経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

答えに関する問題点について

2006年10月19日 | Weblog
3人のコギャルにあることを尋ねた。すかさず、「わかんなァい」と、3人が声を揃えて言ったとする。これは1に尋ねた問いに対する答えではない。2に、この3人こと尋ねたことについて、まったく考えていないことを示している。ではいったい、この「わかんなーい」は、どういう意味なのだろうか。
 それは、さておいて。

 試験では、問いに対して一定時間内に、答えを求められる。対応は大きく2つある。即回答できれば答えを即座に書き込むが、たいていは考えて、考えて、さらに考えて、いくつか出てきて、その中から正解だと思うものを書く。2は、書かない、という方法もある。「わかんない問題は、とばして」という、あれである。とばして後で、考えればいいし、場合によっては答えなくても、100点取る必要がないのならいい。
 だが、試験官にむかって、「わかんなーい」とか「答えを教えてください」は、ない。

 こう考えたら、わからない問題に対して、自分で考え、正誤はともかくとして、自分で答えを出してみる、というところに、問題の本質があることが理解されよう。

試験問題であれば、問題に答え、それもほとんど1つの答えがある、という前提だからまだよし。一定時間に回答できるという前提で時間も与えられている。
 困るのは、その問いに答えがあるのかどうか、それがひとつなのかどうか、わからない場合はどうか。大変だ。だが試験問題はむしろ例外。こちらの方が通常なのである。
 だから、「わかんなーい」と、問題そのものを受け取らない有り様は、実は自分で考えるということへの拒絶になる。

ハウツー、ノウハウ集、マニュアルは便利で、時間の節約になり、重宝するが、試験の模範解答を写しても自分の思考の蓄積にはならないのと同じことになる。それだけではない。便利で重宝なゆえに、考えることをやめてしまう。これが習慣になり、ついには依存症になってしまう。これが怖いのである。
すでに私自身、そうした依存症に罹っている。こうした文章でそれなりに漢字を使っているようだが、試しに、紙にボールペンで書こうと試みて、驚愕した。
冒頭の「尋ねた」が、出てこない。書けなかったのである。