでの首都圏主義に浸ったまま。上の羊たちと同じです。その方が居心地がいいからかも知れません。

 ですからそうした人をオピニオンリーダーと認める必要はないのです。私たちは縛りのない自らの意志で、自由に言動したらいいのです。

まずは、地方は、地方の私たちは、首都圏を向くのではなく、自分の住んでいる地域に目を向ける。そしてそこを中心に、主体として、流れの再構築を考えて見ることです。まずは意識して今までの首都圏を向いた流れ、構図に待ったをかけて見ることです。鹿児島でとれたきびなごを築地に送るのではなく、「トレトレの最高のを食いたかったら、甑島(こしきじま)までおいでよ」と呼びかけることです。

 こうしたことを地方のそれぞれの市町村全部がやったら、凄い情報量になる。質も高いし鮮度がいい。莫大なエネルギーを生み、呼ぶことになる。日本が生き生きしてくるに違いない。ITはそれを可能にしている。だから夢ではない。私は、そう思っています。